論文:朝永振一郎著作集を読む(全12巻中、1巻~7巻まで)

朝永振一郎著作集を読む (Ⅰ)

目次

はじめに
1.鳥獣戯画 (著作集1)
2.物理学と私(著作集2)
3.物理学の周辺(著作集3)
4.科学と人間(著作集4)
5.科学者の社会的責任(著作集5)
6.開かれた研究所と指導者たち(著作集6)

はじめに
 だいぶまえに友人から寄贈された夏目漱石の全集を10カ月ほどかけて読んだことがある。それも時間がたち、そのときどき、私の「こころ」に鮮明に浮かびあがっていた漱石の小説や評論のひとこまひとこまが、うそのように私の記憶から消えていった。なにかメモでもとっておけばよかったと思ったが、あとのまつりである。小説であれ評論であれ、ひとりの人物の全集を読むなどとは、現代のような忙しい時代にあって、よほど暇な人間のやることであろう。そういう意味では、毎日の仕事や私的な生活のなかで、ひとりの人間が、人生のそのときどきになにを考え、なにを発言してきたかを丹念に読み考えるときをもつことは、至難のわざとなっている。

 かつて若くして死去した作家の高橋和巳はどこかにこんなことを書いていた。惚れた女性に思いをつたえたいが、その女性があまりに近いところに住んでいるので、手紙を書く機会がない、そこで、わざわざその女性から遠いところに引っ越しをしたというのである。時代と正面からむきあった高橋和己の生き方とあわせて考えるとおもしろい。

 作家の大江健三郎は、人間大学(NHK)のテキスト『文学再入門』でこんな話を紹介している。文学志望の元外交官の友人が定年になったら、おもいっきり小説を読んでみたいといっていたが、ガンによってその志が断たれたこと、脳に障害をもった大江のこどもが通う作業所で、同じく障害のこどもをもつ母親が、こどもがすこしでも自立しうるようになれば、本格的に小説を読んでみたいといっていたが、その母親も、また若くしてガンによってその目的を果たせなかったことなどである。この目的を果たせなかったふたりの文学志望者の故人への思いをこめて、大江はつぎのようなことをのべている。勇気にみちた静けさのなかで生を終わりたいが、文学には、年齢にそくした、そのときどきの「読みかた」があり、人間の意識には、かたちはどうあれ、自らの生き方を表現したいものがあるものだ。その方法は千差万別であるというのである。

 こうしてみると、文学にかぎらず、われわれの科学にも、ひとそれぞれの読み方、表現の仕方があっていい。この30年というもの、現代科学技術の見直しがもとめられてひさしいが、朝永が生きた時代と科学はどのようなものであって、朝永は、かれが生きた時代や科学や人生をどのように見ていたのであろうか。文学者ならともかく、ひとりの物理学者の著作集がくまれることはあまりない。しかも、かつて、この著作集を全国の教育機関の図書館におくる運動もあって、漱石の小説と同様、その気になれば、だれでも読めることになっている。

 それはともかく、朝永の生きた時代と科学については、科学史家によって、いずれ詳細に分析されることになるのはまちがいないが、漱石の読書の反省と高橋和己や大江健三郎の文章にはげまされながら、ひとりの科学者朝永振一郎の著作集をひとつひとつひもときながら、ひとりの科学者が、そのときどきでなにを考え、なにをいいたかったのかを記しておこうと思うのである。

 ここでひとつおことわりをしておきたいと思います。なにしろ朝永がその生涯において出会ったひとびとは膨大であるし、著作集にも多方面の分野の多数のひとびとが登場する。そのなかから、あくまでも朝永の言動、文章を浮かびあがらせることに重きをおきたい。なおたたき台になっているのは『朝永振一郎著作集』全12巻、別巻3 (みすず書房)である。

1. 鳥獣戯画 (著作集1)
 著作集1は5日ばかりで読んだ。それも通勤電車のなかである。今年は私にとってどんな年になるかしらないが、おそらくこの著作集の読書はこれまでとおなじく、片道2時間往復4時間の通勤電車のなかになることはまちがいない。まあ、あせらず読んでいくことにしよう。

 さて本巻には、 「子どもの情景」、 「わが放浪記」、 「鏡のなかの世界」、 「十年ひとりごと」、 「庭にくる鳥」、 「鳥獣戯画」、 「わが師・わが友」、 「日記抄」、 「対談」がおさめられている。文はひとを表すと先人はいう。彼の文章は、自然のなにげない姿を絵描きのような細やかな目でおい、それを平易にかたっていてじつに読みやすい。そもそも著作集を読んでみようと思ったのも、その文章の読みやすさにあった。

少年のころから病弱であった著者は、それゆえになにごとにも消極的な子どもであったようだ。それが高校生になって物理を専攻するころになっても、そうであったらしい。大学を卒業して仁科芳男にさそわれて理化学研究所に勤務する際にも、相当にためらっている。そして少年時代はひととの接触をさけ、できれば現代文明からほど遠いタチヒにでもいってくらしたいと本気に考えていた。

 のちに物理学者となる著者であるが、物理学や物理学者を非人情的な学問や人間とみている。ドイツ留学時代に同じ留学生仲間のインド人が雪におおわれた森のなかで凍死し、みなが悲しみにくれているとき、かれらのドイツ人の先生であったハイゼンベルクは、そのインド人の死の事実をかんたんにのべたあと、なにごともなかったかのように物理の数式を黒板に書きはじめたという。その様子から朝永は、 「物理学という非人情的なものに瞬間的に移り変わり得る人たちが、大変異様なものに見えた」とのべている。自分がかかわる物理の世界にたいする感覚的なものの見かたや感じ方は、科学と人間の問題を考察するときにはかなり大切なことのようにも思う。また思い出ばなしとして、仁科芳男と坂田昌一と3人で自然の美しい御殿場(YMCA研修所「東山荘」)で合宿したさい、こんなことをいっている。 「あたりの自然がみずみずしく美しければ美しいで、物理学的自然などという灰色の世界をいじくりまわすことの何と空虚なわざであることよ、しかしそれと同時にこんなことをいう自分が、イソップの<すっぱい葡萄>に登場する狐のようにひねくれた人間に見えてきたりする」。

 朝永は湯川秀樹となにかと比較される。朝永は湯川をどう見ていたのであろうか。朝永によると、湯川の思考の流儀には、遊びの要素が入る余地がない、という。つまり、 「あけっぱなしの点とか、間のぬけた点とか、とぼけた点などがなくて、いつも正座している」感じであったという。この視点はたんに性格的な側面にとどまることなく、思考形式にも関係するといえるかもしれない。

「趣味はなんですか」と長谷川泉に聞かれて、 「小鳥にえさなどをやって時間をつぶす」とさりげなくかたっているが、著者の鳥への思いは相当なものである。ドイツ留学時代の日記には、当時のドイツの政情と留学生としての孤独感が静かにゆったりとえがかれているが、その文章から読みとれる朝永の精神は文学青年のようだ。

2. 物理学と私 (著作集2)
 この2巻の月報で、朝永と湯川を観察する機会があった朝永の弟子の物理学者の亀淵迫(●)は両者にかんするおもしろい比較と対比をしている。それによると、朝永一湯川の順に、理性的と感性的、数学的と哲学的(Dirac的とBohr的)、批判的と構成的(pauli的とHeisenberg的)、分析的と総合的、保守的と革命的、西欧的と東洋的、 artisanとartist、 realistとidealist、慎重と大胆、明噺と深遠、名人と天才。

 これらの比較論は、朝永と超多時間理論、くりこみ理論、集団理論の取り扱い方と湯川の中間子論の取り扱い方はもちろん、両者の物理学の著作にも適用されると分析している。この比較は著作集を読みすすめていくとき、たびたび登場するものと思えるので記憶に留めておこう。

 本巻は、 3つの講演を集約した「物理の考え方」、小谷正雄が学長をつとめる東京理科大学が主催した特別セミナーで、桑原武夫、渡辺格とおこなった講演と討論「物理学と私」、著者がかかわった人々を追悼した「忘れえぬ人びと」、それに研究生活上の「思い出ばなし」からなっている。

 はじめの「物理の考え方」の講演で著者は、 「ベールをめくる物理学とベールをめくらない物理学」というおもしろい考えを披露している。ノーベル物理学賞のメダルの片面はノーベルの横顔があり、その裏面にはサイエンスを象徴する女性が、ベールをかぶった女神を、そのベールをめくりあげて女神の顔をのぞいているという。これははなはだ失礼なおこないだというのである。つまり科学というのは、 「普遍的な宇宙法則をみつけるために、自然がかぶっている空気の抵抗とか熱とか、そのベールをまくり上げてのぞく」という大変に失礼なことをやっているというのである。物理学という学問は自然にたいして失礼なことやることで、普遍的な法則を見いだすものだ。これまでのノーベル賞受賞の対象となった物理学は、すべて、このベールをめくるほうの研究であったという。

 これにたいして著者は、ベールをめくらない物理学、つまりベールをかぶったままの姿を研究する物理学に、しかるべき上位の地位をあたえるべきだというのである。ではベールをめくらない物理学とはなにか。著者はそのひとつに地球物理学をあげている。この視点は重要である。ガリレオ的な近代科学の要素還元的思考とはべつの科学の思考を提唱しているのである。この講演はいまから20年もまえの1973年のものであることを思えば、こんにちの環境問題にたいして物理学はどうこたえるか、という問いへのひとつの方向を暗示したといえる。

 さらに、科学と人間のあり方についての講演では、原爆製造にかかわったオッペンハイマーの「罪の意識」についての言動を分析している。つまり、 「ある種のなまなましい意味において、物理学者は罪を知ってしまった」という言明にこだわりつつ、それでも人間は、矛盾したことをやらねば生きていけない存在でもあり運命でもあるのだという。こうなると、人間には科学は必要ではないのかというと、朝永はそうではないという。朝永は対談「科学の意味」でも科学は毒にも薬にもなりうるという科学観をのべている。それによると、科学は善いとか悪いとかいうものでなく、ただ「ある」としかいえない。人間もおなじで、善いことが悪いことにもなりうる。だから科学は毒にもなるし、逆に毒が薬にもなるというものだ。

 だから科学を善いものとか悪いものとかに、かんたんに決めると間違いがおこる。したがって、毒と薬という二律背反的な関係は、科学に限らず人間にもあてはまる。宗教の世界にも、不寛容や自由な精神への抑圧がある。

 終局的には宗教戦争に発展することもある。それでも宗教は必要であり、宗教家は人間のいろいろな苦痛をつうじて、宗教を再考する動きが歴史的にあった。宗教を再考するところから近代という精神が登場したのだ。その意味で科学もいま見直しの時期にきているとのべている。科学に善悪の判断をつけることではない、 「科学がただあるだけだ」という朝永の科学観は、本書の講演の基本的な思考に普遍されている。

 ところで、第二次世界大戦中、朝永は、海軍の要請によって、磁電管の理論的研究とりわけ電気振動の起こる過程(発振機構)を説明する理論的研究にあたっていた。その研究は戦争終決直前に極超短波の立体回路の一般理論としてまとめられた。共同研究者の小谷正雄によれば、そのときの研究は、朝永にとっては軍事研究の意識はなく余技を楽しむような気分の研究であったという。

3. 物理学の周辺 (著作集3)
 読書メモも3回目になった。これまでのメモをふりかえると、まだまだきになった点があることにあるのに、割愛せざるをえないのはなんとも歯軽い思いである。私的な読書メモをいくら書いてみたところで、読み手の問題意識が明確でないと意味がないではないか、と自問もするが、朝永の著作を読み考えること、そのことが、目的意識だといい聞かせて、さらにすすめていくことにする。ここはがまんしてすべての文章にコメントしていくことにする。

 この巻は、 「物理学の周辺」、 「物理学雑感」と題した対談と講演で構成されている。朝永がアメリカのプリンストン大学から帰国してまもない1965年5月、弟子の田地隆夫と福田信之との座談でおもしろい人物評を展開している。たとえばこんな調子だ。初対面にもかかわらず、自分の恋人の話までする気安さのファインマン。頭脳明噺なかつて原爆製造のマンハッタン計画の責任者オッペンハイマーは、目からⅩ線でもでているように鋭くこころの中を見ぬかれている感じ。朝永とともにノーベル物理学賞を受賞したシュヴィンガーは気難しくとっつき難い感じ。イギリス風の紳士で気持ちのいいダイソン。いつもポケットに計算尺をいれているフェミル。ハイゼンベルクの弟子でいちばん優秀だったハンス・オイラーの戦死のことなどである。

 朝永の科学観をすっきりとしたイメージさせるこんな会話もある。科学方法論の提唱者として有名な武谷三男は、「いつもひとの悪口ばかりいっているやつだが、 かれにはめられるとやはりうれしい」、と。弟子の福田信之が、武谷の方法論的考察が日本の理論物理学、たとえば、 C中間子論の発展に寄与したが、しかし、自分にはピンとこないとのべると、朝永は、 「ピンとこなくたっていいじゃないか、何も方法論そのものがわれわれの目的じゃないんだから。君は君の、僕は僕の方法論でこだわらずにやれば、物理学の場合はちゃんとアンパイアがいる、自然というね」と応えている。これは方法論に執着する武谷とはちがうものの考え方である種の科学的知におけるアナキズムだろう。

 1917年から77年までのいくつかの講演から朝永の論点をさぐってみよう。 「非常識というのが科学の本質だ」、 「常識を修正したものが科学だ」。もちろん常識とはアリストテレスのものの見方をさす。常識を修正した科学とは、ガリレオにはじまる自然を徹底的に抽象化した自然であることはいうまでもない。常識の科学は大変に難しいが抽象化した科学は簡単である。そのさいたるものは天体の運動である。天体現象が起こる舞台は、空気のない真空の場の現象で、ニユウトンの運動法則に完全に従うからである。つまり、科学の本質は、自然のベールをはがすことで、はじめて意味をもつようなものである。これにたいして、朝永はことあるごとに、 「あるがままを対象とする物理学」とか、ベールをはがすことのない、ありのままの自然を研究する学問の必要性と存在意義を強調する。そのひとつに地球物理学をあげ、こうのべている。 「ここでは、ニュートンのように、ただの質量のかたまりというのではなくて、むしろガリレオが邪魔者と考えた大気の存在、ガリレオ、ニュートンらによって捨てられた空気、水など、それ自身を対象とする物理学もあるのです」。さらにガリレオやニュートンのベールをはぎとる学問は「自然にたいする冒涜である」ともいう。

 この思考は当時流行した「ディスカバー・ジャパン」という用語にもむけられる。このことばは、ありのままの自然のベールをはぎとることにはかならず、 「日本列島を被う木や草をブルドーザーではぎとることだというふうに解釈すると、ぴったりする」というのである。ではベールをはぎとるような学問は完全にやめてしまえということになるのかというと、朝永はそうではないという。ベールをめくる物理学とそうでない物理学を融合することだともいう。これはこんにちのことばでいうと、近代科学は、色、匂いなどの第二性質をすべてすてさり、第一性質だけの世界で成立したものだが、それだけではいけない。第二性質をも対象とする学問が必要だということだ。これは、素粒子や量子力学という第一性質だけの、つまりベールをはぎとる学問でノーベル賞を受賞した朝永のことばだけに、この指摘はおもい自戒のことば、ともとれる。

 さらに、朝永は 「物理学帝国主義」というショッキングなことばを使う。物理学は実験をとおり道にする抽象化した世界であるが、その物理学の成立を「抽象化することによって、あらゆる現象をその中に取り込んでしまう、そういう帝国主義的というようないささかショッキングな言い方を避けるなら、普遍学ということばで物理学の性格を言ってもよい」とのべている。朝永によると、そもそも物理学帝国主義ということばは、桑原武夫とスペインの哲学者オルテガがはじめてつかったとのことだが、このあたりから、現代物理学にたいする嫌悪感、罪悪感がうまれる。それ以前にガリレオやニュートンの科学に徹底的に嫌悪感をいだき、それを批判した文学者がいた。かの有名なドイツの詩人ゲーテである。ゲーテは『色彩論』や『ファウスト』、とりわけ前者でニュートンの科学とりわけ光学は、自然を拷問にかけていると激しく非難している。すべての自然法則が数学によって決定されることへの憎悪の情である。さらに素粒子なども、自然を徹底的にいじめないかぎり、その顔を見せないものだ。このような帝国主義的性格をもった物理学を朝永はこうのべている。 「物理学というのは、恐ろしい学問だとつくづく思うことがある。けれども、それじゃここまできたものを、恐ろしい学問だからやめろといっても困るんで、いまやめてみても、もう物理学の知識は山ほどあるわけですね。 ・・原爆、水爆の知識はみんな知ってしまっている。唯一の道は、あらゆる物理の本を焼いてしまって、物理学者はすべて月の世界へでも引っ越してもらう、そうでなければ、いったん得られた知識はなくならないわけですよ」、と。

 このような自然の数学化、普遍化という帝国主義化は、自然科学の世界だけでなく人間社会のすみずみまで浸透しており、ますますそれがその幻想化・神話化されていると、朝永はなげいている。ではどうするか。この難問題は朝永にも自明ではない。

4. 科学と人間 (著作集4)
 1974年12月、三木内閣が成立し、そのときの文部大臣永井道雄は、 「文明問題懇談会」を組織し、日本の代表的文化人の知恵を結集し議論を要請した。検討課題には、科学技術と文化、コミュニケーションの発達、伝統の創造的継承、学問の価値の再評価、社会の高度の組織化に伴う人間評価、そして生活の質とモラル、などがあげられた。この文明懇談会は12回開催されたが、朝永は第1回を除き11回に出席している。委員のメンバーをみるかぎり、永井の出身大学の京都学派の学者が主流となっているのも無理はない。

 ここでの議論は専門分野のことなる多様な人物が問題を提起し、それを叩き台にして議論するというものであった。そのなかから、いくつか、朝永語録のエッセンスをひろってみよう。原爆の出現によって科学者のなかに原罪意識がうまれた。科学自身は毒があるが薬にもなりうるので、副作用を最小限にとどめることを心がけるべきである。科学者の原罪意識の根拠として朝永があげるのは、原爆製造の責任者オッペンハイマーのつぎのことばである。 「物理学者は罪を知ってしまった。そしてそれはなくすことのできない知識である」 (The physicists have known sin, and this is a knowledge they cannot lose)。すべての生徒を数学好きにするような教育は非常に「おそろしい」ことである。日本人には、自然科学の知識にたいする罪の意識がない。ヨーロッパでは、自然と人間の対立という関係を経験しているがゆえに、罪の意識が形成されている。諸悪の根源である核兵器をつくりだす科学者の心理には、競争に負けることへの恐怖心がある。このような科学者の競争にたいする恐怖心を払拭する方法をさぐっていくべきであると説く。

 この巻に収録されている講演・対談は、表現の仕方はことなるにしろ、この観点から一貫して論述されている。たとえば、 「現代科学のメフィスト的要素」、 「人間は科学なしでは生きられない存在である」、 「物理の世界は、あまりにも非人格的・非人間的である」、 「科学者の恐怖心と疑心暗鬼」、 「科学者の"心配"という衝動」、 「恐怖心のない世界を早くつくらなければならぬ」、 「物理学帝国主義」、 「原子力の研究は人々に幸福をもたらすか」など、ということばのなかに、朝永の科学観がたんてきにあらわれている。

 だそくながら、これにたいして科学記者の草分け的存在で昨年死去した田中慎次郎はジャーナリストらしいパンチのきいた「逆説」を展開している。核兵器を生みだした近代文明は人間くさい社会である。人間がつくった核兵器というのは、科学、技術、政治、経済をふくむ十分に人間の匂いのするものだ。だから核兵器の問題は人間対人間の問題に帰着する、という。いわば近代文明の「人間くささ」とは、そういうもので、その人間がつくりあげたものは、自然そのものではない、というのである。

 となると近代科学の文明のなかにどっぷりつかっているわれわれは、朝永のいう人間的とか人格的ということばを、どのように受けとめるべきなのであろうか。ことばそれ自体がいろあせてはいないのかとも思う。

 わたくしごとではあるが、現代の政治情勢には関心をむけつつ、ささやかな発言や行動はしてきているものの、 「政治学」などという学問には、これまであまり関心をむけてこなかった。しかし、多少なりとも科学技術史を考察するにいたってからは、それがコペルニクス的転回をすることになる。さまざまな学問のうちでも、政治学は最高度の位置をしめしているのではないかと思うようになってきている。科学思想の歴史的考察には、そのときどきの政治情勢の分析が枢要なことがらであるからである。

 ところが、朝永は原子力基本法の成立にかかわるが、そのさいの政治家側の当事者で改憲論者の中曽根康弘は、朝永をはじめとする学術会議は非学問的要素があるとしたうえで、 「発言しているひとが片寄っている」と批判し、 「意法解釈や自己の進退の問題は個人の権威で決定すべきだ」とのべていることに注目すべきである。 1959年12月のことである。明確な朝永批判である。

5 科学者の社会的責任 (著作集5)
 本巻は文字どおり「科学者の社会的責任」として、科学者朝永がいたるところで論じた真撃な議論である。ここでの議論はおおきくわけて、ラッセル・アインシュタイン声明にはじまったパグウォッシュ会議への取り組みとその歴史、この会議への取り組みから学んだ核抑上論批判、またその精神を発展させ、湯川らともにはじめた科学者京都会議への道程の話である。米ソ冷戦構造と核実験が続行する困難の時期に、朝永がどのようにいかに核実験禁止運動に取り組んでいったかが、くりかえしくり、くりかえしのべられているのでじつにわかりやすい。それらを順をおって見ていこう。

 まずバクウォッシュ会議である。この会議はそもそも、 1955年7月、哲学者バートランド・ラッセルと物理学者アルバート・アンシュタインが中心となり、 11人の著名な科学者が東西のイデオロギーにとらわれず、核実験の禁止、軍縮・平和などの諸問題について発した声明にもとづいて開催されたものである。この会議は、一般世論に核軍縮を流布すること、核大国の政府に核実験禁止運動をよびかけることなどを目的とする。

 第1回会議は、 1957年7月6日から10日まで、カナダの小さな村バクウォッシュ(Pugwash)で20名の科学者がひざをまじえながら開催された。それ以後、この会議はその地名をとりバクウォッシュ会議(正式には、 「科学と国際間題に関する会議」 (conference on Science and World affairs)と名称されることになる。

 この第1回会議に、朝永は、湯川、その甥小川(岩男)とともに参加した。朝永によると、この記念すべき会議は、はじめてのこともあり、各国の科学者(20名)たちは非常に慎重で緊張したものだった。討議の議題は核実験から発生する放射能障害の問題および核戦争による環境破壊の問題、国際緊張の緩和と軍備競争の禁止をいかに実現するか。科学者の役割はいかなるものか、といったものであった。それ以後、毎年ごとに場所をかえ開催される会議の議論のありさまは本書にゆずるが、この会議をつうじて朝永はしだいに「科学者の社会的責任」のイメージを深化させていく。

 人間は、あるものごとについて思考したり行動を起こしたりするとき、意識するとせざるとかかわらず、ひとそれぞれの内的原動力いわば思考原理・行動原理があるものだ。あるものは「人類愛」であり、あるものは「宗教心」であったりと、さまざまであるが、朝永のそれはどのようなものであったのであろう。ここに朝永の行動原理の根本思想ともいうべきで言明があるので要約しておきたい。

 矢内原忠雄は戦争中に権力に屈せず平和の信念をつらぬいたが、かれの場合は信仰があった。しかし朝永は熱烈な信仰心をもたない。強い宗教的信仰心をもった人間からみると、自分の平和論はおかしなことになってくる。矢内原は原爆出現より前から戦争批判をやっていたが、朝永には宗教心もキュリーのような人類愛もない。そのような宗教心も人類愛もつよくない、勇気もないものは、なにをよりどころにすればよいかと考えるとき、これはついていける、どうしても否定できないと思ったのが、アインシュタインの声明であって、いわば、 「人類という抽象的理念を実際化」することであった。とりわけ朝永はアインシュタイン声明の最後の文章「・・・私たちは、人類として、人類にむかってうったえる・・・あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ・・・」 (We appeal, as human beings : Remember your humanity and forget the vest)ということばにかぎりなく思いをよせるとともに、つぎのように解釈している。 「ここに言われる人間性という言葉を、われわれ人間が持つところの、その生き続けるための知恵と解したいのであり、また忘れよと言われている他のこととは、当時はイデオロギー、国籍、人種、宗教、等が合意されていましたが、現在の状況のもとでわれわれはそれをむしろ価値観を退ける狭い専門家的思考形式であると解したいのです」、と。

 これが、朝永がものごとを考えるさい、よりどころとした思想と行動の根本原理である。いくたびかのバクウォッシュ会議の体験をつうじて、米ソ両核大国の科学者から「核抑止論」が発せられるたびに、核兵器が存在することを前提とする平和論、 「逆説的平和論議」を批判していくのは、まさに、このような根本原理からであった。こうして朝永は、逆説的平和論の核抑止論にたいして具体的な批判を展開していくが、 1961年9月3日、湯川、坂田とともに声明を出し、核抑止論ではない「あたらしい構想」をたてる。それが京都科学者会議へと結実していく。核抑止論にかわるあたらしい構想をたてることになる背景には、上記なような根本原理があったのはもちろんだが、貧困と飢餓と疫病になやまされている人々がいるが、それらのひとびとの存在を無視するかのように、莫大な金と頭脳が湯水のごとく兵器の生産に投入されている、という矛盾した現実にたいする強い問題意識が、朝永にあったのはいうまでもない。

 最後に、本巻の解説で第1回のバクウォッシュ会議に朝永と参加した小川が、科学者が社会的責任を論じることと、科学者がその責任を果たすことは、まったく別のことであり、自らの責任を人知れず果たす者の苦悩ははかりしれないといっていることばが脳裏からはなれない。

6. 開かれた研究所と指導者たち (著作集6)
 本巻の解説で玉木英彦は本巻を、朝永と師匠仁科芳男の関係を示す「第一級の科学史資料の意味をもっている」とのべているので、こころして読んでいくことにしよう。おおきくわけて、 3つのことがのべられている。仁科芳男と理科学研究所、湯川秀樹と基礎物理研究所、菊地正士と原子核研究所、その他プリンストン高級研究所などについてである。

 まず仁科と理研についてである。1965年、 朝永は超多時間理論・くりこみ理論・多対問題の業績でノーベル賞を受賞したことは周知の事実である。この輝かしい業績をあげた朝永ではあるが、それは、日本の原子物理学の祖といわれる仁科の存在をぬきには考えられないことであろう。それというのも、朝永が物理学の研究者になった最初の動機は、京大卒業後、仁科にスカウトされ理研に赴任したことにあった。

 仁科は、 1921年、キャヴェンディッシュ研究所のラザフォードに師事したのち、翌年の22年にゲッティンゲン大学に留学、 23年4月からは、コペンハーゲンのボーアのもとに身をよせ28年に帰国する。このかん仁科は、ボーアの指導のものとで培われたコペンハーゲン精神を体現するとともに、帰国直前の28年には、 「クライン・仁科公式」を定式化した。このクライン・仁科公式とは、玉木英彦によると、 「ディラックの相対論的電子論によってⅩ線のコンプトン散乱の有効断面積を計算したものだが、これはディラックの理論の難点と見なされていた負エネルギー状態を勘定に入れる必要を最初に例示ものとして大きな意義をもっている」という(『科学史技術史思想辞典』、広文堂、 1983年、 p.761)。

 そもそも仁科は電気工学の出身であるが、 31年理研に独立の研究室をつくったあと、実験と理論の両面の研究にかかわり、宇宙線の本性の研究、原子核物理学の研究に精力的に入っていく。なお、仁科が死去するのは1951年である。

 一方、朝永が理研にくるのは1932年であるが、そのいきさつはこうである。仁科は31年から京都大学で出張講演をしていたが、その講義を聞いていた朝永と湯川が食事にさそわれ、クライン・仁科の公式、クラインの手紙、ボーアのことなどのことを聞かされた。その直後の31年に理研招碑の手紙をもらったのがはじまりだ。この32年の春に中性子、秋に陽電子が発見された。坂田が33年、玉木が34年に理研にくる。 33年の7月には、仁科、坂田と御殿場のYMCAの研修所「東山荘」で合宿し、ディラックの空孔理論(Hall Theory)の計算、 34年の夏には、小林、玉木の3人でディラックの名著『量子力学』第二版の翻訳をやっている。そのとき仁科は家族をつれていたという。37年にはボーアが理研にきている。こうして仁科のもとで、物理学の研究にはいっていくが、朝永によると、仁科はデカイことばかり考えている「山師」で「親方」のようなところがあって、仁科の論文は連名論文ばかりだという。 37年には、小さい加速器(サイクロトロン)が完成する。

 このころから、素粒子論と原子核理論が分化しはじめる。 38年には、仁科は弟子の生物学者の中山に、植物に中性子をあてる変異の研究をやらせるなど、 「何でも屋」であった。武谷は、 「仁科先生のいいところは何でも素人だったことだ」とのべているという。 44年の暮れに実験に使えるまでになったサイクロトロンが、 45年の空襲で破壊され実験ができなくなる。

 45年8月、広島に原爆が投下されたさい、仁科は留守番役の玉木や木村に、行き先も目的もいわずに広島に行く。そのとき玉木は置き手紙を見たという。仁科は深刻に責任を感じていて、弟子たちはたいそう心配したそうだが、広島からかえった仁科は態度が豹変して「これからはまるで時世が変わったのだ」といい、弟子たちはあっけにとられたという。

 その後、サイクロトロンは原爆につながるとされ、占領軍によって東京湾に沈められ、京大・阪大のも破壊され原子核研究が不可能になる。占領中、日本の原子核研究は、米軍の極東委員会の管理下におかれるが、その委員会の命令によると、 「原子分野におけるすべての研究は基礎たると応用たるとを問わず日本において禁止する」とある。このへんの事情については、最近の論文、小沼通二・高田容土夫「理研サイクロトロンの破壊について」 (『日本物理学会誌』 46巻6号p.496. 1991年6月)、同「日本の原子核研究についての第二次大戦後の占領軍政策」 (『科学史研究』Ⅱ、 31、 p.138・ 1992年)、同「第二次世界大戦の日本の原子核研究と極東委員会」 (『科学史研究』 Ⅱ、 32、 p.193.1993年)にくわしい。

 そうこうしているうち、 51年1月、仁科が死去してしまう。その5月、サイクロトロンの発明者ローレンスが来日し、ローレンスを含む進駐軍の経済科学局と日本の科学者の会談の結果、朝永は仁科のあとをついだ学術会議の原子核研究委員会の委員長として、サイクロトロンをつくる準備にとりかかっていく。その他、戦後の加速器や宇宙線の研究の状況がのべられている。

 つぎは、湯川記念館から基礎物理学研究所の設立に至る過程とその設立思想の話である。日本で最初のノーベル物理学賞を受賞したのは湯川であった。湯川は、 1934年、中間子を予言し、 「素粒子の相互作用について」 (1935年)を発表。 47年には二中間子が実験的に検証され、 49年度のノーベル物理学賞を受賞した。これを記念して1952年7月21日、京都大学に湯川記念館が設立される。この記念館はのちに基礎物理学研究所となっていくが、その運営の方法は、アメリカのプリンストン高級研究所の運営方法をモデルとしたものであった。つまり、その運営方法の思想は、第一-は、特定の大学だけでなく全国の大学の共同利用とすること、第二は、人事を流動化させ研究を活性化すること、である。

 このようなプリンストンモデルをとるきっかけとなったのは、朝永が学術振興会の『学術月報』に書いた文章である。この朝永の考えを文部省が支援するところとなり、この構想が実現する。朝永によれば、物理学の研究は、ニュートン、マクスウェル、アインシュタインらの時代は「個人の研究」に負うところが大きいが、量子論の時代になると、物理学研究の主体が個人からコペンハーゲン・ガイストのような「ガイスト」になってきた。ここでいうガイストとは、ヘーゲル流のガイストだ。つまり、人間と人間の間に漂っている超個人的なもの、個人の単位ではなく、さまざまな人の思想の交換の間にうまれてくるものだ、という。このガイストは、仁科がかつて健在であったころ、理研の研究者集団のなかにかんじられたある種の雰囲気でもあった。このような雰囲気のなかから、湯川の中間子論も朝永の超多時間論もできたのだという。ここでも朝永はおおきな役割を果たしている。

 つぎは原子核研究所の設立をめぐる話題である。

 さきにのべたように、ローレンスの支援もあって、日本原子核研究が再開されることになった。 1952年講話条約が成立し、巨大加速器をもつ共同研究所をつくる検討がはじまると、朝永は藤岡や菊地とともに、原子核研究所の内容をにつめ、湯川記念館から発展した基礎物理学研究所とおなじく、東京大学に附置した全国共同利用の研究施設、とすることになった。

 この研究所は田無町につくられることになったが、田無町民は、原子核研究施設設置の反対運動を展開することになる。町民の反対理由とはつぎのようなものであった。第一は、戦後のまもないときに、みなが生活にこまっているのに原子核研究所とはなにごとか、第二は、科学者たちは、原子核研究と原子力研究はべつものだというけれども、政治の力によって原爆や爆弾などの兵器がつくられる可能性が十分に考えられる、それに放射能もれの問題がある、というものであった。この町民の考え方は、じつは、科学者の一部にもあったものだった。 これにたいして、朝永などの科学者たちは、町民と対話をかさね説得する。その論拠は、いまの政治のいつわりにみちたありさまを考えると、そう懸念されてもしかたがないことかもしれないが、純粋な原子核の研究はどうしても必要だ。科学者は、国民にたいしてまじめな研究をやる義務をおっている。これまでも、ほそぼそながら原子核の研究をやってきていたからこそ、ビキニ事件にも、放射能の死の灰の分析にも、それなりに対応できたのだ。かんたんにいえばこういうことだが、なんとも説得力にかける。こうして、朝永は菊地や熊谷とともに、原子核研究の必要性を説いてまわる。その結果、なんとか町民の合意をとりつけ、共同利用の原子核研究所は、 1955年7月15日に設立する。

 原子核研究所の必要性を説いた科学者がわの論理は、原子核研究と原子力研究の区別があきらかでない一般の住民にはなんの説得力をももちえない。朝永や菊地や熊谷たちは、町民との対話で、どのような話をしたかはここではあきらかでないが、おそらく、私の推測だが、原子核研究と原子力研究について、かなりつっこんだ詳細な説明をしたにちがいない。そうでないかぎり、町民が受け入れるはずがないからである。そのてんから考えると、 1955年1月号の『中央公論』に発表した朝永の論文「原子核研究と科学者の態度」はきわめて重要である。というのも、「物理学の本流」などというドキットとすることばをもちい、 「原子核研究がぜひとも必要だ」と、力説しているからである。そのねらいはもちろん一般のひとびとに、原子核研究の必要性を説明するものであったことは、いうまでもない。

 このなかで朝永は原子核とその歴史をのべたあと、日常生活にはなんの役にもたたず、また原子爆弾のような凶器をもうみだしうる、さらには、知識のための知識をもとめる研究をなぜしなければならないか、と問題をたてる。そして、その答は歴史のなかにあり、科学にはさまざまな功罪があるが、しかし、歴史の流れをとめることはできないなどと、抽象的なことをのべたあと、本論に入っていく。

 原子力と原子核がよく混同されるが、事実はちがう。原子力は原子核の目的ではなく、原子力は原子核内の現象のなかの、きわめてまれな現象にすぎず、 「物理学の本流」のひとつの技にすぎないという。さらに、物理学の本流は、原子核のなかの陽子や中性子の結合と運動の解明、さらに、陽子、中性子自身の構造を調べることにある、ようするに、原子核の内部をさぐることである。したがって、原子核研究と原子力研究はめざす方向ももちいる装置をまったくことなるとのべる。

 こうはいっても、原子核研究から原子爆弾、化学から細菌兵器がうまれたことはじじつである。これは科学全般の問題であり、原子核研究はあぶないと思われるのは当然であるともいう。それでも朝永は、どういう事態でも、 「原子兵器と直接の関係もないことであり」、原子核の純粋な基礎的研究をやめるわけにはいかない、というのである。

 こうして設立した原子核研究所であるが、この朝永論文が書かれて40年経過した現在の原子核研究所の研究実態は、いかなるものであろうか。それは、朝永のことばをかりれば、 40年間の原子核研究所の研究内容が一般のひとびとになにをもたらしたかの「歴史」をつぶさに検討することであろう。その仕事は、科学史家と現場の研究者の使命でもあるはずである。

7. 物理学とは何だろうか (著作集7)
 本巻は、漱石の『明暗』ならぬ未完で絶筆となった『物理学とは何だろうか』上、下(岩波新書、 1979年)と、同演題でおこなった日本物理学会創立百年記念特別講演(1977年10月8日)からなっている。

 前著書は、1980年度の大仏次郎賞受賞作品である。とうじこの作品は、朝永の物理学者としての最後の仕事として、原典にくまなく目をくばった文字どおり著者自身の「物理学とは何だろうか」を問うものとして話題をよんだ。本書の最終章Ⅲ-3の「熱運動論完成の苦しみ」の最後の部分の原稿「二十世紀への入り口」は、 1978年11月22日、病室での口述筆記になっている。それを考えると、私の推測にすぎないが、続編として、相対論や量子論の現代物理学まで書きたかったのではないか、とも思う。

 さて、ここでは前著をあつかうことにする。本書の構成は大きくみて、序論が本書執筆の動機、第Ⅰ章が近代物理学の創世期、第Ⅱ章が技術の進歩と熱の科学の確立、第Ⅲ章が近代原子論の成立と分子運動論の形成、となっている。以下、順をおって、その骨組みを見ていくことにしよう。

 序論では、自然界におけるもろもろな、とりわけ無生物にかんする現象の奥に存在するものを、観察事実にもとづいて追求するのが物理学だと規定する。その物理学が成立するのは、ふるい時代の錬金術・占星術・魔術などの神秘性をもった、一種の神秘哲学から自然学が開放され分離独立し、ひとつの学問となった16―17世紀ころまでの過程を概観する。その概観とは、コペルニクス、ケプラー、ガリレオであり、最後にニュートンによって確立される過程である。

 では、近代科学や近代の物理学の確立に貢献した上記の人物たちは、どのようにものごとを考えたのであろうか。これが具体的にのべられるのが、つぎの第Ⅰ章である。 「ケプラーの模索と発見」では、数学の達人で占星家でもあったケプラーと肉眼で高精度の天体観測をしたティコ・ブラー工との出会いと、ティコの死後、その観測結果をもらい受け、ケプラーが火星軌道運動の発見、ひいては太陽系内の惑星の楕円軌道を発見する過程である。ここはよく知られた話であるので、結論だけをのべておくことにする。つまり、こんにちの有名なケプラーの三つの法則である。つまり、 (1)すべての惑星は太陽を焦点とする長円上を運行する。(2)太陽と惑星をむすぶ動径が単位時間に描く面積は一定である。(3)惑星周期の二乗を軌道の長径の三乗との比は、すべての惑星にひとしい。

 ここで忘れてならないのは、惑星や物体の運動を続けさせる力の原因は、神秘的な想像物「運動霊」であったことだ。「ガリレオの実験と論証」では、かの有名な『天文対話』や『新科学対話』を内容をかいつまみながら、アリストテレスの運動論を反駁した等加速度運動、慣性運動、投射運動などの説明である。ガリレオは近代科学の祖といわれるが、 「自然の書物は数学の言語で書かれている」ということばに象徴される、自然記述の数学はここにはじまるが、これはきわめて現実性をおび、ニュートンによって、さらに徹底されていく。

 「ニュートンの打ち立てた記念碑」では、ケプラーやガリレオなどの先人の力をかりつつ、ニュートンが総合・統合した科学史の古典 『自然哲学の数理的原理』 (通称『プリンキピア』)の話である。ここで、ニュートンは、万有引力の法則、こんにちの微分積分学の考え方をつくりあげ、天空の理論と地上の理論を統合するのである。こうして、自然界のすべての運動を数学的に説明したニュートンは、特異な神の存在を信じてやまない。万物の運動をつかさどるもの、つまり力の原因は 「無限より無限に偏在する、至知志高の存在」であった。

 「錬金術から化学」では、上述したことと平行して誕生した化学の成立過程が、ロバート・ボイルをつうじてのべられる。錬金術や占星術の背後にあった哲学には、賢者の石、エリキサ(錬金薬)、第五元素などの存在があった。この哲学には、アリストテレスの哲学が関係し、たとえば、第五元素は、万物に浸透しており万物の活力の源泉の世界霊がある。その世界霊をとりだすことができれば、 「神が物質世界に授けた創造力」を、人間が手にすることができる、というものである。

 ボイルは、『粒子哲学の考えかたを説明するのに役立つ化学実験の若干の実例』 (1659年)、 『懐疑的化学者』 (1661年)のなかで、世界霊、錬金薬、賢者の石といったアリストテレス的な固定観念を排除し、自然支配のための化学の役割を説いている。ボイルによってはじめて化学は錬金術の呪縛から解放され独立していくが、化学と原子論の「同盟関係」が明らかになるには、一世紀半後、ジョン・ドルトン(1766-1844)の登場をまたねばならなかった。

 さて第Ⅱ章にはいる。正直いって、これからのべる熱学をめぐる議論の歴史はよくしらない。それというのも、これまで、私は、アリストテレス、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、ニュートンといった、力学的世界像の形成の歴史に関心を向けてきていて、もっぱら、これらの人物の個別の著作にあたってきていたからである。環境問題がうんぬんされるさっこん、熱学の重要性はとみにましていることでもあるので、ここは注意してフォローしていこう。

 この章は、科学と技術の相互関係の考察からはじまっている。一般に技術は経験に基づいた断片的な知識、科学は個々の技術に共通する普遍的な知識であるとされる。現代では技術と科学を区別するのが困難なほど、相互に複雑にからみあっているが、ここでは、技術上の発明・発展が科学の進歩をうながした例をあげている。望遠鏡の発明(1607年)が、ガリレオやケプラーやニュートンの天文学や光学に大きく寄与したこと、水の吸い上げポンプの技術が、トリチェリーの実験を誘発し、やがてパスカル(1623-1662)の科学的実験によって真空や気圧の説明に発展していく。

 こうした技術と科学の関係で熱の物理学、熱の科学を考えるさい、重要な役割を果たした技術が蒸気機関の発明であった。蒸気機関の発明こそ、イギリスの産業革命の礎となったものであり、これまで人力、畜力、風力、水力という、いわば自然力にたよっていたのを、熱エネルギーを蒸気力に転換した動カによって成しとげるという、時代を画する技術であった。その歴史は、フランスのデニス・パパン(1647-1712)がボイルと共同開発した「圧力釜」にはじまり、それを改良したイギリスのトーマス・ニューコメン(1663-1729)、さらにそれを改良したジェイムス・ワット(1736―1819)が文字どおりの蒸気機関をつくる。このワットは物理学のうえでは、仕事率の単位に登場するあのワットにその名をみいだすが、そのワットの開発した蒸気機関は多産され、19世紀には地上で輸送に利用されることとなる。それは、イギリスの産業革命の形成ばかりか、近代産業社会の形成の土台となった技術であったことはいうまでもない。

 こうして、蒸気機関の発展は、当然、科学や科学者に大きな影響をあたえることとなったが、そのばそのばかぎりの技術的問題だけでなく、蒸気機関を理論的で学問的研究の対象にしたのは、蒸気機関の発祥地イギリスではなく、大陸のフランス人で、あのカルノー・サイクルで有名なサデイ・ガルノー(1796―1832)であった。カルノーこそ熱力学の基礎をつくった人物である。その仕事は、近代科学の祖ガリレオに相当する。熱力学はカルノーのたった「一遍の論文」でつくられたけれども、かれの論文を受け入れるほど時代は成熟してはいなかった。

 日本の物理学者・科学史家の山本義隆は『熱学思想の史的展開―熱とエントロピー』(現代数学社、1987年)でカルノーの先見性を次のように述べている。

「しかしカルノーだけが問題を原理から根底的に捉えることができたのであり、それによって熱力学の基礎を作ったのが、カルノーのたった一遍の論文であった。それは、技術上の問題に触発されたものであったために物理学者の関心を呼ぶことができなかったが、他方では、その解決があまりにも急進的かつ独創的であったため、技術者の理解も得ることもできずに、結局、忘れられていったのである」 (山本義隆『熱学思想の史的展開』、現代数学社、 1987年、p.271)。

 ここに引用言及した山本の著書『熱学思想の史的展開』は、「近代物理学の登場から今世紀までの熱学思想の展開を歴史的・実証的に跡付けた」本格的な名著である。海外の事情は知らないが、日本では、このような体系的・実証的に論じた熱学の科学思想書は見当たらない。第一級の著作であるので、是非ともじっくり読みほぐしてほしいと願っている。

 さて話を朝永に戻そう。その独創的論文とは、カルノー28才のときの書いた『火の動力、および、この動力を発生させるのに適した機関についての考察』 (1824年)である。朝永は『火の動力の省察について』としている(以下、朝永にしたがって『省察』とする)。カルノー・サイクルとは、 「仮想的機関」で、つぎの四つの循環の間に、熱がむだなく動力に変換されるというものである。つまり、 (1)高温での等温膨張、 (2)断熱膨張とそれによる冷却、 (2)低温での等温収縮、 (3)断熱収縮とそれによる加熱の循環である。

 さて、熱学史上最大の発見といわれるカルノーの定理は、カルノー・サイクルが作業物資や機関の種類に関係なく、最大の効率をもつというものである。カルノーは一般的命題として 「熱の動力(効率)は、それを取り出すために使われる作業物質にはよらない。その量(効率の値)は、熱素が最終的に移動しあう二つの物体の温度だけで決まる。ただし動力を発生させる方法は、可能なかぎりの完全さに達しているものとしなければならない。いいかえれば、温度差のある物体同士の接触が全く存在しないときである」とのべている。

 カルノーの言明(カルノーの原理)以後、現代までの熱学の歴史はすべてカルノーの原理の道具立てを前提とする。そのことが、カルノーの言明が独創的たる所以である。しかし、当時、カルノーの原理はだれにも容認されることなく、かれは38才の若さでコレラに死去してしまう。 (1832年)。

 つぎは、カルノーの原理を前提とした「熱の科学の確立」の様子を考察する番である。カルノーのあと、ジュール(1818-89)の熱の仕事当量の実験などをつうじて、熱エネルギーと力学エネルギーをふくめた一般的なエネルギー保存が、マイエル(1814―78)やヘルムホルツ(1821―89)などによって確立される。他方、トムソン(1824―1907)は、 1845年、埋もれていたカルノーの論文をパリで発見し世に紹介するとともに 「温度をカルノー機関と関連づける」というイメージをだす。トムソンは、カルノーの理論に誤りがあるのではないかとディレンマにおちいるが、そのディレンマを解決したクラウジウス(1828―88)は、熱現象の一般的な理論体系をつくる。つまり(1)熱は仕事にまた仕事は熱に変えることができ、そのとき一方の量は他方の量に常に比例する。 (2)何らか他の変化を残さずに熱は低温物体から高温物体へ移ることはできない。 (別な表現をすると、循環的な過程によってひとつの物体から熱を取り出し、それを当量の仕事に変えるような機関はありえない、となる)

 はなしが各論的になってきたようなので、ここで、先をいそぐ。熱科学の成立の詳細な過程をやっていると、きりがないばかりか、ここでの目的である朝永の科学思想の全体的構造がいつになっても、みえてこないからである。

 熱の科学も数学化しないことには物理学にはならない。クラウジウスのふたつの法則をいかに数学化するかである。とにかくクラウジウスは熱の科学の数学化をすることになり、この過程で「エントロピー」の概念が登場する、第2法則はエントロピー増大の法則ともよばれ、熱現象ばかりか万物のエネルギーの問題まで拡大していく。

 つぎは最終章のⅢにはいる。

 まずはじめは近代原子論の成立を考察する。根本は熱の担い手はなにか、ということである。 19世紀のなかごろヘルムホルツ(1821―94)は『力の恒存について』 (1846)のなかで、熱エネルギーの担い手は原子であると明確にのべている。では原子論の考えはどのように登場したのであろうか。ドルトン(1766―844)は、定比例の法則、さらにそれを一般化した倍数比例の法則をつくるさいに原子を前提にする。ドルトンと同時代のアヴォガドロ(1766―1856)やゲイーリュサック(1788―1850)やベルツェリウス(1779―1848)は熱の本質が原子の運動であることを確立していく。

 つぎに熱学的な量と力学的な量の関係、熱の分子論的運動が詳論される。この仕事は熱現象の原因を原子や分子の運動で説明するものだが、熱の分子運動をニュートン力学と分子の無秩序性をかみした確立論や統計学で数学化することだが、それは、マックスウェル(1831―79)やボルツマン(1844―1906)のあたらしい「着想」からうまれ、完成されていく。この二人の着想は相互に交差しつつ結実していくのであるが、朝永は、つぎのように要約している。

(1)分子の運動にかんして熱の分子運動が要求する情報は、真正直に運動方程式を解いて得られる情報よりはるかに粗いものであるということ。そしてそれは、熱学というものが測定装置の鈍感さの上に成立する理論だという性格のあらわれだということ。
(2)分布関数という考えを導入したマックスウェルやそれを引きついだボルツマンの成果からみて、その粗い情報というのは分布関数のなかにすべて集約されているだろうということ。
(3)では、そういう分布関数を得るのに、運動方程式を真正直に解くという経路を経ずに、また確率論の暖味なそしてともすれば誤りがちな使用をせずに、運動方程式そのものから直接それを求めることはできないか、ということである。

 ようするに、分子運動論において「確率」という暖味なことばでのべられている事柄を、いかにして力学的な概念とことばで表現するか、ということである。ボルツマンの着想とは、 「集団に属する分子の運動がエルゴート性なる性質を持つと過程してよいなら、位置・速度分布の平均延べ時間にかんして一つの基本的な定理が力学法則にもとづいて導かれる」というものである。このボルツマンの着想は、 「ボルツマンのエルゴート定理」とよばれ、熱の分子運動論の中心的な役割をはたす。ここでエルゴ―ト的とは、つぎのような運動のことである。つまり 「分子集団が与えられたとき、いまのような特異的で孤立した運動を除いた運動においては、集団の全エネルギー一定という条件をみたすような各分子の位置と速度のすべてが、 -一つの運動の過程においてもれなくとられる」。しかし、このエルゴート性は数学的に問題があるとの指摘が、数学者からあったにもかかわらず、数学者のバーコフ(1884―1944)の研究などによって、その困難は克服されていく。これによって熱学的情報(長期平均延べ時間)が直接的に求められることになり、エルゴート定理と力学法則が矛盾なく照明され、ボルツマンの着想は復権し、気体上の分子集団だけでなく、液体や固体状態の分子集団にも適用されることとなった。

 結局のところ、ボルツマンのねらいは確率論と力学の関係をはっきりさせることにあった。そして、そのためにエルゴート定理が必要であったのだ。

 ここからは朝永の病室での口述筆記である。副題は「二十世紀への入り口」となっている。

 こうして市民権をえたボルツマンではあるが、物理学のかなめの「実験的根拠」がなかった。マッハ(1883―1916)やツェルメロ(1871―1953)はこの点を突く。とりわけマッハは『熱学の諸原理』 (1896年)のなかで、自分が勝利したかのようにのべている。これがボルツマンの苦しいところであった。ボルツマンは、 1906年、欝病で自殺するが、その原因の一つには、このような学問的な苦しさ(実験的根拠がない)もあったのではないか、と朝永はいう。

 ところが、ボルツマンの死の直前の1905年ごろ、ブラウン運動の分子論的解釈が登場する。アインシュタイン(1878―1917)やスモルコウスキー(1872―1917)などの仕事が、ボルツマンの着想に実験的根拠を与えることに寄与することになる。

 いっぽう、ブランク(1858―1947)は量子力学の源泉となったブランクの公式やエネルギー量子を発見するが、その着想は熱学的な現象論にあった。のちに、ボルツマンの分子運動論をとりいれていく。そして、ブランクは1910年ごろ、ボルツマンを批判・妨害したマッハを厳しく批判するにいたる。ボルツマンがもうすこし生きながらえていたら、 「凱旋将軍」になっていただろう、と朝永はいう。

 ボルツマンの苦悩を例にとり、朝永は理論物理学のひとつの側面を浮きぼりにしている。それによると、理論物理学は実証にうらづけられること、理論に整合性があること、また、その理論が未知の現象にどう対処できるか、という条件をそなえていなくてはならない。反対論を説得するためには、理論自体のなかに、それを実証するための実験的手法を示されていなければならない。それを生前のボルツマンにはできなかった。それこそが、ボルツマンの苦悩であった、と朝永はのべる。

 以上、ながながと「物理学とは何だろうか」を読んできたけれども、本書は、16―17世紀から20世紀はじめの物理学が誕生するまでに、どうしても経てこなければならなかった「苦しみの物語」でもあった。いまふりかえってみると、カルノー理論にはじまる熱力学の重要性をあらためて感じる。

 本稿の目的である朝永著作集を読みとおすことをやめて、熱科学の成立に詳細な検討を加えたい、というつよい衝動にもかられもしたが、ここはがまんしてひとまず終わることにする。(続く)