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第86回懇話会のお知らせ

2017年11月19日(日)茅ヶ崎市勤労市民会館 14:00~18:00
上杉鷹山の米沢藩政改革とファイナンス(経過報告)
講師:加藤国雄さん(元・野村総合研究所取締役、元・大阪経済大学教授)

講演趣旨

1.はじめに~金融工学から金融「考古学」へ
 私は、金融工学の理論開発・実践そして教育に携わってきた。その実務から離れたのを機に先端の金融技術を追うことから離れ、郷土の名君・上杉鷹山の藩政改革を金融面から分析する、言わば金融「考古学」に挑戦しようと思い立った。本講は、その着想の紹介であり、経過報告である。今後の研究について、皆様よりアドバイスいただければ幸いです。

2.上杉鷹山と藩政改革の概要
1)上杉鷹山(1751~1822年)
 上杉鷹山は、戦前は道徳の教科書などでとり上げられ、戦後は特にバブル崩壊後「危機を乗り切るリーダー」としてとり上げられることが多い。彼は、9才で小藩・3万石高鍋藩主の次男から、15万石米沢藩主・上杉家の養子となった。17才で家督を継ぎ米沢へ初入部するまでに、米沢藩では重臣間での「暗殺クーデター」が起き、また膨大な借金(20万両、現在の価値で少なくとも200億円。藩の年収入の4~5倍?)を抱え領土の幕府返上寸前となるほど財政が窮乏していた。その間、クーデター起こした「良識派」が鷹山を儒学者・細井平洲に学ばせ将来の藩主として江戸で育てたといえる。藩主となるまでの出来事や経験が鷹山のその後の生き方・行政手法の礎を作ったと思う。

 上杉鷹山について詳しくない人のために、付属資料(「13歳からの道徳教科書」(注1)より「なせば成る」)を用意した。短文ながら、鷹山の藩政改革の経緯や、道徳書などで採り上げられた事績がうかがえる。
(注1)道徳教育をすすめる有識者の会・編、2012年、育鵬社

2)藩政改革の概要
 付属資料にあるように、米沢藩が財政窮乏に陥ったのは、領地が1/8になったのにもかかわらず、家臣数を減らさなかったことにある。鷹山は質素倹約を率先し、先のクーデターの首謀者・竹俣当綱に藩政執行を委ね、他の重臣の抵抗を排し、改革をすすめた。

 付属資料は、「藩の立て直しの目途が立った頃、鷹山は35歳の若さで藩主の地位から退きました」とあるが、これは全くの間違いである。むしろ、新たな最悪期だった。その後が本当の改革期であった。結局米沢藩が借金を返済しきるのは、鷹山が72才で亡くなる頃だった。

3)研究のアプローチ
 上杉鷹山の藩政改革をファイナンス(財政・財務)視点から次の点を考察してみたい。
 1 米沢藩の財政窮乏に至った理由・背景
 2 どのように改革が行われたのか、その成功・失敗要因は何か
 3 「大名貸し」への依存と貸主との関係

3.米沢藩の財政窮乏の要因~幕藩共通要因と米沢藩固有要因
 米沢藩の財政窮乏の最大の要因は、120万石から30万石へ、さらに15万石へと2度にわたる減封にもかかわらず、家臣数をほとんど削減しなかったことである。しかし、米沢藩だけが財政窮乏に苦しんだわけではない。他藩も、そして徳川幕府も何度かの財政改革を行うほど苦しんだ。米沢藩は先行的に財政難に直面したのである。米沢藩の財政窮乏を、幕藩共通要因と米沢藩の固有要因に分け考えてみたい。

4.どんな改革を行ったのか、その成功・失敗要因は何か
1)藩政改革後の米沢藩
 明治新政府による明治初年の全国諸藩調査によると、米沢藩の実高(28万石)は表高(15万石)の2倍近くで、年貢率(21%)は全国平均(40%)よりかなり低い。石高に比して家臣数が多く家臣1人当り知行(米支給)高はかなり低いほうだが、米沢藩は、鷹山精神に沿い「民が第一」の治世を実現していたと言えまいか。

2)3段階にわたる改革
 鷹山の藩政改革は次の3期に区分できる(注2)。
 第1期;明和・安永期(1767~1782年、竹俣失脚までの15年間)
     鷹山と竹俣正綱による積極的拡大政策
 第2期;天明期(1782~1790年、莅戸復帰までの8年間)
     鷹山と志賀祐親による消極的縮小均衡政策
 第3期;寛政期(1790~1803年、莅戸死去までの13年間)
     鷹山・治広と莅戸善政による積極的縮小均衡政策

 第1期は、天明の大飢饉もあり結局は挫折し、財政は再び悪化する。この時期、鷹山は家督を治広に譲る。その後の第2期は、第1期の産業振興策を打ち切り大倹約策を採り、金主に借金の利下げや返済繰延べを求め、金主の離反を招く。そこで、鷹山は第1期で竹俣を支えた隠居中の莅戸善政の復帰を求め、第3期の改革が始まる。莅戸は、広く改革案を募り、改革計画を策定し、金主への説得で金策につとめ、改革は確実にすすんだ。莅戸死亡後も改革は続き、鷹山が死亡する1822年頃にはほぼ借金はなくなっていたとされる。

 このように、鷹山の改革は、藩政の執行役である重臣の考え方に依存する部分が大きい。
(注2)渡邊與五郎「近世経済史~上杉鷹山と米沢藩政史」1973年、文化書房博文社

5.「大名貸し」への依存と金主との関係
 鷹山の改革以前の借金が20万両あったように、米沢藩経営や改革は「大名貸し」なしには成り立たなかった。他の藩も同様だった。

1)「大名貸し」と江戸金融システム
 そもそも金融とは、余裕資金がある者と資金を必要とする者の間で融通するシステムである。さらに資金決済や通貨交換などを仲介するシステムである。

 「大名貸し」の担い手は、金銀交換を主業とする両替商のような金融を本業とするもの以外に、藩の生産物の流通を担う商人など多様であった。そのような「大名貸し」を支えた「江戸金融システム」をおさえておく。

2)米沢藩を支えた貸主たちと彼らのリスク管理
 米沢藩は、藩内外の多くの貸主に頼った。その依存状況の推移をたどった上で、次の3大金主との金融取引(含む商取引)について、資金融通だけでない彼らの果たした役割、彼らの貸倒れリスク管理法を合わせ考えたい。
 1 三谷三九郎(屋号);江戸の商人・両替商。鴻池家と並び称せられた
 2 本間家;「本間様には及ばぬものの、せめてなりたや大名に」と大名をしのぐほどの酒田の豪商・大地主
 3 渡辺家;越後の豪農。米沢藩との詳しい金融取引データが残っているので、貸付けの採算性を分析する

6.今後の研究課題
 研究途上で、多くの謎が残っている。今後解明すべき点を整理する。

講師プロフィール

加藤 国雄(かとう くにお)
 1946年山形県米沢市生まれ、山形県立米沢興譲館高校卒。東京工業大学理工学部経営工学科卒業後、野村総合研究所に入社し、シンクタンク業務に従事した後、1971年第1次オイルショック後の国債大量発行で活発化した野村證券の債券ビジネスを投資理論開発・実践面で支援する業務に従事。その後は金融新技術や新サービスを開発する、今で言う「金融工学」分野に関わった。野村総合研所取締役、野村アセットマネジメント執行役を経て、野村アセット投信研究所常務執行役となりファイナンスや金融工学の大学教育に携わった。野村退職後、大阪経済大学経営情報学部専任教授。

 現在、ボランティアで郷土の育英事業団体・米沢有為会の運営に理事(総務部長、東京支部長)として参画。当会の名誉会長は、上杉家第17代当主・上杉邦憲氏(JAXA名誉教授)、会長は大滝則忠氏(前・国立国会図書館長、当懇話会でも講演)。

<主な著書>
(共著)「債券運用と投資戦略」1983年、金融財政事情研究会(現在も後輩が改訂版出版中)
(単著)「高度金融活用人材のための ファイナンスの理論と金融新技術」2013年、金融財政事情研究会
(論文)「債券のパッシブ運用」1989年(第1回証券アナリストジャーナル年間優秀論文賞受賞)

日時/会場

日時:2017年11月19日(日)14:00~18:00
会場茅ヶ崎市勤労市民会館(〒253-0044 茅ヶ崎市新栄町13-32)
電話 0467-88-1331 FAX 0467-88-2922 http://www.chigasaki-kinro.jp/
参加費:1,000円
連絡先:猪野修治(湘南科学史懇話会代表)
〒242-0023 大和市渋谷3-4-1 TEL/FAX: 046-269-8210 email: shujiino@js6.so-net.ne.jp
湘南科学史懇話会 http://shonan-kk.net/