講演企画・編集:和田春樹『私の見たペレストロイカ』(岩波新書、1987年) 『ペレストロイカ 成果と危機』(岩波新書、1990年)

ソビエト崩壊過程の様相
和田春樹『私の見たペレストロイカ―ゴルバチョフ時代のモスクワ 』(岩波新書)
同『ペレストロイカ 成果と危機 』(岩波新書)

 和田氏はこの数年、再三に渡りソ連を訪問されている。70年代末に1年間、80年・83年にそれぞれ10日間、87年6月から2ヶ月間、90年春に2ヶ月間。最近の世界の政治情勢はめまぐるしく変化している。それはなんといってもソ連のゴルバチョフ政権誕生(85年3月)後、東欧の民主化革命とそれに連動した東西ドイツの統合(90年10月4日)、さらにはゴルバチョフ自身が進めたペレストロイカ(立て直し)によって彼にも意図しなかったソ連邦の崩壊と共和国共同体の誕生(91年12月22日)という世界の歴史上、稀に見る大事件がわれわれの時代のわずか数年間に起こったのである。これらの東欧諸国・統合ドイツ・共和国共同体が今後どのような進路を辿るのかはわからないが、短期間の内に起こった歴史上、稀に見る政治的大変動を後世の歴史家はどのように分析し位置付けるのであろうか。いずれにしてもこの革命は彼が意図するとせざるにかかわらず、ゴルバチョフの時代にゴルバチョフ自身によってその火蓋がきりおとされていたということだけは間違いあるまい。

 和田氏はこのような激動する東欧諸国やソ連の政治情勢を、その動乱するソ連社会に自ら身を委ねるとともに、歴史家の立場と視点からその体験を考察しそのありさまを生々しく伝えておられる。それをまとめられたのが『私の見たペレストロイカ ゴルバチョフの時代のモスクワ』(岩波新書、87年)と『ペレストロイカ 成果と危機』(同、90年)である。そこに示されていることは現代史を記録する時代の証言でもある。

 上記の2冊(前者を『87年』、後者を『90年』とする)は、それぞれ87年と90年に歴史家の友人や知人を訪ねたときの体験とその考察である。『87年』は徹底した聞き書きが基調になっているのに対して、『90年』はペレストロイカ開始以来の4年間をロシア史・世界史の中に位置ずけた論調になっている。2冊同時に読むことでソ連国内のペレストロイカが時間の経過とともにどのように進展してきかがよく理解できる。

 『87年』は、ゴルバチョフ政権誕生(85年)の2年後、ペレストロイカの開始および今世紀最大の放射能漏れを引き起こしたチェルノブイリの原子力発電所の爆発事故(86年4月26日)後1年経過したソ連社会のルポである。長期間ロシア・ソ連の研究に関わってこられた和田氏がそれまで聞いたこともない『モスクワ・ニュース』という革新的な新聞を読まれ、「ソ連は暗から明へ唐突に転換したようだ」と語られるところから始まり、その他革新的な新聞や雑誌が次々を登場し、これまでタブーであった論調が表れ始め、人々が競って読んでいる様子が述べられる。さらには一党独裁政権下でそれを批判してきた歴史家たちが何年にも渡る苛酷なラーゲリー(強制収容所)での生活後、再び市民権を得て行動・発言する様子、またソ連邦始まって以来、最も若いゴルバチョフ書記長のもとで次々と進められるグラスノスチ(情報公開)の様子など描かれている。

 グラスノスチが決定的になったのはチェルノブイリの原子力発電所事故であって、事故後ゴルバチョフは長い沈黙の後、86年5月14日、テレビに向かって発表する。「その演説自体は精彩の有るものとはいえなかったが、ソ連の指導者が国民と全世界の人々に向かって自分たちの犯した致命的な過ちをともかくも発表し説明した」(『87年』P.200)である。核事故はもちろんのこと、ソ連国内で起こったもろもろが、このように誰でも分かるような形で発表されたのはソ連では始めてのことで、本物のグラスノスチの始まりであった。それに映画『懺悔(バカヤーニエ)』(テンギス・アブラッセ監督、84年制作)を一般公開したことによってもグラスノスチは裏付けられる。この映画は「スターリンとみえる独裁的権力者の罪と、それを正当化し虚偽で覆い隠そうとするその子の世代の新たな罪を鋭く提起した」(同、P.207)ものである。この本で先生は、単なるルポではなく自身の体験とその分析を通じてさらなるペレストロイカの前進を求めている。

 『90年』についても若干の解説をしておく。前期の87年以来2年ぶりのソ連訪問であるが、その後モスクワの街はどう変わっただろうか。モスクワの街には花と乞食とミニコミ紙が溢れ、87年に先生が訪ねた友人たちはみな社会の中心で忙しく活躍していた。さまざま階層、職業のさまざまな人々がペレストロイカのためにそれぞれ必死になって努力していたという。新しい社会を作るためにいそいそと働く忙しいモスクワの情景が見えるようである。ペレストロイカは一般に「上からの革命」といわれるが、まず始めにロシアにおける革命の伝統的性格が歴史事実で述べられる。次にゴルバチョフの「新思考哲学」のもとで「世界戦争が終わった」ことを実証し、グラスノスチがほぼ完全に実現されつつあることが示される。

 だが一晩で民主主義が達成されるはずがない。議会制民主主義が確立するかあるいは元の独裁体制に戻るか、を決める、きわめて重要な連邦人民代議員大会での保守派と革新派のまさに死闘の論争の様子が日時をおって詳細に分析される。ここでとりわけ印象的だったのは地獄の底から奇跡的にはい上がってきた物理学者サハロフが復権し、第二回連邦人民代議員大会(89年12月12日)で演説する場面である。だが、その2日後急死してします(12月14日)。「サハロフはその死によって、この国の民主主義の良心となった。いまや立場を越えてその道徳的純粋さに人々は脱帽したのである」(P.103)

 さてソビエト連邦(1922年12月30日発足)はスターリンによって帝国的国家主義的政策を備える。まさに帝国としての連邦である。その帝国的政策のもとでさまざまな民族が抑圧あるいは併合されていく。その端的な例がユダヤ人・朝鮮人その他の民族の強制移住やバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の併合などである。それらの歴史とそれに対する告発運動によって連邦が危機的状況に陥る。その後、国家社会主義システムの問題点が整理され、それに代わるべき方向として市場経済への全面的移行、具体的には資本主義システムへの移行である。だが、ゴルバチョフは社会主義体制を維持しながら市場経済へ移行させようとするところに、現体制の指導者としての苦悩が伺える。ともかく連邦議会は市場経済移行を確認する(90年10月19日)。

 そのあと共産党の危機的状況が示され、最後の章で先生は、ソビエトのある雑誌記者のインタヴューに次のように答えておられる。「ソ連の国民が立ちはだかる困難に立ち向かう力を自らの内に見いだすためには、歴史の真の歩みを歪曲することもにごらすこともない成熟した歴史意識を獲得しなければなりません。過去に対する全面的な、偏見なき態度のみが、あなたがたは何者であり、何をめざしていくべきかを理解するのを可能にするのです」(P.241)。この言葉は今、われわれ日本人にも向けられていることだと思う。
(岩波新書、1987年、1990年)