論文:『原爆展論争と日本の加害責任』 1999年5月2日『湘南科学史懇話会通信』第3号
1.ここでの目的
第二次世界大戦末期米国は、日本の二つの都市、広島(1945年8月6日午前8時15分)と長崎(1945年8月9日、午前11時2分)に原子爆弾を投下した。日本がポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦が終結する(1945年8月15日)。
第二次世界大戦終結50周年にあたる1995年に、米国のワソントンDCにあるスミソニアン国立航空宇宙博物館が特別展「原爆展」を開催することにした(1992年12月21日承認)。館長のマーティン・ハーウィットと学芸員たちは、原爆搭載機エノラ・ゲイによる原爆投下と戦争終結に関する総合的な歴史的研究に基づいた原爆展を企画した。この企画にたいして米国在郷軍人協会、空軍協会、米政府議会、マスコミ、世論から「原爆展」開催に反対する猛烈な抗議運動が起こった。博物館側は企画に反対するこれらの諸団体・勢力と妥協と調整を計ろうとかぎりない交渉をもった。しかし、その苦難の交渉をもつものの企画された「原爆展」は中止に追い込まれた。そして、館長ハーウィットは辞任する(1995年5月2日)。
日本と直接に関係する米国の原爆展論争の概要を考察したあと、この論争で課題となったアジア諸国や米国と「共有する歴史認識」を作るためには、日本の国立科学博物館などの国家機関が「税金」を使って「日本の戦争加害責任展」を開催する必要性を呼びかける。
2.スミソニアン国立航空宇宙博物館
原爆展論争の舞台となったスミソニアン協会と航空宇宙博物館の概要を簡単に述べておこう。まず、スミソニアン協会は、1846年、イギリス人化学者ジェイムス・スミッソンの遺言により、彼の私財がアメリカ合衆国に寄贈されて設立された。その趣旨は「人々の間に"知識を増進し普及する"ための施設をワシントンDCに設立すること」である。この協会は、国立自然史博物館、国立アメリカ史博物館、国立アメリカ美術館、芸術産業館、国立肖像美術館、国立動物園、そして国立航空宇宙博物館など、16の施設から構成される世界最大の協会である。
これらのスミソニアン協会のなかでも特出して最も人気を誇っているのが、1976年に設立された国立航空宇宙博物館である。アメリカ国内はもとより世界中から、年間1000万人もの人々が訪れる施設で、ライト兄弟の航空機、スピリット・オブ・セントルイス号、、アポロ11号など、アメリカ航空宇宙史に残る飛行機の勇姿などを展示している。その基本的任務は「国立航空宇宙博物館は、わが国の航空および宇宙飛行の発展を永く記憶にとどめ、歴史的に興味深く意味のある航空および宇宙飛行機器を収集・保存・展示し、航空および宇宙飛行の発展に関係のある科学的機器ならびにデータの保管に努め、航空および宇宙飛行の歴史を研究するための教育的資料を提供する」(第77a条)である。
これらの国立航空宇宙博物館を含む諸施設群からなるスミソニアン協会は、アメリカ政府議会から75%もの出資を受けており、アメリカ政府議会の直轄機関といえるところである。この点は後に決定的な物議をもたらす最重要の要因となった。
3.マーティン・ハーウィット館長と主要な学芸員
そのアメリカ政府議会の直轄機関の航空宇宙博物館の館長に就任したのが、今回の原爆展論争の火付け役となったマーティン・ハーウィットである。ハーウィットは1931年5月9日、チェコスロヴァキア(現チェコ共和国)のプラハ生まれで、父親は免疫化学者、姉と義兄は生化学者という一族が科学者の家庭で育った。イスタンブールで幼年期を過ごすもの、アメリカで教育を受けさせたいという両親の希望もあって、戦後直後の1946年、アメリカに渡り、父親はインディアナ大学の教授となった。ハーウィット、16歳のときである。1953年には帰化している。このころからハーウィットは、宇宙物理学に関心を示し、ミシガン大学、MIT大学院で天体物理学を学び、博士号を受けた。その後、62年から87年まで、コーネル大学教授を勤め、専門の天体物理学で優れた研究をする一方、「宇宙開発史」にも深い関心を示し、85年から87年まで、科学史・科学哲学プログラムを主宰するなどした。宇宙開発史に関する深い知識を買われ、1987年8月17日、館長に就任する。ハーウィットは館長に就任したとき、次のように語っている。「これからの航空宇宙博物館は、子供たちが喜ぶかっこいい単なる航空宇宙の飛行機の展示ではなく、その時代と社会を背景にして社会的論争を生むようなテーマを、もっと積極的に取り上げていきたい。さらに、教育的役割も果たさなければならない」と。
ここで、ハーウィットが社会的論争を生みかつ教育的役割を果たすような展示をすることを考えるようになったそもそもの要因は何であったろうか。それを考えていこう。それは広島・長崎への原爆投下はもちろんだが、もっも大きな要因は、彼の青年時代に実際に参加したビキニ環礁での飛行機による水爆投下実験であった。1946年7月1日、アメリカは原爆の効果をテストするため、マーシャル諸島のビキニ環礁に70隻の老巧軍艦に、長崎に投下されたのと同じプルトニウム型原爆投下実験を行った。1954年3月から5月にかけて実施された「オペレイション・キャッスル」という一連の水爆実験で、日本のマグロ漁船第五福竜丸が被災した。
その後、アメリカはおびただしい原爆・水爆実験を繰り返すが、ハーウィットが立ち会ったのは、1955年のはじめに実施された飛行機による最初の水爆投下実験、いわゆる「レッドウィング」作戦である。当時24歳の物理が修士であったハーウィットは、この実験の化学部隊(放射能部隊)に配属され、水爆投下による放射能検出の任にあたるが、当時は、冷戦と軍拡競争を勝ち抜くことが至上命令であった。後に彼は次のように述べている。「いつまでも最も強く印象に残っているのは、地球の表面から半分が蒸発してしまったあの島と、エニウェトクの小島に立ってビキニの方向に目を凝らしているときに夜が昼に変わるのを見たあの明け方の空の記憶である」。この砲撃的な経験が、その後、一人の物理学徒の人生観を変えたのである。
そのハーウィット館長が原爆展の学芸員に任命したのが、スティーヴン・ソーター(惑星天文学・科学史)、グレッグ・ハーケン(科学技術術史)、トム・ウラウチ(航空宇宙飛行技術、社会科学)、マイケル・ニューフェルド(ドイツのロケット開発史、カナダ国籍)、トマス・アリソン(元米空軍大佐・実戦経験者)である。もちろん彼らは館長の意を対して原爆展の企画と実施に向けて孤軍奮闘することになるが、ここでは割愛せざるを得ない。
4.企画書(展示台本)をめぐる攻防
国立航空宇宙博物館の展示内容はすべて入念に調査・研究された企画書に基づいている。館長ハーウィットと学芸員たちは「ありったけの死力」をつくして最初の企画書をもとに展示台本を作成した。これが下記に示すような「エノラ・ゲイ」展の展示台本・第1稿「歴史の岐路:第二次世界大戦の終結、原爆そして冷戦の起源(The
Crossroads:The End of World War Ⅱ,The Atomic Bomb and the
Origining of the Cold War)」(1994年1月14日完成)である。これを作成した博物館の学芸員の目的は、「原爆投下にいたる政治的軍事的要素、広島・長崎の人々が体験した人間的悲惨、そして、1945年8月6日と8月9日の出来事が持つ長期的な意味という見地から、これらについて思慮深くバランスのとれた考察ができるよう気持ちを、来館者に起こさせることである」。ここには学芸員たちの「学問的で誠実かつ良心的な歴史観」が展開されている。私は共感して読んだ。
しかし、この学問的で誠実かつ良心的な歴史観に基づく展示台本が、かつて米国内で起きたマッカーシズム(赤狩り)ならぬ猛烈な批判をあびることになる。そして、博物館側は反対諸勢力とのたびかさなる交渉をかさねながらも、最終的な企画案第5稿「最終幕-原爆と第二次世界大戦の終結(The
Last Act:The Atomic Bomb and the End of World WarⅡ」(1994年10月26日完成)をまとめた。その趣旨は、戦後50年間、原爆投下は第二次世界大戦を終わらせる最終幕であるという、
米国世論が一般に持っている「原爆神話」をあらためて確認するものであった。
譲歩と妥協の苦渋に満ちた欠陥のある企画案であっても、それでもハーウィットは、原爆展を開催するつもりでいた。
ところが、1995年1月、事態は予想外の展開をみせた。ハーウィトはバーンスタインなどの歴史家からの指摘を受け入れかつ自らも確認し、最終展示台本の「一つのラベル」の内容を訂正するのである。これが命取りになった。そのラベルとは、原爆投下をせず日本本土(九州)侵攻にともなう死傷率がこれまでの「25万人」とされていたものを「6万3000人」に訂正した。この死傷者数の出所は1946年6月18日付けのレーヒ提督のつぎのような日記である。
「午後3時半から、午後5時。大統領は、マーシャル参謀総長、スティムソン陸軍長官、キング海軍大将、マックロイ陸軍副長官と、日本上陸作戦の必要性とその実効性について会談。マーシャル将軍、キング大将は二人とも加及的速かに九州に上陸することを主張。マーシャル参謀総長の意見として、この作戦によって失われる米軍戦死者は、作戦に必要な戦闘部隊19万人のうち、6万3000人を越えることはないだろう、ということである」
これに対して再び嵐のような抗議を受け、原爆展は中止に至る(1995年1月30日)。そして、ハーウィト館長は辞任する(1995年5月2日)。米国にとっては日本軍の真珠湾奇襲攻撃ではじまった戦争は、「原爆投下」であろうがなんであろうが、「正しい戦争」でなければならなかったのである。
5.最初の企画書(展示台本第1稿)
ここであらためて企画書第1稿の全体像をながめてみよう。次に示すのは、Judgement
at the Smithsonian, Marlowe and Company, New York 1995(邦訳『葬られた原爆展』、五月書房、1995年)に記されている企画書第1稿(展示台本)全体の項目とそれに対する私の要約である。この本はジャーナリストのフィリッピ・ノビーレが、スミソニアン協会が出版差し止めの裁判を起こす可能性があったにもかかわらず、いわばすっぱ抜いたものでものである。またこの本には、フィリッピ・ノビーレと歴史家のバースタインによって、本文を囲む形で、原爆展論争の詳細な経緯がそれぞれ「序文」と「あとがき」で記されている。両者とも米国の歴史見直し派の立場を鮮明に打ち出している点で注目される。今回の原爆展論争の火付け役となったこの企画書第1原稿は、われわれにとってきわめて貴重な内容を含んでいるので、丹念にフォローしていこう。
目 次
「ヨ ー ロ ッ パ 戦 勝 の 日」
1945年5月8日が、ヨーロッパ戦線でナチスを完全無条件降伏させた「ヨーロッパ戦勝の日」となったと簡単に述べている。
ユニット1 生 き る か 死 ぬ か の 戦 闘
原爆投下にいたる前後の過程、とりわけ、日本軍の中国侵略(1931年)、ハワイの真珠湾米軍基地奇襲攻撃(1941年)、太平洋戦争の最激戦地の硫黄島と沖縄(1945年)、核によらない人類史上最大の破壊的攻撃を受けた東京大空襲(194年3月9日)など、おもに日本側の戦時下の様子が述べられる。
・太平洋における戦闘-1945年
・戦略的状況-1945年春
・容赦なき戦闘-硫黄島と沖縄
・硫黄島-地獄の島
・沖縄-空前絶後の熾烈な戦闘
・容赦なき戦争 ・戦闘による疲労 ・日本本土侵攻の準備 ・神風特別攻撃隊
・武士道 ・死の儀式 ・菊水作戦 ・神風特攻隊と戦闘
・人間ロケット爆弾:横須賀MXY7「桜花」 ・航空宇宙博物館所蔵の「桜花」
・敵への松明 対日戦略爆撃 ・電撃戦からファイヤストームへ
・米国による欧州での爆撃作戦 ・東京への長い道程 ・炎上する東京
・空前絶後の大破壊 ・「飢餓作戦」 ・戦時下の日米国民 ・銃後の国民-米国
・民主主義の兵器廠 ・新しい米国のルーツ ・民主主義の限界 ・黄禍
・戦争終結の仕事 ・銃後の生活-日本 ・銃後の生活の厳しさ ・労働力 ・強制労働
・「Bさん」来襲 ・鬼畜米英 ・一億一心
ユニット2 原 爆 投 下 の 決 定
原爆製造過程の歴史の詳細な説明である。ベルリンで物理学博士号を取得し、ナチスから逃れ米国に亡命したハンガリーの物理学者レオ・シラードが、物理学者のアルバート・アインシュタインを動かし、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領への有名な書簡を書かせる場面からはじまった秘密原爆製造計画、いわゆる「マンハッタン計画」と原爆投下直前までの米国側の動向が述べられる。
またここでは、歴史上の議論という項目をもうけていることに注目すべきである。下記のように「ドイツへの原爆投下はありえたか?」、「米国は日本の和平工作を無視したのか?」、「米国が天皇の地位を保証した場合、はたして戦争は早期に終結したか?」、「「対日原爆投下決定」にソ連はどのくらい重要な要因であったか?」、「事前警告あるいはデモンストレーションは可能であったか?」、「原爆投下がなかった場合、本土侵攻は不可避であったか?」、「原爆投下は正しかったか?」。
これらの歴史上の議論を設定すること自体が、とりわけ米国在郷退役軍人、空軍協会、マスコミには「許せない」ことがらであった。これは「原爆投下こそが戦争を終結させ、何十万の米国人はおろか日本人をも死なせないですんだのだ」という米国の公式見解を「修正」するものだとされ、博物館側は「左翼修正主義者」とレッテルを張られた。まさにマッカーシズムの嵐のなかに投げ出され、激しい批判を受けることになる。
なお、下線のあるのは、私が付記したものである。
・原爆開発決定 ・アインシュタイン書簡 ・レオ・シラード(1898-1964)
・突貫計画の開始 ・ドイツの原爆製造中止
・「マンハッタン計画」-工学技術上の巨大事業 ・最高機密地区
・レスリー・グローブス(1896-1970) ・J・ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)
・軍事目的使用の期待 ・歴史上の議論「ドイツへの原爆投下はありたか?」
・原子爆弾「ファットマン(ふとっちょ)」 ・核分裂爆弾-その構想は?
・「人類の歴史上存在したことのない最も恐ろしい兵器」 ・トルーマンと原爆
・ハリー・S・トルーマン(1884-1972)
・ヘンリー・L・スティムソン(1867-1950)
・日本の和平工作 ・ソ連による和平斡旋? ・天皇裕仁(1901-1989)
・歴史上の議論「米国は和平工作を無視したか?」
・「天皇は唯一の権能としてとどまる」
・ジョゼフ・グルー(1880-1965)
・歴史上の議論「米国が天皇の地位を保証した場合、はたして戦争は早期に終結したか?」
・ソ連の要因 ・ソ連と太平洋戦争 ・ソ連と原爆の秘密
・「ソ連に協調するよう説得する」 ・ジェイムス・F・バーンズ(1879-1972)
・歴史上の議論「「対日原爆投下決定」にソ連はどのくらい重要な要因であったか?」
・目標の選定 ・スティムソン、グローブス、そして京都を目標から外すこと
・「日本への事前警告」
・核兵器と民間人爆撃
・「日本に対するこのような攻撃は正当化しえないだろう」 ・軍部の原爆投下反対
・歴史上の議論「事前警告あるいはデモンストレーションは可能であったか?」
・日本本土侵攻ー巨大な沖縄戦 ・「ダウンフォール(殲滅)作戦」ー本土侵攻
・ジョージ・C・マーシャル(1880-1959) ・米兵戦死者50万人?
・歴史上の議論「原爆投下がなかった場合、本土侵攻は不可避であったか?」
・トルーマン・スターリン・ポツダム、そして原爆
・「我が死神、世界を破滅するものとなれり」
・トルーマンが原爆についてスターリンに話す
・「時期が来たら、日本の息の根を止めよう」 ・日本へ最後通告
・対日原爆投下への公式決定
・歴史上の議論「原爆決定は正しかったか?」
ユニット3 原 爆 投 下
原爆の輸送にいたるまでの歴史的過程の説明である。第二次世界大戦で最大の破壊力をもつB29戦闘機の開発製造と役割の歴史、ポール・ティベッツ大佐ひきいる約2000名の世界最初の原爆攻撃軍第509混成爆撃隊の創設過程、そして原爆搭載機「エノラ・ゲイ」(ティベッツの母親の名前)が広島に原爆投下するまでの様子が詳細に述べられる。ティベッツは戦争を一瞬のうちに終結させた「英雄」として迎えられる。
そして、トルーマン大統領は原爆投下直後の1945年8月6日、次のような声明を発表する。日本に投下した爆弾は米国の有能な科学者が開発した「原子爆弾」であること、ポツダムで、日本人を完全な破壊から救済するため、日本への最後通告(1945年7月26日)を日本が拒否したため投下したこと、さらに「世界平和」を創るために原子力がいかに強大で効果的であるかを力説する。原子力開発の始まりである。
・B29 30億ドルの賭け ・超爆撃機の製造計画 ・空気力学の限界を伸ばす・技術上の賭け
・生みの苦しみ ・エンジンの危機 ・超爆撃機の最先端工場 ・B29と日本爆撃
・新空軍の創設 ・搭乗員教育 ・カンザスの戦い ・アジアにおけるB29の初期作戦
・中部太平洋の基地 ・爆撃機の前にブルドーザー
・マリアナ諸島におけるB29の初期作戦
・志願兵飛行士 ・危険な仕事 ・損傷した爆撃機の避難場所 ・戦術の変更
・M-50型焼夷弾
・日本焼 ・世界最初の原爆攻撃 ・原爆搭載機の指揮官の選定
・ポール・W・ティベッツー独立自尊の操縦士 ・第509混成爆撃隊の創立
・第393爆撃大隊
・第393隊の部隊記章 ・トム・クラッセンと第393部隊
・新奇な部隊ー憲兵隊
・第一兵 大隊 ・第一兵 大隊 未来の英雄
・ティベッツの私的空軍 ・旧友 ・レーダー
・ウェンドーバー空軍基地-「時代遅れの基地」
・ウェンドーバー到着
・「アルカトラズへようこそ」 ・ウィリアム・"ディーパーク"パーソンズと原爆
・「パンプキン」作戦 ・原爆の衝撃波から逃れる・気晴らし・キューバのバチスタ飛行場
・「アンタッチャブル」 ・海を越えてー第509混成爆撃機テニアンへ
・投爆訓練諸島ーロタ、トラック、マルクス諸島 ・「帝国」への爆撃ー1945年の日本
・楽園のなかの緊張 ・救命訓練
・散歩 ・勝利のための待機 ・空の要塞 B29「エノラ・ゲイ」
・「エノラ・ゲイ」のマーク ・「エノラ・ゲイ」の復元 ・「エノラ・ゲイ」はいつ組み立てられ るか
・原子爆弾「リトル・ボーイ」 ・作戦任務 ・特殊任務13号作戦ー最初の原爆攻撃
・8月4日ー最初の説明会 ・代替要員 ・「気味の悪い夢」 ・保護メガネ
・「リトル・ボーイ」がテニアン
・「慎重を要する手順」爆弾搭載・8月6日午前2時35分
・完璧な離れ技 ・起爆装置作動 ・原爆投下 ・広島の最初の原子爆弾
・英雄の帰還 ・史上最大の出来事 ・トルーマン大統領の原爆投下に関する8月6日声明
・16号作戦 ・追加の爆弾 ・小倉に向かって ・爆弾の調整 ・失敗した合流
・爆撃されなかった小倉 ・第2回目の原子爆弾ー長崎に
ユニット4 爆 心 地
観客の視線はグランド・ゼロつまり原爆投下された広島・長崎でなにが起こったかに注がれる。まず原爆投下以前の広島・長崎の歴史と原爆投下時間を示す文字盤時計、爆発の規模、学童の制服、女生徒の弁当箱、死にかけている人々の写真などの両市の惨状が示される。死にいたる脅威としての放射能による原爆症とその原爆被害調査のため、米国が1947年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を発足させ、日米合同の放射線影響研究所が作られたことなどを述べる。なお、企画書から離れるが、最後の米軍当局の原爆被害調査に関しては、きわめて犯罪的な調査であったことを述べておきたい。日本への原爆投下は人体実験であり、被爆者はモルモットとされた。その非難を回避するため日米共同の放射線影響研究所を作るものの、被害調査にあたった日本の科学者たちは、自国の被爆者の調査データを米軍当局に提供した。日本は原爆加害国となった。これについては笹本征男氏が『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国になった日本』(新幹社、1995年)で詳細に論じているので是非参照されたい。
・原爆以前ー戦時下の2都市 ・広島ー軍事都市 ・戦時下の広島
・1945年8月6日 午前8時5分 広島 ・長崎ヨーロッパの窓 ・戦時下の長崎
・1945年8月6日 午前11時2分 長崎 ・1945年8月10日
長崎
・「雪崩のように押し寄せる光」 ・言語に絶する最初の一秒間 ・ピカッ!
・凍結した時間 ・被爆者 ・壊滅した都市 広島と長崎
・広島の最初の30分
・長崎の最初の30分 ・火事嵐ーファイアストーム ・炎の海 ・広島市立第1高等女学校
・粉砕された声明 ・1945年8月7日から10日の広島と長崎 破壊の光景 ・大混乱と共に
・生存者についての話 ・死者の数 ・死に至る脅威
放射能 ・放射性投下物「黒い雨」
・爆弾からの第一次放射能
・残留放射能 ・放射能と生きている組織体
・「マンハッタン計画」の科学者たちと放射能の影響 ・「原爆症」 ・謎が解ける
・広島と長崎における短期間の死亡率 ・広島と長崎の放射能の長期的影響
・生存者と悪性腫瘍 ・原爆傷害調査委員会 ・禎子と千羽鶴
ユニット5 広 島 と 長 崎 の 遺 産
原爆投下後のソ連の対日宣戦布告、天皇の玉音放送による敗戦降伏宣言、戦後冷戦構造下の軍拡競争とそれに付随した核廃棄物の問題、非人道的な人体実験に公式に言及し、最後に冷戦が終結した現在における核軍縮(核廃絶と核抑止力)に関して揺れ動いてきた米国側からみた国際政治の動向が手短かに述べられる。
・日本降伏 ・広島そしてソ連の対日宣戦布告 ・天皇の介入
トルーマンと天皇問題
・3発目の原爆は製造されず ・玉音放送 ・冷戦と軍拡競争 ・国際管理の失敗
・増加する原爆と威力を増す原爆 ・「福竜丸」の航海
・反核運動の高まり
・連中はみんな発狂したのじゃないか? ・「発狂」した世界 ・核廃棄物と人体実験
・軍備制限? ・冷戦終結-真の核軍縮の開始 ・核拡散と核のテロリズム
・「核廃絶」か「核抑止力」か、板挟みの50年
6.8人の展示諮問委員会(1994年2月)
ハーウィットをはじめとする学芸員たちよる上記の企画書(展示台本第1稿)「歴史の岐路-第二次世界大戦の終結、原爆そして冷戦の起源」の完成を受けて、ハーウィットは、この企画書に基づいた展示をスムーズに実現するためにいかに示す展示諮問会をもうけた。そのメンバーは次の人物である。エドウィン・ビアス:国立公園局主任歴史官。真珠湾襲撃50周年記念行事に関わる。
エドワード・T・ニネンソール:ウイスコンシン大学教授(宗教学)。戦争と戦場を記念する方法を研究。バートン・J・バーンスタイン:スタンフォード大学教授(歴史学)。原爆投下決定研究の第一人者。マティン・J・シャーウィン:ダートマス大学国際理解センター所長。『破滅への道-原爆と第二次世界大戦』の著者。ヴィクター・ボンド:ブルックヘイヴィン国立研究所の放射線物理学者。リチャード・ハリオン:米空軍史センターの主任戦史官。入江 昭:ハーヴァード大学教授(歴史学)。米国歴史学会元会長。リチャード・ローズ:原爆・水爆の起源・開発の歴史学者。『原子爆弾の製造』(ピューリッツァー受賞作品)の著者。
そうそうたるメンバーである。このなか一人、ハーヴァード大学の入江 昭教授は、1994年2月7日に開かれた諮問委員会へ次のような書簡を送っている。
「展示計画書の検討をいたしました。・・・全体の記述は慎重に書かれており、論争のある出来事の解釈をできるだけ思慮分別をもって提示しようという執筆者の明らかな意図を反映していると思われます。戦争の起源、日米両国の戦時中の憎しみ、日本の都市への焼夷弾攻撃、原爆投下へつながったさまざまな決定(ただし、この文書では当時明確に「決定」と断定しうるものはなかったとされており、私も同意見です)、その軍事的・政治的・道義的意味、原爆投下による直接・間接の被害、核時代の到来がもつ長期的な意味などに関する記述には、まったく問題がないと思います。この文書の内容に異議を唱えるのは、日本でも米国でも、無責任な狂信者ぐらいのものでしょう」
しかし、ハーウィットはこれらの展示諮問員会のメンバーは自分の学問上の理論をひたすら披瀝するだけ、展示をいかに進めるかという肝心なことに具体的な力にはならなく失望したと、述べている。その中でも特筆すべきことは、リチャード・ハリオン(米空軍史センター主任戦史官)などは、最初の展示台本ができたときには、企画書を書いた学芸員のトム・クラウチに「すばらしいできだ」と絶賛しておきながら、博物館に対する批判の嵐が吹きはじめや否や、その態度を逆転させて、博物館批判の急先鋒に回ったことである。
7.原爆展論争の対立構造
ともかく、こうしてできあがった企画書(展示台本第1稿)であるが、これを巡って、主宰者の航空宇宙博物館側は、米国在郷軍人協会、空軍協会、マスコミ、世論等々の激しい批判を受けることになる。その経緯については詳細をさけるが、主な論点だけを示しておこう。
(1)博物館側の主張(館長ハーウィットの要約)
博物館は歴史的なストーリーを語ることだ。歴史とは「実際に起こった出来事についてのストーリーであり、博物館はそうした歴史的な出来事を正確に、事実に即して描く責任がある」。その原爆展のような重大な歴史的な事件の歴史を語るにあたっては、とりわけ「学問的な正確さ」、「バランス」、「受けとられ方」に慎重でなければならない。
「学問的な正確さ」とは、事実についての情報に関わるものである。事実、数字、名前、年齢、日付、重量、寸法などである。大規模な展示では、正確を期することは容易ではない。最高の教科書や百科事典と同程度でなければならない。「バランス」とは、展示する事実と展示物の選択に関わることである。原爆展論争の大きな原因は、エノラ・ゲイを見る際、まったく異なる視点が二つあった。大学の歴史家と軍の戦史士官の歴史家である。この二つの歴史家の合意は得られなかった。「受け取られ方」とは、正確さ、バランスとは対照的に、学芸員が展示にはめ込むものでなく、むしろ来館者が「持って帰るもの」である。つまり、展示総体が来館者に「学ぶ」こと「教え」ることを意図したものでなければならない。
そして、最後にハーウィットはこう述べている。
「エノラ・ゲイは単なる爆撃機でもなければ、単なるB29爆撃機でもなく、世界で初めて原爆を投下した爆撃機だった。その原爆は瞬時に10万人近い人間を殺したのだ。これは歴史を歪曲しないかぎり削除できない事実なのだ。他方で、この歴史的事実もまた歴史の文脈に位置づけなければならない。そのためには、まず枢軸国によって、次いで連合国によって行われ、やがて広島へと至った戦略爆撃の歴史を展示しなければならない」。
(2)米国在郷軍人協会、空軍協会、米議会、米マスコミ、世論からの猛烈な批判の論点
・原爆投下によって、戦争が早期に終結し、本土侵攻作戦で予想された「50万人から100 万人」の米国人が救出された。戦闘に関わった退役軍人を公然と侮辱するものである。
・日本の戦後の発展と繁栄は原爆投下によってはもたらされた。
・「エノラ・ゲイ」展は祝賀会展とすべきで、原爆投下の是非を論ずるべきではない。
・博物館側の歴史解釈は「左翼修正主義集団」であり、まるで学芸員は「反核運動家」で ある。
・太平洋戦争で残虐行為を行った日本をむしろ被害者・犠牲者としてを描いている。
・国立博物館で原爆投下の是非を問うこと自体が、日本の真珠湾奇襲攻撃を正当化するも のだ。
・原爆投下がソ連を牽制するための原爆外交に使われたとも考えられるとは、もってのほ かである。
・そもそもこの戦争は日本が仕掛けたものである。
・日本はポツダム宣言を無視し、天皇のために最後のひとりまで戦う野蛮民族であった。
8.マーティン・ハーウィットの人柄
マーティン・ハーウィットは何度も来日しており、天体物理学者として多くの日本人の同業の物理学者との交流もあり、大変な親日家でもある。私は、その生きた歴史的人物と私的に交流する絶好の機会に遭遇した。1996年11月8日、ハーウィットが来日し、東京大学教養駒場校舎で講演(「拒絶された展示」→文献参照)を行った。その翌日の9日、私は横浜の中華街で、前日の講演を主催した佐々木 力氏(東京大学)と東大教養学部の学生3人とともに、長時間にわたり歓談した。話題は前日の講演の内容とハーウィット氏の個人的なことがらが中心であった。私としては、あの大論争を仕掛けた人物はどんな人なのだろうかと思っていた。長い歓談を終えた深夜の帰路、彼のホテルまで送った私はなにかこころがほっとするような気分だった。というのは、かれは素朴誠実で良心的な天体物理学者の典型そもののような人だった。
その端的な証拠を示そう。スミソニアン国立航空宇宙博物館が巻き込まれた政治の世界の泥臭さを、いまだ経験していない若い3人の学生に対するかぎりなく穏やかでやさしいまなざしは、終始、変わることがなったことだけをあげておけばいいでしょう。それがすべてを物語っている。
9.結論・・・日本の国立科学博物館で「日本の戦争加害責任展」開催を求める。
展示諮問委員会のメンバーで原爆投下研究にくわしいスタンフォード大学のバーンスタインも指摘していることだが、今回の原爆展を企画した館長ハーウィットと学芸員たちは、ありったけの学識をこの展覧会にそそぎ込み、エノラ・ゲイに焦点をあてながら、なによりも原爆使用の決定、第二次世界大戦に原爆が使用された全体状況、そしてこの原爆攻撃が戦後の歴史に与えた影響を説明するつもりであったが、無惨にも破れはてた。しかし、彼らが米国社会に大論争をつくり出した企画への猛烈な拒否反応は、逆説的にみると、米国社会自身がこころ深く「原爆の非人道性」をいだいていることを示していることにほかならず、また原爆が平和をもたらしたという「原爆神話」を無自覚に信じてきた米国社会と市民に熟考すべき大きな課題を投げかけたのである。
1997年8月22日、前館長となったハーウィットは、東京杉並区のヴァースティ・ホール(全国大学生協連)で行った講演「アメリカ、原爆、そして歴史の教訓」を次のように締めくくっている。
「歴史を真摯に受けとめようとするなら、まず自国の過去に-英雄的な側面だけでなく、必要な場合には、その不快な側面にも-目を向けなければなりません。これは決して容易なことではありません。私はそのような展示をワシントンで行おうと試みて、挫折しました。しかし、私はふたたびそれを行おうとする人々が多いことを知っています。そうした企画を実現するには、慎重に計画を立てて、着実に事を進めなければなりません。また、成功を収めるためには政治的な力も必要としますが、その力、戦争をなくさなくてはならないとする確信と、すべての国が自国の歴史を調査し、それを人間として可能な限り正確かつ客観的に国民に展示することができない限り、戦争がなくなることはないという固い信念とにもとづくものでなければなりません。これを最初に成し遂げるのがどんな国であろうとも、その国は戦争をなくし、恒久の平和を構築するための大きな一歩を踏み出すことになるのです。これは重要な課題であり、単に一つの国ではなく、私たちすべてが取り組むべき課題なのです」。
原爆投下をめぐる日米国民の歴史認識ギャップを埋めることを考えるさい、われわれはさきのバーンスタインがNHKのインタヴユーに次のように述べていることに真摯に耳を傾けなければならない。
「いまこそ日本政府は、日本の過去の行為を認識し、戦争のほとんどの部分を天皇が支持したという
ことについても率直に論議して、悪質な軍国主義者だけを責めることができないという認識を持つべきです。そして1930年代と40年代の戦時下の日本社会とどのように関係があったかということについて考えるべきです。そして、アメリカ人が戦後、さまざまの人間に対して細菌戦争を行った日本の指導者を訴追しなかったことは何を意味するかとういうことだけでなく、戦争をおし進めた人々が戦後日本の高い地位にのし上がるのを日本自身が許してきたことは何を意味するのかついても考えるべきです。・・・今こそ日本の歴史学者が原爆投下についてもっともっと、そして天皇や終戦についてもっともっと研究するべきだと思います。終戦、日本政府部内の分裂など、資料を十分に駆使して書かれた日本史が非常に少ないのは、残念なことです。どこかに存在しているのにこれまで公開されることがなかった資料について、日本政府が返還を請求したり、公開の努力をしたりしたらすばらしいことでしょう」。
ハーウィットとバーンスタインの言葉は、日本に向けられていることは明らかである。われわれはこの要請に真摯に応える義務がある。今回の論争の過程をみると、被爆地の惨状と核廃絶運動を訴える広島・長崎の声がいっこうに米国社会に通じないことである。
まず第一点は、戦後一貫して核の力に依存する戦略いわゆる「核抑止力論」で世界を封じてきた国からみれば、反核、核廃絶の運動は平和運動どころか、むしろ反米的だと見られてきた歴史があるからである。
第二点は、日本政府は「唯一の被爆国」をよりどころに核廃絶を叫びながらも、国際司法裁判所における公式陳述では、「核兵器の使用は国際法に違反しない」という、とんでもない自己矛盾した政治的立場をとっているからである。だから、中国やフランスの核実験を批判するのは矛盾だと逆に批判されるのはとうぜんのことである。
第三点、20世紀末にあって、原爆展を封じ込めた米国社会の世論と日本社会の世論が歴史を「共有」するためには、展示台本批判の勢力がなんどもなんども繰り返し叫んでいた日本のアジア侵略の戦争責任問題を徹底的にあらいだすことだ。これまで市民運動や一部の歴史家たちが培ってきた、731細菌戦部隊、南京大虐殺、従軍慰安婦、強制連行、さらに、戦後においては、次に講演される笹本氏の研究が明らかにしているように、米国の核戦略下で「原爆加害国」となった経緯の実証的研究などを集約することだ。そして、これら戦前・戦後の研究と運動の成果を、日本政府直轄の国家機関、国立科学博物館などで「税金を使って」、総合的な日本版「日本の戦争加害責任展」を開催し、それを内外に「可能な限り正確かつ客観的に」明らかにすることだ。これなくしては、米国はもちろんアジア諸国との歴史の共有はあり得ない。米国の原爆展論争のさじはこんどはわれわれに投げられたのである。
年表(『拒絶された原爆展』に一部追加して転載)
1945
08/06 第509群団指揮官ポール・ティベッツ大佐、エノラ・ゲイ号を操縦し、広島へ原爆投下(ウラニウム型原爆「リトルボーイ」)。
08/09
チャールス・スイーニーが操縦する原爆搭載機「ボックスカー」、長崎へ原爆投下(プルトニウム型原爆「ファットマン」)。
1949
07/03
空軍、エノラ・ゲイ号をスミソニアン協会に譲渡。
1953
12/02
エノラ・ゲイ号、メリーランド州アンドルーズ空軍基地へ最後の飛行。
1960
08/10
国立航空宇宙博物館のスタッフがアンドルース空軍基地でエノラ・ゲイの解体を開始。
1961
07/21
解体されたエノラ・ゲイ号、メリーランド州にスートランドある国立航空宇宙博物館の保管施設に移送される。
1984夏 第509群団の元隊員ドナルド・C・レールとフランク、ステュアートが「エノラ・ゲイ修復協会」を結成し、エノラ・ゲイの修復運動に乗り出す。
1985 初
国立航空宇宙博物館、エノラ・ゲイの前部胴体の修復を開始。
1986 第二次大戦の退役軍人ウィリアム・A・ルーニー、「エノラ・ゲイを誇り高く展示する」ための手紙作戦を開始。
1987
08/17
マーティン・ハーウィット、国立航空宇宙博物館に就任。
10/26
国立航空宇宙博物館研究諮問委員会、エノラ・ゲイの展示の可能性を議論
1988
04/08 第二次大戦復員軍人ベンジャミン・A・ニックスエノラ・ゲイ号の修復と展示とを求める運動を開始。
06/10
ポール・ティベッツ将軍とフランク・ステュアート、博物館を訪れ、エノラ・ゲイの修復を加速化させるための方策を協議。
1998/夏
第二次大戦の退役軍人、エノラ・ゲイの修復を促進させるための募金活動を開始。
1989/秋 16ヶ月にわたる「第二次世界大戦の戦略爆撃」に関する講演、シンポジウム、
映画上映を開始。
1990/秋
「第二次世界大戦」展の展示室の外で、エノラ・ゲイ修復と同機の任務に関す
る ビデオの上映を開始。
1991
02/04
主任学芸員マイケル・ニューフェルド、「エノラ・ゲイをモールで展示するた
めの企画書」を提出。
09/05
博物館分館建設に対する議会の承認を得るため、展示計画は一時棚上げされる。
1992
07/23 第二次大戦の退役軍人W・バー・ベネット・ジュニア、「エノラ・ゲイを誇り
高く展示する」ための手紙作戦を開始。
08/05
国立航空宇宙博物館エノラ・ゲイの展示に関して国際交流基金との接触を開始
12/21
エノラ・ゲイの展示計画、正式の承認される。
1993
03/29
国立航空宇宙博物館スタッッフ、「第二次世界大戦終結50周年記念委員会」専務理事C・M・キックライター将軍およびそのスタッフと会見。
04/01
ハーウィットおよび航空学部長トム・クラウチ、日本訪問。
05/04
博物館、展示に対する外部のからの財政援助を求めないことを決定。
06/10 国立航空宇宙博物館、展示計画「50年を経て」をスミソニアン協会のアダムス長官に提出。
08
ベネット、ルーニー、およびレールはエノラ・ゲイの「誇り高い展示」を求める500人以上の退役軍人の署名を集める。
11/19
モンロー・ハッチ将軍(米空軍、退役)および空軍協会のジョン・コレル、展示計画に対する協議のため来館。
1994
01/14
航空宇宙博物館において「エノラ・ゲイ」展の展示台本第1稿「歴史の岐路-第二次世界大戦の終結、原爆そして冷戦の起源」
02/07
外部委員会からなる展示諮問員会によって展示台本の検討が行われる。
03
空軍協会は、「この資料はいまだ適切な形にはなっておりませんので、今回は他への回覧をなさらないよう」にとの博物館の要請にもかかわら ず、展示台本を広い範囲に配布する。
04/01
空軍協会発行の『エア・フォース』誌、「航空宇宙博物館における戦争物語」を掲載.
04/13 展示チーム、軍所属の戦史官たちと会見。
04/26
ハーウィット、展示のバランスを見直すための「タイガー・チーム」を任命。
05/26 ティベッツ将軍と第509群団元隊員がガーバー施設でテレビ番組の取材に応じる。この機会に展示への協力を要請。
05/31
アダムズとハーウィット、展示のタイトルを「最終幕-原子爆弾と第二次世界大戦の終結」とすることで合意。
06/09
ティベッツ将軍、計画されている展示を「中傷のかたまり」と非難
07/13
国立航空宇宙博物館のスタッフ、退役軍人団体の代表者に展示計画について説明。
08/10
コンスタンス・ニューマン副館長とハーウィットは、連邦議会下院議員の代表者と展示計画について会談。24名の下院議員、「懸念と失望」を 表明する書簡をアダムス長官に送る。
09/03
ニューマンとハーウィット、ミネソタ州ミネアポリスで開かれた米国在郷軍人会全国中央大会に出席。
09/08
アダムス長官、ヘイマン次期長官、ニューマン、およびハーウィット、「ワシントン・ポスト」紙論説主幹らと会談。
09/19 I・マイケル・ヘイマン、スミソニアン協会長官に就任。
09/21
ニューマン、ハーウィット、および展示チームのメンバーは、展示台本を見直すために米国在郷軍人会と協議。その後4週間の間にさらに2回 の協議。
09/22
スミソニアン協会と米国在郷軍人会は共同記者会見を行い、「展示台本と関連するすべての資料の見直しを行うため両者が協議すること」を 発表。連邦上院議会、「エノラ・ゲイ」展に対する懸念を表明する拘束力のない決議を可決。
10/03
展示台本の最新稿が完成し、退役軍人団体の代表者へ送付。
10/07 ヘイマン、展示台本の最新稿を読み、2、3の小さな変更を支持。
10/13
アメリカ歴史家協会理事会、スミソニアン協会を政治的介入から守るよう決議を採決。
11/17
「友和会」の呼びかけで歴史学者および作家の代表が、博物館スタッッフと会談。
11/22
エノラ・ゲイの前部胴体、メリーランド州スートランドから国立航空宇宙博物館に搬入される。
12/06
展示導入部の写真展「太平洋における戦い」の第一稿完成。
12/13 7名の下院議員、「エノラ・ゲイ展に関するスミソニアン協会の扱いに対する深い失望」を表明。
1995
01/04
米国在郷軍人会全国総会長ウィリアム・デトワイラー、展示を中止させ、議会の聴聞会を開催させるための詳細な作戦計画を、総会長諮問 委員会に送付。
01/09
ハーウィット、米国在郷軍人会のヒューバート・ダグリー宛の手紙で、「侵攻作戦の死傷者数」に関するラベルの変更を通知。
01/18 米国在郷軍人会。展示の中止を要求。
01/24 81名の議員、ハーウィットの辞任と展示に関する聴聞会開催を要求。
01/26
軍事史学会会長、スミソニアン協会評議員会議長を務めるレンクィスト最高裁長官宛に、展示を中止しないよう求める書簡を送付。
01/27
アメリカ歴史協会の過去3代の会長もまた、最高裁長官宛に、展示を中止しないよう求める書簡を送付。
01/30
ヘイマン長官、「最終幕-原子爆弾と第二次世界大戦の終結」展を中止し、それに代えて歴史的文脈抜きの小規模な展示を自らの手で行う ことを発表。
04/19
アン・アーバー・フォーラム「歴史を提示する-民主主義社会における博物館」をミシガン大学で開催。ハーウィットは参加を拒否される。
05/02 ハーウィット、スミソニアン協会を辞任。
05/11
合衆国上院においてエノラ・ゲイ展に関する聴聞会開催(博物館を糾弾)。
参考文献
■Video Film , Remembering Los Alamos World War Ⅱ, Los Alamos
Historical Society, 1993.
■Viedo Film , ENOLA GAY :THE FIRST ATOMIC MISSION ,The
Greenwich Workshop, 1995.
■Robert J. Lifton and Greg Michell , Hiroshima in America .
Fifty Years of Denial ,
G.P Putnum's Sons, New York , 1995.(『アメリカの中のヒロシマ』上、下、大塚 隆訳、岩波書店、1995年11月、12月)
■フィリップ・ノビーレ/バートン・J・バーンスタイン『葬られた原爆展-スミソニアンの抵抗と挫折』(三国隆志他訳、五月書房、1995年9月)
■笹本征男『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国になった日本』(新幹社、1995年10月)
■『科学と社会を考える土曜講座通信』第18号、1995年12月
■NHK取材班編集執筆『アメリカの中の原爆論争-戦後50年、スミソニアン展示の波紋』(ダイヤモンド社、1996年2月)、95年6月12日放映。
■猪野 修治「原爆展論争を整理する」(科学と社会を考える土曜講座編『論文集』第Ⅰ集、1997年5月).
■Martin Harwit:An Exhibit Denied -Lobbying the History of
Enola Gay (Copernics, New York,1996)
(山岡清二監訳・渡会和子/原純夫訳『拒絶された原爆展-歴史のなかの「エノラ・ゲイ」』、みすず書房、1997年7月)
■ 「拒絶された展示」(『みすず』、1997年1月)
■
「アメリカ、原爆、そして歴史の教訓」(『みすず』、1997年10月)
■トム・エンゲルハート/エドワード・T・リネンソール『戦争と正義-エノラ・ゲイ展論争から-』(島田三蔵訳、朝日新聞、1998年8月)
■猪野修治:「紹介」笹本征男『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国となった日本』(『化学史研究』Vol.23.No.1,1996年)
■油井大三郎「戦争の記憶と歴史の壁」(義江彰夫/山内昌之/木村凌二編『歴史の対位法』、東京大学出版会、1998年4月)
■佐々木 力「科学と歴史・歴史と科学」(同上)
■ 「核の政治学」(『科学』岩波書店、1999年3月号)