書評:L・インフェルト『ガロアの生涯-神々の愛でし人』 (市井三郎訳、日本評論社、1969年)

 この本は無条件におもしろい。内容も日本語訳も一級品だ。ガロアは(1811-32)はフランスの数学者である。というよりも数学思考の革命家といった方が適切かもしれない。それというのも年少の頃よりあまりの数学の天才であるがゆえに、当時の数学者からその論理をまっとうに評価されることがなかったからだ。

 さらには当時のフランスは、フランス革命の過程にあり、青年ガロアは、現体制のさまざまな状況にきわめて人間的感情をむきだして戦うが、政治的陰謀ともいえるある一人の女をめぐる、味気のない恋愛事件に巻き込まれ、つまらない男との決闘で殺されるのである。したがって、青年ガロアの数学的才能を知り、それが数学の世界に何人も作りえなかった理論が内包されていることを知り得るのは、ガロア自身以外にいなかったのである。

 こうしてガロアは自らの数学の理論を理解されないというジレンマとともに、フランス皇帝ナポレオン帝国下の政治状況に徹底交戦を挑み、そして死んでいく。その意味ではガロアもまた、フランス革命期の時代、共和制を志向して死んでいった無数の犠牲者のなかのにひとりであったのである。因みに、ブルジョア革命で第1共和制を成立させたフランス革命は1789年-99年であり、世界最初のプロレタリア政権「パリ・コミューン」が成立するのは、1871年3月18日から5月28日までである。そしてガロアの短い生涯はナポレオン(1769-1821)やナポレオン三世(1808-73)と、ほぼかさなっている。

 さて、ガロアの生きた時代の数学の世界をのぞいてみよう。この時代のフランスは世界で最も数学が華々しい成果を修めており、それが、現代のパリが花の都にして数学の街といわれる所以である。現にパリの街には数学者の名がついた道が数多くある。当時のフランスの数学界といえば、オイラー(1707-83)、ダランベール(1717-83)、ラグランジュ(1736-1813)、モンジュ(1746-1818)、ラプラス(1749-1829)、ルジャンドル(1752-1833)、コーシー(1789-1857)、といった当代一流の数学者が活躍した。こうした人々の数学的業績を上げるのはこの場の目的ではない。ガロアはパリのリセでジャンドルなどの数学書を独学し、若干17歳のとき、今日の「正規部分類」や「可解軍」の概念の基盤になった“群”のイメージを確立し、方程式の可能性の問題を群論で解決した。この時すでに前人未到の数学的知論を作り上げていたガロアにとって、もはや「学校、教師、同僚、などのすべてのものはとるにたらなくなり、ほとんどその存在さえ無にひとしかった」。

 このときガロアは「俺は大数学者」だと意識する。が、だれもそれを認めてくれない。あまりにも若すぎたのである。やがてガロアは代数方程式の可解性に関する自分の論文をフランス学士院に送った。学士院に送れば、それがコーシーに送られる。大数学者コーシーならば理解してくれるだろう。そうなれば、中学生の自分がまもなく、大数学者であることを全世界が知るであろう、と思ったのである。

 だが、歴史はそうはならなかった。学士院会員コーシーはその生涯で789の論文を書いたすさまじく忙しい数学者である。コーシーは、学士院から送られてきた論文の署名「ルイ・ル・グラン中学校正 ガロア」を見るなり、ただそれだけで、ガロアの論文は紙屑籠のなかにすててしまう。こうしてガロアの論文は闇に葬られていく。その後、父の自殺や精神多感な青年ガロアは政治運動に走りはじめる。1931年には2度も逮捕された青年ガロアは、1932年4月釈放されるが、先に触れたつまらない恋愛事件にまつわる決闘で5月31日死去する。決闘の前夜5月29日、親しい友人達に別れの手紙と最後の論文を書き残す。決闘までの時間はわずか13時間であった。つぎにあげるのは、若干21歳の天才数学者ガロアの遺言である。

 “すべての共和主義者に宛てたる書簡”小生がこの世を去るにあたり、それが死が祖国のためでないことに対し、愛国者および友人諸兄の寛如を願う。いかがわしい浮気女の犠牲となって小生は死ぬ。みじめなる一片の誹謗のなかにわが人生は消えていく。ああ、かくもとるにたらない原因のために、かくも戝しむべき何物かの為に、なぜ小生は死ななければならないのか?天も照覧あれ、いかにしても回避せんとした挑発に小生が屈するにいったのは、まさに、無理じいの強要によったものであることを。冷静に聴く耳をもちえなかったものに対して、いたましい真相を語ったことを小生は悔やむ。されど小生は真実を語った。嘘言にて汚されざし良心、愛国者の血によって呵責を負わされざし良心をもって、小生は墓場に赴く。さようなら!公共の福祉のために命を捨てることこそ、小生の願望であった。小生を殺害するものたちに寛如あれ。彼らは善き信念の持ち主である。1832年5月29日 E・ガロア

 ガロアが決闘に前日に書いた論文は、友人オーギュスト・シュバリエに学問的遺言として委ねられた。が、ガロアの論文が数学の世界で事実上認知されるようになったのは、ガロアの死後40年後の1870年、カミ-ユ・ジョルダン(1838-1922)がガロアの理論を発掘・整理した論文『置換と代数方程式の概論』の序文のなかの次のような件においてである。「ガロアにいたって初めて、方程式論は確固たる基盤の上に置かれるのである。…それまで方程式論の唯一の対象だと見えていた解の問題は今や無理数の変換および分類という長鎖列の問題の第一歩にしか見えないのである。ガロアは彼の一般的方法をこの特殊な問題に応用することによって、べき根によって解き得る方程式群の特性を、難なく発見したのである。…基本的な観念は三つある。…ガウスおよびアーベルの諸著作にすでに示されている原始性の観念、コーシーにおいて現われる変換制の観念、最後に、単純および複合群の識別の観念、がこれである。三つのうちもっとも重要なものである最後の観念は、ガロアによるものである。」

 こうしてガロアはようやく数学の世界で市民権を獲得するに至り、その後、数学的成果がつぎつぎと出版され、近代数学の発展に多大な影響をもたらすことになるのである。振り返ってみると、ガロアの生きた時代は、近代ヨーロッパの最大の社会的・政治的変動期とほぼ重なっていることがわかる。このような激変する社会状況と同時進行するかのように、数学の世界に稀にみる天才たちを生んできたのである。科学の世界といえども社会的・歴史的な時代状況の制約を受けるものだが、このような時代であったからこそ、ガロアのような不出生の天才が登場したのかもしれない。ガロアも時代の落とし子なのである。

 著者L・インフェルト(1898-1967)はポーランド生まれのユダヤ人理論物理学者で、ナチスに迫害を受け1930年アメリカのプリンストン高等研究所へ移る。それ以来、アインシュタインとの共同研究所として活躍した。『物理学はいかにして創られたか』(アインシュタインと共著、岩波新書)などがある。訳者市井三郎氏は、理学部出身の哲学者で、ラッセルの大著『西洋哲学史』(みすず書房)の訳者として知られ、その訳は翻訳を感じさせない見事な日本語である。ところで市井氏は第二版のあとがき(1969年3月21日)にこんなことを書いている。「大学紛争の問題と、本書の内容が深い関係をもつ点については、ここで論ずる必要がないかもしれない。一読されれば、そのことは歴然とするからである。
ただひとこと、その問題の根源が遠い過去の歴史につながることを、本書は示唆しているのだ。ガロアの問題は、今なおわれわれ自身の問題でもある」と。

 まさにそのとおりだと思う。私事的なことになってしまうが、私の20代のほとんどは大学紛争の時代であった。私はガロアの伝記を読みながら、20代に私の身辺に起こったさまざまなことを思い出すとともに、その当時の状況からいろいろ学んだ。というより状況がそうさせた。20代の多感な時代に60年代を送れたのは幸運なことだった。学生運動が最高潮に達していた60年代の後半、私にはその運動で逮捕された同じ物理専攻のTという友人がいた。当時Tはまったく授業に出席することなく全学的なリーダーであって、連日のように運動に明け暮れていた。そしてTは逮捕され拘置所生活を余儀なくされるとともに、ながい裁判が始まった。

 その間、私は拘置所にさまざまな差し入れをしてきたのだが、そのほとんどは、物理学の書物とりわけ統計力学や量子力学であったと思う。Tはものすごい勉強家であった。将来は理論物理学者になる予定であったTの勉強ぶりはすごかった。Tにとっては理論物理学者と学生運動は同じカテゴリーにあった。その精神の有り様は時代状況の違いこそあれ、ガロアの生き方と重なっている、と私にはみえた。そしてTは拘置所で卒業研究をするのである。その後Tはさまざまな事情から物理学に見切りをつけ、法学へ転じて大学院の博士過程へと進んだ。ガロアはフランス革命の時代に生きたのであるが、この時代の10年に含まれる諸事件や人間模様の問題はふだんの100年分に相当する。さまざまな栄養分がその10年に濃縮されていたのである。ひとつの時代現象であった。

 著者インフェルトはじつに正直で誠実なひとだ。かれは膨大なガロアの資料を収集し、それを丹念に読み上げた。それが何年もかかったという。それぞれ章はこれこれの資料を使用したとか、この章は創作したなどと、本書の執筆経過を詳細にあきらかにしている。本書がなによりもおもしろいのは、ガロアの生きた時代とその時代の教育関係者の群像が、巧みなまでにドラマ化されているからである。インフェルトはガロアのとりこなった。おそらく、これからも、本書のようなあじのあるガロア論はでないのではないか。
(市井三郎訳、日本評論社、1969年)