書評:W・シーア/M・アルティガス著『ローマのガリレオ-天才の栄光と挫折』(浜林正夫・柴田知薫子訳、大月書店) 2006年3月20日『化学史研究』第33巻第1号(通巻第114号)掲載

 最初に注意しておきたいことがある。本書の著者のひとりのWilliam R Shea の読み方が本書では「シーア」となっているが、「シェイ」とすべきのようである。というのも、Sheaの論文が収録されているD.C.リンドバーグ/R.Lナンバーズ編『神と自然』(渡辺正雄監訳、みすず書房、1994年)とM.L.R.ボネリ/W.R.シェイ編『科学革命における理性と神秘主義』(村上陽一郎・大谷隆延・横山輝雄訳、新曜社、1985年)などでは、すべて「シェイ」の名称が使われているからである。とくに後者の「訳者あとがきに」よると、Sheaと交友関係のある伊東俊太郎氏からの指示で「シェイ」としたそうなので、この読み方が正しいようである。

 そのシェイであるが、1937年生まれでローマのグレゴリアナ大学で哲学・神学を修め、1968年にケンブリッジ大学で哲学のPh.Dを取得している。現在は、イタリアのバドワ大学「ガリレオ講座」教授である。国際科学史・科学哲学協会と国際科学史アカデミーの元会長である。もうひとりのM・アルマティガスはスペインのナバラ大学哲学教授で物理学と哲学の学位を持つカトリック神父である。それ以外はわからない。

 著者らによると、ガリレオ事件は400年近く経過したこんにちでも多くの人々の関心と興味を引き、科学と宗教の問題は現代的な問題と密接に連動している。著者らは本書のことを「自信作」だと断言してはばからないが、これは、これまで最も優れていると言われている著作にも「不正確な点」があるので、「直接の研究」をひもとき、それらを余すところなく最も詳細な内容まで調べ尽くしたからだという。ここで直接の研究とはアントニオ・ファヴァーロ編、イタリア国家版『ガリレオ全集』であることは言うまでもない。

 その結果、当時の科学的・政治的な文脈から見ると、教会がガリレオ事件で行った主張は健全なものであったという見方を著者らはとっている。それがタイトルにも見られる「ローマのガリレオ」が物語るところでもあるが、短期的にはガリレオの戦略は失敗であり、長期的には勝利であったと主張する。また、教皇権力の存在するローマからガリレオ事件を調べるのは著者ら最初であるとも述べている。訳者は「あとがき」で、本書のいくつかの書評の中から「ガリレオが自ら墓穴を掘ったのだ」「もし、充分に根拠のある証拠があればコペルニクス説の地動説を受け入れたかも知れない」「ガリレオは下手くそで頑固で恩知らずの行動をとった」「神聖政治が教条的に拒否したのではない」・・等々の論調を紹介し、本書は「新たなガリレオ像」を提起したと述べている。

 さて、本書によると、ガリレオはローマへの6回の旅を余儀なくされているが、本書ではそれらの旅の時期区分がそのまま本章の構成となっている。[ ]の数字は年齢を示す。

第1章:職探しとローマへの道-初めての旅(1587年)[23歳]
第2章:名声の扉は突然に開かれる-2度目の旅(1611年3月29日~6月4日)[47歳]
第3章:ローマの雲-3度目の旅(1615年12月10日~1616年6月4日)[51歳]
第4賞:ローマの陽光-4度目の旅(1624年4月23日~6月16日)[60歳]
第5章:星回りの悪い天-5度目の旅(1630年5月3日~6月26日)[66歳]
第6章:暗雲立ちこめるローマ-6 度目の旅(1633年2月13日~7月6日)[69歳]

 著者によると、ガリレオは、当時教皇が存在したローマの権力機構が絶大な力を持っていることを十分に承知していた。それゆえ、彼の旅はそれぞれ次のような目的を持っていた。つまり、1587年は大学の任用を後援してくれそうな科学者たちに会うために(1 度目)、1611年は望遠鏡による発見を承認してもらうために(2度目)、1615~1616年はコペルニクス説の正しさを立証しようと試みるために(3度目)、1624年は地球の運動に関する著作が可能かどうかを見極めるために(4度目)、1630年は『対話』の出版許可を確保するために(5度目)、そして、1633年はローマの権威者たちの激怒に立ち向かうためにである(6度目)」(19頁)。滞在日数は合計500日にも及ぶが、それにローマまでの困難な交通機関(徒歩、馬車など)を考えると、その旅は相当の日数を要する過酷なものであった。ましてや老年になってからの旅はかなりきついものであった。

 本書の特徴は、ガリレオの科学的業績を述べるのではなく、これら6回のローマへの旅で、絶大な権力を有するマッフェオ・バルベリーニ枢機卿(後の教皇ウルバヌス8世)をはじめとする高位聖職者、枢機卿、作家、科学者、神学者、哲学者、詩人、出版業者等々との謁見と会合を通じて、賛辞と拒絶の議論が幾重にも錯綜する宗教的・思想的・政治的な世界の中で、ガリレオの科学観と人間観にたいしてそれぞれの人間諸集団および各個人がどのように対応したかという人間模様を克明に描き出すことにある。46年という長きにわたるローマへの旅を通じて得られた賛辞と激怒の結果として、ガリレオが何ゆえ断罪され最終的に自ら異端放棄の宣言(1633年6月21日)をせざるを得なかったのかを、多様な人々の証言をもとに歴史的物語として再構成する。

 本書で展開される人間模様はあまりにも複雑で、専門家でもない評者のようなひとりの読者が簡単・安易に手をださせないところではあるが、それでも大きな柱となったと思われる事柄を挙げておこう。

 かつては親身な友人で支持者でもあった教皇ウルバヌス8世が変貌し、ガリレオに激怒するにいたる経緯である。教皇ウルバヌス8世が同じカトリックのスペイン王フェリペ4世との「後ろめたい確執」から、側近中の側近でガリレオの支持者でもあったチアンポリなる人物を親スペイン分子と断定し追放するなど、疑心暗鬼になり精神的な不安状態に陥った。後ろめたい確執とは、同じカトリックの教皇であったウルバヌス8世がドイツのプロテスタントたいして共同で立ち向かわなかったとスペイン王から非難されたことである(1632年)。

 こういう最悪の政治状況下で、長年にわたり聖書との矛盾を指摘され議論百出の『対話』が出版されたのだが、それに追い討ちをかけたのが、意地悪な者たち、というよりもごりごりの敵対者たちによる『対話』についての風評の流布である。彼らは、『対話』の中に登場するアリストテレス主義者で間抜けのシンプリチオが教皇ウルバヌス8 世一族を風刺しているという説を広めたのである。いやそれがガリレオの真意であった可能性は十分に考えられるが、これでは教皇ウルバヌス8世が激怒するのも無理はない。だから、話は一筋縄ではわからないほど複雑なのではあるが、しかし、それでもガリレオが著作の表現の問題も含めもうすこしうまく立ちまわれば、教会当局はたてまえではコペルニクス説を唱えることを禁止したとしても、断罪するまでにはいたらなかったであろうとの論調も、本書からは読み取れる。要するに教皇ウルバヌス8世の面子がつぶされたのである。その背景には、ガリレオがコペルニクス説にたいするゆるぎない確信と自己の哲学(科学観)を過剰なまでに露出させたということもある。したがって、出る杭が打たれたのだとみることもできなくはない。はない。

 ともかく、ガリレオの断罪は当時の政治と人間模様が複雑に絡み合いながら断行された大きな政治的事件であった。ここにわれわれは、こうした政治的問題の有りようが哲学・科学・文学などの諸学問の妥当性や違法性までも規定してしまう事例を見るのである。政治的問題とはつまるところ、その時代の権力機構と拮抗する人間たちがいかに振る舞い生きていくかという生きざまの総体の具現化でもある。それは終着駅のない動的実体である。

 そのような政治的状況があったからこそ、ガリレオ事件はいかんともしがたく起こらざるを得なかったのであり、今日まで議論が絶えないのであろう。その意味では、政治学は最高の学問かも知れない。