書評:山本義隆『古典力学の形成―ニュートンからラグランジュへ』 (日本評論社、1997年) 1998年8月10日『科学・社会・人間』

大陸の数学者達の一世紀間の苦闘

 一九九七年六月に本書が刊行されてから現在まで、本書の解読に悪戦苦闘しており、それもいまだ途中でいつ終わるかもわからないことを告白しなければならい。数学や物理学の書物はただ目で追っていただけでは到底理解できず、実際に鉛筆と紙を用紙し、物理的に手を使い、そこに述べられている事柄を逐一フォローしなければならない。実は著者は別の著作で、学問や勉強する態度についてこう述べているからである。「なんの学問でもそうだが、勉強とは教えられたことを受け身的に覚えることではない。本当に自分のものとするには、自分で主体的に考えなければ、それもうんうん唸って考えなければならない。もちろん物理もそうだ。その際、物理で考えるということは、実際に手を動かして計算し、その結果をグラフや図に表して吟味して、想像力を働かせて具体的なイメージをかきたてることをいう」(『物理入門』、駿台文庫、一九八七年)。

 物理教育界の第一線にある著者の長年の教育経験に裏打ちされた言葉であるので、重く受け止めなければならない。この言葉はなにも大学受験生に限ったことではなく、数学や物理学さらにはそれらの思想を学ぼうとするさいには、さけては通れない営みである。だからやっかいなのだ。それはそのまま私にもあてはまる。熱狂的な数学・物理学好きの若者ならいざ知らず、私のようなふつうの中年がこのことにあたろうとするとなると、私の個性とは裏腹に格段の勇気と根気と努力が要求される。実はこの文章を書くこともずいぶん迷った。というのは、さきにも述べたように、その解読作業がいつ終わるのかも、自分でもわからないからである。が、一応、中途半端であるが紹介をかね、私なりのきわめて主観的な感想やら想いやらを書き付けておこうと思う。

 はじめに著者の問題意識はどのようなものであろうか。 物理学といえばニュートンン、ニュートンといえば運動の法則F=maといわれる、あの有名な法則を作り、地上と天上の現象を統一的な数学の言葉で解釈したとされる。そのニュートンが書いた代表的な著作が『自然哲学の数学的諸原理(原題 Philosophiae Naturalis Principia Mathematica )』(初版一六八七年、第二版、一七一三年)、通称『プリンキピア』と言われる本である。この本に関する上記の解釈は現代的すぎ、今日の古典物理学と言われるものとはだいぶ異なっている。それは「ニュートンの力学」であり通常の「ニュートン力学」ではない。では「ニュートン力学」とはどのようなものであろうか。

 著者によれば「通称「ニュートン力学」と称されている古典力学は、ニュートンによる総合〔筆者注、地上と天上の運動を統一的に見ること〕を批判的に継承し発展させたヨーロッパの知的エリート、とりわけ大陸の数学者達のネットワークのほぼ一世紀にわたる協同作業によって形成されていったのである」。それは、『プリンキピア』出版からほぼ百年後のラグランジュ『解析力学』(初版一七八八年、第二版一八一一年)で終点を見ることになる。いわばニュートンかラグランジュへいたる過程で今日の古典力学が完成されたのである。

 一九六0年代以降の科学史研究の成果はめざましいものがあるが、しかし、著者のいう「ニュートンの力学」から「ニュートン力学」にいたる、大陸の数学者達の苦闘の産物である理論的変遷の詳細な科学史研究は少なからず見うけられるものの、「物理学者や数学者にもすでに共有されているとは、とても言い難いのが現状である」。著者の問題意識はこれともうひとつある。こうして完成を見た古典力学が、最近、「更なる研究対象として関心を集めている」ことでもあるので、ニュートンからラグランジュにいたる大陸の数学者達の苦闘の歴史を原典に忠実に再現・再構成しようではないか、というのである。

 以上のような問題意識から、著者は、「近代の自然科学理論としての古典力学の形成の物語」をはじめる。本書は第一部「ケプラー問題」、第二部「力学原理をめぐって」と題されており、その一般論的概要は、長い引用になって恐縮であるが、著者の文章をお目にかけることにする。「ニュートン力学」が「ニュートンの力学」の単なる書き直しではないことを述べた後、著者はこう述べている。

 本書第1部と第2部をとおして展開されるこの『プリンキピア』から『解析力学』までの力学理論の発展過程は、数学的には解析化と一言で括られているが、しかしそれはMachの言うように単なる「演繹的・形式的・数学的発展」なのではなく、『プリンキピア』の幾何学的・総合的な記述と構成の持つ本質的な限界と制約の克服の過程と見るべきである。それはまた同時に、力学をきわめて限られた特別の人間にだけ伝授可能・使用可能な道具に作り変えてゆく過程でもあった。こうして古典力学は、フランス革命以前の、絶対王制と貴族社会の庇護のもとにあったききわめて少数者の知的サークルのなかでのみ流通する教養から、フランス革命以降の、科学が産業と結び付き、それゆえ一定数の科学者と技術者の集団の存在が職業として社会的に要請され、組織的に養成される時代の科学理論へと変貌していったのである。その意味において本書は、近代の自然科学理論としての古典力学の形成の物語である。

 明確な問題設定の言明である。われわれが高校や大学で教わる力学とはもちろん古典力学であり、ニュートンの主著『プリンキピア』でもなければ、本書の主題的テーマである『プリンキピア』から『解析力学』にいたる力学理論の歴史的な変遷過程でもまったくなく、もっぱら誰にでも「伝授可能・使用可能」な道具としての完成された現在高の古典力学である。したがって、物理学の第一線の研究者の世界ですら、前のふたつの著書はほとんど読まれることはないし、関心を向けられることもない、と言っても過言ではない。それはごく一部の物理学史の研究者に限られているにすぎないし、著者も随所で述べているように、近代科学の父といわれるガリレオの著作は読まれても、近代科学の統合者ニュートンの『プリンキピア』は読まれることはない。

 それはどうしてかと言うと、『プリンキピア』を手にとって見れば、ただちに「直感」するように、現代的観点からみて、きわめて複雑な幾何学的手法で書かれていて、現代的手法ではないことには違和感を持つほどである。その理由は、科学史の研究者によれば、ニュートンは、この『プリンキピア』を、大陸の大数学者・哲学者デカルト の著作にたいする意識的・敵対的な目論みをもって書いたとも言われる。が、その辺の事情には触れない。

 ともかく、こうして現代的観点から見れば、きわめて難解な手法で書かれている『プリンキピア』を、著者は、丹念にしかも克明に読み解くところから、この物語をはじめる。ここからの解読作業が、余人には不可能な著者の本領の見せ場である。

『プリンキピア』を巡る問題設定・論理構成・重力・解法・限界等々を論じた後、ライプニッツ(一六四六―一七一六)、ヴァリニヨン(一六五四―一七二二)、ヘルマン(一六七八―一七三三)、ヤコーブ・ブルヌーイ(一六五四―一七0五)、ヨハン・バルヌーイ(一六六七―一七四八)、オイラー(一七0八―一七八三)、ダランベール(一七一七―一七八三)、モーペルツチューイ(一六九八―一七五九)、そしてラグランジュ(一七三六―一八一三)等の論文が詳細に分析され、ここに大陸の数学者達の一世紀におよぶ悪戦苦闘の様子が再現される。

 本書の長い物語の終点は表題からも知れるように、ラグランジュ『解析力学』である。解析力学こそは、二十世紀の量子力学や相対論的な場の量子論を構築するさいの必須の最強の道具である。

 こうして、主要に大陸の数学者達の原典を忠実に再現しつつ、古典力学の歴史的形成過程を物語ってきた本書は、近代科学の土台を作った古典力学とは何であるかを知ろうとするものには、相当の物理学的・数学的な努力を要求するけれども、この曖昧さのない厳密で本格的な学問の書は必読書なのである。

 最後に、著者には同種の著作として、『重力と力学的世界』(現代数学社、一九八一年)、『熱学思想の史的展開』(現代数学社、一九八七年)がある。これまた分厚い重厚な本である。