書評:松田卓也『人間原理』(培風館、1990年)

松田卓也『人間原理』(培風館、1990年)

 高校生の頃、次のようなことを大真面目に考えていた。理科系の人間はみなそうであるかもしれないが、この宇宙にあっては数学は絶対であって、数学によって人間を含め宇宙に存在する一切のものの運動は説き明かせる。さらに、宇宙の万物を存在たらしめているのは、神とは言わずともそれに類した「もの」が創造した、という考え方である。こんな事を考えては、いわば悩んでいたのだ。青春の悩みであった。今から振り返ってみれば健全な悩みであった。そしてわけもわからず哲学書をむさぼり読み始めた。何かに取りつかれたように、いわばすがるおもいで哲学書に救いを求めたのである。だが、悩みは解消させるどこか、悩みが新たな悩みを産み、わたくしの精神は混沌とした泥沼へと入りこんでいった。

 さらにはこんなことも考えた。宇宙の中にあって私という存在はきわめてささいな存在であり、今ここで私が死んでも宇宙の万物は何事もなかったかのように存在し、その運動は数学の法則に支配されながら永久に続くであろう、と。だからいつ死んでもよかった。このような精神のさ迷いは、若いときには誰にでもあることである。

 ところが、ある友人がこんなことを言った。宇宙の万物の運動が数学によって支配され、しかも、その運動が永久に続くと考えることが出来るのは、君が生きており考えるという意識があるからであって、もし君がこの世のものでなくなったら、死後の世界のことなど考えられないではないか、というのである。意識があるからこそ現世のことも死後の世界のことも考えることが出来るのであって、意識がなくなれば、考えるという精神の営みが消滅するので、何も語れないというのである。言われてみれば、たしかにそうである。

 このような問答が数年続いた。現代の哲学でこれらのことを何というかしらないが、それは、高校生のときの偽らざる私にとっては大きな悩みであったのである。それは今だに解決はしていない。だが、世の中うまくできているもので、年をくって、仕事につき、さまざまなことに関わるようになると目の前の現実のことに追われ、かつて、あれほど悩んだ宇宙のことなど嘘のように消えていった。生物として老いたのである。これも大切なことかもしれない。

 本書のタイトル『人間原理の宇宙論』とは耳慣れない言葉である。副題に「人間は宇宙の中心か」とある。一見すると、一種の宗教書でないか錯覚する。だが、違う。宇宙論を主にシュミレイトする宇宙論学者の確固とした自然科学書、または自然科学の立場からみた文明論でもある。長い間、自然科学の著書と付き合ってきたのだが、この本を読み進めていくうちに、私の脳裏には素朴ではあるが、若いときにイメージした自らの宇宙の有り様のことが、再び浮かびあがり、高校生のときから今日までの数十年間の人生と科学のことを自問することになるのである。

 本書の構成は、序論 自然科学を人文科学の間のコミュニケーション・ギャップ、1章 宇宙原理と人間の没後、2章 巨大数の謎と宇宙の調和、3章 人間原理と人間の復活、4章 宇宙文明との交信、5章 超知性への進化 となっている。その概要をかなり主観をいれて述べることにする。

 まず序論では、総括的な著者の問題意識である。自然科学者として出発した著者が若いときに、文化系の人々との関わりから、科学の問題と哲学や文学の問題、いわゆるC・P・スノーの「ふたつの文化」の問題に触発され、わたしのかつての「悩み」とは違うものの、同じようなヴェクトルをもった問題意識から、著者の年来の宇宙論研究と人間の位置に関する最近の動向を概説している。そもそも人間原理とは、宇宙の中心は人間だという考え方だ。それに対して宇宙原理とは、人間は宇宙の中で特別な存在でもなく中心でもない、という考え方だ。いわば平凡な存在であるから平凡原理ともいえる。この観点からみると、先に述べたわたしの「悩み方」の方向は宇宙原理もしくは平凡原理ということになるだろうか。

 第1章では、古代ギリシャ宇宙論から17世紀の宇宙論まで、よくいわれる有限宇宙論から無限宇宙論へ至る宇宙論の変遷が述べられる。近代科学の成立とともに人間は排除される機械論的世界像が形成される。その世界像は、ニュートンによる近代物理学の成立によってはじまるが、18世紀啓蒙思想とともに精密さを増し、物理学の政界のみならず、文学、哲学、思想の世界にまで貫徹していく。アインシュタインは特殊相対論(1905年)、一般相対論(1917年)を発表するが、これを契機にして、無限宇宙論は、宇宙は中心も端もない一様・等方のイメージを要求し、宇宙原理と一般相対論を織り混ぜたさまざまな宇宙モデルが登場する。現代宇宙論である。

 この現代宇宙論のなかでも標準的なモデルがフリードマン・モデルである。このモデルによれば、宇宙には「閉じた宇宙」、「ユークリッド宇宙」、「開いた宇宙」という三つのタイプがあるという。現在は、開いた宇宙、つまり、風船の上にいる人間が風船の膨張とともに、自分を中心に開いていく膨張宇宙がもっとも有力な考え方だが、最近のビッグバン宇宙はこのモデルに入る。平凡原理、宇宙原理、開いた宇宙を認める限り、そして、「宇宙の地平線」をもって宇宙の大きさとすれば、その外側にいくらでも人間とそっくりな生物による文明が存在することになる。

 第2章では、マクロの世界とミクロの世界に登場する「数」の不思議な関係が示される。現代の宇宙論を扱うにはどうしても巨大数を導入せざるを得ないが、そのさまざまな巨大数の間に不思議な調和的関係がある。物理定数そのものの意味が問われる。

 第3章では、ここでは弱い人間原理と強い人間原理が示される。前者はアメリカの宇宙論学者ディッケが星の平均的な寿命を現在の宇宙の年齢が一致していることに目をつけるが、そのためには人間のよう知的生命が要求され、知性が誕生しないことには宇宙が認識できない、というものである。これを弱い人間原理をいう。これに対して強い人間原理というのは、現在の物理定数が成立するような世界のみが生命の存在が許され、少しでも物理定数が違うと宇宙バランスがくずれ、生命の存在はありえないというものである。この考え方はカーターという学者によって1974年に提唱されたものだ。このような人間原理によって、宇宙モデルと生命の発生、世界の次元、量子力学と人間、つまり人間の意識と観測問題等が説明される。人間原理の復活である。

 第4章では、宇宙における生命とその文明の存在可能性が論じられる。これまでみてきたように、人間原理の立場では、宇宙の存在にはどうしても知性の存在が要求されるのであるから、この立場をとるかぎり、論理必然的に宇宙には人間以外の知性が存在してもよいことになる。その可能性を探るのであるが、その研究はSFの範疇を越えていない。というよりも、先人の数多くのSFが潜在的な研究の大きな手掛かりを与えてくれる。そうした動向が示されている。

 第5章では、イギリスの物理学者であり科学史家でもあるバナールが、20代に書いた「宇宙・肉体・悪魔」で予言した人類の超知性への進化についての考え方をもとにして、コンピューター・人間・ロボット・コンプレックス超生命と定義し、人間の脳の進化などが予測されている。

 以上が大雑把な本書のあらましであるが、いくつか所感を述べる。初めに述べた高校時代の「悩み」が本書を読むことで解決したであろうか。いま振り返ってみると、かつての宇宙の見方は、すぐれて著者のいう「宇宙原理」であった。その考え方は17世紀に登場した機械論的世界像と通じるものがあるようだ。現代の自然科学はこのような機械論的な世界観に基づいて発展してきたのだ。

 それがここにきて、さまざまな問題を引き起こしてきており、これに代わる新たな世界の見方が、自然科学の世界に求められてひさしい。そればかりではない。近代のわれわれは、いわば空気のように当然のように機械論的世界像のもとでの「進歩・発展」を受け入れてきたのであるが、今日のすさまじい環境破壊(広い意味で)に直面するに至り、もうこの考え方ではだめだ、ということがはっきりしてきたのである。このことをやや哲学的にみると、人間と自然、人間の認識のありようを再考し、近代を超える潮流が求められている。いわば、人間原理がもっと叫ばれてもよいだろう。

 すこし話がずれたので戻そう。最後のところで著者が述べていることだが、宇宙というのは認識されなければ存在しないのと同じである。宇宙ははじめからそれを認識する人間の存在を前提として、つまり、宇宙は人間を生み出す目的をもって作られている。これが人間原理だ。それは目的因といってもよい。この考え方はアリストテレスに源流があり、近代科学の成立の過程で捨て去られたものである。 けれども、これまでみてきたように人間原理にわれわれが立つかぎり、認識主体の人間が広い意味で作りだしたものによって自己破壊を余儀なくされるような事態だけは避けなければならない。先にみた高校時代のものの見方は非常に素朴なものであったが、そこから出発して、なにがしかの人生経験をへて、今それを修正して人間原理の立場に立とうとおもう。しかも宇宙の中心は人間であってよろしい。