書評:カール・ベンツ『自動車と私 カール・ベンツ自伝』(藤川芳郎訳、草思社、2005年11月1日)

本書は世界の高級車として知られる「ベンツ」の生みの親カール・ベンツ(1844-1929)の唯一の自伝である。自動車の歴史を考察する研究者には貴重な基本的文献らしい。ベンツは長い生涯にわたりそれ以外にほとんど筆を取ることはなかったという。その理由は、本書の訳者によると、ベンツは自動車産業で果たした自らの貢献にきわめて謙虚であり、そのため、その偉大さも見えにくいという。どのような世界でも創業者はその道の開拓者・革命者である。革命者は後世の人間が考えるよりも高慢ではない。実践的で具体的な「美徳」をもっているものだ。そうでなければ指導者・革命者などにはなれない。

創業者カール・ベンツの謙虚さと現場の技術と労働を重視する姿勢は次のようなところに見られる。本書の中で繰り返して述べられることである。まず、若い時代は、研究者であるよりも自ら現場の労働者であることに徹し専念したことだ。事実「私の両手の胼胝(たこ)は現場労働者だった時代の名誉の勲章にほかならなかった。難問があらわれるたびに、私は現場の労働者であると同時に研究者として、その克服に取り組むことができた。もしそうでなかったら、生まれつつある自動車からあらゆる気まぐれや悪意を排除することは不可能だったにちがいない」と述べている。

また、カール・ベンツの自動車産業の最終的で最高の目的と人生哲学は、スピード万能ではなく「信頼性と経済性」「真心には真心を」、であった。80才の誕生日を祝う会でもっとも感動したのは労働者や社員からの言葉であった。「私のような叩き上げの身で、どんな嵐にも負けずに這い上がってきた人間は、下層階級の苦しみや心配など話に聞くだけといった人々と違い、労働者の喜びや苦しみがごく自然に理解できるのである。まっとうな労働者は誰でも、私の会社に来れば最良の支えを見出した。何らかの理由で解雇されそうになったとき、私はできるかぎりの力になった」とも述べている。

自伝であることを踏まえると、その言葉の真実性は保障されるものではないにしても、本書を読みながら、代々の鍛冶屋と蒸気機関の運転手の息子として祖父と父親たちの姿を見てきたものだけに言えることであろうと推察する。ともかく、自動車産業の現場と労働者を重視する姿勢に好感をもった。現代日本の自動車産業は世界に冠たる実績をあげているが、その反面、労働現場の実態は冷徹・過酷で人権無視の状態に置かれているとも聞く。日本の経営者にベンツの声を聞かせたいものである。

本書はカール・ベンツが81歳(1925年)のときに執筆した自伝であるが、それもその年齢を考慮して彼の取り巻きから強力に進言されたのであろうと推察する。事実、その4年後(1924年)に死去しているからである。そもそも人力と馬力以外になかった時代に、当時にあって想像もつかない「自動的に動くもの」の原理を最初に発明し、悪戦苦闘と紆余曲折を経て地上を自動的に自由自在に走る(動く)ものを作り出したことは、当時の人々に神がかりの驚きとともに奇人・変人として迎えられた。ベンツのルーツは南ドイツのカールスルーエの南のプファッフェンロートという小村で農夫の曽祖父と鍛冶屋の祖父と機関士の父のもとに育った。いずれも誇り高き職人の家庭で育ったベンツには「職人魂」の素性から終生はなれることはなかったらしいが、尊敬してやまない父はベンツ2歳のときに殉職する。何も資産がない父が子供たちに残したのはゲーテの詩「人間は高貴にして、人助けを惜しまず、善良であれ」という言葉であったという。

カール・ベンツが世界で最初に自動車を発明したのは1886年であるから、今年(2006年)で121年目にあたる。現在でもベンツは世界の高級車である。一般人にはそう簡単に入手できない贅沢品である。私には無縁のことだが、それでも人々を魅了してやまないのは、その硬質で高水準の技術力を保持しているからであろう。

試行錯誤する段階のベンツ車を改良する陰の功労者は以外にも家族であったのではないかと思う。彼の妻と二人の息子(オイゲン15歳、リヒャルト13歳)が果たした面白い話が紹介されている。1888年夏のことである。西欧では夏休みといえば長期旅行にでることに決まっているが、まだ試運転中とも言える段階のベンツ車を、妻と二人の息子が父親に無断で180キロメートルもの自動車旅行に出かけたのである。妻と息子が共謀して父親に背いたのであるが、この道中の悪戦苦闘のトラブル続きの自動車旅行が、試作段階の車を改良するための重要な手がかりを与えたというのである。いかに、父親にたいする妻と二人の息子の愛情と信頼が強いかを彷彿させている。

その他、同じようなジョークとウイットの利いた多くの面白い話が登場する。当初は「魔女の車」、「悪魔の乗り物」と騒ぎ立てられたとか、ミュンヘンの警察署長が「非公式の許可」を与えて一日に2時間だけ走ることを許可するが、もし、事故が起こったら、警察署長は許可した覚えがないとの約束を取り交わした。それを聞いたベンツは子供のように喜んだとか。今から見れば奇想天外な話ばかりである。なんともほほえましい。

このようなベンツとベンツ車に大きな転機がやってくる。1888年のミュンヘンの博覧会で新発明車が金メダルを獲得するのを皮切りに、フランス、イングランド、アメリカ、ハンガリー、ボヘミヤ、そしてドイツ各地から続々と買い手がやってくる。こうなったら、とどまることを知らない。もはや「文化財としての自動車」となった。その後、ベンツ社は、同じくドイツのライバル会社ダイムラ-と合併し「ダイムラー・ベンツ社」となり、近年、アメリカのクライスラーを吸収し、ベンツの名称は消えたが、ベンツ技術力はその土台となっている。

ベンツ車の好敵手のダイムラー社の創業者ゴットリーブ・ダイムラー(1834-1900)は、ベンツとほぼ同時期に自動車産業に乗り出しているが、まったく独立に成長した。ベンツは本書の自伝のなかで、「私は生まれて一度もダイムラーと話したことはない」と言っている。本当だろうか。ドイツのふたつの有名な競争し競合する自動車産業の担い手が、一度も面識がなかったとは面白い。

ベンツの晩年は見事なまでに祝福の日々を送った。生来の鍛冶屋のもの創り精神を引き継ぎ、文化財としての自動車を創り出した老ベンツは、ひといちばいの粘り強く持続的な努力を重ねた末、多くの人々から尊敬と畏敬の念を獲得するのである。「偉大な人物はその日々を家族に囲まれて過ごした。かつての努力と活躍の場にほど近い、夢見るようなラーデンブルクの屋敷で、傍らにはいつも仲間であったけなげな夫人がいた」(フィナーレ)という。なんと祝福のときであったろうか。

しかし、1933年、アドルフ・ヒトラーが政権を取るや否や、高級車ベンツは、国家社会主義ドイツ労働者党のプロパガンダーに翻弄されていく。もし、もうすこし生きてその有様を見たとしたら、心やさしく謙虚であったベンツには見るに忍びなかっただろう。いい時期に世を去ったと思う。今日に見る彼の写真には気高い品格がただよっている。