書評:小山慶太『漱石が見た物理学』(中公新書、1991年)

文化と理科の融合的な和の復権をめざす試論
-小山慶太『漱石が見た物理学』-

 一昨年の9月頃から物理学の勉強をそっちのけにして漱石ばかり読んでいた。半年ばかりかかってほとんどの小説を読んだ。これまで断片的にしか読んでいなかったこと、20年ほど前に友人からもらった『漱石全集』が、長い間、部屋の片隅に詰んだままになっていたことが、気になっていたからである。少年の頃は小説を読む習慣がなかった。もっとも、雪深い山形の米沢市近郊の農家の四男坊が文学書など買ってもらえるはずがない。金がないばかりかその存在すら知らなかった。

 1964年東京へ出て会社に一年間勤めた。社会は騒然としていた。その後、昼は働きながら夜学の大学(物理)に入った。そこで文学・哲学をわけも分からず語る人々に出会った。物理や数学のことしか知らない者には、彼らの言葉は別世界のことのように思えた。一方、数学や物理の学問の世界が、さまざまな社会的文脈のなかで批判され、その意味が問われだした。物理をやっている人たちが、反戦運動や市民・住民運動に関わって行った。そうしていつしか私もその中にいた。運動を通じて文学書の文章を読んだ。だから、純粋に文学が好きで読んだわけではない。はじめに社会問題があった。その社会問題と科学、文学、哲学などがどのように関わっているか、という思考が定着していった。それ以外の学問は色あせて見えた。つまり、社会問題とさまざまな学問の関係あるいはその意味を問う、という思考である。文科と理科の融合とはそもそも何なのか。文科の人、理科の人という人間を学問的分類に規定すること自体、何の意味があるのだろうか。人は何もこんなことを考えて生きているわけではないからである。

 さて、本書は漱石の時代におこった物理学者の激動の歴史を著者の軽妙な文章で語ったものだ。著者は私と違って、子供の頃から文学に親しんだ人らしい。教養人とはこのような人をいうのだろう。古典物理学から現代物理学までの変遷が手際よく述べられており、しかも文章がうまく分かりやすい。漱石の生きた時代(1867-1916)は、古典物理学では説明できない自然現象が登場し、それに変わる物理理論である量子論や相対性理論が構築される時代と対応している。古典物理学から現代物理学へと移行する激動の時代である。17世紀ヨーロッパで起こった自然観の転換を第1の科学革命とすれば、この時代に起こった物理理論とそれに伴う自然観の転換は第2の科学革命といわれる。

 漱石の文学には、当時の物理学の情報が色濃く反映していることを見るとき、忘れてならないのは、漱石門下の物理学者寺田寅彦(1878-1934)の存在である。寺田は地球物理学者であるとともに、吉村冬彦の名で数多くの随筆や俳句を残した。そのめりはりの効いた文章に圧倒される。当代一流の物理学者寺田は漱石の直々の門下生ではあるが、その関係はたんなる子弟関係というよりも、寺田も漱石に影響を与えた、いわば相思相愛の関係であった。その寺田は物理学の激動の時代を身をもって体現するが、物理学を専門とする立場から寺田は、そのときどきの新しい物理学の情報を漱石に伝達・教授しているのである。今日の寺田寅彦研究は興味のつきないところだが、かれは、どういうわけか、当時の物理学研究の主流であった量子論や相対論など、現代物理学の誕生に関わる大事件と距離をおいた地球物理学に関心をむけている。そして非常に奇抜な研究を残している。

 それはともかくとして、漱石は寺田をつうじて物理学の情報を入手するが、その物理学の情報が「漱石の文学」に色濃く反映していく。著者はそれを本書の随所で論証している。そのなかから、ひとつだけ例証する。漱石41才のとき(1908年、明治41年)に発表した『三四郎』のなかで重要な役割を担う「広田先生」につぎのように語らせる。「どうも物理学者は自然派じゃダメなようだね――だって、光線の圧力を試験するために、眼だけ明けて、自然を観察したって、駄目だからさ。自然の献立のうちに、光線の圧力という事実は印刷されていないようじゃないか。だから人工的に、水晶の糸だの、真空だの、雲母(マイカ)だのという装置をして、その圧力が物理学者の眼に見えるように仕掛けるのだろう。だから自然派じゃないよ。」(本書、P.183、『夏目漱石全集』6、角川書店、P.161)

 ここで「広田先生」がいう自然派とはあるがままの自然派である。その後に続く展開で、人間が自然に果敢に攻撃をしかけなければ、なにもその実態を抽出できないという自然探求の方法を示している。この自然探求の方法は、近代科学の思想形成の基礎となっている思考様式である。若年のころの漱石は建築家志望であったが、漱石文学に登場する物語に見るかぎり、そこらの理系の学者より、はるかに物理学に通じていたとみてよい。もちろん、その源泉は寺田寅彦の示唆にあることはいうまでもない。

 つぎに、物理学の激動の時代と漱石が生きた時代の対応関係を簡単にみる。漱石が生まれた1867年(慶応3)年に、その夫とともにラジウムなどを発見した放射能の科学的研究の先駆者マリー・キュリー(1867~1934)が生まれている。東京帝国大学を卒業し大学院に進学した1894(明治26)年には、ローレンツとフィッツジェラルドが独立に「エーテルの作用による物体の収縮仮説」を発表する。ベクレルが放射能を発見した1896(明治29)年には、上記のように文学上の弟子となる寺田寅彦を知合う。ロンドン留学中の1901(明治34)年にはノーベル賞が始まる。『吾輩は猫である』を発表した1905(明治38、漱石38才)年には、後に物理学の世界のみならず哲学、思想界に革命をもたらすことになる、若干26才の青年アルバート・アインシュタイン(1879<明治12>-1955<昭和30>年)が、「特殊相対性理論」、「光量子仮説」、「ブラウン運動の理論」、という革命的理論を発表する。『坊っちゃん』を発表するのは、その翌年(1906年、明治39年)である。

 きりがないので途中は省く。最後に、漱石が死去し未完となった『明暗』が発表になった1916(大正5)年には、これまた天才アインシュタイン(37才)が、1905年に自ら提出した特殊相対性理論を一般化し『一般相対性理論』を発表する。この理論は、現代の宇宙論研究の基本概念となっているきわめて重要な理論であることはいうまでもない。

 ちなみに、漱石死後6年後の1922(大正11)年、アインシュタインが日本に来る。10月8日、日本郵船「北野丸」でマルセイユを出航し、11月17日に神戸港に到着。12月29日、日本郵船「榛名丸」で門司港を出航する。この43日間の日本滞在中、アインシュタインは東京大学をはじめとする各大学で講演するとともに、日本思想界の代表的なさまざまな人物と交流をはかった。このできごとは、日本の文化界・思想界に多大な衝撃を与えたばかりか、物理学とは無縁の一般大衆にまで、アインシュタイン・ブームを巻きおこしたのである。ひとりの科学者の来日が、これほどの大衆的フィーヴァーを作りだした例は後にも先にもこのときだけである。まさに大正期の思想界にアインシュタイン・ショックを与えたのである。

 その詳細は、金子務『アインシュタイン・ショック』(上・下巻、河出書房新社、1981年)にくわしい。今からみれば49才という夭折ともいえる年令で死去した漱石ではあるが、もう少し生きたならば、漱石もまたアインシュタイン・ショックの範疇にいたはずだ。そうなれば、近代文学の創造者にして比類稀な小説家として、今日にも大きな影響を与えている漱石の文学は違う曲面に遭遇したであろうし、かれの小説観・文学観の世界は異なる色彩をもってわれわれの前に現われたかもしれない。

 ともかく、本書は膨大な漱石研究に角度の違う漱石像として、またひとつとして加わることはまちがいない。日本の明治という時代、あるいは明治の文学を考えるとき、漱石以後に漱石なしと言わせしめている漱石の文学に、寺田寅彦をつうじて漱石が見た物理学が色濃く反映されていることは、なんとも興味深いし、さらにはヨーロッパで構築した近代科学の思想が、日本の近代文学の形成期にそのまま取り入れていることは、やはり注目すべきことなのであろう。
(中公新書、1991年)