書評:金子 務 著『オルデンバーグ』(中公叢書、2005年3月10日) 2005年12月20日『化学史研究』第32巻第4号(通巻第113号)掲載

 長年、多数の書物に囲まれる生活していると、ひとつひとつの書物がいろいろなことを語りかけてくる。例えば、ひとつの書物が刊行されるまでには、著者の労はもちろんだが、担当編集者、印刷所、販売元など、表面に現れない多数の人々の営みがあることに深い思いをはせることがある。また、学問の世界で種々の学会や研究会が組織され、それが社会的市民権を得るまでに費やされる無形の知的営みに心を向けることはすこぶる重要なことだと思う。評者は長年、種々の研究会終了後の懇親会の席などで「編集者は知的創造者・思想家である」と言い続け、ことあるごとになんとか編集者の労に報いたいと思ってきた。

 しかし、物書きを本業とする研究者からはすこぶる評判がよくない。物書きの研究者は長年あるテーマを追い続けると、どうしてもその研究対象にのめりこみ、自らの内的世界の構築にしか関心をもたず、その具体化、社会化、流通、公開の手立てを欠きがちである。編集者はこうした平衡感覚をもって、なんとか最後まで仕事をやらせると同時に、各人の研究成果を公開、流通、社会化、交流させ、知の世界全体を構築する見通しをつけて、それらを統合・組織化する。こう考えると、編集者の存在は知的創造者・思想家であると言ってなにが悪かろう。

 本書の主人公オルデンバーグ(1615?~1677)はまさに人類史上画期的な17世紀科学革命の大舞台の裏側で、「完全な黒子」の編集者・組織者・人的交流者として大きな役割を果たした「科学革命の陰の立役者」である。17世紀科学革命誕生の礎を創った主要な人々(ガリレオ、デカルト、フック、ボイル、ホイヘンス、ハーヴェイ、ライプニッツ、ニュートンなど)の仕事は、オルデンバーグの存在がなければ日の目を見ることもなかったと言っても過言ではない。一般の人々はもちろんだが、科学史研究者にもオルデンバーグの存在と業績はあまり知られてはいない。そのオルデンバーグとは、こんにちでは有名なロンドン王立協会初代事務総長であり、その機関誌『フィロソフィカル・トランザクション』の創立者である。これらは、正式に認可されるまでは、オルデンバーグの「個人的事業」として営まれていたのである。

 本書では、そもそもドイツのブレーメン出身の元エミグレ(亡命)外交官の人物が、何故に現代も続いている世界最古の学術雑誌を創刊するまでに至ったのかが詳細に論述される。そしてつぎのように述べられている。「オルデンバーグは、17世紀に立ち上がりつつあった初期郵便制度を活用して、媒介者として人と人を結びつけ、情報を取り次ぎ、記録し、雑誌や書類の形にして公開させていったのである。事務総長として、また独立した編集者として知を媒介し、拡大して、また新たな知を呼び込むという、まさに情報革命の原点を拡大し強化していったのである」(9頁)。

 本書によると、まず第一にオルデンバーグの「人と人を結びつける」やり方は天才的である。母国のドイツと滞在国イギリスはもとより、オランダ、イタリア、フランス、スペインの研究団体と科学者までその人的交流をやってのけている。しかも、その通信手段はすべて手書きの手紙である。しかし、幸運なことに、オルデンバーグは母国語のドイツ語はもとより数ヶ国語(ラテン語、フランス語、イタリア語、英語)に通じた多言語使用者であった。実際、彼は生涯にわたり濃密な付き合いのあったロバート・ボイルの著作をラテン語に翻訳する仕事で収入を得ていたのだが、オルデンバーグの人生を眺めると、ボイルの存在はきわめて極めて大きく不可欠であった。

 さらに、内外の科学者の論文や手紙を翻訳し記録しているが、これらの超人的な仕事を、すべてオルデンバーグが一人でこなしていたというから驚きである。このように、現代に生きていれば、「ロンドン王立協会」と『フィロソフィカル・トランザクション』の「影武者」になったであろうオルデンバーグであるが、彼が生きていた時代では、「表舞台」にたつ大立役者であったと評者は推察する。彼なくしては西欧の科学者は活躍する場を確保できなかったのであり、大部分の科学者はオルデンバーグを頼りにして、彼を通じて学問的交流を図ったのである。また、彼は自らの協会と雑誌を充実させるため、明確な視点と見識をもち積極的に諸外国の研究団体および科学者と接触を図った。その中でも特筆すべきことは、オルデンバーグは、王立協会の起源を考えるうえで「無視できない」ロンドンのハークを通じて、パリのメルセンヌと20年にもわたり科学的交信があったことである。周知のように、メルセンヌはフランスにおける研究者共同体組織の原型を作りあげた人物である。ともかく著者はこうした観点から、諸外国の共同研究の館「アカデミー」の歴史的出現の状況を詳細に論述している。フィチーノのアッカデミア・プラトニカ(イタリア)、アッカデミア・デル・チメント(同)、パリアカデミー(フランス)等々である。最後に諸外国の科学共同体や科学者との交流手段である郵便・通信事情を具体的に詳述しているところが面白い。

 さらに本書の成立の経緯について評者が驚かせられたのは、本書の基盤となった主要な資料が、イギリスの近代科学史家のA・ラパート・ホールとマリー・ポアズ・ホールの『ヘンリー・オルデンバーグ往復書簡集』全13巻(1965~1986年)という膨大な数の書簡であったいうことである。著者はこの書簡集を読み込み、「オルデンバーグを書簡の送受者として、どこにいるだれと、いつからいつまで、何通を取り交わしているか、そのときの話題はなんであるのか、をチェックする仕事を押し進めることにした」という(282頁)。その結果、著者が解析した往復書簡数は3324通、通信相手は334人という、とてつもない数の執念の調査である。その生の解析資料は付表1~3(オルデンバークの通信相手一覧、オルデンバーグが交信した重要通信相手上位100人の略歴、初期王立協会会員の活動状況1660-1663年)で知ることができる。なんと根気のいる仕事であったことか、正直言って頭がさがる。それだけに本書の主人公「オルデンバーグ」の存在が現代の評者にもよく見えるのである。

 本書は「編集者は知的創造者・思想家」であるとの評者の思いが、きわめてまっとうであることを歴史的に実証してくれている。オルデンバーグは、科学や哲学のあらたな世界を切り開いた科学革命期の大科学者たちの存在さえもが小さく見えるくらいの「大人物」である。科学史研究者のみならず現代の物書き研究者はこのことを心して肝に銘ずべきであり、本書を読めば、あらためて編集者に感謝の念を呼び起こすべきであることを知るはずである。詳細は本書を丹念に読んでもらう以外にないが、評者は著者(金子務氏)とオルデンバーグの人生を重ね合わせながら読んでいた。というのも、著者は新聞記者・編集者の生活(25年間)を経て研究者の道に転じられた方であるからである。編集者から研究者に転じたご自身の体験(1985年)からすればオルデンバーグの存在は他人事ではなかったのであり、その直後から重大な関心事でもあったと推察する。その後、『アインシュタイン・ショック』などの数々の大きな仕事(著作)をされるなど紆余曲折があったが、まさに15年越しの積年の思いで「本懐」を遂げられたと言ってよいだろう。