書評:小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書、2004年) 2005年3月25日『科学史研究』第44巻(No.233) 掲載

 最後のひとりになっても徹底的な批判を浴びせると公言する著者が、高密度の論理を縦横無尽に駆使し渾身の力で書き下ろした「脳死・臓器移植」批判の決定版である。

 著者は長年、生命倫理学の立場から「臓器移植法」に徹底した批判的論陣を張ってきたことは周知の事実である。そもそも著者の批判的言論が注目をあつめることになったのは、十数年にわたる激しい論争の末に「臓器移植法」(1997年)が成立する過程で各種のマスコミに頻繁に登場し強固に「臓器移植法」反対の持論を展開したことに始まる。

 また、この賛否両論の激しい議論の渦中に、科学史家(生命倫理学)の立場から歴史的な考察を施した『死は共鳴する-脳死・臓器移植の深みへ』(1996)を刊行した。この著作は上記のマスコミの議論とあいまって専門家のみならず一般の人々の関心を呼び起こした。少なくとも、現代医療の「進歩の思想」に科学史家として真正面から異議申し立てを行ったのである。

 その異議申し立ての内実とは「脳死を死とすることはなぜ問題なのか、脳死・臓器移植は本当に十全な医療なのか」という問題設定から、脳死・臓器移植問題を科学史の視点から学問的に批判したものである。その後、この著作をたたき台・よりどころ・武器にして、こんどは、生活・思考基盤は異なるけれども、「死」をめぐる種々の社会的・思想的な問題に共通の関心をもつ多様な人々(内科医・精神科医・評論家・社会学者・作家・歌人・哲学者・聖職者)にたいして、著者は執拗に議論をぶつけながら、持論を練り直し・煮詰め・深化させていく。その一部は『人は死んではならない』(2002)で知れるが、これを一読いや多読すると、まさに生死をかけた真摯な縦横無尽の議論には、ただただ圧倒される思いである。

さらに勤務先の東京海洋大学および非常勤を勤める東京大学等々の学生諸君をはじめ、広範な一般市民に対する数多くの講演をこなしながら、脳死は人の死とすることはできず、臓器移植の現場は捏造まがいの形相を呈していると明言するのである。

 こうした多方面の人々との議論と交感を通じて、日本で最初の札幌医科大学の和田心臓移植から現時点までの脳死・臓器移植問題までの歴史的事実を、ひとつひとつまな板に載せながらじっくり凝視し、出来うるかぎりを尽くし再検証し、欺瞞にみちた医療現場の実態を白日のもとにさらしたのが、本書『脳死・臓器移植の本当の話』である。その意気込み・思索・行動力は並々ではない。

 前著『死は共鳴する』が歴史的な視点からの論考であるにたいして、本書は科学的な議論(生物学・医学・社会学・政治学)が高密度に凝縮された論理的な論考となっている。なお、本書の刊行とほぼ同時期に12時間の語りおろし原稿を集約した『自己決定権は幻想である』が刊行された。こちらの方は平易な話し言葉で書かれていて、ちょうど、こんかい紹介する『脳死・臓器移植の本当の話』の解説本の役目も果たしているので、それをも踏まえながら本書を概観し論評して行こう。まずは全体の構想と項目を眺めてみよう。

序章「星の王子さま」のまなざし
(1) 自分の目、自分の心、自分の頭
(2) 移植をめぐる二つの番組
(3) マスメディアとマインドコントロール
(4) 星の王子さまとの出会い

第二章 脳死・臓器移植の「外がわ」
(1) 臓器と組織の交換諸技術
(2) 脳死判定と臓器摘出までの経緯
(3) 誤解されがちな基本事項の確認

第三章 脳死神話からの解放
(1)「脳死」という言葉のもつれ
(2) 意識や感覚はないのか
(3) 身動きひとつしないのか
(4) 遠からず死ぬのか
(5) 脳は身体の有機的統合性を統御しているのか
(6) 脳死者だけが「機械によって生かされている」のか
(7) なぜ「脳死」と呼ばれるか

第四章「脳死=精神の死」という俗説
(1) 「滑りやすい坂道」とパーソン論
(2) ある大哲学者の誤解
(3) 驚愕すべき学説の登場-シンガーとトゥルオグ

第五章 植物状態の再考
(1) 植物状態の患者に意識はないのか
(2) コミュニケーション障害である可能性
(3) 遷延性植物状態は永続的・不可避的なのか
(4) 想像の植物状態患者と植物状態患者の想像

第六章 脳死・臓器移植の歴史的現在
(1) 和田移植
(2) 高知赤十字病院移植

第七章 「臓器移植法」の改定問題
(1) 法改定の背景
(2)「町野案」批判
(3)「森岡・杉本案」批判
(4)「臓器移植法」改定の方位

終章 旅の終わりに
あとがき
主要参考文献

 著者の脳死・臓器移植問題、一般的に死生問題にたいする基本姿勢は、「自分の目で見る」「自分の心で感じる」「自分の頭で考える」ことを呼びかけることに尽きる。この基本的姿勢は脳死・臓器移植問題、出生前診断、再生医療等々の先端医療に留まらず、政治問題、教育問題等々にも及ぶとする。要するに想像力を徹底的に働かせよというのである。この徹底した想像力を駆使して脳死・臓器移植問題を考察すると「脳死は人の死と認められず、臓器移植は人体の商品化・資源化の何者でもない」と結論する。ここに至るまでの複雑なプロセスを緻密な論理展開で解き明かす論法はきわめて説得力をもつといえる。

 まず第1は、「脳死者の意識」を意識・感受する想像力を持てと呼びかける。つまり「脳死者はほんとうに死んでいるのか」という大問題である。著者によれば、「脳死者」は子どもを生み、消失した脳波が蘇生し、臓器の摘出の際には脈拍と血圧が急上昇し、自発的な運動(ラザロ徴候)する。ラザロ徴候とは一般の人々にはほとんど知らされていないが、専門医の間では「常識」になっていることである。そこで、移植現場では、それを阻止するために、「脳死者に麻酔処置を施す」という。驚くべきことである。人間的な動きをする「脳死者」の衝撃的な事実をつぎつぎと明らかにしているが、この事実から言えることは、「痛み」を感じ、「意識」もある可能性もある脳死者を、そもそも人の死(の基準)とは認められず、その行為は殺人であり臓器の移植などもってのほか、と著者は力説する。

 第2は内外の膨大な医療現場の研究書をひもとき、脳がすべての身体を有機的に統合するという俗説=脳神話を詳細に解体していることである。約20年間も生き続けた脳死者や、臓器提供を拒否し社会復帰した実例もあげている(第三章)。

 なによりも圧巻なのは、日本で最初の札幌医科大学の和田心臓移植(一九六八年)と臓器移植法成立後、初めての高知赤十字病院(一九九九年)の心臓・肝臓・腎臓の移植という、二つの生々しい移植現場の実態を、現地にも赴き徹底的に再検証し、比較対照していることだ。和田移植は「悪の代名詞」、高知赤十字病院移植は「公明正大」とされるが、著者の詳細な再調査と比較対照の結果によると、31年間の時間を経た二つの移植には本質的に相違はないと結論する。はじめに脳死・臓器移植ありきの捏造まがいの医療現場の実態を白日のもとにさらす。(第六章)。

 いったん脳死・臓器移植が合法化されると、あとは歯止めなく坂を転がり落ちるように進展する概要が記述される。現在、国会で審議されている「臓器移植法」の改定問題である。子供の移植の容認、家族の承諾条件の撤廃などである。とどのつまりは脳死者の人体を商品化し、医薬品開発などの莫大な利潤を生む原材料等々、人体を最後の経済資源につながる現実を暴き出している。このような歯止めが利かなくなるのは必然の改定案の作成に深く関わっている町野朔・上智大学教授は驚くべき発言をしている。ひとは生まれながらにして子どもも大人も死後の臓器提供を「自己決定」している存在なのだ、いうのである。あまりにもすさまじい論理であるので、著者が引用している部分を正確に再録しておきたい。

「およそ人間は、見も知らない他人に対しても善意を示す資質を持っている存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。-たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。もちろん、反対の意思を表示することによって、自分は自分の身体をそのようなものとは考えないとしていたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそのような反対の意見が表示されていない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。」(第7章、338頁)

 驚くべき見解である。著者の表現を借りると「芸術作品」ともいえる。これが、法改定の検討を目的とする「臓器移植の法的事項に関する研究」代表の公式見解であることを考えると、まず、はじめに臓器移植ありきの政治姿勢がはっきりと読み取れる。

 最後のひとりになっても、徹底的な批判を浴びせる著者は同業者にも批判の手を緩めない。上記の町田案はあきれてものが言えない見識であるが、もうすこし、まともな論者に対しても詳細・綿密な批判を行っている。町野案に対抗する案を提言した森岡正博大阪府立大学教授(倫理学)と杉本健郎関西医科大学助教授(小児神経学)の「森岡・杉本案」と、梅原猛(哲学者)の脳死・臓器移植論への批判である。

「森岡・杉本案」とは、現行の臓器移植法は世界で最も先進的な法律であると称賛し、15歳未満の者の臓器提供の意思表示権を認めつつ小児の心臓移植に途を開くものだ。これに対して著者は、「多様な死生観」「死の多元主義」を容認する現行法を高く評価し、「児童の権利条約」の根本精神をも読み違え、無原則で無責任であると厳しく批判する。ここでは詳細な論理を披露する余裕がないので直接、本書にあたってほしいが、見事な分析が行われている。

 一方、「大哲学者」(著者の言葉)の梅原にたいしては、「脳死臨時調査会」の最終答申に少数意見を明記させた「快挙」を勝ち取ったにもかかわらず、デカルト哲学を過大視するあまり、脳死を人の死とする公的な根拠のあいまいさがあり、医学における死そのものの把握と死の判定基準に対するデカルト哲学の影響を強く受けるあまり、三重の誤解に基づく論理を導き出してしまった。つまるところ、梅原の本意とは裏腹に、死の議論をめぐる「デカルト哲学と現代医学の仲人役を演じた」と批判する。なんとも高密度の緻密な論理的批判であることか。

 以上、評者が注目したいくつかの論点を取り上げたが、総じて著者は、ますます進行する西欧社会に蔓延するグローバリズムの渦中で、脳死・臓器移植の「進歩」が人体を商品化し資源化する巨大な市場を生むような事態を、なんとしても阻止しなければならないことの確信犯的批判者の道を貫徹していると評者は見る。その証拠に著者は「負けが確定しない状態が続く時間をできるだけ引き延ばしたい」とも述べているからである(『自己決定権は幻想である』198頁)

 蛇足ながら、もうひとつ述べておきたいことがある。「科学史研究の存在意味」のことである。著者には、科学史家は専門の科学史研究と同時に、具体的な現代科学技術批判を展開すべきだ、との強烈な問題意識が働いている。著者はいたるところで、最近の科学史研究はアカデミズムの中に確固とした位置を占めた結果、体制内の御用学問と成り下がり、本来の批判精神の牙を失っていると、嘆いているからである。それを著者が自ら具体的な形でやってのけたという自負が、著者にはあるだろうと、評者は見る。どうだろうか。

 本書が脳死・臓器移植問題のみならず、科学史研究のありようの議論にも連動していく作品であることは間違いない。だからこそ、アカデミズムの世界で国税を使い、飯を食っている立場にいるにもかかわらず、安直にも、「俺は学問そのものが嫌いだ」などと、逆説的なことを言わざるを得ないのである。この議論については、市民の立場から生涯にわたり人生をかけ、専門性を備えた批判的科学技術運動を実践し貫徹した故高木仁三郎と著者の対談(『黄昏の哲学』に収録)で知ることができる。

 ともかく本書は、自らの生育歴と少年時代の体験を隠し味にしながら、人生観・人間観・社会観を全面的に赤裸々に明らかにしつつ、科学史家生命をかけた「脳死・臓器移植問題」批判の決定版であり、真剣に読んでほしい書物である。

最後に本書以外の著者の著作を上げておきたい。
●『死は共鳴する-脳死・臓器移植の深みへ』剄草書房、1996年
●『黄昏の哲学-脳死臓器移植・原発・ダイオキシン』河出書房新社、2000年
●『人は死んではならない』春秋社、2002年
●『自己決定権は幻想である』洋泉社、2004年