書評:ノエル・ロリオ『イレーヌ・ジョリオ=キュリー』(伊藤力司・道子訳、共同通信社、1994年)

冷戦下の悲劇の科学者

 本稿の目的は、放射能発見100年目にあたる今年、核問題に関する歴史的考察を通じて、現代の核間題を考えるひとつの手がかりを探るもので、今回はその第二回目である。前回は放射能発見当時(1890年代)の様子と、放射能の命名者マリー・キュリーと現代の核化学者高木仁三郎の対話を通じて、マリーの時代と現代における科学研究と科学者の有様の時代的変遷を考察したが、第二回目の今回は、その娘イレーヌ・ジョリオ=キュリー(1897-1956)と夫フレデリック・ジョリオ=キュリー(1900-1958)の仕事とその時代、とりわけイレーヌの生涯を論じた上記の評伝を考察する。

 イレーヌ・キュリーは、1897年9月、マリーとピエールの二人姉妹の長女として生まれるが、両親はすでにベクレルの放射能発見に刺激され、その本質的実体を探る研究に没頭していた著名な科学者である。一方、フレデリックは、1900年3月、6人兄弟姉妹の末っ子として生まれている。父親は、家具商人を経て音楽家で本質的なプロレタリア、母親は、プロシャ支配に対するレジスタンス運動家で熱烈な共和主義者である。この二人が出会う動機は、イレーヌの父ピエールの教え子で母マリーの同僚の反ナチスト物理学者ポール・ランジユヴァンが、研究職に就くには条件不足ながらも、かれを尊敬し慕うフレデリックを助手にしたことにある。かくして、同じ研究者の釜の飯を喰うこととなった二人は、やがて恋に落ち1926年10月結婚。フレデリックは、科学者として名声高いキュリー家の現代版婿養子フレデリック・ジョリオ=キュリーを名のることとなり、ここに科学者イレーヌ/フレデリック・ジョリオ=キュリーの二人三脚の生活が始まる。

 はじめに総括的なことをいっておくと、二人の生きた時代は、今世紀初頭ら半世紀間であり、それは第一次世界大戦、第二次世界大戦、核兵器の登場、米ソ冷戦構造の時代でもある。二人の人生をふりかえると、イレーヌ/フレデリックを主人公とする20世紀前半のフランスの科学者たちが、国際政治にいかに翻弄され苦悩せざるを得なかったか、が示されている。ヨーロッパ現代史の証言のひとつともなっている。

 本書は大きく見て、偉大な科学者マリーとイレーヌの母子関係、フレデリックとの出会いと結婚、二人の共同研究、男性社会の中で生きる女性科学者の苦闘、米ソ冷戦構造下で、共産党員の夫をもつイレーヌへのさまざまな政治的圧力による悲劇の科学者像などが述べられている。

 それらを順に見ていこう。本書を読み初めてすぐ、これは女性科学者イレーヌを主題にした少女小説ではないか、と思うほどだが、偉大な科学者の母マリーと長女イレーヌの母子関係が、二人の心理構造の分析も踏まえてことこまかに描かれている。それは本書の著者ノエル・ロリオが、パリで活躍中の女性作家・ジャーナリストという「文人」であることでもうなずけるが、それはともかく、家庭でも職場でも、物理や化学ばかりに関心を示す両親のもとで育ったイレーヌは、少女時代から数学と物理と国語(フランス語)に特異の才能を示していく。母子の話題はもっぱら科学である。のちに科学の世界と無縁な、音楽家で文人となるマリーの次女エーヴは、母とイレーヌの科学の話題についていけず、反発していることからもうなずける。こうした家庭環境の影響からか、イレーヌの言語表現は、一切の社交辞令抜きの単刀直入のあまり周囲の人々を戸惑わせることばかりであった。その態度は生涯かわることはなかった。

 イレーヌとフレデリックは共同研究として1934年、イギリスの科学雑誌『Nature』に、20世紀最大の発見のひとつといわれる人口放射能発見を発表する。これは母マリーが発見したポロニウムから出るα粒子を照射されたアルミニウムやホウ素が、その線源であるポロニウムを取りのぞいても、放射線を出し続け減衰するというものである。人口放射能の発見の応用は、イギリスのチャドウィック(1891-1974)の中性子の発見後、イタリアのフェルミ(1901-1954)の中性子による原子核破壊、さらにドイツのハーン(1879-1968)とシュトラスマンによるウランの核分裂の発見(1938)とつながり、やがて原子爆弾の開発製造と広島・長崎への投下、米ソ冷戦構造下の政治的核抑止力、さらに、今日的な原子力発電の出現という原子力をめぐる諸問題を生み出すことになる。なおイレーヌはフレデリックとともに1935年ノーベル化学賞を受賞する。これでキュリー家では三つのノーベル賞となる。が、前回少しふれたように1934年7月、母マリーは娘の栄誉を見ることなく白血病で他界する。

 さてここからがイレーヌの悲劇の始まりである。人口放射能を発見した1934年頃から肺結核が発病し、それいご、一定期間の転地療養を繰り返しながらの研究と、男性社会の中で女性の権利獲得運動にあたらねばならなかったこと、さらに追い打ちをかけたのが、夫フレデリックがフランス共産党員であるとの理由から国際政治に翻弄され、科学者として、ことあるごとに屈辱的な体験をせざるを得なかったことである。1936年、反ファシズム人民戦線のレオン・ブルム内閣の科学担当閣僚になり、男性と同等の権利獲得運動に乗り出すが、二ヶ月であっさり辞任し、後任をジャン・ペラン(1870-1942)に譲る。その後のイレーヌは、ラジウム研究所とソルボンヌ大学での研究生活にもどるが、肺結核の病状はおもわしくなく、一年に最低一ヶ月は、空気の澄みきった山荘での静養をせざるを得ない状態であった。

 1939年9月、第二次世界大戦が勃発し、1940年6月には、ドイツ軍がパリを占領し、それ以後1944年8月25日のパリ解放までドイツ支配が続くが、この間、イレーヌとフレデリックは地下レジスタンス運動に身を投じる。とりわけフレデリックは、1940年末から大学人国民戦線を組織するなど、学者の世界のレジスタンス運動のパイオニア的存在であった。

 まさにフレデリックにとっては、愛国者であるがゆえに共産党員であることは必然であった。が、戦後イレーヌにとって、夫が共産党員の科学者であることのつけが、思いもかけぬ事態を招くことになる。

 1945年7月、アメリカのメキシコ砂漠でプルトウム原爆実験後、8月広島・長崎への原爆投下で、第二次世界大戦は終決する。そのご、戦後世界で原子力研究に関する国際的競争が始まり、フランスも例にもれず、原子力研究に関するブレン・トラストなる原子力委員会を創設し、委員長にフレデリックが化学部門の責任者に就任する。米ソの核抑止力を前提にした東西の冷戦構造の開始によって、アメリカでは、共和党上員議員マッカーシー(1908-1957)の反共活動、いわゆるマッカーシズムが猛威をふるい、一方、ソ連では、スターリン主義政治体制が近隣諸国に対して支配圏を拡大して行く。そのような東西冷戦構造のもとでイレーヌとフレデリックは、フランスの原子力研究にのりだすわけであるが、共産党員科学者フレデリックとその妻イレーヌの政治的立場はきわめて微妙である。

 1948年、イレーヌは在米スペイン難民支援のためニューヨーク入りするさい、自らのことでなく、夫が共産党員であるという理由だけで、一時収監される事態を招くが、この事態の有り様は、「アメリカでは共産主義者よりファシストやナチの方が好かれている」(イレーヌのアメリカでの発言)ということばは端的に象徴している。雑誌『タイム』までが、共産主義は裏切者として処遇せよ、とまで報じたが、まさにイレーヌは、アメリカの魔女狩りのターゲットとされたのである。一方、フレデリックの指導のもとに、同年12月、フランスの最初の原子炉が稼働するにいたるが、またもや『タイム』や『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』などの主要なマス・メディアは、共産主義者プレデリック指導下の原子炉は、西側にとっては脅威であるなどと書きまくる。

 こうした魔女狩りが猛威を振るうなかで、アメリカは1950年初めから、日本に投下された原爆の数千倍の威力をもつ水素爆弾の開発研究を開始し、米ソの軍備拡張競争が激化の一途をたどって行く。ソ連は1955年、のちに悲劇の物理学者となるアンドレイ・サハロフ(1921-1989)の指導のもと、最初の水素爆弾の開発・実験に成功する。前後するが、西側フランスの原子力委員長で共産党員のフレデリックの政治的立場は、マッカーシズムを背景にしたアメリカと共産主義国家ソ連の軍備拡張競争の狭間におかれることになる。その結果、プレデリックは1955年、原子力委員長をイレーヌはその委員を解任されるにいたる。その後の二人の人生は屈辱の連続である。ノーベル賞受賞者であるにもかかわらず、1951年のジュネーブでの国連主催の原子科学者平和会議に招待されず、フランス科学アカデミー会員の入会を4回も拒否され、アメリカ化学会の入会までも拒否される。さらに尊敬してやまないアインシュタインが、1955年4月19日、プリンストンで心臓病で死去する。世界中の科学者が喪に服する中、別れの挨拶に出たくとも、アメリカには好ましからぬ人物イレーヌは、尊敬してやまないアインシュタインの葬儀にも出席できず身を震わすのである。こうしてイレーヌは1956年放射能被爆による白血病、そしてフレデリックは、1958年、イレーヌを追いかけるように同じ原因の肝臓病でこの世を去っていく。

 戦争の時代20世紀における科学者の科学研究と政治的立場は、否応なく軍事体制に組み込まれて行く。本書には、ナチス下のドイツの科学者でも、ヨーロッパからアメリカに亡命しマンハッタン計画にかかわった科学者でも、さらに矛盾に満ちたスターリン主義下のソ連の科学者でもない、イレーヌ/フレデリックをはじめとするフランスの科学者が、国際政治の中で、フランス革命の精神を内在する自国の国有の文化を保持しつつ、戦争に翻弄され苦悩しながら生き闘わねばならなかった様子が、柔らかい文章で描かれている。