論文:日本の戦後民主主義とアメリカ 2002年5月『どよう便り』第54号掲載

はじめに
 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが発生した。ブッシュ政権はテロ撲滅の名のもとに報復戦争を開始した。日本の小泉政権は間髪を入れず米軍の報復軍事戦略に追随し自主的に自衛隊を派遣した。小泉政権はいとも簡単に戦争放棄の理念をもつ日本国憲法をかなぐり捨て戦争国家に走り出した。
 同時多発テロが発生した前後、私はジョン・ダワーの著作『敗北を抱きしめて』上・下(岩波書店2001年3月21日、5月30日)を丹念に読んでいた。本書の読み込みを進めてみると、小泉政権の米軍追随の政治姿勢が手に取るように理解できた。第二次世界大戦終結57年を経ても、日本の政治・文化・思想は米軍の占領期に形成されたものと全く同じである。具体的には象徴天皇制、保守勢力と官僚制の温存であり、「下からの革命」を絶対に容認しない政治制度の確立である。
1945年生まれの私のこれまでの人生は、自我形成以前から青年時代を経て現在の中年中期にいたる精神文化をジョン・ダワーが述べる占領期の日米合作の政治・文化・思想を無条件に吸わされて生きてきた。つまり、私の歴史認識には戦後日米関係の精神文化が空気のごとく深く染み込んでいるのである。そこで私は、小泉政権が戦争国家の仲間入りを果たした基本的な政治思想的源流はす
でに占領期に作られた日米合作の政治・文化・思想にあると断定した。そこで私が主宰する「湘南科学史懇話会」(第19回)で、「討論:日本の戦後民主主義とアメリカ」を企画したのである。また、私の趣旨に賛同された「科学と社会を考える土曜講座」(代表上田昌文氏)[第137回]の共催となった。
討論会は、上記のダワーの著作『敗北を抱きしめて』をたたき台にした。日本の敗戦直前、日本とアメリカで生まれた二人の研究者に登場を願った。日本側から占領史研究者・笹本征男氏(市民歴史家)、アメリカ側から日米比較論研究者・ロバート・リケット氏(和光大学)に登場してもらい、活発な議論を展開してもらった。但し議論では主宰者の立場から「日米合作の談合」を硬く禁じてもらった。本稿ではその報告を兼ね、多少の論点から議論する。

1. ジョン・ダワーの同時多発テロ報復戦争批判
 はじめにジョン・ダワーをすこし紹介しておきましょう。1938年、米・ロードアイランド州生まれ。アマースト大学を卒業。金沢の女子短期大学で英語を教えた体験から、文学志望を変え、日本の戦前・戦後史に関心をむける。帰国後、ハーバード大学で日本歴史研究で博士号取得。カリフォルニア大学を経て、現在、マサチューセッツ工科大学教授。著作には『吉田茂とその時代』上・下(TBSブリタニカ、1981年邦訳出版)、『人種偏見-太平洋戦争に見る日米摩擦の底流』(猿谷要、斎藤元一訳、TBSブリタニカ、1987年)などがある。『敗北を抱きしめて』は2000年度ピュリ
ツァー賞受賞、第1回大佛次郎論壇賞特別賞受賞作品である。ちなみに、お連れ合いは靖子氏(日本人)である。
 アメリカのナショナリズムにとらわれない歴史家ダワーの名前を私が発見したのは、1995年、アメリカの国立航空宇宙博物館(マーティン・ハーウィット館長・当時)が企画した「原爆展」論争の内実(いわゆる米国社会を二分した歴史認識をめぐる大論争)を追いかけていたときである。この論争は博物館側の挫折に終わったことは記憶に新しい。この論争に歴史家として積極的に関わったダワーの見解を簡単に要約して紹介する。
 
 天皇と日本の指導者は、沖縄決戦の指示を含め戦争を引き延ばした責任において曖昧である。一方、アメリカはアジアで植民地主義を復元し、ベトナムでの行為を謝罪していない。アメリカはアジア諸国の軍事支配の必要性から天皇を免責し保守勢力と手を組むことで戦争責任を曖昧にし過小評価したのである。(『朝日新聞』1995年12月4日)

 この発言から5年後、ダワーはアフガニスタンに対する報復爆撃をどう見ているのであろうか。『敗北を抱きしめて』で第1回「大佛次郎論壇賞特別賞」を受賞した直後、ダワーは特別寄稿して手厳しいアメリカ批判を展開した。まずダワーは、ブッシュ政権のアメリカはライバルのいない「理性の声を聞かない」巨大国家となった。自由と道徳の国家という言葉は軽蔑語になり、もはや「他国を犠牲にする帝国主義国家」となったと自国を断罪する。アフガニスタン報復爆撃以後のアメリカの軍事作戦の展開を見ていると、その戦略的思想はダワーの見解と見事に一致するので詳細に読んで考察しよう。 

 アメリカの政治勢力のうち最も保守・右翼的なブッシュ政権は、9月11日以前か
ら、その牙をむき出しにした。その主要政策は、富裕層への大幅減税、理由なき軍備増強とエネルギー産業への支援、死刑愛好、銃規制反対、そして環境政策の蔑視等々である。
 9月11日以後はこの時を待っていたとばかり「反テロ戦争」の名の下に、市民的自由、司法手続きを骨抜きにする政策を開始したばかりか、独裁的国家の「即決裁判」に近い特別軍事法廷の創設を提案した。自らをアメリカ主義者と自称する超タカ派が主要ポストにつけたブッシュ政権は、人権を無視し、国連など鼻であしらい、弾道迎撃ミサイル(ABM)制限条約の一方的破棄、そして地球温暖化対策の京都議定書の破棄などの政策を取った。
 こうしたアメリカ単独行動主義は次のターゲットはイラク、シリア、ソマリア、イエメン、レバノン、パレスチナ解放機構の名前を公然と上げている。まさに帝国主義国家そのものである。
(『朝日新聞』夕刊、2002年1月29日)

 この原稿を書いている現時点(2002年4月3日)で世界の政治を見ると、ダワーの政治的見識がまさに現実のこととなっている。その端的な事態はイスラエルのパレスチナ解放機構攻撃を容認する政治姿勢である。イスラエルの背後にブッシュ政権がいることは子供でも知っている。
いずれにしてもアメリカ国家が一丸となって団結し「反テロ戦争」を支持している政治状況のなかで、日本史家ジョン・ダワーは冷静な理性ある見識を世界に表明している人物として私は評価したい。ついでに「反テロ戦争」を非難する二人のアメリカ人を紹介しておきたい。著名な言
語学者ノーム・チョムスキー(マサチューセッツ工科大学)と米国議会下院議員バーバラ・リー(民主党)である。
ノーム・チョムスキーによると、アメリカはテロ国家の親玉であり、報復する資格はないとする。ワシントン指導部の行動は常軌を逸脱している。膨大な数の民間人を深刻な飢餓の危機に曝すことを予期するうえで、犠牲者の数は数百万に上る。これは米国のテロリズムであり、テロに対する戦争ではない。バーバラ・リーは、ブッシュ大統領に武力行使などの強大な権力を与える議決をした際、下院でたった一人で反対した勇気ある人物である。
 こうした良識ある批判もなんのその、無競争の巨大国家として暴挙を繰り広げるブッシュ政権にすぐさま追随した小泉政権はまさに米国の一つの州に成り下がったといってもいいだろう。その源流こそが占領期に日米合作の日本の戦後民主主義だというのが私の問題意識である。いよいよ本論にもどってダワーの精緻な研究書を繙いていくことにしよう。

2. ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』を読む
本書は1945年、第2次世界大戦の日本敗北から連合国軍(事実上、アメリカ軍)の日本占領期の間に、日本社会に何が起こったのか、何が作られていったのか、広い分野から考察した労作である。日本人の敗戦体験を考察する本書が対象とするのは「みんな」である。みんなとは、名も無き民衆から天皇まであらゆる階層の人々のそれぞれの敗戦体験である。私は敗戦直前の1945年7月7日、山形県に生まれた。振り返ってみれば敗戦直後の幼年期は、敗戦数年後の日米合作「戦後民主主義の誕生と形成」の時期と完全に重なる。そして、自我形成期・青年期・中年期を経て今日まで、私の人生は事実上、日米合作の民主主義を空気のように吸いながら生きてきたのである。これはあとで気がつくのだが、歴史の宿命であったのかも知れない。
 なぜ、アジア諸国侵略の張本人の天皇が処刑されないでいるのか。人間の平等を高らかに歌い上げる日本国憲法のもとで、なぜ階級社会の典型である「天皇制」が存在するのか。なぜ日本国内の膨大な地域に米軍が存在するのか。なぜアジアの諸国の政府と民衆から日本政府と民衆は戦争責任を問われるのか。なぜ、憲法9条があり、自衛隊があるのか。民衆の生活はどうであったのか。文化、思想を求める知識人たちはどのように対応したのか。日本の侵略戦争で日本人を含むアジア諸国の人々が何人死んだのか。生き残った人々の生活はどのようなものであったのか。私自身を育ててきた
 日本の精神・文化・思想とはどのようなものであったのか。
こうして、日本占領史の専門家ではない私自身が漠然と抱いて数々の疑問を大きな枠組みと内部の緻密さで見事に解いてくれたのが本書であった。ダワーは本書で何をやりたかったのかというと、「敗戦のあとで複数の日本が直面した苦難な課題、敗戦後に日本人が見せた多様かつエネルギッシュで矛盾に満ちたすばらしい反応を描くこと」であった。 複数のとは、日本文化たち、日本の伝統たち、日本人たちである。
そして、最後にダワーは「アメリカ人が奏でる間奏曲を好機と捉えた多くの日本人
が、自分自身の変革の筋立てを自ら前進させた」からであり、多くの日本人は「敗北を抱きしめた」のだと結論する。

 本書のキーワード「敗北を抱きしめて(embracing)」とはどんな意味か。作家のリービ英雄氏によると、抱きしめる、受け入れる、機会をとらえる、教義を奉じる、状況を見て取る、悟る、さらに、見知らぬ何かに直面したときにやがては積極的に反応する精神の動きの意味もあるという(『朝日新聞』朝刊、2001年4月1日)。占領する側と占領された側は「抱擁」したのである。日本の戦後民主主義の根幹となる思想を、日米合作で作り上げたのである。
 その日米合作の戦後民主主義の内実はなにかを明らかにするのが本論である。
 日本の占領期間は1945年8月~1952年4月までの6年8ケ月である。この間、日本は国家主権を喪失する。権力機構の頂点にいた占領軍最高司令官マッカーサーは「政府の上の政府」の二重の権力構造を作り上げ、アメとムチを自由自在に使い分け、日本の保守勢力と高級官僚組織を巧みに操るのである。

本書の大まかな項目は次のとおりである。
序論
第1部 勝者と敗者
 第1章破 破壊された人生
 第2章 天降る贈り物
第2部 絶望を超えて
 第3章 虚脱-疲労と絶望
 第4章 敗北の文化
 第5章 言葉の架け橋
第3部 さまざまな革命
 第6章 新植民地主義的革命
 第7章 革命を抱きしめる
 第8章 革命を実現する
第4部 さまざまな民主主義
 第9章  くさびを打ち込む-天皇制民主主義(1)
 第10章 天から途中まで降りてくる-天皇制民主主義(2)
 第11章 責任を回避する-天皇制民主主義(3)
 第12章 GHQが新しい国民憲章を起草する-憲法的民主主義(1)
 第13章 アメリカの草案を日本化する-憲法的民主主義(2)
 第14章 新たなタブーを取り締まる-検閲民主主義。
第5部 さまざまな罪
 第15章 勝者の裁き、敗者の裁き
 第16章 負けたとき、死者は何と言えばいいのか?
第6部 さまざまな再建
 第17章 成長を設計する
エピローグ 遺産・幻影・希望

 こうして本書を丹念に読んでみると、広範な分野を取り上げる歴史観いわゆる占領期の全体史観をもくろむダワーの叙述は、あくまでもアメリカ人サイドから見た歴史観であっても、日本人の私が読んでも、先の私の数多くの議論に丁寧に応えてくれる見事な内容となっている。私の人生はダワーの描く占領期の日本からはじまり、ここまで生きて来たのだと納得するのである。
さて、重要な論点をいくつかあげておこう。
 まず第1は、政治学の歴史において、民主主義の形成あるいは民主主義革命の形成
は、通常、反ファシズムの権力打倒に燃える民衆の血で血を洗う闘争の結果としてもたらされるが、これに対して日本の戦後民主主義は、新植民地主義的軍事独裁的政治による二重の権力構造による上からの強制によって初めて形成されたという厳然たる
事実である。上からの軍事独裁によって民主主義が作られるという世界に例のない
「民主主義革命」であったことである。
 第2は、軍事独裁による上からの民主主義革命であるが故に、当然、作られた民主主義は矛盾に満ち満ちたものであった。先の私の問題意識は、今日の日本の現代政治軍事国家アメリカに追随するばかりで平和憲法の理念をもとに独自な外交を展開できないでいるそもそもの原因が、すでに米軍占領期に日米合作で作られた天皇制と民主主義を共存させるという相矛盾したシステムを作り上げたことである。現代政治がこの矛盾したシステムから一歩も抜け出せていないことである。
 第3は、それにしてもダワーが描く占領期の日本の民衆の姿は、なんとしたたかであろうか。為政者と保守権力者たちが引き起こした戦争で民衆の人生はずたずたに破壊されたが、それでもあの手この手の生きる術をその都度見出して生きていこうとする民衆の姿は感動的ですらある。我々の戦後の歴史はこうして始まり、また私の人生もその中で作られたのである。個々人の生き方や価値観は深く社会的歴史的な存在である。このことをあらためて確認するのである。

3. ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』に対する日米研究者の発言
 私が今回の討論会を企画した重要な目的には、『敗北を抱きしめて』に関する日本とアメリカの研究者の発言を聞くことがあった。今回は日本側から市民歴史家の笹本征男氏、アメリカ側からロバート・リケット氏(和光大学・比較文化論)をお呼びし発言をいただいた。お二人はいずれも、1944年生まれの同年齢である。
 ここでは当日の発言を詳しく再現しておきたい。
まず最初の笹本征男氏は市民歴史家で日本の占領史、特に科学技術、特に原爆調査・在韓被爆者の歴史的調査を行っている研究者である。彼の著書『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国となった日本』(新幹社、1995年)は、市井の研究者の血の出るような作品である。私が占領期の科学技術史に関心を向けるようになったのは、紛れもなく本書からであった。
 また、彼の真摯な市民的立場からの研究姿勢には常々、敬意を表しているところである。 一方のアメリカ生まれのロバート・リケット氏は1960年代に青年時代を送り、北欧系白人の子供としてなにひとつ不自由な生活を送ることはなかったが、ベトナム戦争にかり出されて、人殺し戦争に関わることを拒否し軍隊を脱走した厳しい勇気と決断をした人物である。その後、来日し、広島体験、ベトナム反戦運動を契機に、アメリカ人としての戦後体験を日本で実体験することになる。その後リケット氏の視点と関心は、日本人には見えなくさせられている在日朝鮮人・在日中国人をはじめとする在日外国人、被差別部落の人々、アイヌ民族の人権問題にも移っていく。下記に示したその個人的体験から始まるリケット氏の発言は実に誠実な語り口であり、私は彼の発言テープを正確に起こしながら、感動の念にかられることたびたびであった。
 こうして終戦直前、交戦国の日米に生まれたわれわれがダワーの『敗戦を抱きしめて』をたたき台にして共通の言葉で議論できること、それ自体が、米国人・日本史家ダワーのなせる技であったと言ってよい。では、まずはじめに笹本征男氏の発言に耳を傾けてみよう。

ダワーを読んでの発言(1)
なつかしさ・とまどい・希望

                            笹本 征男

 私はレジュメを三つの主題「なつかしさ・とまどい・希望」としました。私は1944
年生まれで、幼年時代は島根県の西部の山村に育ちました。年に1回、祭りがあるんです。ダワーさんの本を読んでいてその祭りのことを思い出しました。つまり自分の国のことでありながら、いろんなことが出てきて、日本の歴史書・小説にもあまりない、井上ひさしの作品に近いようで、お祭りに出会ったような楽しさがあって、読ませます。
 ある種の「なつかしさ」とは、戦後の出来事が私の人生そのものに当てはまるのです。私が育ったところは田舎ですから占領軍は見たことない。その意味では占領期については白紙状態でした。
 もう一つは1970年代の終わりころ、中央大学の夜間部に入りまして、そこで、たまたま竹前栄治という先生に出会いました。彼のゼミのタイトルが「占領史研究」でした。当時の私の知識には占領史研究という言葉はなかったですから、何を勉強するのだろうと思いましたがゼミに入りました。竹前先生との出会いで今の自分があります。竹前先生は中途失明しまして、50歳くらいで全く目が見えなくなりました。その人が私のような人間を誘ってくれたのが、「思想の科学研究会」の「占領史研究サークル」でした。そこで占領期の勉強を始めました。例えば、当時、左翼の『真相』という雑誌がありました。ダワーさんの本を読んでいて、昭和天皇裕仁が行幸で沖縄をのぞいて全国へ行きます。行く先々で道路がきれいになる。そのときの雑誌『真相』の表紙の絵は「天皇はほうき」でした。それを見た時は面白いと思いました。昭和天皇批判がなぜできたかというと、GHQの後押しがあったからだと『真相』の当時の編集者が語ったのが印象に残っています。
 
 天皇批判で一番有名なのが、丸山真男の雑誌『世界』(1946年)の論文「超国家主義の論理と心理」です。その論文は衝撃的な価値があった。ダワーさんの本のなかにある「検閲」の問題との関連でこの論文のことを考えました。検閲は1945年9月から1949年10月末まで行われるのです。左翼雑誌が14種類くらいあるんです。すべてが事前事後、検閲の対象なんです。そのなかのひとつが『世界』です。検閲が厳しい『世界』に載った「天皇制批判」の論文が、検閲を通っているのです。これはどういうことかを考えていただきたい。この点はこれまであまり論じられてこなかったと思います。
ダワーさんの本の一つの特色は、日本の通史のなかでは描かれたことのない検閲の問題が入っている。これは非常に大事な視点です。ダワーさんは引用していますが、当時、『改造』編集者の松浦総三さんが書いた本があります。それは左翼雑誌を編集する側から見た検閲の問題です。それから私の本の中で取り上げた原爆に関する検閲です。それは縦割り行政みたいなところがあります。ダワーさんのような全体史のなかで検閲に取り組んだ人はいません。それで丸山真男のことを思い出したのです。なぜなつかしいかと言うと、ダワーさんの本を読んでいくと、当時自分が勉強した通りの道筋があるんです。当時私が一番気になったのは占領軍と普通の被占領者との出会いでした。そのことを調べていこうと思ったけれども、ダワーさんのような本がないので、非常に困りました。その当時の歴史像は今も変わりませんが、日本の政治状況は、縦割り行政です。歴史研究も縦割りの歴史研究です。ダワーさんはそれを壊している。横に並べたというところがあります。
 
 「占領史研究サークル」では、生まれ故郷の島根県に占領米軍がきたのかどうかということを調べ始めたのです。非常に単純なことなんですが、これがなかなか大変でした。記録がほとんどなくて、しょうがないから、当時の島根新聞だけをまとめて調べました。島根県には占領米軍も来ましたが、イギリス連邦占領軍が進駐して来ました。イギリス連邦ですから当時のインド兵、オーストラリア兵とかが来ました。研究サークルではそのことを成果としてまとめました。
 このこともあって、これからは日米を含めて日本語圏・英語圏の若者がダワーさんの本に出会えるという、30年前には考えられないことが起こっていると思いました。そのような私なりのぞくぞくするようなおもしろさがありました。

 それと同時に「とまどい」もありました。ダワーさんの描く歴史は、従来の日本の歴史を勉強している人が描いている歴史とはずれるんです。叙述の問題、つまり文章の力の問題で言うと、私が知っているかぎり全然、比較になりません。これだけ描ける人は日本の歴史家ではいないと思います。小学館文庫で『昭和の歴史シリーズ』というのがあります。そのなかの一冊に占領期の6年8ケ月を描いたものがあります。それは私もよく知っている神田文人先生という方がお書きになったのですが、それと同時に合わせて読んでいただくと、明瞭になると思いますが、日本の歴史研究者の歴史叙述は随分違います。
 一つは、それは構想力の問題にも関わるし、それから日本のさまざまな歴史、学問研究の縦割り行政的な部分も関わって、随分違いがでるんだろうと思います。そういうとまどい、違和感が生まれてきました。猪野さんから言われてこの本を取り上げるのに苦労しました。つまりあんまりやりたくないなあという想いが非常に強かった。それで、なぜとまどいがあるかを考えて、最終的にはダワーさんの歴史に対する見方の根底にあるのは何かと考えました。
 それは結論的に言うと、ダワーさんはアマースト大学の英文学科、日本で言えば国文学科で研究をなさっています。ハーマン・メルビルという作家がいて、1850年頃の『白鯨』という作品があるんです。相当長い作品ですが、それを卒業論文で取り上げられたということです。『白鯨』というのは、エーハブという船長が片足になってとにかく白鯨を追い続けるという、一種の神を求めるような小説で、白鯨は人間の存在のひとつの象徴であると思います。
 それをダワーさんは若いときに選ばれたということが、なぞを解く鍵だろうと思います。つまり文学的な歴史観、文学的歴史像と言ってよい。それから森鴎外を研究をされたとどこかに書いていましたが、それらを考えるに、ダワーさんの考え方の基調には「個人」、英語ではindividualがあると思います。つまり個人と政府、個人と昭和天皇裕仁がある。あとで話しますが、この本の最初に出てくる「相原ゆうさん」とか、さまざまな人たちが出てきます。マッカーサーも個人です。そういう考え方がダワーさんの考え方の根底にあるんではないか。それがアメリカの民主主義の根底にあるんではないか。
 このヒントを与えてくれたのは、ちょうど一週間まえに、占領・戦後史研究会の例会がありまして、そこでかつての思想の科学研究会で出会った近藤さんという友達がいまして、その人(女性)とこの討論会のことを話して、「分からないことがある」と言ったら、彼女が教えてくれたのは、この「個人」という言葉です。彼女は即座に、「アメリカでいう市民とはアフロアメリカン、つまり黒人が入っていない」と言ったのです。

 ダワーさんの本では、日本の政治史が書かれていないとかの批判がありますが、ダ
ワーさんにとっては必要がないのだと思います。政治史について書かれたものはたくさんあります。それからGHQ総司令部の内部の問題について書かれたものも随分あります。つまり、なぜそうでないもので、いろんな人を描いたのか。猪野さんも言っていたけれど、そこが私が日本に50年以上生きてきて、日本のなかにおける個人の意味と、ダワーさんがごく普通に考える個人の意味との違いだろうと思います。
これはリケットさんに聞きたいんですが、この本は辞書みたいに厚いですね。辞書みたいに厚い本が、アメリカの人々にどういう衝撃を与えたのか。私はよくわからないから聞きたいなあと思うんです。こういう本は今までアメリカでもないと思います。この厚さですと、20年くらい前に、坂本義和とアメリカの政治学者のR・ウォードが編集した『日本占領の研究』という本があります。これは専門家が書いた本です。一般のアメリカ人は読まない本です。

 最後に私にとっての「希望」です。ダワーさんは全体史を求めているんだろうと思います。私にとって強烈な印象があったのは「相原ゆうさん」という、当時28歳の女性のことです。この女性のことは第1章の最初に出てきます。これはダワーさんが投書欄で見たんでしょう。この本は1945年8月15日の昭和天皇の録音詔書から始まるんですが、そこをどう描くかというのが、歴史家の非常な醍醐味です。なにから描くか。
 ダワーさんはそれを相原ゆうさんという人の話から始めて、しかもその落ちというのは、相原ゆうさんの夫はすでに戦死していたというのです。だから破壊された人生なんです。強烈な印象がありました。破壊された人生とは相原ゆうさんの人生であると同時に個人の人生なんです。
 それから第11章から13章まで、天皇制民主主義です。英語の章ではimperial democracy です。その中の第3章の一番最後のところに、「渡辺清」という人の話が出てきます。彼の『砕かれた神』という本を取り上げています。非常に衝撃を受けたのは天皇の行幸の話が終わった最後にこれが出てくるんです。締めです。ここにダワーさんが何を賭けたか。渡辺清は敗戦時に16歳の戦艦武蔵の生き残り海軍の水兵です。仲間が死ぬ姿を見ているわけです。16歳の少年が4年くらいたってから苦闘して裕仁と決別した話です。それをあのところに入れたということに、私は衝撃を受けました。ダワーさんは、天皇制なり天皇から決別する日本人をあのように描いてくれたのです。私がこの本のなかで一番感動した部分です。

 渡辺清は私より16歳年上ですから、私にとっての神は昭和天皇ではない。ただし、猪野さんが紹介してくれた『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国になった日本』で、加害国という言葉を使った意味では私と重なっています。私はこの本で、広島、長崎の原爆被害者をアメリカに「売り払った」のが、昭和天皇を頂点とする天皇制軍事国家であったということを描きました。つまり、一番に敗戦・占領を生きのびようとして「敗北を抱きしめた」のは昭和天皇裕仁です。私にそのことが分かったのは10年以上前です。そのときの私は渡辺清と同じ精神状態になりました。頭が真っ白になりました。ただし、私にとっての象徴天皇は背広を着た天皇で今の天皇である皇太子と一家団欒でくつろいでいる姿です。
だから渡辺さんとは違うのですが、やはり私のなかでは象徴天皇裕仁と決別したことがあります。頭が真っ白になったときに、渡辺清さんの本を読みました。渡辺清は昭和天皇裕仁に「これであなたにはなんの借りもありません」と書いている。この一言で、ダワーさんは天皇制民主主義の章を終わっています。深い余韻を残したまま、終わっています。
 この部分の英文は"Thus, I owe you nothing "です。簡潔な文章になっています。
それからもうひとつです。福島鋳郎さんという人の話をしたいんです。福島さんは藤沢に住んでいまして、今日も、藤沢市民病院の警備員として働いています。ここに来てくれって誘ったのですが、いまどうしても人出が足りなくて来れない、とおっしゃっていました。ダワーさんが福島さんの仕事を高く評価したことが、私は非常にうれしいんです。福島さんは「占領研究サークル」時代から一緒に勉強していました。
今日、福島さんの著書『戦後雑誌発掘-焦土時代の精神』(日本エディタースクール出版部、1972年)を持ってきました。これはどんな本かというと、30代の福島さんが敗戦直後の雑誌を探し続けるのです。この仕事は公的図書館、公的な研究者も、だれもやっていなかったのです。どうぞご覧ください。
 この本は彼が34歳くらいのときの作品です。今も警備員をやっています。そういう人のほんとうに貴重な記録がなければ、ダワーさんだって書けない。これを雑誌文化、カストリ文化とまとめて通史のなかに入れて、日本にもこういう時代があったと英語圏の人々に紹介してくれたのはダワーさんが初めてだと思います。
 福島さんは自分と非常によく似た境遇なんです。大学などに所属していませんので、
自分の金で全部やったんです。そういうことをやった先輩として、非常にうれしい。
だから、猪野さんにも言ったですが、ダワーさんと福島さんと今日いらっしゃるみなさんと藤沢でもう一度、集まれればいいなあと思っています。

 ダワーさんを誉めてばかりいるとまずいから、もうすこし話します。
「とまどい」を感じたなかに、最初に占領期のことを勉強したときに、非常に衝撃的なことがありました。象徴的に言いますと、1945年10月10日は、戦前の治安維持法によって逮捕され投獄された沖縄をのぞいた全国の政治犯が、マッカーサーの命令によって刑務所から釈放された日です。東京では府中刑務所から何人かの有名な共産党の幹部(徳田球一、志賀義雄など)が釈放されたのです。そのなかには金天海(キム・チョンヘ)という朝鮮人の活動家もいたんです。そのことは事実として知っていました。ただし、私が「占領研究サークル」で出会った人で、牧瀬菊枝さんという人がいまして、その人も10月10日に府中に政治犯を迎えに出ているんです。そのときのことを牧瀬さんに聞いたんです。「迎えに出た人々のなかに朝鮮人がいたでしょ」と。牧瀬さんは「そうですよ、大半は朝鮮人だったんですよ」と言うのです。
 ところが10月10日を描いた歴史書や論文を含めて、当時これを書いた物はほとんどなにもなかった。10月10日に府中刑務所を釈放された人たちの「出獄戦士歓迎大会」が開かれたのです。府中から会場まで行く途中に、お堀端の当時GHQが入っていた第一生命ビルの前で、人々が万歳をやるんです。それはそうですね。戦争というのは勝った側が負けた側の犠牲者を釈放するわけです。物理的にマッカーサーが共産員を含めた政治犯を釈放したことに人々が感謝してもあたりまえです。
その時の行列の写真があるんです。米軍の機関誌に『星条旗紙』があります。その機関誌の記者が撮った行列の写真が10月11日付け『星条旗紙』に載っているんです。写真には赤旗と太極旗(韓国の国旗)が二つ並んでいるんです。私はそれを見たとき感動しました。私が今まで見ていたのは、赤旗だけの写真です。
 それは竹前先生が当時の『中央公論』に「10月10日」というドキュメントを書いたときに載せました。言いたいことは、ダワーさんが、戦後の日本は、植民地にした台湾と、朝鮮、中国、満州、東南アジアなど侵略した地域の人々のことをすっかり忘れたと書いていることです。忘れたのです。そこで、ダワーさんに在日朝鮮人の歴史を描いてほしかったなあと思いました。一つの注文です。そうすれば忘却した日本人に対する反証になるのではないか。

 原爆のことを書けという声がありますが、私はそうは思わない。ダワーさんは、猪野さんも紹介しているように、スミソニアン国立航空宇宙博物館の問題でも、それからその前にも、随分、原爆のことを研究しています。日本の戦前における原爆製造計画にしても、詳しい論文を書いています。これは翻訳されていませんけれども、"Japan in War and Peace"New Press,1993 という本のなかに書いています。ですから決して関心がないわけではない。なぜ書かなかったかは、おそらく原爆のことは敗北を抱きしめるような関係ではなかったのかも知れない。
 私の仮説でいうと、抱きしめたというより、原爆をめぐっては日米の為政者どもが取り引きしている。前にも述べたように、日本の為政者は被爆者を売り払ったのです。
 当時、重光葵という外務大臣がいましたね。これは私の仮説に関わるんですが、『敗北を抱きしめて』下巻の9章の21頁にあるんですが、1945年9月3日、重光葵が横浜の前進総司令部のあるグランドホテルにマッカーサーに会いに行くんです。
何をしに行ったかというと、マッカーサーは9月2日、日本が降伏文書に調印した後、日本政府に対して軍票を出すと脅かしたのです。9月3日の早朝、重光たちはもう驚いて、「やめてくれ」と談判に行ったんです。そのときに重光はサザーランドという参謀長に会見しているんです。そのときの会見の記録も外務省に残っています。
 そのとき重光はこう言っています。「わが皇室は歴史的に終始、平和主義者であった」。実はなぜこれを取り上げたかというと、私の本を読んだ方はご存じかも知れませんが、同じ9月3日に、日本政府代表者が横浜の同じ前線総司令部に原爆被害報告書を提出しているんです。その報告書の英訳を私は発見しました。それを誰が持って行ったか、米軍の記録にないんです。それで可能性としては、重光であろうと考えます。つまり原爆調査でアメリカ軍に全面協力するから「天皇の命を救って下さい」と言えば、それでちょうど割はあうのです。原爆被害報告書の提出は、アメリカ軍への調査全面協力の証しと考えられます。これは重光側の記録にもいっさいありません。
 だから重光クラスの人物が、日本側の原爆被害報告書を全面協力の証しとして提出すれば、マッカーサーだって、「ああそうか」というもんです。この後、実は日本政府は国をあげて米軍の原爆調査に協力します。このような意味で、原爆問題は日本にとって根の深いことです。ダワーさんはこのことは十分に理解しているだろうと思います。原爆をめぐっては、別の本が必要かもしれません。

 最後にひとつ。この本を読んだ英語圏の人たちがたくさんいるわけです。私たち日本人に会ったら、いろんなことを聞くかも知れない。それから日本の歴史家に注文したいんですが、ダワーさんと同じように、勝者側のアメリカのひとびとの歴史を描いたことがあるかというとないんです。
私はタイトルを考えました。"Undeepening Victory"です。つまり勝利を深化させなかった。そこの世界に生きていた人々の歴史を、逆にダワーさんと同じように勉強して書ける日本人の歴史家が出てきたら、いいなあと思います。日本側でいうと、侵略者としての日本人が被侵略者側の個人を描いているダワーさんのような歴史書があるかというと、まだほとんどないのではないでしょうか。
 だから日本人の歴史家がダワーさんを評価し、創造的に批判をするのであれば、それを見せなくてはならない。もし"Undeepening Victory"という本を日本人が日本語で書いて、それが英訳されて、英語圏の新聞に出て、私たちがアメリカに行ったら、日本にはこういう本があるらしいなと、ダワーさんとまったく逆のことを聞かれるような関係ができたとき、おそらくダワーさんが言っている非軍国主義化と民主主義化の成果が出るのではないか。これからどうするんですかと聞かれてそれに私たちが答えるような日米の関係があるといいと思います。
 マッカーサーの占領支配について植民地主義的軍国主義的独裁政治と表現していますが、この表現をした人は私が知る限り日本の歴史家にはいません。これから日本側としては自分たちの国のことでありながら、意外に自分たちの国のことがわからないし、まとめられないということです。どんどん議論したいと思います。

ダワーを読んでの発言(2)
個人と国家:戦勝国への教訓

                          ロバート・リケット

 今日は少人数で内々で討論しようということだったのですが、こんなに大勢の方がおられるので、ちょっと戸惑っています。なによりも皆様のご意見をお聞きしたいと思ってまいりました。今日、アメリカ人としては言いたくはないんですけれども、やはりアメリカ人ですからしょうがない。アメリカ人としてダワーさんの『敗北を抱きしめて』を読むことの意味を考えたいのです。自分の個人的な経験をふまえてこの本を読んで感じたことを中心に話したいと思います。
 僕は歴史家でも占領史研究家でもありません。ですから、この本を読む動機がなければ取っつきにくいのです。アメリカではすでにこの本はハードカバーだけでも5万部売れたといわれています。珍しい話です。さらにソフトカバーが出ていますから、おそらくその倍は出ているのでしょう。

 個人的なことから入った方がいいかなと思います。
 私は猪野さん、笹本さんとほぼ同じ年齢ですが、みなさんと僕の戦後体験はおそらく正反対のものだと思います。僕は1950年代のアメリカで育って60年代には20歳代でした。食べ物が足りなくなったことはまずないし、割と裕福な中産階級の北ヨーロッパ系の白人として生まれました。僕には「戦後」という意識があまりなかったので
す。アメリカの科学技術の象徴である原爆は誇るべきものであると教え込まれ育ってきました。そういう環境のなかで育ち教育を受けたので、戦争に勝つのは当然のことで民主主義の勝利だと思うようになりました。
 その裏にあるものが何なのか、その信仰には振興根拠があるのか、敗北に会わざるを得なかった国がどうなったのかとか、そういった疑問が私の意識にはありませんでした。日本に始めてきたのは1966年でした。広島・長崎は話はもちろん知っていたし、あの恐ろしいキノコ雲の写真も印象深かったのですが、詳しいことはまったく知りませんでした。
 その意味では僕の戦後は日本にきてから始まった。日本に来て6ヶ月もたたないうちに、当時22歳だったかと思うんですけれども、軽い気持ちで広島に行って見ようと思いました。お金がなかったから無銭旅行のヒッチハイクで3日間かけて広島まで行ったのです。
 お正月の途中だったんで、さまざまな日本人に会いました。たいした日本語もしゃべれなくて、挨拶程度しかしゃべれなかったのです。
当時の日本にはアメリカ人の存在はめずらしかったのでしょう。ヒッチハイクの僕のために、車を止めて乗せてくれたり、夜になると家へ連れて行ってくれたりしました。学生でもインテリでもサラリーマンでもない一般住民が心温かく歓迎してくれました。そういう体験をしつつ広島に着きました。原爆の跡をたずねたときに、一生の衝撃を受けました。アメリカが原爆を落としたのに、なんでだれも知らないのかと思いました。またさまざまな戸惑った気持ちもありました。
 結論として、原爆を落とされたところの下で死んだ人たちは、僕に親切にしてくれた人たちと変わらない普通の人たちだったんです。そこで、はっと巻き返しを食らったような気持ちでした。そのときからアメリカを見る目が大きく変わりました。ちょうどベトナム戦争が勃発したころなので、広島の経験からベトナム反戦へと気持ちが変わっていったのです。私の家族は海軍軍人なので、「反戦」と言ってしまうと、さまざな軋れきがでてきました。そこからいろいろなことがあって、結局、召集され兵隊に取られましたが、2年後に脱走をしました。
 1976年になり、カーター大統領のときにやっと恩赦をうけてアメリカにもどることができました。1980年に再び日本へきました。その数年後、日本占領史研究会の古関彰一さんに出会いました。当時、和光大学の教員だった彼に「自分の反戦体験を話してくれないか」と頼まれました。和光大学での講演が終わったところで、杉山康彦先生がよってきて「君の話を聞いて思ったのですが、やっと日本人とアメリカ人が共通の話ができるようになった」と言ってくれました。彼がは終戦のとき、将校日本兵としてベトナムにいたのです。その言葉を深く覚えています。

 戦争が終わってから半世紀以上たっていますが、ダワーさんの本は、日本人とアメリカ人が苦しいアジア太平洋戦争を語り合えるための土俵を作ってくれたのではないかと思います。共通の土俵を作ってくれたというのは何かというと、この本が出されるまでは、アメリカ人の多くは、日本人の気持ちなど知ろうとしなかったのです。敗戦はどんな苦しい体験か、その厳しい時代をどう生きぬいたのかなど、想像もつかなかったのです。平和運動をやっているアメリカ人は広島や長崎にでも来れば想像するでしょうが、一般のアメリカ人にはわからないのです。
 昔はアメリカの敵はイラクとか「北朝鮮」ではなく日本だったので、その気持ちが今もなお大きな流れとなっています。ただ、『敗北を抱きしめて』では、はじめて当時の日本人の顔が浮かんで来るし、さまざまな日本人のさまざまな肉声が生々しく伝わってきます。再読したところ、いくつか思ったことがありました。
 
 まず、日本語版では前巻の54頁、英語版では57頁です。そこに写真が出ていますね。これは行方不明になった離散した家族を捜している人の写真です。日本各地でなになにさんの行方を知りませんかという、人捜しの写真です。それで、最近まで、ニューヨークの世界貿易センタービル近くで、これと同じような光景が見られました。ところどころまだ張ってあるかも知れません。日本の場合は、この張り紙がやっと消えたのは1962年です。つまりこの状態が半年ではなく、十数年間も続いたのです。テロ事件後、ダワーさんのまったく異なった読みをせざるを得ません。この写真は強烈な衝撃をアメリカ人の僕に与えましたが、日本人の「戦後」とはそんなものだったのです。

 細かいところは猪野さんがレジュメにていねいに書いて下さったので、おおまかに感じたことを述べて行きたいと思います。
 ダワーさんの昔からの言い方なのですが、"democracy in box"、翻訳では「窮屈な民主主義」、「箱庭式民主主義」というイメージなんでしょう。つまりアメリ占領軍が「民主主義」を日本に与えたというのは、幻想であり、一定の枠内でしか民主主義が許されなかったというわけです。実際、笹本さんの話にもありましたが、占領軍が与えたのは、英語を直訳すると、「新植民地主義的・軍事独裁主義的民主主義」だったのです。要するにその民主主義にも大きな矛盾をはらんでいたのです。マッカーサーのカリスマの上には天皇のカリスマが二重焼付けにされることで、象徴天皇制とはいえ、その思想システムは底流に入り、いっそう根強くなりました。ダワーさんがこれを "imperial democracy"(天皇制民主主義)と読んでいます。とってもうまい言い方ですね。
 また、GHQが軍事的な組織だったので、その働きによって日本の官僚体制の管理も強化されていった。アメリカの民主主義と権力志向というふたつの相容れない傾向があって、その枠のなかの民主主義にしかなれませんでした。これは、さきほどの古関さんの言い方を借りて言えば、日本の民主主義は日本人のための民主主義でした。つまり占領軍にとっては、日本には日本人しかいなかったのです。ご存じのようにそんなことはありませんでした。
 戦争が終わった時には、120万人ほどの在日朝鮮人・台湾人がいました。そのなかには約70万人の人びとが祖国に帰れないでいたのです。この人たちは占領改革から見捨てられ排除されていったのです。かれらには日本国憲法が適用されませんでした。
ダワーさんはこの問題に触れてはいますが、詳しくは書いてはいない。書いていないということはちょっと残念なことです。彼もある意味では、意地の悪いことを言えば、その枠・箱にとらわれているのではないかとも思えます。とはいえ、ダワーさんのことですからもちろん意識しているでしょうが、アイヌ民族とか、被差別部落はどうなったのか、という視点がはっきりした形で出てきません。
 こうして一部の日本住民は占領改革から排除されたのです。自分の「戦後体験」といっても、おくれた形での広島経験からベトナム反戦までありましたが、僕にはもうひとつの「戦後体験」があります。それは在日朝鮮人との出会いではじまりました。その関係で笹本さんとも出会ったし、今日、ここにいるわけです。指紋捺印強要問題や外国人登録法の話ですが、外国人管理体制そのものが占領軍によって導入されたものです。
 このあたりはもっと詳しくあってもよかったかな、とも思いました。日本人には民主主義ですけれども、在日朝鮮人にはむしろ新植民地体制です。それで新植民地体制に対して脱植民地運動を展開せざるをえなかったのです。その関係では、1948年の阪神民族擁護運動が起こりました。それを機に在日朝鮮人は弾圧の対象へと移りました。その弾圧をしたのは言うまでもなく占領軍と日本当局です。
 これが合作でした。箱の中のものだからこそアメリカは日本へ民主主義を押し進ませることができました。
 「民主主義」は響きがいいのですが、アメリカが考えていたそれには西洋文明の優越性が前提としてありました。ここには滑稽な話があります。東京の近辺では、さまざまなGHQの建物があったのですが、なかに関東軍政本部がありました。第8軍の米軍人がいたのですが、圧倒的に多かったのは日本人です。専門家だとか翻訳家などだったのです。その建物のなかでは、ある種の人種隔離制度があり、トイレは別々だったのです。白人には白人用のトイレ、日本人には日本人用のトイレという仕組みだったのです。 
 こうして、さまざまな形で、民主主義と無邪気な白人優越主義が入り組まれた占領だったのですが、これについては、ダワーさんが巧妙に分析をしています。
 しかし、アメリカ型民主主義も箱庭式民主主義だったと言えましょう。日本の占領改革を構想し、実施したのはリベラルのNew Dealers だったのでが、当時のアメリカ本国の南部ではアフリカアメリカに対する隔離制度が存在していたし、カリフォルニア州では日本人が白人と結婚することができませんでした。そして、社会主義思想ななどへの制限も厳しくあったのです。日本では、アメリカ式自由主義の限界がもっとも強く現われたのはGHQのマイノリティ政策の不備や「逆コース」だったのです。
 冷戦時代にはアメリカが日本を同盟国にする目的で保守権力と密接な協力関係を結びました。その結果、日米協力は、未完成な民主主義しか育成できなかったと、1960年代からダワーさんは主張しています。

 では「敗北国日本」をどう見ればよいのでしょうか。ダワーさんが、敗北の両義性と多義性をうまく描きます。彼が郡を抜くのは、性産業、闇市、カストリ文化という3つの分析だと思います。それぞれ両義的なものでありがなら、多義性をも現します。
 パンパン、RAAの話などは、国家による性差別に基づいたものですが、その中では多民族的な交流も行われています。ゆがんだ形ですが、多民族的な関係も空間もありました。「他者」を知り合うと言うか、知らされると言うべきでしょう。従属的な関係ではありましたけれども。また女性の立場から見ると、パンパンは、伝統的な女性像、女性のあり方、あるいは男性を中心とした社会への否定と批判でもあり、男女関係の捉え直しという側面もあったのです。
 闇市・ぼろ市そのものは戦前戦時中の国家が植え付けた価値観を否定するようなものであって、「非日本的」な行動ではありましたけれども、みんなそうせざるを得なかったのです。そういう関係のなかでも、在日朝鮮人、中国人と日本人の交流の場でもあったのです。みながせめぎ合いながら、従属性があったとはいえ、ある種の多くの民族関係が結ばれたと言ってもいいのでしょう。
 3点目はカストリ文化です。ダワーさんは細かく説明していますが、自分が読み
とった結論にはふたつの要素があります。一つは絶対的な価値観への不信感、あるいは拒否です。これは一般のカストリ文化にたずさわった人たちのなかにあったでしょう。アメリカ民主主義に対しても同じような不信感があって、むしろアメリカとは関係のない日本の独特なものとしてあったと思います。カストリ文化のオリジナリティがここにあったのではないかと。ひとつのカウンター・カルチャーと言っていいかも知れません。いますが、もちろんその反面もあるわけですが、つまり両義性的なものです。
 買売春の話しに戻ると、この側面がアメリカではほとんど無視されてきたので、アメリカ人の読者には初耳の話しが多いのでしょう。米軍の男性の多くが日本人女性を性的意欲の対象にして物扱いをしたわけです。また、違う形ですが、カストリ文化のところでも日本人の男性の多くが白人女性を性的意欲の対象にしました。ある種の相互関係が生まれてくるのです。ゆがんだ形ではありますが、戦勝・敗戦関係のなかで不均衡の交流作用が発生しました。両方をきちんと見ておかなければならないというのが、ダワーさんの姿勢です。
 敗北のなかで、虚脱状態、タケノコ生活などがあっても日本人が苦労をしながら、新しい価値観を自分たちで作っていこうとしました。そのバイタリティはどこから湧いてきたのでしょうか。
 アジア太平洋戦争はある種の聖戦であって国家神道、天皇制、家族国家とか、そのようなイデオロギーのもとに戦争が行われたわけですが、戦争が終わってから驚くほど素早くそのイデオロギーが表からなくなります。アメリカ人では、これは日本人の「本質」だと教え込まれてきたのですが、そうじゃないと、はっきりダワーさんは教えてくれます。戦時中、一般民衆が権力に対して抱いていた疑問もしくは反感が敗戦に当たって感動的な瞬間で現れてきたと伺えます。個人と国家の関係を捉えなおしていき、それ自体は日本だけの話ではなく、普遍的な話でもあり、どこの民族、どこの国にも当てはめることができるかも知れません。これからアメリカ人に9・11以後の世界を理解するには大事な鍵となるはずです。
 戦争責任の回避、戦後処理問題が残ります。長年、平和運動の一部はその責任回避を厳しく批判してきたわけですが、その主流派はそれをあいまいにしました。また、保守権力などは責任そのを否定してきました。ダワーさんの言葉を借りると、それは「戦争は主に日本人に破壊的な影響を与えたのだと理解され、その観点から戦争は否定された」からです。この観点からしか反戦勢力が運動を展開できなかったようです。一面においてその回避には占領軍の責任もあります。

では、「敗北国日本」から裏読みをして、「勝戦国アメリカ」はどうだったのでしょう。アメリカ人としてこの本を読むと、考えざるえないものがたくさんあります。さきほど笹本さんの話にも出てきましたが、ひとつの大きなテーマは勝利の両義性というか、笹本さん流に言えば、「勝利を深化させなかった」ということだと思います。
 戦勝するとは、どういう意味をもっているのでしょうか。
 戦争に負けることは大変なことですけれども、度合いは異なりますが、戦争に勝つことも違う意味で、違う大変さがあります。それは何かというと、自分なりにダワーさんの言葉をアレンジしてみると、「戦争はおもにアメリカ人に破壊的な影響を与えたと理解されるが、戦争は未だに否定されず、勝利の象徴として肯定される」とうことになりましょう。
 ちなみに、ダワーさんは、アメリカの勝利はキリスト教の勝利でもあったとみなされることを主張しています。彼はマッカーサーの言葉には聖書から借りた表現が多いのです。彼や多くのアメリカ人の精神構造がまさにその通りだと考えていいでしょう。つまり、二つの聖戦があって、その日本版とアメリカ版。しかし、敗北によって日本の聖戦が消えたのに対してアメリカのそれは、戦争勝利でより強いものになりました。
 要するに戦勝とそのイデオロギーの二重性の問題です。
 原爆と正義、権力主義と理想主義です。これが一充になっているから、切り離しては分析しづらいものです。ですから「勝戦国」アメリカはさらなる戦争を起こしていくわけです。朝鮮戦争の時には、38度線を越えて北朝鮮を制覇しようとしたところで、大きな仕返しをくらったわけです。ベトナム戦争もそうですが、その場合には、実質的にアメリカは負けました。負けても戦勝国として「負けた」ということを認めわけにはいかないでしょう。
 第二次世界大戦を原爆を落として勝った国だから、ヴェトナムという世界の最も貧しい国のひとつに「負けた」とは言えないのです。だから、その戦争に参戦させられた若者たちがアメリカに帰ってきたら、終戦後当時の日本兵と似たような扱いを受けたのです。つまり英雄として戻って来たわけではないのです。ベトナムで戦った兵士たちは虐殺を起こしたり、村に入って火を付けたり、ベトナムへはかり知れない加害を加えたりして、国の恥じとしてアメリカに帰ってきました。
 兵士だけではなく、一般市民の多くも、政府にだまされたとう意識もあります。これは終戦後の一般の日本人の気持ちに近いような気がします。
 なにしろ、アメリカは、ポスト・ベトナム症候群という言葉があるように、ベトナム戦争で負けたのです。その後、その症候群を乗り越えるためにアメリカより弱い国・カリブ海のグラナダなどを侵略していくわけです。小さな島で大した兵隊もないのに、米軍が送り込まれて占領したわけです。湾岸戦争も、ユーゴスラヴィアのコソボの爆撃もやり方が一緒だし、最近のアフガン侵略にも同じ構造がみられると思います。
 戦勝に懲りなければ、戦争に終止符を打つことはできないでしょう。しかし、悲しいことに勝利をしてしまうと、懲りることはできにくのです。この恐ろしさは現在の世界政治をご覧になればわかるかと思います。

 最後になりますが、日本にとっては「与えられた」民主主義の意味は何かという問いかけはありますが、それよりも、ここでは考えたいのが逆のことです。アメリカには、民主主義を与える意味は何だったんでしょうか。近代史には日本占領は例が見出せない成功といわているわけですが、それは、アメリカ外交政策には、ひとつのモデルとなりました。例えば占領が終わってからすぐ、農地改革は、共産主義対策として、フィリッピン、ベトナム、イラン等々に、当てはまる試みがなされました。しかし、そのほとんど失敗に終わりました。日本のモデルは第3世界には適応できなかったのです。そして今、身近な問題として同時多発テロ事件とアメリカ民主主義の危機が問題になっています。事件の裏にあるのは、戦後からアメリカがPax Americana という形で自己のみの利益を優先してアメリカン・モデルを他国に一方的に押しつけて来た姿勢です。
 人を殺してはいけないのは鉄則です。ただ、なぜ9・11のような悲劇が起こらざるを得ないのか。そのあたりを一般のアメリカ人はまだわからないようです。今回、ベトナム戦争のときに反戦運動に関わった人たちのなかに、アフガン攻撃はやむをえないとか、正当な仕返しだと言っている人たちもいるほどです。もちろんアフガン戦争への反対運動はありますが、アメリカのマスコミではほとんど報道されません。テロ事件に対しては、自国の責任を理解するのではなく、一方的に復讐します。
 海外に対しては国際法を無視してテロに対する拡大戦争に向かうだけではなく、こんども同盟国日本を引っ張って、参戦させます。また、人権を保証する国内法をも無視するに至る次第です。アメリカ国内は厳しい状況です。戦場での検閲制度のため、マスコミの自由が大きく制限されています。戦場ですからしょうがないと思う人もいますが、ベトナム戦争のときにはマスコミの役割は大きく、そのかげで反戦運動は盛り上がったのです。
 今回、ペンタゴンはそれを避ける目的で検閲を厳密に行なっています。上からの一般の世論に対する働きかけ・世論作りもしています。テロ事件が起こってから、反対というようなことを言うと大変なことになります。米国連邦議会では戦争反対と言った議員はひとりしかいなかったのです。ご存知かと思いますが、バーバラ・リーですね。アフリカ系アメリカ人です。彼女だけが復讐戦争をやるべきではないと強調したのですが、その後始末が辛かったのです。「殺してやる」という恫喝など、さまざまなイヤガラセが起こりました。
 さらに戦時立法に基づいてアメリカ市民じゃない住民に対して、秘密会議で軍法裁判を仕掛けたりとか、あるいは、19世紀の南北戦争時代に作られた治安立法があらたに適用されるようになりそうです。それはめったに発動されない破壊活動防止法です。実は、この法律は、日本の破壊活動防止法と密接な関係があって占領軍は持ち込んだものです。アメリカ国内では、プエルトリコ独立運動家に対して適用されたことがありますが、それ以外はほとんどないのです。今度適用しようということになりました。もちろんアメリカ市民に対しても適用されうるのです。それは時間の問題です。僕はそれが「治安維持法」のアメリカ版とみています。極端な言い方ですが、歯止めが利かなくなってしまうと、アメリカも軍国主義の道を歩んで行く可能性があると思います。

 結論になりますが、新しい「聖戦」の時代には救いになる思想は何かということです。その思想は、アメリカへの教訓とも言えますが、日本の敗北にあると思います。
ダワーさんが紹介してくれる3人の共鳴を覚え文章を読み上げたいと思います。
 尾崎秀実、南原繁、田辺元です。
 まず、尾崎秀実は、社会主義者とヒュマンイストとしてよく知られ、1944年にスパイとして死刑になりました。ダワーの指摘によると、彼が「家族国家」ではなく、本当の家族を愛し、「知的洞察力をもち、時代に流されず、自称愛国者たちにたいして最後まで逆らう勇気をもっていた数少ない人間の一人なのであった」と。そうすることによって、彼が「外国ではない日本流のモデル」を提供してくれた真の愛国者でした。(注1)
 その次は南原茂です。彼が「戦争の真の勝者は『理性の審判』であった、そしてその偉大な理想を担っていたのがたまたま日本ではなくて『米英』だった」と語りました。つまり、「不幸にして、真理と正義は『米英の上に止った』のである。このすべては、世界歴史における厳然たる『理性の審判』であって、『戦いに勝ったものが正義』ということではない」と。(注2)
 最後は田辺元です。ダワーが言うには、彼が「自己批判、あるいは、日本に対する強い批判だけでなく、この時代のすべての国や文化に対する批判でもあった」ということです。田辺元の言葉では、連合国も「自らの矛盾過誤罪悪に対する正直に謙虚に懺悔を行じなかればならぬ。懺悔は今日世界歴史の諸国民に課するところである」と。(注3)
 やはり、その言い方はよろしくないでしょうが、敗北に合わない限り、この視点は出てこないのではないかと思います。ちょっと悲しい話ですね。ですからダワーさんの『敗北を抱きしめて』から、アメリカ人が何を学ぶべきかというと、このあたりではないでしょうか。
(注1)尾崎秀実『愛情はふれる星のごとく』
(注2)南原茂『戦没学徒に告ぐ』
(注3)田辺元『懺悔としての哲学』

4.討論会の要約的報告
 今回の討論会「日本の戦後民主主義とアメリカ」は多くの関心を起こした。当日多くの方々の参加者(34名)があり、活発な議論・討論がなされた。その議論・討論の様子をすべからく、私なりに要約して再現しておきたい。
まずはじめに、9・11の同時多発テロ事件以後、「非戦」を目標に具体的な活動をやっている小林一朗氏(CHANCE!呼びかけ人)は、非戦の運動を実現する日米の若い仲間たちとの実践的平和運動、アフガン難民問題支援運動などを紹介した。また、米国議会でただ一人、アフガン報復攻撃に反対したバーバラ・リーを送り出しているバークレー市民との交流の様子などを紹介した。小林氏はバーバラ・リーを日本に招待する運動に深く関わりつつ、次期世代を担う若者を取り込み、新たな平和運動を進めている方である。
 環境問題の本を扱う出版社の編集者・森元之氏は、当時の日本人がマッカーサーに大量の手紙(ファンレター)を送っていた事実に驚きを持って読んだこと、さらに占領当時の具体的な体験を持つ方々の率直な意見をお聞きしたいと述べた。もう若くもない世代に入りつつある森氏であるが、一貫して環境問題の著作物を刊行している目利きの編集者である。私はどれほど、森氏の奇抜な発想と実践力から勇気づけられているか分からない。
 開口一番、現代日本の政治にうんざりし、絶望していると述べたある女性(氏名不明)は、日本国憲法は与えられたものであったという考え方があるが、いいものはいいものであるから、これをなんとしても守らなければならない。またダワーさんの本を評価するだけではだめだ、もっと具体的な行動すべきだと熱く説いた。さらに、本当にものを考えている国会議員がいるのか非常に憂慮していると憤慨している現状を語りつつ、何が真実かを知りたい。個々人がしっかりした考え方をもつことが必要だと力説した。 
 発言者の笹本氏は福沢諭吉の専門家の安川寿之介『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000年)の本を紹介し、次のように述べた。福沢諭吉の全集を洗い出し、福沢のアジア論を批判しなければならない。歴史は体験だけではだめである。検閲に関わった日本人は不明である。また、天皇制を批判した丸山真男の論文「超国家主義の論理と心理」が一番厳しい検閲制度にかからなかったことを問題にしたい。丸山真男は朝鮮に3ヶ月か6ヶ月いたことがあるが、アジア認識にもいっさいふれていない。かなり重たい話だ。安川さんの本を読んでもらいたい。福沢は一種の犯罪者ではないか。日本の朝鮮占領に比べると、アメリカの日本占領などは優しい占領であった。これも両義性である。マッカーサー文書を誰が書いて誰が翻訳し誰が提出したか、いっさいわからない。誰も言わない。占領期のことはまだまだわからないことがある。朝鮮と台湾と日本は抱き合えないのです。日本人の意識は被害者意識である。これは笹本氏の黒い陰になっているという。
 日本政府と天皇がマッカーサーに出した膨大な文書(3万5000頁)があるが、これを誰が翻訳して誰が提出したのか。一部には白州次郎が出てくるが、後は誰も言わない。官僚制を残しながら天皇制を守った文書があるのだ。まだまだ、分からないことあるのだ。英文翻訳部隊はどこに行ったのか。まったく不明である。占領された歴史がいかに貧弱か、などである。この発言は30年におよぶ占領氏研究者の具体的な指摘であり、いまだに情報の公開ができないでいる日本の歴史観の貧弱さを明らかにしたものだ。
 科学史家(ロシア科学史)の梶雅範氏(東京工業大学)は、日本の原爆開発の資料を調べているときに初めてジョン・ダワーを知ったこと、「歴史と記憶」とは違うことを、具体的な事例(原爆論争)を出しながら示した。ここにこそ歴史家の仕事があるということ、この本を一般の人がどう読むのか、さらに、マッカーサーは占領期のブレインから日本関係者を排除したことに興味を持ったと語った。梶氏はアカデミズムの研究者であるが、市民的学問所である湘南科学史懇話会発足当初から支援の支援者である。私は学会誌に梶氏が書かれる文章から氏の誠実で真摯な仕事に常々、敬意を表しているところである。
 科学史家(数学史)の佐々木力氏(東京大学)は、ダワーさんの名前を知ったのは1976年頃で、ハーバート・ノーマンとの関係であると述べ、ダワーさんはひなたにない歴史家ハーバート・ノーマンの本に、ものすごい序文を書いていることを紹介した。また、現代日本のメジャーな大学の歴史研究者はストレートに天皇制批判は書けないこと、笹本さんの仕事はそのタブーに挑戦しているのだろうと笹本氏を評価した。これは日本だけではない。都留重人さんのダワー批判には理由があり、彼のやったことにある種の責任があり、ノーマンの死因は友情に裏切られたことなどがあるのではないかと述べた。

 佐々木氏は笹本氏が紹介した安川さんの本は倫理学者の本としてはいいが、歴史家としては失格であると指摘した。丸山は福沢のアジア認識に批判的でないわけではない。しかし、あまり書いてはいない。基本的に丸山は福沢に惚れているからだ。日本の学問が輝いていたのは、明治初年、それに戦後は1947年当時であった。丸山真男氏を中心に輝いていた。これが現在、崩壊しつつある。現在の論壇は、大江健三郎も含め、丸山真男以前になっている。論者もそうだが編集者がひどい。これを何とかしなくてはならない。思想的には非常にひどい遺恨を残した。数十年はかかるだろうが、アジアの政治経済圏を作って近代日本総体を考えるべきだ。いま日本人に欠けているのは理念と理想であると年来の学問歴史観を熱く披露しつつ、自主規制をもつ平和運動はだめである。ダブーをもってはいけない。われわれが直接声をあげていかないかぎり、だれも救ってくれない。いまこそ声を上げて行かなくてはならないと、熱く持論の学問的歴史観を展開した。
 丸山真男信奉者で丸山真男手帳の会に所属する須川真明氏(編集者)は、ダワーさんの本からたくさん知らないことを学び、アメリカの日本研究の層の厚さを感じたと述べた。この本によって、天皇制、官僚制、沖縄の米軍基地とか、いろんなことがはっきりしてきた。ハーバート・ノーマンのようなしっかりした人の歴史書は現実をよくわからせてくれるものだ。さらに敗北の両義性について言及し、「敗北を抱きしめて」の意味の中には、当初アメリカがやりたかった方針が、対共産主義とのからみで、やれなかったことの意味も、込められているのではないかと思ったことを述べた。
かつて少年時代を戦争直後に過ごした編集者である宮下嶺生氏は、ダワーの記述に、アジア太平洋戦争というよりアジアを忘れないために、大東亜戦争と言った方がいいという記述があったが、ダワーさんは大東亜という言葉の恐ろしさをご存じないのではないかと思ったと述べた。大東亜という言葉は当時の日本人にとっては非常に恐ろしい語感を伴う言葉なのだと自らの世代の体験的実感を力説した。
 今回の討論会の共同主催者で「科学と社会を考える土曜講座」代表の上田昌文氏は、本書を読んだ上での複雑な気持ちを率直に述べた。日本の現在の源流が見える。また、過去の事実をふまえた上で今日の現実にあたる必要性があると、市民運動家らしい考えを披露した。アメリカ人はこの本を読んだとき、どのように評価するのかが気になる。日本人が佐々木氏の言うような理念を持ち得たら、アメリカは日本にどう立ち向かってくるのであろうかとの議論を述べた。アフガンの問題はダワーの本の路線に収まるものでしかない。天皇制に対する認識を個人がしっかりと持たなければだめであると、個人個人の歴史認識の確立の重要性を説いた。
 現代史研究会・技術史研究会の深澤棲男氏は、今年、還暦を迎えるまで、技術史の問題に深く関わってこらえた方だが、深澤氏の課題はなぜ日本に本来の民主主義は定着しないのかであり、どうすればいいのかを長年考え続けてきたと述べた。結論から言えば、天皇制をやめさせることは必要であり、戦後民主主義は虚妄であったと考える。いまだに天皇制の呪縛から逃れていないと指摘した。深澤氏は長きにわたり雑誌「技術史研究」の編集に関わっておられる方である。
 敗戦時に小学校6年生であったある女性(氏名不明)は、自分の体験を言いたいと発言した。一番ショックだったのは、ゼネストが突然中止になったこと、朝鮮戦争が始まったときにある程度、死を覚悟したこと、戦争犯罪人岸信介が免罪されたこと、教科書に墨を塗らされたこと等々を疑問に感じたと述べたあと、墨を塗ったのは文部官僚が自主規制であったことを後で知り愕然としたと述べた。
物理学者でアメリカのテネシィ大学の客員教授をも10年間努めている加納誠氏(東京理科大学)は、同氏の世代の全共闘の運動形態とは異なる若い世代の運動を柔軟に支援することが必要であることを力説し、若い世代の現代的感性を備えた平和運動を大切にし支援していきたいと述べた。大学教員として多数の学生と接する中で、現代の学生気質を十分に考慮した発言にはある種の重みが感じられた。同時多発テロ事件以後のアメリカはどうなっているかを考えるとジレンマ状態にあると述べた加納氏は、敬虔なプロテスタントであり、アメリカに多くの友人を持つ立場であるが、普通のアメリカ市民とアメリカ国家の間に大きな隔たりがあることを感じたのに違いない。
 日本を代表する物理教育研究者で実践家の右近修治氏(高校教員)は、学生時代はよく議論したが、この本によって、再び原点にもどらされたと感じたと述べた。右近氏は物理学教育の最前線で活躍しておられる。その多忙さをぬって湘南科学史懇話会に参加していただいている方である。
当日、時間がせまっており、多くの見解をお聞きできなかったのが残念であったが、次回に期待しようと思う。

結論
 こうして、今回の討論会「日本の戦後民主主義とアメリカ」は盛会のうちに終わった。総じてここでまとめておきたい。今回のジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』をめぐる討論会を企画したのはきわめて個人的な問題意識からであった。私が生まれたのは敗戦直前の1945年7月7日である。山形県高畠町和田村で生を受けた私は、いわば占領期のまっただ中に幼年時代を送ったのである。その後、自我形成の発芽と多感な少年時代を経て、多感な青年時代を東京で送った。その半生の時期は戦後民主主義形成の時期と完全に重なるのである。そこで「私はどのような時代に育てられてきたのか」を、冷静な視点から客観的に見直したいと思った。この論文の始めに書いたことはこのことである。
 確言すれば、日本の東北の田舎町に生まれた私の精神構造の変転が、この時代の激流とともに、どのように作られてきたのかを、いわば人工衛星の視点から眺めたかったのである。さらに言えば、私が、産み落とされた日本戦後民主主義精神から自由になろうとしてどんなにもがき苦しみながら逸脱しようとも、決して振り切れない時代の落とし子の宿命である時代・世界・宇宙の認識的産物である私の精神的構造を、もう一度解体してみたかったのである。その後に、どんな精神と認識が出てくるのか、それを試したかったのである。
 それでも、その戦後民主主義の呪縛から逃れる為に使った手法は、当の日本の戦後民主主義を作る際に決定的な役割を担った「アメリカ」の学者ジョン・ダワーの著書『敗北を抱きしめて』を借りざるをえなかったことは、なんと不条理なことか。これもまた歴史の宿命であろうか。まさに時代認識は、ロバート・リケットがいうように、どこまで行っても「箱の中」で作られる精神であり、認識であるのであろうか。
この議論をすすめていくと際限がないことは自明である。こう考えると我々は絶望のまま、もがき苦しみながら終末まで生きなければならないのだろう。
 このような問題意識から始めた今回の討論会は、発言者の笹本氏、ロバート・リケット氏、それにすべての参加者の多様なご意見のひとつひとつが、きわめてかけがいのないご意見であった。それぞれの方々のご意見は、深層では自らが寄っている時代の精神から自由になろうとして苦闘しておられる現れに聞こえるのである。その苦闘の現れは政治になったり、文学になったり、芸術になったり、思想になったり、無差別的なアナーキーになったりと、さまざまである。確言すれば、それぞれの現れが悪名高い「自己中心的世界観」を持って生きるしかないのである。昨今の科学的哲学でいう生き方の相対主義的価値観などという幻想哲学はあり得ないのである。必要ならば身体をはって闘うしかないのである。しかし、その自己中心的世界観の中に相互に何らかの部分集合を内在する余裕があるならば、その時にこそ共有すべき精神的自由と時代的認識を希望をもって議論をするべきなのだ。今回の議論はそのひとつの営みであると考える。 
 今回の討論会を通じて、さらなる多くの課題が派生した。確固たる天皇制批判を展開することであり、日本の官僚制の種々の欺瞞性を問うことであり、有事立法法案を廃案にすることであり、個人情報保護法を反故にすることであり、そしてそのための自由な精神と認識をもって思想的・学問的営みをすることである。最後の課題は、そもそも自由とはどんなものかである。それは国境なき市民的闘いで求める以外にないであろう。

謝辞
討論パネラーをお願いした笹本征男氏とロバート・リケット氏に深く感謝する。
 湘南科学史懇話会の幹事で毎回、何かとお世話になっている、中村邦光氏(日本大学)、廣政直彦氏(東海大学)、竹中英俊氏(東京大学出版会)、加納誠氏(東京理科大学)に感謝する。
 私の個人的な問題意識から初めた討論会「日本の戦後民主主義とアメリカ」を共催の労をとっていただいた「科学と社会を考える土曜講座」(代表・上田昌文氏)に感謝する。特に当日、遠方のところ早くからお出でいただき、素早い準備と後かたづけをしていただいた土曜講座のスタッフの方々(藤田康元氏、森元之氏、薮玲子氏、瀬川嘉之氏、小林一朗氏)に感謝する。
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』を作る労を担い、大変なお手数をかけ、本書をめぐる多数の書評文をお送りいただいた小島潔氏(岩波書店編集部)に感謝する。


参考文献
●中村正則「『裕仁と近代日本の形成』がもたらしたもの」(『朝日新聞』夕刊、
2000年11月8日)
●石田 雄「占領期日本を生き生きと描く」(『週刊読書人』2001年2月)
●リービ英雄「内側の声聞き近代の深部を探る」(『朝日新聞』4月1日)
●桐山正寿「日米両国民の祈りと願い」(『毎日新聞』、2001年4月29日)
●佐藤佐三郎「敗戦後の激変をしたたかに乗り切った日本人の心の記録」(『週刊東洋経済』、2001年5月26日)
●石田雄「石田雄の書評」(土井たか子を支える会編既刊『梟(ふくろう)』第22号、2001年5月31日)
●春名徹「日本人の心性 連続性見抜く」(『中国新聞』、2001年6月10日)
●橋爪大三郎「戦後日本の原点、詳細に追う」(『日本経済新聞』、2001年6月24日)
●小林信彦「人生は51から」(『週刊文春』2001年6月28日)
●ゆりはじめ「戦後の日本の説得力に富む歴史認識」(『図書新聞』2001年7月7日)
●新井「大波小波」(『中日新聞』2001年7月11日)
●生井英考「占領の「奇跡」を読み解くキーワードは「抱擁」宏壮かつ繊細な想像力で日本社会を心描く」(『週刊朝日』2001年、7月6日)
●中村輝子「現代日本の原点を照射」(『沖縄タイムス』、2001年7月8日)
●「天声人語」(『朝日新聞』、2001年7月9日)
●加藤哲郎「米ソの埋もれた資料から蘇る「敗戦日本」の周辺子」(『エコノミスト』、2001年7月17日)
●都築 勉「精彩を放つ「平和国家建設」」(『信濃毎日』、2001年7月29日)
●「歴史に対する責任とは」(『朝日新聞』社説、2001年8月25日)
●横山和雄「目線を大衆においた日本戦後史」(『ジャーナリスト』第521号、2001年8月25 日)
●吉田 裕「日本人の意識を内側から理解」(『週刊読書人』第2399号)
●都留重人「ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』に異議あり」(『エコノミスト』、2001年8月28日)
●吉田 裕「日米合作だった占領期改革 一国完結型の歴史観超えて」(『朝日新聞』夕刊、2001年8月31日)
●「まざまざと浮かぶ"敗戦"」『ポリマーダイジェスト』2001年8月号
●藤原帰一「歴史家の成熟した視線がここにある」(『中央公論』、2001年8月号)
●山本博文「占領期の全体像冷静に」(『読売新聞』2001年9月2日)
●上田耕一郎「日米間の戦後史に貴重な洞察 印象的な『新植民地主義』分析」(『赤旗』2001年9月5日)
●上田耕一郎「安保、沖縄、9条など戦後史が21世紀に残した遺産への言及」(『赤
旗』、2001年9月7日)
●筑紫哲也「自我作古」(『週刊金曜日』第379号2001年9月14日)
●梅沢正邦「日本人の価値観」(『週刊東洋経済』2001年9月22日)
●『経済』2001年9月号
●『知恩』2001年9月号
●大澤澄子「民衆の姿を通じて描いた「戦後」」(『望郷』、2001年9月号)
●田原総一朗「読書日記」(『Best Book 』、2001年10月号)
●ジョン・W・ダワー「理性の声聞かぬアメリカ」(『朝日新聞』夕刊、2002年1月29日)
●猪野修治レジュメ「ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』を読む」
●笹本征男『米軍占領下の原爆調査-原爆加害国となった日本』(新幹社、1995年)
●マーティン・ハーウィット『拒絶された原爆展』(山岡清二監訳、渡会和子・原純夫訳、みすず書房、1999年

編集部
・本論文は第18回懇話会(2002/02/17、藤沢産業センター)を猪野が原稿にしたものである。第138回「科学と社会を考える土曜講座」(代表:上田昌文氏)と共催。ここで、特筆してこくことがあります。この論文は最初、科学と社会を考える土曜講座の機関誌「どよう便り」第54号に掲載されました。その間、「どよう便り」の編集部の薮玲子氏と上田昌文氏には、並々ならぬご援助をいただきました。厚く御礼を申し上げます。
また、ロバート・リケット氏は「どよう便り」掲載の文章を詳細に校正・加筆されました。記して御礼を申し上げます。
・参加者は36名。深澤捷男、永瀬博美、右近修治、石松一彦、西野全哉、小林一朗、藤田康元、懸樋哲夫、加納誠、梶雅範、森元之、山中幸枝、矢口仁也、廣政直彦、竹中亮太、滝川登美子、吉田義昭、新戸雅章、佐々木 力、若尾幾久子、前田誉正、門倉正善、宮下嶺生、月本房子、竹中英俊、上田昌文、薮玲子、瀬川嘉門之氏、後藤高暁、須川真明、里深文彦、石沢みち子、岡田大師士、笹本征男、ロバート・リケット、猪野修治