書評:デーヴァ・ソベル『ガリレオの娘』(田中勝彦訳、田中一郎監修、DHC)  2003年3年20日『化学史研究』第30巻第1号(通巻第102号)掲載

 ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)には内縁の妻(愛人)マリナ・ガンバ(1578-1619)との間に三人の子供がいた。長女のヴィルジーニア・ガリレイ(1600-1634)、次女リヴィア・ガリレイ(1601-1659)、そして長男ヴィンチェンツイオ・ガリレイ(1606-1649)である。ガリレオは結婚を考えなかった。マリナ・ガンバとは12年間の私的な時間を過ごしたが同居することはなかった。その後、マリナ・ガンバは長男ヴィンチェンツィオを連れジョヴァンニ・バルトルッツィなる男と結婚する。こともあろうに、ガリレオは長男の扶養のためもあるが、バドヴァの友人のところでこの男のために仕事に付かせる世話までやっている。

 ガリレオはどうしたわけか、まだ十代の若い二人の娘を世俗からかけ離れた修道院に入れることを考える。もちろん、修道院の戒律は厳しくいったん入ればほとんど外部には出でこれないのを知ってのことである。その理由は、本書の著者によると、内縁関係の娘であることから結婚させることを考えない、ガリレオの健康状態が優れない、次女リヴィアが躁鬱と引きこもりの病的傾向がった、二人の娘を育てるには手癖が悪く理屈屋で気難しい母しか他にいなかった、そしてガリレオの科学的功績を妬み陥れようとする企ての噂を懸念してのことだった、ことなどである。

 こうして二人の娘は修道院に入り、それぞれ長女ヴィルジーニアは修道女マリア・チェレステ(1616年)、次女リヴィアは同じくアルカンジェラ(1617年)として修道宣言を立てるのである。

 『ガリレオの娘』の娘とは長女の修道女マリア・チェレステのことである。本書はこのマリア・チェレステが修道院からガリレオに送った手紙が再現される。修道院の生活の様子やら宗教的営みなど、ことこまかなに書いたものだ。あるときは、ガリレオの身辺に何かが起こるたびに心配していることや励ましの手紙である。著者によると、マリア・チェレステがガリレオに送った手紙は124通だけ現存する。またマリア・チェレステの肖像画が一枚だけ残っている。

 これに対してガリレオは娘マリア・テレステに送ったであろうガリレオの手紙はとんど残っていない。著者によると、マリア・チェレステ宛で修道院に送られてきたガリレオの手紙は、アリア・チェレステの死後、強い嫌疑のかかっているガリレオの文書は危険と判断し土に埋めたか焼却したのだ。残っているのはガリレオが、たぐいまれな知性、比類のない善良さ、優しさをもっていた娘だと、他国の科学者に語った言葉だけである。まことに残念至極である。もしガリレオのマリア・チェレステ宛ての手紙が残存していれば、ガリレオの輝かしくも悲劇に満ちた苦難の社会的論争を巻き起こした、時代を画する先駆的作品の『星界の報告』(1610年)、『偽金鑑識官』(1623年)、『天文対話』(1632年)、『新科学対話』(1638年)刊行途上でやり取りされた「公開書簡」には、決して見られない本音のガリレオをみることができただろうにと思う。

 ともかく、著者はマリア・チェレステの124通すべての手紙を読み通し、省略・要約せずに全文ないしは部分を本書の要所要所にふんだんに散りばめ、文学的色彩を盛り込み多彩な人間ガリレオ像を描き出すことに成功している。そればかりでない。われわれの関心事である「近代科学の父」たる科学者ガリレオの数々の科学的業績をガリレオが生きた時代の文化・思想状況のなかにきちんと位置付けることを忘れない。これが本書の最大の特色であり、欧米の多く読者を獲得しベストセラーになった理由である。

 ここで、愛情に満ち品性ある文章で綴られたマリア・チェレステの手紙を示そう。現存する124通の最初の手紙である。ガリレオの妹ヴィルジーニア(1573-1623)が死んだときの慰めの手紙である。

 父上の大切な妹であり、敬愛する叔母上が亡くなられ、悲しみに暮れています。とはいえその悲しみも、父上ご自身に対する私たちの心配の比ではありません。かけがいのない叔母上が去られた今、まさに一人この世に取り残された父上の苦しみはなお一層大きなものがあると思うからです。

 このように突然の、全く思いがけない痛手を、父上がどのように耐え偲んでいらっしゃるのか、私たちはただ推し量ることしかできません。心より父上の悲しみを分かち合うことは申すまでもありませんが、父上は人間世界の悲惨さの全体像を見つめることで、少しでも安らぎを得られることと思います。

 私たちはみな地上では異邦人や旅人のように生き、やがては、叔母上の祝福された魂がすでに就かれた至福に満ちた天上の真の祖国に、向かう運命にあるからです。ですから、父上、神の愛にかけて、どうかご自身を慰め、御身を神の御手に委ねてください。

 父上のよくご存知のように、神がそれを望まれているのです。そうなさらないなら、父上みずからが傷つき、私たちも悲しい思いをします。私たちにとって善の源泉はこの世で父上をおいてほかにありませんので、父上が悩み、苦しまれていることを知れば、私たちもひどく悲しむことになるからです。

 もう、これ以上申し上げることはありません。ただ、主が御身を慰められ、つねに御身と共に在すことを切にお祈りし、熱烈なる愛情を捧げます。サン・マッテーオにて、1623年5月10日 愛情いと深き娘 S・マリア・チェレステ。

 なんと美しい文章であろうか。評者も娘がいればこんな手紙をもらいたいものだ。ちなみにSとは修道女、チェレステとは「天界の」意味だ。本書には何十通の手紙が見られるが、いついかなるときにでもその愛情と品性を欠かすことのない見事な文章である。いついかなるときとは、ガリレオの病状を憂慮したり、修道院の金策を懇願したり、修道院の複雑な人間関係を知らせたりするとき、どんなときでもそうだ。その一方で修道院女マリア・チェレステの生活は現代版「監獄の生活」以上の厳しい戒律的生活だ。その寸暇を見つけてマリア・チェレステがまさに命がけで手紙を書き付ける。その無理もたたり、1634年、マリア・チェレステは弱冠33歳で病死する。赤痢であった。

 なにが修道院か。なにが神か。マリア・チェレステは修道女にならければ死ぬことはなかった。もしからしたらガリレオ以上の文才を発揮し世界にその名を記憶させたかもしれないまれにみる才女であった。「神も仏もあるものか」と考える評者は、数百年前のこととは言え、カトリシズムの愚かさを感じるとともに、マリア・チェレステの人生も時代の落とし子であったのだと思うことで、気休めるしかない。

 著者が本書を執筆する動機は次のようである。本書の前にもべストセラーになった『経度への挑戦』(翔泳社、1997年)執筆以前、この問題を追いかけ資料収集をしているとき、経度の探求・発見にガリレオが関係していること、そのガリレオが二人の娘を修道院に入れたのは、なぜかという疑問からであった。デーヴァ・ソベルは『ディカバー』、『ライフ』、『ニューヨーカー』で健筆力を発揮した第一線の科学ジャーナリストである。ちなみに本書執筆を契機に、マリア・チェレステの手紙を編集翻訳し『マリア・チェレステ書簡集』を刊行している。膨大なガリレオ研究にまたひとつ優れた作品が入った。

 紙数が尽きそうで、本誌の編集長・古川安氏の困り果て戸惑っている姿がありありだが、もう少し言いたいことがある。ひとつは著者の手紙(イタリア語)の翻訳(英語)がそもそも正確かということである。これは原典にあたらなければならない。おそらく監修者でガリレオ研究者の田中一郎氏がその仕事をやったに違いない。そうだとすると、その仕事は大変なことであったと察する。田中氏には本書が、科学史としてのガリレオ研究の観点から、どのような新たなことをもたらしたのかについて、詳細に解説してほしかった。評者はそれを期待する。ともかく、訳者・監修者の労に感謝する。近年にない読み応えのある面白い本である。