書評:大江健三郎『文学再入門』(NHK出版、1992年)

文学は有効か
-大江健三郎『文学再入門』-

 ほとんど文学雑誌のたぐいは読まない私は、どういうわけか、年末から年始にかけ数種の文学雑誌を買い込んできては、これといった目的もなく終日それらに目を通すのが、この数年、いわば習慣になっている。どういうわけかと言ったのは、別に年末・年始は文学雑誌を読もうなどと計画を立てているわけではないのだが、結果的には、いつもそうしているのである。なぜ「そうなっていまう」のかよくよく考えてみると、どうも若い自分の生活体験に関係があるらしい。上京してほぼ6年に渡り、日々の食さえ満足にとれないような生活から働きながら夜学に行っていた当時、これからどうやって生きていくのか、などという青年時代特有の感傷的な気分に陥り、それからのがれるために年末の喧騒とした都会の酒場で過ごすことがたびたびあった。まがりなりにも理系の大学に入ったものの、当時、日本の政治経済状況は高度経済成長を遂げつつあったが、その反面、ヴェトナム戦争や公害闘争や大学闘争で社会がいわば動乱の状態にあった。

 その過程で政治や社会から独立していると思われていた数学や物理学ひろくは自然科学の在り方や科学者の社会的責任という問題が強く意識化・相対化され、これまで社会的意識が希薄だとされていた理系の学生たちが、知識集約型の生活様式を転換させ公然と街頭へ走って行ったのである。

 そのようなとき、『三木清全集(19巻)』が岩波から出版された。哲学のイロハも知らないにもかかわらず、三木の著作をはじめから読みはじめた。若気のいたりといえばそれまでだが、この読書体験はおおきかった。もちろん三木の思想を理解できるものではなかったが、当時の私にとってはこの著作集は、どう生きるかを自問するとともに精神の高揚の状態にあった者には、一種の鎮静剤の役目を果たした。

 一方、たまたま大江の『広島ノート』(岩波新書)を読んだ。大江は当時、若手の作家として核問題を中心テーマに据え、物書きの立場から自然科学、人間、社会をトータルにとらえた発言を繰り返していたのである。このようなこともあって、物理学や自然科学の学問が私にとって何であるのか、これからどう生きていくのか、というジレンマから逃れるために、三木や大江の著作をすがる思いで読んだのである。

 それ以来、自分の位置が定かでなくなるといつも、大江の著作を手にとってきたのである。三木の著作集は当時破格の出費をして買い求めたのであるが、食べられなくなりすべて質屋でながしてしまった。最近、神田の本屋街をブラブラしていたら、三木の全集を見つけたが当時の何倍もの値がついていて、とうてい買えるものではなかった。おしいことをしたものである。

 さて、難解な文章で知られる大江も57才になり、その文章は次第にまろやかで「常識的」になり、種々の作品にも自らの年齢を意識したものが多い。そのなかの一つに『新しい文学のために』(岩波新書、1988)がある。この本は自らの文学活動とその体験をもとにした、これから文学を志そうとする若い人々へのメッセージである。「すでにのべたように、僕は『懐かしい年への手紙』という長編を書き上げてから、文学とは何か、文学をどのようにつくるか文学をどのように受けとめるか、生きてく上で、文学をどのようにするかということを考える本の準備をはじめた。」

 このような視点から小説の基本的な手法、小説における想像力の役割、読み手と書き手の転換装置等々といった、いわば大江の小説作法の手の内を見せていく。この文章に触発されて私はかつて次のように書いたことがある。「この文章の<文学>を<科学>や<物理学>、その他なんでもよいが、その他の言葉で置き換えても、それは、わたくしたちの心を動かさざるを得ない、ある輝きをもつ含蓄のある文章になるはずである」(『物語としての物理学』私家版1989年)。

 この『新しい文学のため』を土台として大江は、今年10月から12月まで、NHK『人間大学』で12回にわたって、どもりがちないつもの調子でとつとつと語った。このときのテキストが『文学再入門』である。この本は文学「再入門」を意識したもので、文学志向の大学の先輩でガンで死去した元外交官(EC大使)と、脳に障害をもつ息子が通う精神障害施設で知り合った、同じく精神に障害のある子をもち若くしてガンで死去した母親への思いをこめて、文学について書いたものである。これを一読してみると、文学は、なによりもどんな困難な状況下にあっても「生きていく」ことへの勇気を示すものでなければならないという大前提がある。外交官だった友人がかねてより定年になったらもう一度小説を読み直したいと言っていたが、それが実現しなかったこと、毎日送り迎えする精神障害施設の作業所の門で話した若い母親の経験にたいして、末永く小説を書いてきた経験を重ね語り、さらには、作家たちの晩年の作品を引き合いに、やがてやってくる自らあの晩年を想定して、大江は、非常に示唆的なことを語っている。

 それによると、勇気にみちた静けさのなかで生を終わりたいが、文学には年齢にそくしたその時々の読み方がある。人間はどのような形であれ、自らの生き方を表現したいと思うものだが、その方法は千差万別であるが、それをやれるように励まし、そして表現されたものを受けとめてやることの大切さを知るべきだ、というのである。

 井上ひさしは、かつて大江の作品を評して、この人の作品を読んでいると、いつかこの人は自殺でもしかねないような文章だと、どこかに書いていたが、日常のなにげない出来事をジョークとパロディで、なによりもやさしさと生きる勇気をもたせるような作品を書く井上の懸念は、『文学再入門』を読むかぎりなさそうである。むしろ逆である。
(NHK出版、1992年)