書評:サハロフ『サハロフ回想録』 (上、下、金子不二夫・木村晃三訳、読売新聞社、1990年)

旧ソヴィエト国家と物理学者の熾烈な抗争
-サハロフ『サハロフ回想録』-

 アンドレイ・サハロフは旧ソヴィエト時代の反体制物理学者としてよく知られている。ソヴィエトの核開発に関わり「水爆の生みの親」とされ、国家の科学政策の中枢にいたサハロフは、その秘密を知ったがゆえに、科学者にとってもっとも必要な内外の科学者との交流や国内での研究にも制限が加えられたばかりか、サハロフを取り巻く人々とりわけ家族にまで国家権力の迫害が及んだ。その迫害のやり方は目に余るものだったが、それは、日本の戦前における戦争批判勢力への政治的弾圧と同様の形相を呈している。しかもその弾圧は国家の名のもとに公然とおこなわれたのである。そのことによってサハロフにとっては、生きていくことそれ自体が国家との闘争を余儀なくされたのである。歴史的にみて、サハロフはまさに悲劇の物理学者であった。

 そのサハロフがまさに命がけで書き残したのがこの回想録である。ロシア革命(1917年)後のまもないモスクワ(21年)に生まれたモスクワ大学を卒業(42年)後、科学アカデミー物理学研究所で理論物理学の研究をはじめるが、米ソの核開発競争とともにはじまる冷戦構造下で国家政策として進められた水爆開発研究所に関わり、指導的役割を果たす。ソ連の水爆開発の成功によって、サハロフは科学アカデミー会員に選出される(53年)。この時代までの青年科学者サハロフの研究生活はバラ色の人生であった。

 が、サハロフの悲劇はこれからである。それは53年スターリンが死去した3年後、スターリン批判の登場とともにやってくる。サハロフ自身「65年-67年はわが生涯の転機だった。私は研究に没頭する一方で、ソ連支配層との最終的な決裂にも向かっていた」と述べているように、自らが関わってきた核開発の研究から核戦争の脅威を誰よりもすばやく感じ取るのはもちろんだが、ソヴィエト社会で起こっているさまざまな出来事に猛然と戦うことになるのである。それはソ連社会の政治システムそのものへの批判へと向かっていくのであるが、それをまとめたのが『進歩、平和共存、知的所有に関する考察』(68年)である。

 これ以後、サハロフは軍事研究からはずされることになるが、科学者としてよりもソ連社会での人権擁護活動家として精力的に活躍し、75年にはノーベル平和賞を受賞している。これを契機に米国をはじめとする西側諸国は、ソ連における人権問題に批判の矢を向けることになるが、ソ連指導部はサハロフをいわば国家反逆者・反革命者と位置付け、彼の原論活動は当然のこと、自宅での会話の盗聴、手紙・書簡の開封、日常的な尾行、子供のモスクワ大学進学の阻止、夫人への不当な嫌がらせ等々、考えられるありとあらゆる精神的、肉体的弾圧を繰り返していく。この間のサハロフの回想録を読むのはとても辛いのであるが、さらに追い打ちをかけるように、ソ連指導部は79年12月アフガニスタンに武力介入するが、これに対する抗議活動をしたという理由でサハロフをゴーリキー市に7年間流刑の身とする。この間もサハロフ身辺への監視が続く。

 が、サハロフの人生に誰も予想もしなかった大事件が起こる。ゴルバチョフ政権の誕生である(85年3月)。ゴルバチョフ政権による、矢継ぎ速のペレストロイカ(世直し政策)、グラスノスチ、(情報公開)、新思考哲学・外交によって、東欧諸国を手始めとしてソ連邦の解体につながった政治的・社会的大変動が起こるのである。こうしてサハロフは86年12月に流刑を解かれモスクワに戻り世界中の注目の的となり、さらに最高会議代議員に選出される。89年12月12日第2回連邦人民代議員大会が開催された。この会議はソ連邦に議会制民主主義が誕生するかどうかの指針を決める重要な内容が議題とされたが、その議題のうちで共産党が指導政党と「憲法6条」をめぐる討議で、命の恩人ゴルバチョフと激しくやりあったことは、日本のテレビでも紹介されたので記憶も新しい。要するに憲法6条を廃止せよ、とサハロフは主張したのである。その夜、心臓麻痺で急死する。長年に及ぶ迫害によって心身ともに極限状態にあったのである。「サハロフはその死によって、この国の民主主義の良心となった。いまや立場を超えて、その道徳的純粋さに人々は脱帽したのである」(和田春樹『ペレストロイカ 成果と危機』、岩波新書、p.103)

 サハロフの回想録は旧ソ連邦における科学者や科学政策の知るためには一級の歴史的資料となるはずである。というのも前記したように、命がけの仕事だったのである。サハロフはこの回想録やそのもとになった日記などを何度も盗まれることが、たびたびあったからである。今思えば、国家権力が一人の科学者をこれほどまでに弾圧しなければならないような社会は、まさにとり繕いのない病的状態にあったといえる。サハロフは生涯に渡り苦悩を背負った悲劇の科学者であった。

 悲劇の科学者と言えば、アメリカには「原爆の父」と呼ばれる理論物理学者オッペンハイマーがいる。反ナチズムの立場からロス・アラモスの原爆研究所長として指導的な役割をはたすが、マッカーシズムがはびこるや、原子力機密保持問題を問われ公職追放処分となった。彼も後に核開発競争に対して反対運動の立場に身を置いた。サハロフとオッペンハイマーはソ連と米国で同じような運命をたどることになるが、サハロフに対する権力的弾圧に比較すればオッペンハイマーに対するそれは「近代的弾圧」であった。
(上・下巻、金子不二夫・木村晃三訳、読売新聞社、1990年)