書評:クリストファー・ウォーカー編『望遠鏡以前の天文学-古代からケプラーまで』 山本啓二・川和田晶子訳 (恒星社厚生閣、2008年11月5日)

本書は英国の大英博物館・古代西アジア部門の責任者Christopher Walkerが編集したAstronomy before the telescope, British Museum,1996の抄訳で英国と米国で刊行された専門的な天文学史書である。本書の表題どおり「望遠鏡の発見(1609年)」以前の世界的規模の各文明圏における天文学の学説史を網羅する重厚な論文集である。それぞれ天文学史を専門とする研究者の論文集であるゆえに膨大な第一次文献が収集・整理され論点も明確である。評者自身何度か通読し各地域・各文明圏の天文学の歴史を理解するのに非常に勉強になった。

オランダの職人が望遠鏡を作製したとの話を聞きつけたガリレオ・ガリレイが自らも苦心惨憺し自作の望遠鏡を天空に向け新しい宇宙像を作り上げる端緒を作ったのが1609年のことであるから、今年はちょうど400年目の節目にあたる。しかし、ガリレオより先にガリレオと同じような天文観測をやった人物がいた。イギリス(オクスフォード)の科学者トーマス・ハリオットである。1609年7月、ハリオットは月を描き(スケッチ)また太陽黒点を発見し記録にも残しているが、この問題をそれ以上追及しなかったといわれる。このことが、のちに数々の近代科学の礎を創ることになるガリレオが人類史上、最初に明確な問題意識をもって天空を科学的に観測した人物として語り継がれるゆえんである。その後の新しい宇宙像の展開は周知のように17世紀科学革命まで進んでいく。この17世紀革命の突破口を作ったのは、天文学に関して言えば、ヨハネス・ケプラーであるが、いわばケプラーは旧宇宙像と新宇宙像の分水嶺にある。

本書はこうした新旧の宇宙像の分水嶺となったヨハネス・ケプラーまでの宇宙像の変遷を詳細に考察する天文学史プロパーによる第一級の論文集といえるだろ。20世紀後半の主要な科学史研究、特に天文学史研究は16~17世紀に焦点が当てられてきたきらいがあるが、現代の研究状況は大きく転換しつつあるように見える。西洋文明圏以外の文明圏にうずもれた天文学の営みを虚心坦懐に掘り起こし、それら諸文明圏内における生活世界の中に天文学の知的営みを再構成することが重要になっている。その作業をする上では英国の大英科学博物館は資料の宝庫であるが、それぞれの著者たちは直接に間接にこの大英博物館内の現物資料を身近にし使用できる立場あるいはそれに関わることを仕事としている人たちである。

本書の各章はそれぞれまったく長大な独立論文であるので、それらの内容をここで紹介するなど不可能である。西洋人たちはどこかで自分たちの生活と思索のルーツは古代ギリシアにある、つまり古代ギリシアを自分たちの故郷のように思っているようだが、本書の編著者達もまた彼らが「古代ギリシアの旅」によって本書が構想されたという。その心中はよく理解できる。元英国天文学協会会長のパトリック・ムーア(Patrick Moore)はそのあたりの事情と本書の特徴を序文の最後で次のように述べている。「古代天文学に関するこれらの思想をもっと詳細に、そして包括的にする手段として、本書を最初は古代ギシアの旅で思いついた。大英博物館自体の考古学・歴史部門における所蔵領域を補い、数学や三角法だけでなく、当時の文化的背景や現存する遺物にまで注意を向けることを意図した。ほとんどの章は、古代の原資料を研究する研究者によって書かれ、またその資料の多くはここ数十年のうちにようやく光が当たったものである。今日の太陽系お衛生写真を見た、ビッグ・バンの形跡について耳にするのと同じように、過去の記録を調べることが興奮を引き起こすことを期待したい」。

さあ、どうだろうか。評者は書評依頼があればよほどのことがない限り断わることはなく快諾することにしている。というのは、そうでもなければ、自分の仕事に掛かりきりで、本書のような本格的な研究論文を虚心坦懐に勉強する機会などないからである。だから依頼者にはいつも感謝しているのであるが、パトリック・ムーアの「一読して感動したかい?」との問いには、評者は「感動し始めている、さらに見込めば必ずや感動するだろう、しかし、一年や二年で読み理解できるものではない。生涯にわたり身近において参照すべき古典的論文集になるだろう」と答えておこう。また訳者によれば、日本には、専門の科学史家による天文学の通史はほとんどないに等しいというから、その意味では本書は天文学史家には必読文献であろう。

特に評者が通読してもっとも勉強になったのは、エジプト、インド、イスラーム等々の非西洋文明圏における天文学史である。それはこの数年、評者がギリシアとインドの古代の言語に関心を向け勉強を重ねていることもあるかもしれない。また、イスラーム社会の種々の生活と政治の動向の現実を垣間見るにつけ、それらの生活世界と密接に連動し発展してきた当時の「最新の天文学」の発見に関わった古の研究者たちの知的営みを虚心坦懐に学ぶことが現代のイスラーム世界の諸問題の理解にもつながるだろうとの思いもあるからであり、さらには運命であろうが、東アジアの日本に生れ落ち、西洋文明が帝国主義化した社会的政治的状況の範疇での生活世界を根底から再考する機会にもなろうとも考えられるからである。

本書の全体構成を著者名を含め紹介しておこう。
序論:(Patrick Moore:元英国天文学協会会長)
第1章:エジプトの天文学(Ronald A. Wells:カリフォリニア大学バークレー校)
第2章:メソポタミアの天文学と占星術(John Britton:イエール大学で天文学史の学位修得、Christopher Walker:大英博物館・古代西アジア部門の責任者)
第3章:プトレマイオスとその先行者たち(G・J・Toomer:オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジのE・P・ウォーレン古典学講座元講師)
第4章:エトルリアとローマの天文学(Timothy W. Potter:大英博物館の先史およびローマ時代ブリテンの考古学部門の元管理責任者)
第5章:ギリシア後期およびビザンツの天文学(Alexander Jones:トロント大学の古典学教授)
第6章:紀元後千年間のヨーロッパの天文学:考古学的記録(J.V. Field:ロンドン王立研究所の客員研究員)
第7章:インドの天文学(David Pingree:ブラウン大学の数学史および古典学の元教授) 第8章:イスラーム世界の天文学(David A.King:ヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学の元教授)
第9章:中世ヨーロッパの天文学(Olaf Pedersen:元国際科学史アカデミー会長)
第10章:ルネサンスの天文学(N・M・swerdlow:シカゴ大学の天文学・天体物理学および歴史学教授)
第11章:中世後期およびルネサンスの天文機器(G.L'E.Turner:オクスフォード大学科学史博物館の上席研究員)
第12章:中国、朝鮮、日本の天文学(Colin A. Ronan:元英国天文学協会の会長) 第13章:現代における古代天文学の活用(F.Richard Stephenson:イギリスのダーハム大学物理学部名誉教授)

本書の論文は以上であるが、紙数の関係から割愛された論文は以下の4章(原著で70頁分)であるという(訳者あとがき)。「ヨーロッパの考古天文学」(Clive Ruggles)、「中米の天文学」(Anthony F.Aveni)、「アフリカにおける伝統的な天文学的知識」(Brian Warner)、「オーストラリア・アボリジニー、ポリネシア、およびマリオの天文学」(Wayne Orchiston)である。読者には直接手にとってじっくりお読みいただきたい。訳者のひとりの山本啓二氏は「アラビア占星術の文献学的研究」を専門とするすぐれた研究者のようで、英語版で数冊の単行本、日本語版では『イスラーム世界研究マニュアル』(名古屋大学出版会、2008)を刊行されている。ともかく、このような本格的な学問的天文学史書を、小気味よい達意の日本語に翻訳されたことに心から感謝を申し上げたい。(猪野修治)