書評:袖井林二郎『私たちは敵だったのかー在米被爆者の黙示録-』 (岩波書店、一九九五年) 1999年9月4日『湘南科学史懇話会通信』第4号掲載

私たちは敵だったのか―在米ヒバクシャの黙示録

在米被爆者の国家補償責任を訴える

 私は本書の著者袖井林二郎氏とは写真では存じていても、直接にはお目にかかったことはない。しかし、昔から知り合いのような「気分」になっている。それはこういう次第だ。私には二人の息子がいる。次男は、「決して悪いことではない」が、相当な学校嫌いの人物で、高校三年のとき政治経済の科目の単位が取れず、卒業できそうもないというのである。担任の先生からそれを言われたのが二学期末試験が終わった十二月のことである。もうあとがない。本人は留年すれば退学するという。どうしたものかと思案しているやさき、担当の先生が救済処置の課題を出して下さった。その課題とは①袖井林二郎『マッカーサーの二千日』(中公文庫)を読んで感想文を四〇〇字詰十枚書いてくること、②「神奈川県大和市の情報公開制度を詳細に論ぜよ」の二つである。

 本もろくによむ習慣もない人物が①の感想を書くどころか読み込めないのははっきりしていた。そこで親ばかであるが、私は①を何度も何度も読み返して、大まかな内容を話し、私の書斎に息子を有無を言わせず監禁して強制的に読ませたのである。②は年が明けた仕事始めの日に市役所に行って資料を入手させた。こうしてなんとか提出期限にまにあった。それを受け取った先生は息子に、にやりとしながら、こういったそうである。「おい、これ、お父さんに手伝ってもらっただろう」。これに息子は躊躇して、「ほんのすこしだけです」と言ったそうである・・・。その息子が一浪して、東京の私立大学の政治経済学部に入った。蛇足ながら、私が住んでいるところは、マッカッサーが降り立った厚木基地のすぐそばにある。

 もうひとつある。この湘南科学史懇話会の幹事の竹中英俊氏(東京大学出版会)、友人で懇話会を支援してくれている佐々木力氏(東京大学)、それに第5回懇話会の講師を依頼した笠松幸一氏(日本大学)が、偶然にも、すべて袖井氏と同じ宮城県古川高校の出身であることだ。我々は「東北ナショナリズム」などと冗談をとばしながら、この二つの「事件」はよく話題になる。みな、東北の貧しい時代の生活環境に育ったからだろうと思う。

 そのように知り合い「気分」にある袖井氏の仕事には実は以前から注目していた。私が数年前、米国のスミソニアン原爆展論争を追跡するさいに、袖井氏の論文をなんども読んでいるが、本書もその一つである(猪野修治「原爆展論争と日本の戦争加害責任」、『湘南科学史懇話会通信』第三号参照)。袖井氏は原爆展論争の「企画書第一稿」の作成のとき、スミソニアン航空宇宙博物館から協力の要請も受けている。アメリカのUCLAに六年もの間、留学されていた関係で、ロサンジェルスの日系人社会の人々、アメリカ有数の原爆投下問題の歴史家、日米の反核運動家たちとも十分に通じておわれる。

 本書のテーマはただひとつである。戦前にアメリカに移民した一世や二世の日系アメリカ人が、それぞれの個別の事情で里帰りしたさいに、たまたま、広島と長崎で被曝したのである。これらの被爆した日系アメリカ人は、日本の広島・長崎の被爆者数に比べたら、ごく少数の数百人規模である。しかし、そのごく少数の被爆者が、原爆投下した当事国アメリカの軍備拡張・核抑止論が常識化した政治的情況の中で、日本人の血を受け継ぎかつアメリカ人として生きたいというジレンマのなかで、被曝補償をもとめてアメリカ国家とどのように向き合ってきたか、向き合わざるをえなかったかを、日本国家からもアメリカ国家からも、マイノリティの弱者の視点から詳細に考察したものである。

 その基本的思考スタンスは、袖井氏によれば「歴史の現象には一見微小なものの中に全体が宿る」という強烈な世界歴史認識である。私はこの世界歴史認識に共鳴する。というのは「一見微小なもの」の存立構造に光を当てると、核爆発(原爆・原発を問わない)によるすべての被曝者が同一平面上にのるからである。袖井氏は大きな声で述べていないけれども、本書には、広島・長崎以前に、アメリカ国内の核実験の被爆者、ウラニウム鉱山労働者、ウラン濃縮工場・核兵器工場の労働者とその周辺の住民、さらに核の「平和利用」とされる原発労働者など、全ての核被曝者に同一のまなざしが向けられている。原爆も原発も同じなのである。これが重要なことで、ヒロシマ、ナガサキと原発をつなぐ重要な視点なのだ。

 もうひとつ言いたいことがある。袖井氏がなぜアメリカ国内の「微小な被爆者」とアメリカ日系人移民にこころを注いだかということである。日本国内はおろかアメリカの日系人ですら、余り関心が持たれず気がつかないことだからである。それは若い時代の袖井氏のUCLA留学体験にあると、私は確信する。日系移民の大多数が住む西海岸周辺にたまたま留学した政治学徒袖井氏をそうさせたのだろう。だから、日本のアメリカ移民の歴史と原爆・核の問題はきってもきれない関係としてある。実は私は本書を日本のブラジル移民と重ねて読んでいた。これは私にとっては大きな問題だ。というのは、私の母方のすべての親戚が一九一八年にブラジルに移民したからである。ブラジル移民の歴史研究に私は何十年とかかわってきた。そして、一九九六年七月から一ヶ月ほど、ブラジルに住む全ての親戚を訪ね、一世の人たち苦難の人生をつぶさに聞いてきたのである。そのブラジル移民の苦難の歴史はアメリカ移民のそれとは次元のことなる悲惨さである。私はその様子を「ブラジル日系移民探訪」(『現代思想史研究会通信』第二号、一九九六年十月二0日)に書いた。

 その帰路、袖井氏の舞台のロサンゼルスの日系移民資料館を訪ね、多数の資料を入手したのだが、日系ブラジル移民の原爆被爆者もありうると思ったのである。

 ともかく、日系アメリカ人の「微小な被爆者」の視点から原爆―原発―核を考察する手法は、国際的な反核運動の大きな思考基軸となるであろう。それにしても、学会向けの無味乾燥な論文にしか興味を示さないはずのアカデミズムの政治学者に、このような人間くさい文体をもった作品がなぜかけたのだろう。それは私が思うに、UCLA留学後、袖井氏が原爆の丸木美術館と「原爆体験を伝える会」の運動の場にいたからである。アカデミズムの世界ではない無名の人々の叫びを創造力を持って、共有するその精神にある。