原書は、DIE IDEE DER PHAENOMENOLOGIE Fünf Vorlesungen von Edumund Husserl Herausgegeben und eingeleiten von Walter Biemel : Martinus Nijhoff, Haag, 1950.
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Ⅰ はじめに
Ⅱ 総目次
Ⅲ 編者序
Ⅳ フッサ―ルのことば
Ⅴ 附録 原典批評―テキストの成立と形態
Ⅵ おわりに
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Ⅰ はじめに
私の書棚には長い間、エドモンド・フッサールの多数の書(日本語訳版)が保管されている。それらの多数の書の中でもっともコンパクトなものが本書『現象学の理念』である。本文は原注を含め130頁、訳注(詳細)は34頁、訳者あとがきは12頁、全体で199頁の小著である。しかし、小著だからと言って簡単に読めるような哲学書ではない。というのも、これまでなんどか読み込みに挑戦してきたが、ほとんど理解できず放り出してしまっていた。そこで今は何のノルマのない立場にいるので、おもいきって『現象学の理念』を一文字一文字、かき写し音読し、そのつど、詳細な訳注にあたり、考えながら読み進めた。きわめて難解なフッサール独自の哲学用語にはとても悩まされたが、これも仕方がない。それはともかく、どうにか読み終えることができた。そこでその全貌をあげておくことにする。ただし、原注と訳注はすべて省略した。
こんなことを毎日午前の一定時間枠をもうけやってきたが、正直に言うと、手と口と目と腕をフルにつかった作業、つまり思考的能力に欠ける者のやむをえない物量作戦であり、とても論考などといえるものではない。しかし、その物量作戦を通じ、ドイツ語原文ではなく日本語訳を通じてではあるが、フッサールの肉声に真摯に向きあい、ひたすら聴きつづけたことはまちがいない。その点では、翻訳者(立松弘孝)の日本語訳を全面的に信用し、それに依存していることはいうまでもない。でははじめよう。
Ⅱ 総目次
編者序
講義の思索過程
講義 1
・自然な思考態度と自然的態度の学問
・哲学的(反省的)思考態度
・自然的見方における認識反省の諸矛盾
・真の認識批判学の二重の課題
・哲学の新次元、科学に対立する哲学的固有の方法
講義 2
・認識批判の出発点、あらゆる知識を疑うこと
・デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な地盤を獲得すること
・絶対的所有性の領域
・再論および補足、認識批判学の可能性に対する反対論の論駁
・自然的態度の認識の謎、超越
・内在と超越、両概念の区分
・認識批判学の第1の問題、超越論的認識の可能性
・認識論的還元の原理
講義 3
・認識論的還元の遂行、一切の超越者の排除
・研究の主題、純粋現象
・絶対的現象の〈客観的妥当性〉の問題
・単一的所有性へ限定してはならない、現象学的認識は本質認識である
・〈プリオリ〉の概念の両義性
講義 4
・志向性による研究領域の拡張
・普遍者の自己所与性、本質分析の哲学的方法
・明証の感情説批判、自己所与性としての明証
・実的内在の領域へ限定しないこと、すべての自己所与性が主題である
講義 5
・時間意識の構成
・本質の明証的所与としての本質把握、単一的本質の構成と普遍的意識の構成
・範疇的所与性
・象徴的内容そのもの
・最も広範囲の研究領域、認識における対象性の諸様態の構成、認識と認識対象性の相互関係の問題
附論1
附論2
附論3
附録 原典批評
・テキストの成立と形態
・校注
訳注
訳者あとがき
Ⅲ 編者序
ここに編集した5講義、すなわちフッサールが1907年4月26日から5月2日にわたってゲッチンゲンで講述した『現象学の理念(現象学および理性批判の主要部への序論)』の意義は、これらがフッサールの精神的発展のいかなる時期に成立し、彼の思想にどのような転機を表わしているかを明確にすれば、はっきりするはずである。その点を明らかにするのがこの序論の課題である。
『論理学研究』出版〔1900-01年〕後の6年間にフッサールは一つの重大な危機を切り抜けている。当時フッサールは、彼を哲学の正教授に任命しようとする文部省の提案がゲッチンゲン大学によって却下されると屈辱を経験している。この〈同僚の軽視〉は、フッサールが自分で認めていた以上に、心の痛手であったと思われる。しかしこのような外面的なつまずきよりももっと深刻な打撃は自分自身に対する迷いであり、その苦しみのあまりフッサールは哲学者としての自分の存在理由さえも疑うことになるのである。
このような絶望の中から、自分自身と自分の使命とをはっきり自覚しようとする決意が生まれてくるのである。1906年9月22日に、折にふれ日記風の覚え書を紹介する自分のノートに彼はこう書きしるしている。
「かりに自分を哲学者と言いうるとした場合、私が自分自身のためにぜひとも解決しなければならない普遍的な課題をまず第一にあげてみたい。それは理性の批判である。論理的理性と実践的理性および価値判断理性一般の批判である。概括的にもせよ理性批判の意味、本質、方法、主要観点を明晰に自覚しなければ、また理性批判の普遍的構想を十分に考え、企画し、論定し、そして基礎づけなかったならば、私は真の意味で生きることはできない。不明晰さとさまざまに動揺する懐疑の苦しみとを、私は十分味わってきた。私は内的確実性に到達しなければならない。そこで大変なことが、きわめて大変なことが問題になっているのを私は承知しているし、偉大な天才たちがそこで挫折したことも知っている。だからかりにも自分を彼らに比肩しようなどとすれば、私は最初から絶望せざるをえまい・・・」
カントの主著の標題を偲ばせるのも偶然ではない。当時フッサールは詳しくカントを研究しており、この研究を通じて超越論哲学としての現象学、超越論的イデアリズムとしての現象学という思想や、現象学的還元の思想が彼に芽生えるのである。(カントとフッサールの思想の相違、特に〈構成〉という根本思想についての相違に立ち入ることはここでは断念せざるをえない。)
(原注)フッサールがディルタイの知遇をえたのはちょうどこの時代のことで、フッサールにとっては重大な出来事であった。―しかし残念ながら当時の書簡は保存されていない。
超越論的考察への門戸をなすのが現象学的還元であり、これが〈意識〉への帰還を可能にするのである。このような帰還によってわれわれは、対象がどのようにして構成されるのかを観取するのである。なぜなら超越論的イデァリズムによって、意識における対象の構成という問題が、換言すればフッサールのいう〈意識への存在の解消〉が、彼の思索の中心へ押し出されたからである。
この5講義でフッサールは、その後の彼の思索全体を基底することになったこれらの思想を初めて公表したのである。これらの講義で彼は現象学的還元や意識内での対象の構成という根本思想を明晰に叙述しているのである。
還元の理念の萌芽は1905年夏のいわゆる『ゼーフェルト草稿』(記号AⅦ5)にもすでに見出されるのであるが、しかし『5講義』に比べると著しい相違がある。1905年にはどちらかといえばまだ最初のためらいがちな模索が認められるにしぎないが、それにひきかえ『5講義』ではこの還元の思想の意義がすでに全般的に論述され、しかも構成という根本問題との関連までもすでに観取されているのである。
『5講義』の根本思想は、現存する手稿が示しているように、フッサールを捉えて離さなかったのである。そこでこれらの手稿のうち特に重要で、しかも直接関連のあるものだけを次にあげておきたい。それは、1907年9月および1908年9月の手稿BⅡ1、BⅡ2、次いで1909年の講義『現象学とその方法の理念』(FⅠ17)、還元の拡張についての講義1910・11年(FⅠ43)、1912年の現象学的還元についての講義(BⅡ19)、そして最後に、1909年の講義に平行して行われた1915年の『現象学的諸問題』(FⅠ31)などである。これらの手稿の一つ(1907年9月、BⅡ1)で、フッサールは新たに獲得した彼自身の立場について、『論理学研究』に関連して次のように述べている。
『論理学研究』は現象学を記述的心理学のように思わせている(それらの研究においても認識論的関心が決定的であったが)。しかしこの記述的心理学は、しかもそれが経験的心理学と解される場合は、超越論的現象学とは区別されなくてはならない・・・・。
しかし拙著『論理学研究』で記述的現象学と呼ばれていたものは、単に体験の領域を、しかも体験の実的内実の面を研究するにすぎない。体験とは体験する各自我の体験であり、その限りではそれらはいろいろな自然の客観性に経験的に関連づけられているのである。しかし認識論たらんとする現象学にとっては、すなわち(アプリオリな)認識の本質論にとっては、そのような経験的関係はあくまでも排除されているのである。このようにして超越論的現象学が成立するのであるが、しかし実は『論理学研究』の中でもすでに断片的にはこのような現象が論述されているのである。
ところでこの超越論的現象学によってわれわれが研究するのは、アプリオリな存在論ではなく、形式論理学や形式的数学でもなく、またアプリオリな空間論としての幾何学でもないし、アプリオリな時間計測法や運動論でもなく、(事物や変化など)いかなる種類のアプリオリな実在的存在論でもない。
超越論的現象学は構成的意識の現象学である。したがって(意識ならざる諸対象に関する)客観的公理は何一つこの学には含まれていない。
認識論的関心、超越論的関心は客観的存在にも、客観的存在のための真理を提示することにも向かわず、したがって客観的学問には関知しない。客観的なものはまさに客観的学問に所属しているのである。そしてこの客観的科学に完全性の点で欠如しているもの、それを完成するのが超越論的現象学の任務であり、しかもこの現象学固有の任務である。超越論的関心は、すなわち超越論的現象学の関心は、むしろ意識そのものに向かい、現象のみに係わるのである。ただし次の二重の意味で現象に係わるのである。(1)客観性がその中に現出するところの現出という意味での現象と、(2)他方、客観性が現出の中にまさに現出している限りにおいてのみ、考察され、しかも一切の経験的措定を排除して、〈超越論的〉に、考察される客観性という意味での現象とに・・・・。真の存在と認識の働きとの間の諸関係を明らかにし、そして一般に作用と意義と対象との間の相関関係を究明するのが、超越論的現象学の(あるいは超越論的哲学の)課題である。」(手稿BⅡ25章a以下の引用)
この手稿は『5講義』と同じ1907年のものであるから、フッサールが『純粋現象学の理念』第1巻(1913)で初めてイデアリズムに移ったとする主張は、これによって訂正されねばならない。
本書の『5講義』は1907年の夏学期に週4時間の講義『事物論』の序論として講述されたものである。この『事物論』は『現象学および理性批判の主要部』と題する連続講義の一部であり、フッサールはこの連続講義で〈理性批判〉の〈普遍的課題〉を達成しようと試みている。『事物論』そのものを彼は一つの偉大な試み、〈事物性と特に空間性の現象学の試論〉と呼んでいる(Xx5 24頁)。『5講義』では〈諸対象のそれぞれの基本的種類には現象学によって究明されるべき特殊な構成が属している〉とする構成の思想がまさにその終極の思想になっているのであるから、フッサールはいわばこのような構成的研究の拡張として事物構成に関する講義をつけくわえたのも、別段意外なことではあるまい。
しかし彼の弟子たちはこの『事物論』の意義を把握できなかったようである。それというのは1908年3月6日にフッサールは次のように書きとめているからである(Xx5 24頁)。「それは一つの新しい出発点であったが、残念なことに私の弟子たちには、私が期待していたほどには、理解もされず受け容れられもしなかった。確かにいろいろ困難があまりに大きすぎて、即座にそれらを克服することは不可能であった。」
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このテキストが著作中の第2巻として出版されるに至ったのはフッサール文庫理事長、フランシスコ会会員H・L・ヴァン・ブレダ教授のお勧めによるものである。同教授にはそのご好意とご助言に対しここで厚く御礼を申しあげたい。またフリッツ・カウフマン教授(バッファロ)、ドクターL・ゲルバー夫人と私の妻、ならびにドクターS・シュトラッサ―教授に謝意を表したい。ルーヴァン 1947年9月 ヴァルター・ビーメル
Ⅲ フッサールのことば
講義の思索過程
生活と学問における自然的態度の思考、すなわち認識の可能性のいろいろな難問題には無頓着な思考と―認識の可能性の諸問題に対する立場によって規定される哲学的思考。
事象そのものに的中する認識の可能性についての反省が巻き込まれるいろいろな困惑。どのようにして認識はそれ自体に存在する事象との一致を確認し、またそれらの事象に〈的中〉しうるのだろうか? 事象自体はわれわれの思考の働きやそれらを規整する論理法則にどのように関与するのであろうか? それらの法則はわれわれの思考の法則であり、必然的法則である。――生物主義、適応法則としての心理学的法則。
不合理なこと。まず最初ひとは自然的態度で認識について反省し、認識をその能作とともに諸科学の自然的態度の思考体系へ組み入れ、そして好き勝手な理論に熱中するが、しかしそれらの理論はいつも矛盾や不合理に終わる。―明白な懐疑論への傾向。
これらの問題に対してなんらかの学問的立場を取るこのような試みはすでに認識論といえよう。いずれにせよ、いま述べたいろいろな難問題を解決して、認識の本質およびその能作の可能性について究極的かつ明晰な、つまりそれ自身整合的な洞察をわれわれに与える一個の学問としての認識論の理念が芽生えているのである。―このような意味での認識批判学は形而上学の可能性の条件である。
認識批判学の方法は現象学的方法であり、現象学は普遍的本質論であって、認識の本質についての学問はこれに編入される。
それはどのような方法であろうか。認識一般の意味と能作が問題になっているとすれば、認識についての学問はどのようにして確立されたのであろうか、その場合どのような方法が目的を達するのであろうか。
A 現象学的考察の第一段階
(1)まず第一に、いったいこのような学問〔認識批判学〕が可能であろうか、という危惧が生じるであろう。この学問がすべての認識を問題にするとすれば、出発点に選ばれる認識もすべて問題にされるわけであるから、この場合この学問はどのようにして始まり得るのであろうか?
しかしそれは単なるみせかけの困難に過ぎない。認識はそれは〈問題にされる〉からといって、何も否定されているのではなく、またあらゆる意味で疑わしいものとされているものでもない。問題になるのは認識に対して過大に要求される特定の能作であり、しかも〔先に指摘した〕いろいろな難問題がすべての認識類型に該当するかどうかもまたはっきりしていないのである。いずれにせよ認識の可能性を究明しようとするからには、認識論は認識の可能性についてそれ自身疑いようのない認識を、しかも的中性を備えたきわめて重要な意味での認識を所有していなければならないのであり、また〈認識論〉自身の認識の可能性についてもその的中性が絶対に疑えないような認識を所有していなければならない。
もしも「認識論の的中性がどのようにして可能か」その点が不明晰で疑わしくなったり、「そのような的中性が可能であるかどうか」を疑ってみたくなるようなことがあれば、われわれは認識対象に本当に的中している認識やあるいは的中すると予想される可能的認識の確実な諸例にまず注目しなければならない。そうでなければわれわれは可能な、つまり有意義な目的を失うであろう。
さてそこでわれわれに一つの出発点を与えてくれるのがデカルトの懐疑考察である。コギタチオの存在は、すなわち現に体験し端的にそれを反省している際の体験の存在は疑いえず、しかもコギタチオをこのように直観的・直接的に把握し所有することはすでに認識の働きであり、コギタチオは最初の絶対的所与性である。
(2)最初の認識論的反省は当然この点に結びつく。これらコギタチオの場合その不可疑性は何に拠るのであろう。またそれに反して他の僭称的認識の場合その疑わしさは何に由来するのであろうか? なぜある場合には懐疑論への傾向と「どのようにして存在が認識によって的中されるのか」という疑問が生じ、そしてなぜコギタチオの場合にはこのような懐疑や困難が生じないのであろうか?
まず最初は―確かにこれが一番手近な回答であるが―内在と超越という対概念あるいは対語によって答えられる。コギタチオの直感的認識は内在的であり、客観的科学の、すなわち自然科学と精神科学の認識は、それに子細に検討すれば数学の認識も、超越的である。客観的科学には超越の危惧が、すなわち「どのようにして認識は自己を越えうるのか、意識の枠内に見出されない存在にどのようにして的中しうるのか」という疑問が存する。しかしこのような難問題はコギタチオの直観的認識の場合にはありえない。
(3)まず最初、内在は実的内在の意味に、それどころか心理学的にリアルな内在の意味に解釈されがちであり、しかもそれが自明なこととされている。すなわち、一個のリアルな現実性としての認識体験やまたはその体験が所属する自我の意識の内部には、認識の客観も見出されるとそう考えられがちなのである。つまり同じ意識の内部に、しかも同じリアルな今の中に、認識作用はその客観を見出し、それに的中するということがあたかも自明なことのように思われているのである。内在的なものは私の内にあり、超越的なものは私の外にある、とこの場合こう初心者は言うであろう。
しかしもっと詳細に考察してみると、実的内在と明証的に構成される自己所有性という意味での内在性とは別のものである。実的内在者は疑いえないとされているが、その理由は実的内在者は〔自己以外に〕他の何ものをも呈示せず、何一つ自己を〈超えて思念〉しないからであり、ここでは思念されたものが完全にまったく十全的にそれ自身与えられているからである。実的内在者以外の自己所有性は最初からまだ視野に入らない。
(4)したがって最初は〔内在の種類は〕まだ何も区別れない。そこで明晰性の第一段階「実的内在者、またはここでは同義語であるが、十全的自己所与は疑いうがない」ということであり、これを私は〔認識論の出発点に〕利用することができる。しかし超越者(実的に内在ないもの)を利用することは許されないから、それゆえ私は現象学的還元を、すなわちあらゆる超越的措定の排除を遂行せねばならない。
それは何故あろうか? 「どのようにして認識は超越者に、すなわち自己所与ではなく〈超出的に思念されるものHinausgemeintes〉に的中しうるのか」という点が私にとって不明晰である以上、超越的な認識や科学が明証性を獲得するのになんら私の役にたちえないことは確かである。
私が求めているのは明晰性であり、私が理解したいのはこの的中の可能性である。すなわちこのことの意味をよく考えてみると、要するに私はこの的中の可能性の本質を看取し、その本質を直観的に所与性へもたらしたいのである。直観は論証されえないのであり、たとえ盲人が見えるようになりたいと望んだとしても、科学的論証によってそうなれるものではない。つまり物理学や生理学の色彩論は、眼の見える人間がもっているような色の意味の直観的明証性を与えはしないのである。したがってこのような考察から明らかなように、認識批判学があくまでもすべての種類と認識の形式を解明しようとする学問である以上、認識批判学は自然的態度の学問を何ひとつ利用しえないのである。そのような科学の成果や存在の論定に結びついてはならない。これらは認識批判学にとって疑わしいものなのである。
すべての科学が認識批判学にとっては単なる科学現象に過ぎない。そのような結びつきはすべて誤ったメタバシスである。つまりそのような結びつきは、自然の事実としての認識の心理学的・自然科学的説明と認識能作の本質可能性についての認識の解明との間の、よくありがちな誤った問題移によってのみ生ずるのである。したがってこのような転移を回避し、この〔認識能作の〕可能性への問いの意味を常に銘記しているために、現象学的還元が必要とされるのである。
現象学的還元とは、一切の超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効の符号をつけることであり、すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで、せいぜい妥当現象として定立することである。たとえば一切の心理学や自然科学など、あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるに過ぎず、したがってそれを、私にとって〔認識批判学の〕手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては、また前提としても、仮説としてさえも、利用してならないのである。要するにこの原理の本来の意味は、この認識批判学で問題になっている事象から離れず、ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。認識の可能性の解明は客観的科学の道にあるのではない。認識を明証的自己所与性へもたらし、そのなかで認識の能作の本質を直観しようとするのは、それは演繹したり、帰納したり、算出したりすることではなく、それはすでに与えられている事象やあるいは所与とみなされている事象からそれらを根拠に新しい事象を導出することではない。
B 現象学的考察の第二段階
ところで現象学的研究とその諸問題の本質をいっそう高次の明証性へもたらすためには、新しい考察の層が必要である。
(1)まずデカルトのコギタチオさえも現象学的還元を必要とする。心理学的に統覚*され客観化された心理学的現象は絶対的所与性ではなく、ただ純粋現象だけが、すなわち還元される現象だけが絶対的所与性である。体験する自我、世界時間内の人間という客観、いろいろな事物の間にある事物など〔としての自我〕は絶対的所与性ではなく、しがって自我の体験としての体験でもない。われわれは心理学の地盤を、記述的心理学の地盤さえも、決定的に離れ去るのである。そうすることによって根源的に主要な問いが還元される。すなわち「私が、この人間が、私自身の体験の内部で、たとえば私の外にあるなどとされる存在自体にどのようにして的中しうるか」という問いではなく、このような初めから多義的でしかもその超越の重荷ゆえにめくらめくような錯綜した間に代って、いまは次のような純粋な根本問題が生じるのである。純粋認識現象はそれ自身に内在していないものにどのように的中しうるのであろうか、認識の絶対的自己所与性がどのようにして非自己所与性に的中しうるのであろうか、またこの的中するということはどのように理解されるべきであろうか?
それと同時に実的内在の概念も還元される。それはもはやリアルな内在を、すなわち人間の意識内の、リアルに心的現象における内在をも意味するものではない。
(2)観取された現象を所有すれば、もはやそれで現象を、すなわちこれらの現象についての学問を所有しているように思われる。
しかし実際に研究に着手してみると、われわれは忽ち隘路に気づく。すなわち絶対的現象の分野も――これらの現象が個々に取り上げられたのでは――われわれの志向を十分に満足させるとは思えないのである。たとえ個々の直観のコギタチオネスをわれわれに対して確実に自己所与性へもたらしてくれるとしても、いったい個々の直観がわれわれに何を為しうるというのであろうか? それら個々の直観を基礎に論理的操作が行われ、比較や区別な概念化や陳述が可能であることは最初は自明に思われるが、しかしやがて開示されるように、その背景にはさらに新しい客観性が控えているのである。しかしもしもこの自明性がそのまま容認され、それ以上考究されないとすれば、われわれがここで必要とする普遍妥当的論定がどのようにして為されるのかを見みきわめるのは不可能である。
しかしこの先われわれに役立つと思われるものが一つある。すなわちそれはイデー化的抽象である。この抽象はわれわれに洞察的普遍性、スペチエス、本質を与えるものであり、したがってこれによって次のような救いの言葉が語られるように思われる。すなわちわれわれは確かに認識の本質についての直観的明晰性を探求している。認識はコギタチオネスの領域に属しているのであるから、われわれは直観によって認識の普遍的対象性を普遍性意識へ高めなければならない、そうすれば認識の本質論が可能になるのである。
われわれは明晰・判明な視覚に関するデカルトの考察にならってこのような処置を遂行する。コギタチオの〈実在〉はその絶対的自己所有性によって、すなわち、純粋に明証的なその所有性によって保障されているのである。〔それ故そのほかの客観性についても〕われわれが純粋明証を所有しているとすれば、つまりある客観性そのものを直接的に純粋直感し、把握するとすれば、われわれは〔その客観性についてもコギタチオの実在と〕同等の権利、同等の不可疑性を所有することになるのである。
この処置によってわれわれには絶対的所与性としての新しい客観性が、すなわち本質的客観性が与えられたのであり、それに観取されたものを基礎に言表によって表現される論理的作用は初めから論外にされているのであるから、ここで同時に本質言表の、したがって純粋直感によって与えられる類的事態の分野が得られるのである。つまり最初は、〔この分野は〕個々の普遍的所与性から区別されていないのである。
(3)ではここでわれわれはすでにすべてを所有したことになるだろうか、すなわち完全に限定された現象学を所有し、認識批判学に必要なものを所有しているということの明晰な自明性をも有することになるだろうか? また、解決すべき問題についての明晰性をも所有することになるだろうか?
否そうではない。われわれがとった処置はわれわれをさらに先に導くのである。それによってわれわれには、実的内在(および超越)が内在一般というさらに広い概念の特例にすぎないことがまず第一に明晰にされる。したがってもはや絶対的所与と実的内在とを自明のこととして軽率に同一視するわけにはいかない。なぜなら普遍者は絶対的所与ではあるが実的内在ではないからである。普遍者の認識は単一のものであり、そのつど意識の流れの中の一要素であるが、しかし認識の中に明証的に与えられている普遍者自身は単一者ではなくまさに普遍者であり、したがって実的な意味では超越的である。
以上の考察により現象学的還元の概念はいっそう詳細な、いっそう深い明晰な意味を獲得する。すなわち還元とは実的超越者(たとえば心理学的、経験的意味でさえ)の排除ではなく、実在として容認される。超越者一般の排除を意味するのであり、真の意味での明証的所与性、純粋直感の絶対的所与性でないものすべて排除することである。しかもわれわれが先に述べたことは勿論すべてそのままである。すなわち科学的みに帰納ないし演繹され、仮説や事実や公理から導出された妥当性や現実性などは排除されたままであり、そして単に〈現象〉としてのみ許容されるのであって、またなんらかの〈知識〉、なんらかの〈認識〉への訴願も勿論それと同じである。〔現象学的研究〕は全く純粋直感の範囲内に限定されるべきであるが、しかしそれだからといって実的内在者に固執すべきではない。現象学的研究は純粋明証の領域内での研究であり、しかも本質研究なのである。すでに述べたように、現象学的研究の分野は絶対的自己所有性の内部のアプリオリである。
さてこれで〔研究〕分野の特徴がはっきりした。それは絶対的認識の分野であり、この分野にとっては自我も世界も神も数学的多様体もまたどのような科学的客観性にせよそれらはみな除外されている。したがって絶対的認識はそれらの客観性に依存しているのではなく、ひとがそれらの客観性に関して懐疑論者であろうとなかろうと、独自の妥当性を保持しているのである。つまりこれらはすべて存立し続けるのである。しかし絶対的所与性の意味を把握することが、重大な懐疑を残らず排除するような所与存在の絶対的明晰性の意味を、一言でいえば絶対的に直感し自己を把握する明証の意味を把握することが、それが一切の根拠である。
デカルトの懐疑考察の歴史的意味はいわばこの明証の発見にあるのである。しかしデカルトにおいては一つのことが発見されながら、それが見捨てられてしまった。われわれが行うのはこの古来の志向の中にすでにあったものを純粋に把握し、そしてそれを徹底的に継承発展することにほかならない。―明証の心理学主義的感情解釈についてはこの点に関連してすでに批判を試みた。
C 現象学的考察の第三段階
ところで現象学と現象学的問題提起の意味をいっそう明晰に理解するには、さらに新しい論考の層を必要とする。
自己所有性はどの範囲まで及ぶのであろうか?それはコギタチオの所与性とそのコギタチオを類的に把握するイデー化の所与性の範囲内に限定されるのであろうか?自己所有性の及ぶ限り、われわれの現象学的領域は、すなわち絶対的明晰性の、真の意味での内在の領域も〈及ぶ〉のである。
このようにしてわれわれは一段と深層へ導き入れられたのであり、そしてこの深層には暗闇が広がり、それらの暗闇のうちにはいろいろな問題が伏在しているのである。
最初はすべてが単純に見え、それほど難しい仕事がわれわれに要求されるとは思わなかった。内在即実的内在とみて、しかもこの実的内在こそ重要であるかのように思う先入観はいずれ破棄されるだろうが、しかしいやはり最初は、少なくともなんらかの意味で、この実的内在を拠り所にしているのである。初めの予想では、本質考察とはコギタチオネスに実的に内在するものだけを類的に把握し、本質を基礎とするいろいろな相互関係を論定することのように思われ、したがって見かけは簡単な事柄のようにみえる。反省を行ない、自分自身の作用をかえりみて、それらの実的内容をあるがままに承認するのである。ただし現象学的還元のもとでそうするのであるから、その点だけが難しいように思われる。したがって当然〔この場合は〕直観されたことを普遍性意識へ高めるだけに終わってします。
しかし所与性をもっと詳細に観察してみると、事柄は容易でなくなる。まず第一に、われわれが端的な所与性と見なしなんら神秘的なものではないと思い込んでいるコギタチオネスが実はいろいろな超越を秘めているのである。
さらに考察をすすめて、たとえば音の体験の内部に、現象学的還元を行った後にもなお、現出と現出するものとが対立していることに気がつけば、つまり純粋所与性の内部に、すなわち真の内在の内部にさえ、そのような対立のあることが気がつけば、だれしも当惑するであろう。たとえば音が持続している場合、われわれはその音とそして、時間位相を、すなわち今の位相と過去の位相とをもつその音の時間の広がりとの、明証的に与えられた統一を所有するのであり、またその上、われわれが反省を行う場合には、音の持続の現象を、すなわちそれ自身一個の時間現象で、そのつどの今の位相と既在位相とをもつ音の持続の現象を、所有するのである。したがってこの現象のたまたま取りあげられた今の位相においても「その音の今」はそれ自身ただ単に対象的に存在するだけでなく、その音の今は音の持続の中の一点に過ぎないのである。
以上の示唆によっても―その詳細な分析はわれわれの今後の特殊課題であるが―すでにわれわれは次のような新しい問題に気づくであろう。すなわち音の知覚の、しかも明証的な還元された音の知覚の現象が内在の内部で現出と現出するものとの区別を要求していることに気づくのである。したがってわれわれは二つの絶対的所与性を、すなわち現出することの所与性と対象の所与性の二つを所有しているのである。しかし対象はこの内在の内部に実的な意味で内在しているのではなく、それは現出の一部分ではない。つまり音の持続の過ぎ去った諸位相はいまもなお対象的に存在してはいるが、しかし〔音の〕現出の今の時点に実的に含まれているのではない。われわれは普遍性意識の場合にも、実的なものの中には含まれておらず、したがってけっしてコギタチオとは見なしえない自己所有性を構成する意識が、それは普遍性意識であることを見出したのであるが、つまりそれと同じことをわれわれは知覚の現象の場合にも見出すのである。
考察の最低段階では、すなわち素朴性の立場ではさしあたり明証とはただ単に直観すること、精神の単純な視向(ein wesenloser Blick)であり、どのような場合にも同一で、それ自身なんの区別もないものであるかのように思われている。したがって直観はまさに事象を直観するのであり、事象は端的に現存し、しかも真に明証的に直観されて意識の中に現存しているのであるから、直観はただ単純にそのような事象を目指して直観するのである。あるいは別の意味の言葉で形容すれば、端的に現存しているものを直接的に把握すること、また受け取ること、ないしは指し示すことである。したがって一切の区別は事象の中に〈ある〉ことになり、それらの事象は独自に〈für sich〉存在し、それら自身によって(durch sich)区別されるのである。
ところがさらに詳しく分析してみると、事象の直観というのはそれとはもっと違いものであることが証明される。たとえ注意という名称のもとに、それ自体は記述も区別もされない直観の存在をあくまで主張するとしても、しかし事象についてまでそれらを「端的に現存していて、ただ直観されさえすればようもの」のように論ずるのはおよそ無意味なことがわかるのである。そのように〈端的に現存する〉のは、知覚、想像、記憶、陳述などのように、可変的なそして種に固有の構造をもった特定の体験である。また事象が体験に内在するというのも、たとえばケースや容器の中に入っているというようなあり方ではなく、体験の内部にけっして実的に見出だされない事象が体験の内部で構成されるということなのである。〈事象の所与存在〉とはそのような〔体験〕の現象の内部で自己をしかじかであると呈示すること(事象されること)なのである。そうである以上もはや事象はけっして独自に現存しているのではく、また〈意識の中へ自己の代表象を送りこむ〉のでもない。そのようなことは現象学的還元の領域内では到底考えられないことであり、むしろ事象は現出の内部に(in)現出によって(vermöge)存在し、それら自身与えられているのである。この個々の現出(所与性の意識)が問題にならない限り、事象はなるほど個体的には現出と分離しうるようであり、またそのように思われているのであるが、しかし本質的には現出と分離しえないのである。
このようにして認識現象と認識客観との間のこの驚くべき相関関係があらゆる面で明示されるのである。そこでわれわれは、現象学の課題、と言うよりむしろ現象学のいろいろな課題や研究の分野は、あたかもただ単に直観し、眼を見開くだけでよいというような、そのような平凡な事柄でないことを悟るのである。最初のごく単純な場合でさえ、すなわち認識の最低形式の場合でさえ、純粋分析や純粋本質考察には非常な困難が伴うのである。ごく一般的に相関関係を論ずるのは容易であるが、しかし認識客観が認識によって構成されるその仕方を明晰にするのは非常に困難である。しかも純粋明証ないし自己所与性の枠内であらゆる所与性の形式とあらゆる相関関係を追求し、それらのすべてについて解明的分析を行うことこそ、〔現象学の〕課題なのである。
しかもそこで考察されるのは言うまでもなく個々の作用ばかりではなく、それらの複合、それらの整合・不整合の諸関連およびそれらの関連において顕現するいろいろな目的論も考察されるのである。これらの関連は単なる寄せ集めではなく、独特な仕方で結合され、いわば相互に合致し合う統一であり、また認識統一としてそれら自身の統一的・対象的相関者をも所有する認識の統一である。したがってそれら自身も認識作用に属しており、それらの類型は認識の類型であり、それらに内属する諸形式は思考形式と直感形式である(ただしここではこの語をカント的な意味で理解してはならない)。
そこで今度はいろいろな所与性をあらゆる変様にわたって、一つ一つ追及しなければならない。すなわち本来的所与性と非本来的所与性、端的な所与性と総合的所与性、いわば一挙に構成される所与性と本質的にただ徐々に作りあげられる所与性、絶対的に妥当する所与性と、認識過程の中で所与性と妥当性の充実とを無限に高度に獲得する所与性などを徐々に追及しなければならない。
このような道程を経て最後にわれわれは「リアルな超越的客観が認識作用によってどのようにして、それが最初に思念されている通りに、的中されうるか(自然が認識されるか)」を理解し、また「この思念の意味が、継続する認識関連の中で(その関連が経験客観の構成にちょうど必要な然るべき諸形式を所有している限り)どのようにして次第に充実されるか」を理解するのに至るのである。そうしてこそ「どのようにして経験客観が連続的に構成されるのか」を理解し、またこのような構成の仕方があらかじめ経験客観に定められており、経験客観には本質的にそのような遂次的構成が必要なことを理解するのである。
すべての学問を想定し、すべての学問的所与性を構成する方法論的諸形式は、したがって学問論の解明は明らかにこのような道にあるのであり、またそれ故すべての学問の解明も含蓄的には、勿論単に含蓄的にではあるが、この道にあるのである。すなわち認識批判学は、この途方もない解明的研究が成就されるならば、個別科学を批判し、またそれによって個別科学を形而上学的に評価する資格をえるのである。
つまりそれは所与性の諸問題であり、認識によるあらゆる種類の対象性の構成の諸問題である。認識の現象学は二重の意味での認識現象の学である。すなわち現出、呈示、意識作用としての認識の学問であり、これらの内部さえさまざまな対象性が、受動的ないし能動的に、自己を呈示し、意識されるのである。また他方では、そのように自己を呈示する対象性そのものについての学問である。現象という語は現出することと現出するものとの相関関係によって二重の意味をもっている。パイノメノンとは元来が現出するもののことを言うのであるが、しかし特に現出することそのものを、(粗雑に心理学的に誤解されやすい表現を使うことが許されるなら)主観的現象を、言い表すのにも用いられるのである。
反省においてはコギタチオが、現出することそれ自身が対象となるのであるから、そのために曖昧さが生じやすいのである。最後にこれは重ねて強調するまでもないが、認識対象や認識様態の究明ということが言われる場合、その究明とは常に本質研究のことであり、そしてこの本質研究とは認識の対象性と対象性の認識について、その究極の意味、その可能性、その本質を絶対的所与性の領域で類的に開示することである。
いうまでもなく理性の普遍的現象は評価と評価などの相関関係に対する平行的諸問題をも解決しなければならない。現象学という術語が広義に用いられて、あらゆる自己所有性の分析〈全般〉を包括するようになると、おそらく、たとえば感性的所与性をそれらのいろいろな類に応じて分析することなどのような、なんの関連もない与件までもこの術語によって総括されることになるだろう―その場合それらの共通点は直接的明証の領域における本質分析という方法にあるのである。
講義 1
・自然な思考態度と自然的態度の学問
私はこれまでにもいろいろな講義で自然的態度の学問と哲学的学問とを区別して来た。前者は自然な精神態度から生まれ、後者は哲学的な精神態度に由来する。
自然な精神態度は認識批判には無頓着である。自然な精神態度をとる場合われわれは感性的直観と思考によって、そのつどわれわれに与えられる事象に向かっている。すなわちそれぞれの認識の源泉や認識に応じて、その与えられた方に相違があるにしても、そのつどわれわれに自明的に与えられた事象に向かっているのである。たとえば知覚の場合には何らかの事物が自明的にわれわれの現前にあるのである。それはほかのいろいろな事物や無生物、霊あるものや霊なきものの間に、つまり一定の世界のまっただ中に現存しているのであり、そしてこの世界もまた個々の事物と同じように一部は知覚され、一部は記憶の関連の中にも与えられていて、そこから無規定なもの、未知なるものの中へと広がっているのである。
われわれの判断はこのような世界に関係している。いろいろな事物について、それらの諸関係や変化、それらの機能的変化の依存性や変化の法則などについて、われわれは単称的言表や全称的言表をするのである。経験の動機にしたがって、われわれは直接的に経験されたこと(知覚されたことや記憶されたこと)から未経験のことがらを推論する。われわれは類的変化を行い、そのあとで再び普遍的認識を個々の場合に転用してみたり、あるいは分析的思考によって普遍的認識からさらに新しい普遍性を演繹したりするのである。認識はただ単に連接的に継起するのではなく、それらは互いに論理的関係に入り、結論され、相互に〈調和〉し合って、それらの論理力をいわば強めることにより、互いに確証し合うのである。
その反面それらは互いに矛盾や対立の相互関係にも陥り、互いに調和することもなく、確かめられた認識によって廃棄され、そして単なる認識の僭称の地位へ落されることもある。おそらくそれらの矛盾は単なる述語形式の合法則性の領域から生ずるのであり、われわれは多義性にごまかされて、虚偽の推薦を行い、誤算や見当違いをしたのである。このような場合、われわれは形式的整合性を回復したり、多義性を解消したりする。
また矛盾は経験を成立させる動機づけの関連を攪乱するので、経験の根拠が互いに対立しあうことにもなる。そのような場合われわれはどうするのであろうか? そのようなときわれわれはいろいろな規定や説明の可能性の根拠を検討するのであり、薄弱な根拠は強力な根拠に譲歩しなければならない。そして後者は、その地歩の揺るがぬ限り、つまりいっそう拡充された認識領域がもたらす新しい認識の動機に対して再び同じような論理的争いをする必要が生じない限り、妥当性を保有するのである。
自然的態度の認識はこのようにして進展する。この認識は次第に広範囲に現実を征服するのであるが、〔自然的態度にとって〕現実は初めから自明的に実存する所与であり、ただその範囲と内容、その諸要素、諸状態、諸法則を詳細に究明されるにすぎない。自然的態度の諸科学は、すなわち物理的自然や心的自然についての学問たる自然科学、精神科学、また他方では数学的諸科学、すなわち数、多様体、比例などについての諸科学は、すべてそのようにして成立し発展するのである。後者の数学的科学の場合は、リアルな諸現実ではなく、それ自体に妥当し、しかも最初から疑いようのないイデア的可能性が問題になっている。
自然的態度の科学的認識の各段階でそれぞれにいろいろな難問題が生じ、そして解決される。しかもそれらは・・・・まさに事象の中に伏在し、いわば事象というこれらの所与性が認識に対して提起する要請としてそれらの事象に由来するように思われるいろいろな動因ないし思考の動機にもとづいて・・・・純粋に論理的または事象的に成立し、かつ解決されるのである。
・哲学的(反省的)思考態度
では次に自然的思考態度ないし自然的思考動機と哲学的なそれらとを対比してみたい。認識と対象の相互関係についての反省が目覚めると同時に深刻な難問題が生ずる。自然的思考においてはきわめて自明な事象と思われていた認識が突如不可思議なものとなって立ちはだかるのである。いやもっと正確な論じかたをしなければならない。認識の可能性は自然的思考にとっては自明である。自然的態度の思考は無限に研究の実をあげ、常に新しい学問によって次から次へと発見を行い、進歩をつづけているが、しかしこのような自然的思考は認識一般の可能性を問題にするきっかけをもたないのである。世界の中で起こるすべてのことと同じように、確かに認識もなんらかの仕方で自然的思考の問題となり、自然的研究の対象となる。認識は自然の一現象であり、認識する或る有機体の体験であり、心理学的な一事実である。したがってほかのあらゆる心理学的事実と同じように、認識についてもその種類や関連形式を記述し、その発生状態を究明することができる。しかし別の面からみれば、認識は本質的に対象性の認識(Erkenntnis von Gegenständlichleit)である。しかもそれは認識自身の内在的意味によることであり、認識はこの内在的意味によって対象性に関係するのである。このような関係の中にもすでに自然的思考が働いているのである。この思考は、意義と意義妥当のアプリオリな諸関連、対象性そのものに属するアプリオリな合法則性を、形式的普遍性において研究対象とするものである。その結果、純粋文法学が成立し、さらに高次の段階では純粋論理学が成立する(ただしその領域を限定するにはいろいろな仕方があり、純粋論理学は諸学科の複合体である)。それからさらに規範的論理学や思考の、特に学問的思考の技術学としての実用的論理学が成立するのである。
ここまではわれわれはまだ依然として自然的思考の地盤にたっているのである。ところが認識の心理学と純粋論理学といろいろな存在論とを対照する目的で先ほど論及した認識体験と意義と対象の相関関係こそ、実はきわめて深く難しい諸問題の、一言でいえば認識の可能性の問題の源泉なのである。
・自然的見方における認識反省の諸矛盾
認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観を認識自身との一致を確かめうるのであろうか? 認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか? 自然的思考にとっては、認識客観が認識の中に与えられていることは自明だったが、しかしいまはこの所与性が謎になるのである。知覚の中には知覚された事物が直接与えられているはずだとされる。その事物はそれを知覚する私の眼前にあり、私はそれを見、それを掴む。しかし知覚は知覚者たる私の主観の体験であるにすぎない。同様に記憶や予期など、知覚の上に築かれる思考作用はすべて主観的体験であり、主観はこれらの思考作用によってリアルな存在を間接的に措定し、存在についてのあらゆる真理を定立するのである。では、私の体験だけが、これらの思考作用だけがあるのではなく、さらにそれらが認識するものも存在していることを、すなわち一般に認識に対立する客観として措定されであろう何かが存在していることを、認識者たる私はいったいどこから知るのであろうか、またどこからそれをそのつど確実に知りうるのであろう?
私はこう言うべきであろうか、すなわち・・・・認識者に真に与えられているのは現象だけであり、認識者はけっして自分の体験の関連を超えられないのである。したがって彼が正当な権利をもって言いうるのは「私が存在している。しかし自我ならざるものはすべて現象にすぎず、現象の諸関連に解消してしまう」ということだけである・・・・とこう言うべきであろうか? つまり私は独我論の立場に立つべきであろうか? しかしそれは過酷な要求である。それともヒュームにならって一切の超越論的客観性をば、心理学的に説明されうるが、しかし理性的には立証されない虚構へ還元すべきであろうか? しかしそれも要求である。すべての心理学がそうであるように、ヒュームの心理学も内在の領域を超越するのであろうか? ヒュームの心理学は、顕在的な〈印象〉や〈概念〉の超越作用をすべて虚構の地位へ落そうとする反面、習慣、人間性(human nature)、感覚器官、刺激などの名称のもとで、やはり超越的な(しかもニュームの心理学自身が認める意味での超越論的な)実在を取り扱っているのではなかろうか?
しかし、もしも論理学そのものが疑われ、問題になるとすれば、いろいろな矛盾に訴えてみてもそれが何の役に立つであろう。事実、自然的思考にとってはなんら疑いようのない論理学的法則のリアルな意義がいまは問題になり、疑われさえするのである。一連の生物学的思想が思い起こされる。現代の進化論を思い出してみるに、それによれば人間はたとえば生存競争の中で自然淘汰を経て進化してきたのであり、人間とともに当然その知性も、また知性とともに知性特有のあらゆる形式も、より正確には論理形式も、それとともに進化してきたのであるとされる。もしそうであるとすれば論理形式や論理法則は人類の偶然的特性を、すなわちいまのとは違うものでもありうるし、またこんごの進化の成り行きで変えることもありうるような、そういう偶然的特性を表現していることにならないであろうか? そうだとすれば認識とは人間の認識であるに過ぎず、人間の知性の形式に拘束されていて、事物そのものの本性に、事物それ自体に的中することは不可能である。
しかしここにもすぐまた一つの不条理が生ずる。すなわちそのような見解が用いている認識はもとより、その見解が考えているいろいろな可能性も、論理法則がかりにそのような相対論の犠牲になるとしても、なおかつなんらかの意味を持ちうるだろうか? 「これこれの可能性がある」ということの真理は、それと矛盾する主張の排除を真ならしめる矛盾律の絶対的妥当性を暗に前提しているのではなかろうか?
これらの例でもはや十分であろう。認識の可能性は到る処で謎となるのである。自然的態度の諸科学に慣れ親しんでいる場合のわれわれは、それらの科学が精密に展開されている限り、すべてが明晰で理解可能であると思い込んでいる。われわれは、客観的に本当に的中する確実な方法によって基礎づけられた客観的真理を所有していると、そう確信しているのである。
しかし反省するにつれて、われわれはいろいろな迷いや混乱に陥る。われわれは明らかに救い難い紛糾状態に巻き込まれ、矛盾にさえ陥るのである。われわれは懐疑論に陥る危険に、正確にいえば、懐疑論のいろいろな形式のどれか一つに陥る危険に絶えずさらされているのである。しかもそれらに共通する同一の特徴は残念ながら不合理ということである。
・真の認識批判学の二重の課題
不明晰で矛盾に満ちたこれらの理論とそれに関連する果てしない論争の戦場こそ認識論であり、また歴史的にも事象的にも認識論と内的に織り合わされた形而上学である。認識論ないし理論的理性の批判学の課題はまず第一に批判的課題である。批判的課題は認識と認識論の意味と認識の客観との相互関係についての自然的態度の反省がほとんど不可避的に陥る錯誤を糾弾し、そして認識の本質についての明白な懐疑論や潜在的懐疑論を、それらの不合理を実証することによって論駁しなければならない。
他方、認識の本質を究明して認識と認識の意味と認識の客観との相関関係にからむ諸問題を解決することが認識批判学の積極的課題である。認識可能な対象性の、格言すれば対象性一般の本質的意味(Wesens-Sinn)をすなわち認識と認識の対象性との相関関係によってアプリオリに(すなわち本質的に)対象性一般に指定されている意味を開示することもそれらの問題の一つである。そして当然このことは認識の本質によってあらかじめ定められている対象性一般の基本形態にも当てはまるのである。(存在論的形式、命題論的形式および形而上学的形式)。
これらの課題を解決してこそ認識論は認識批判学たる資格をうるのである。その時こそは認識論は、存在者についての自然的態度の諸科学の成果を正しく決定的に解釈しうる立場へわれわれを立たせてくれるのである。なぜなら認識の可能性(認識の的中の可能性)についての自然学態度(認識以前の)反省によってわれわれが陥った認識論的混乱は、認識の本質についての誤解を招くばかりでなく、自然的態度の諸科学によって認識された存在についても、それ自身の内的矛盾のために根本的に間違った解釈を招くからである。そのような〔自然的〕反省の結果必要と見なされたそれぞれの解釈に応じて、同一の自然科学が唯物論的、唯心論的、心理一元論的、実証論的その他いろいろな意味に解釈されるのである。したがって認識論的反省が自然的態度の科学と哲学との分離を初めて可能ならしめるのである。認識論的反省によって初めて、自然的態度の存在学は決定的な存在学でないことが明らかにされるのである。絶対的な意味での存在者の学が必要である。われわれが形而上学というこの学問は個々の科学における自然的認識の〈批判〉から生まれるのである。すなわち普遍的な認識批判によって認識と認識対象性の本質をそれらのいろいろな基本形態について洞察し、また認識と認識対象性との間のいろいろな基本的相関関係の意味を洞察した後に、それらの洞察にもとづいて形而上学が成立するのである。
・真の認識批判学は認識の現象学である
認識批判学の形而上学的意図を度外視して、認識と認識対象性の本質を解明するという課題のみを強調すれば、認識批判学は認識と認識対象性の現象学であり、現象学一般の第一の基礎部門を形成する。
現象学とは一個の学問を、すなわち諸学科の一つの関連を言い表しているが、しかしそれと同時に現象学はとりわけ一つの方法と思考態度を、すなわち特有の哲学的思考態度、特有の哲学的方法を言い表わしている。
真摯な学問であることを要求する現代哲学においては「すべての学問に共通な、したがって哲学にも共通する認識方法はただ一つしかありえない」ということが、ほとんどきまり文句になっている。この確信は十七世紀の偉大な伝統と完全に一致している。十七世紀の哲学も、哲学の救いはひとえに精密科学を、とりわけ数学と数学的自然科学を方法上の模範とすることにかかっていると、そう考えていたのである。哲学と他の諸科学との事象的同一視も両者の方法論的同一視と関連しているのである。そして「哲学は、すなわち最高の存在論と学問論はただ単に他のあらゆる科学に関係づけられているばかりでなく、ちょうど他の諸科学が互いに基礎づけあい、ある科学の成果が他の科学の前提としての機能を果たしうるように、哲学も他の諸科学の成果を基礎となしうるのである」とする考え方は現在でもやはり支配的な見解と言わざるをえない。認識心理学や生物学によって認識論を基礎づけようとする試みの流行を思い出していただきたい。今日ではこのような不幸な先入観に対する反動が増大している。事実それらは先入観なのである。
・哲学の新次元、科学に対立する哲学固有の方法
自然的態度の研究領域においては、たとえ各研究部門の性質に規制される一定の限度内にもせよ、ある科学が無造作に他の科学の上に築かれることもあり、またある科学が他の科学の方法上の模範として役立つこともありうる。しかし哲学は全く新しい次元にあるのである。哲学は全く新しい出発点と全く新しい方法とを必要としているのであり、そしてこの新しい方法こそ哲学を〈自然的態度の〉あらゆる科学から原理的に区別するものである。したがって自然的態度の諸科学に統一を与える論理的処理法は、各科学ごとに異なる特殊な方法とともに一個の統一的な原理的性格をもっているのであるが、しかし哲学の方法的処理法は原理的に全く新しい統一としてそのような性格に対立しているのである。またそれと同じ事情により、認識批判学の全領域と〈批判的〉諸学科一般の範囲内に成立する純粋哲学は、自然的態度の諸科学や学問的に組織化されていない自然的態度の英知や日常的知識(Weisheit und kunde)によって考えらえたことがらを、すべて度外視すべきであり、それを利用することは全く許されないのである。
この〔私の〕学説は今後の論述によってさらに詳細に基礎づけられるわけであるが、差し当たり次の点を考えてみれば多少わかりやすくなるであろう。
認識批判的反省(この場合は学問的な認識批判に先立って、自然的態度の考え方でなされる最初の反省を指す)が必然的に創り出す懐疑論的中間段階では、自然的態度の科学や自然的態度の科学的方法はすべて使用可能な所有物としての妥当性を喪失する。なぜなら認識一般の客観的的中性は、その意味と可能性が不可解となり疑わしくさえなったからである。しかもその点では精密な認識も不精密な認識と同じように不可解であり、科学的認識も科学以前の認識となんら異なるところがないからである。認識の可能性が、正確にいえば「どのようにして認識は自己の本質をあくまでもそれ自身のうちに保有する客観性(eine Objektivitat, die doch in sich ist, was sie ist)に的中しる得るのだろうか」という可能性が疑わしくなるのである。しかもその背後では、認識の能作、認識の妥当性の要求あるいは権利要求の意味、妥当的認識と単にそう僭称するに過ぎない認識とを区別することの意味などが問題となっているのであり、同様に他方では対象性の意味も問われているのである。そして対象性とは存在するものであり、認識されようとされまいと自己の本質を保有するものである(ist, was ist)が、しかし対象性であるからにはやはりなんらかの認識の対象性であり、たとえ事実上これまで一度も認識されたことがなく、今後も認識されないとしても、原理的には認識可能であり、知覚されることも表象されることも、またなんらかの判断思考により述語的に規定されることも原理的には可能なのである。
しかし自然認識から導出され、自然的認識によって〈精密に基礎づけられて〉いる諸前提をどう操作してみたところで、認識批判上の疑念を解消し認識批判の諸問題を解くのに、それがどのようにわれわれに役立つものなのか、その点は皆目見当がつかない。
自然認識一般の意味と価値が、そのすべての方法上の準備や精密な基礎づけとともに疑問視されている以上、このことは、一応の出発点と見なされている自然認識の領域からえられた諸命題にも、また一応精密と見なされている基礎づけの方法にも当てはまるのである。きわめて厳密な数学や数学的自然科学といえどもこの点では通常の経験の現実的認識やあるいはただ単にそう自称するだけの認識に比べてもなんらの優位を占めえないのである。したがって以上のことから明らかなように「哲学(やはり哲学は認識批判から始まり、哲学の他の部門はすべて認識批判に根ざすのである)は方法論的に(さらに事象的にさえ!)精密科学に定位すべきであり、哲学は精密科学の方法を模範とすべきであって、哲学の役割は原理上すべての学問に共通な同一の方法論に則って、精密科学が成し遂げた研究成果を単に継承し完成することである」というような説は全く問題にならない。繰り返し強調すれば、哲学は一切の自然的認識に対立する新しい次元にあるものであり、そしてすでにはっきり述べたように、たとえ従来のいろいろな次元と本質に関連しているとしても、この新しい次元には〈自然的態度の〉方法に対立する根本的に新しい方法が呼応しているのである。このことを否定する者は認識批判学固有の問題層全体を理解せず、したがってまた哲学本来の意図と使命を悟らず、自然的態度の認識や学問に対立して哲学にその特性と特権を付与するものが何であるかを理解していないのである。
講義 2
・認識批判の出発点、あらゆる知識を疑うこと
さて認識批判を始めるにあたり世界の全体が、すなわち物理的自然と心的自然、さらに自分自身の人間的自我までも、これらの対象性に関係するすべての学問とともにことごとく疑問符を付さねばならない。それらの存在、それらの妥当性は未決のまま留保されるのである。
では、認識批判学はどのようにして確立されうるのであろうか? 次はこの点が問題である。認識自身の学問的自己理解たる認識批判学は〔認識自身を〕学問的に認識し客観化することによって認識の本質を論定し、認識にゆだねられる対象性への関係や、また認識が真の意味での認識とされる場合の対象的妥当性ないしは的中性が、それぞれ何を意味するかを論定しようとするものである。認識批判学が行われるべき判断中止(エポケー:ギリシャ語)の意味は「認識批判学は一切の認識を、したがって認識批判学自身の認識を疑い、また一切の所与性を、したがって認識批判者自身が論定する所与性をも妥当させないということから始まるばかりではなく、さらに終始その態度を貫くのである」ということではない。何ものをもあらかじめ与えられたもの(vorgegeben)として前提することが許されない以上、認識批判学は、他から無批判に借用するものではなく、むしろ認識批判学自身が自らに与え、第一の認識として措定する認識を、その出発点にしなければならないのである。
この第一の認識は通常の認識に不可解さや疑問の性格を付与する不明晰性や疑わしさを少しでも含んでいてはならない。そのような性格は結局われわれを困惑させ、そのためにわれわれは「認識一般が問題であり、不可解で、明晰化を要し、その要求〔的中性の要求〕自体が疑わしい事象である」と言わざるをえない羽目に陥ったのである。相関的に言えば、認識批判的不明晰性には「それ自体が存在していながら、しかも認識によって認識されているとされる存在がいったいどのような意味をもちうるのか、それがわれわれには不可解である」という事情が伴っているので、そのためわれわれはいかなる存在をもあらかじめ与えられたものとして受け容れることを許されないのであるが、それにしてもやはり何か、われわれがそれを絶対的な所与であり疑いえないものとして承認せざるをえないような存在が、すなわち一切の疑問をただちに氷塊するほど完全な明晰性を備えて与えられていて、その限りではわれわれもそれを疑いようのない絶対的所与として承認せざるをえないような存在が、何か明示されるはずであろう。
・デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な地盤を獲得すること
さてそこでわれわれはデカルトの懐疑考察を思い起こしてみたい。誤謬と錯覚のさまざまな可能性を危惧するあまり、ついには「何ものも私にとって確実ではなく、私にはすべてが疑わしい」と言い出すその瀬戸際まで、私は一度そのような懐疑の絶望に陥ってみようと思う。しかしすぐ明らかになるように、私はとって必ずしもすべて疑わしいわけではない。なぜなら、「私にはすべて疑わしい」と判断する場合、「私がそう判断していること」は疑いえないからであり、したがってあくまでも普遍的懐疑ということに拘泥するのはかえって不合理であろう。つまりどれほど頑強な懐疑の場合にも「私がそのように疑っているということは」は疑いもなく確かなのである。そしてこのことはどのようなコギタチオの場合にも同じである。私がどのように知覚し、表象し、判断し、推論しようとも、またその際それらの作用の確実性ないし不確実性や、対象性ないし対象喪失性がたとえどうなっていようと、知覚の働きについては「私がこれこれのものを知覚していること」は絶対に明晰であり確かであるし、判断についても「私がこれこれのことを判断していること」は絶対に明晰・確実であり、その他の場合もこれと同様である。
デカルトはこのような論考を〔われわれとは〕別の目的のために行ったのであるが、われわれはこれを適宜に変様してここで利用することができる。
われわれが認識の本質を問う場合、認識の的中性に対する懐疑やこの的中性そのものがたとえどのような性質のものであろうと、差し当たり認識そのものは、われわれにとって〔その全体が〕絶対的所与であるかもしれず、また個別的にはそのつど絶対的に与えられうるいろいろな形態の存在領域を表す名称なのである。すなわち私が現実に行う思考形態は、私がそれを反省し、それらを純粋直観によって受け取り措定する限り、それらは私に与えられているのである。私は認識について、知覚、表象、経験、判断、推論などについて漠然と論ずることもあるが、その場合ももし私が反省するならば、〈認識、経験、判断などについて漠然と論じ思念している〉というこの現象はもちろん与えられていないのであり、しかも絶対的所与である。このような漠然とした現象でさえきわめて広義の認識という名称に含まれているものの一つである。しかし私は顕在的に知覚し、そしてその知覚を注視することもできるし、さらにまた想像や記憶によって知覚を記憶によって知覚を現前化し、そしてこのような想像所与性における知覚を注視することも可能である。その場合もはや私は知覚についての空虚な議論や漠然とした思念や表象をもっているのではなく、その場合知覚は顕在的所与性または想像所与性としていわば私の眼前にあるのである。しかもこのことはどのような知覚体験にも、どのような思考や認識の形態にもあてはまるのである。
私はここで直観的・反省的知覚と想像とを同列に置いた。しかしデカルトの考察にならえばまず知覚を開示するべきであろう。ただしここにいう知覚は伝統的認識論のいわゆる内部知覚にある程度相応するものであるが、しかし勿論この内部知覚というのも曖昧な概念である。
・絶対的所与性の領域
あらゆる知覚体験および体験一般は、それがまさに体験されることによって、純粋直感と純粋把捉の対象とされうるものであり、そしてこの直観のなかでは体験は絶対的所与性である。体験は、その存在を疑うことが全く無意味であるような存在者として、そのような「このこれ」として与えられているのである。確かに私は「それがどのような存在であるのか、その在り方が他の在り方にどのようにかかわりあっているのか」を考え、さらに「この場合の所与性とはどういう意味であるのか」を考えることもできるし、さらに反省をすすめて、この所与性ないしこの在り方がその中で構成されるところの直観そのものを直観することも可能である。しかしその場合も私は絶えず絶対的基礎の上に立ってそうしているのである。たとえばこの知覚は、それが持続する間は、あくまでも絶対者であり、「このこれ」である。すなわちそれは、自己の本質をそれ自身の内に保有する何か(etwas, das in sich ist, was es ist)であり、私はそれを窮極の尺度として「存在や所与存在が〔一般に〕何を意味いうるのか、またそれらは、少なくとも〈このこれ〉によって例示される存在特性や所与特性に対して、当然ここで何を意味すべきであるか」を測定するのである。そしてこのことはスペチエス的な思考形成体のすべてに対して、それらが与えられている場所にかかわりなく〔たとえば知覚の中にであろうと、想像の中にであろうと〕、当てはまるのである。ただしそれらの思考形成体はすべて想像される場合にも所与性であることができ、〈いわば〉眼前にありうるのであるが、しかし〔その場合には〕顕在的現在性として、顕在的に行なわれた知覚や判断などとして現存することはできない。その場合にもスペチエス的思考形成体はなんらかの意味で所与性であり、直観的に現存しているのであって、われわれは漠然と暗示的に、空虚な思念によってそれらについて論じているのでなく、それらを直観しているのである。またそれらを直観するからこそ、われわれはそれらの本質、それらの構成、それらの内在的性格を看取し、そしてそれらの議論を直観された充分な明晰性に純粋かつ適切に密着させることができるのである。しかしこの点については早急に本質概念と本質認識の問題を究明してさらに解説を補う必要がある。さしあたりわれわれは、絶対的所与性の領域からただちに支持されうるものと確信しているのであるが、それこそ、認識論を確立しようとする目論見が可能であるとした場合、われわれがまさに必要とする領域である。現に、認識論についての、その意味ないし本質に関する不明晰性は認識についての学問を、すなわち認識を本質的に明晰にすることのみを意図する一個の学問を要請しているのである。しかしこの学問は認識を心理学的事実として説明しようとするのではなく、認識が去来する際の自然条件や、認識の生成・変転を制約する自然法則を究明するのではない。それを究明するのは自然的態度の科学に、すなわち心的事実や、体験者たる心的個体の体験についての自然科学に課せられた任務である。むしろ認識批判学は認識の本質とこの本質に属する妥当性の権利要求を解明し、明確化し、明らかにしようとするのである。そしてこのことは〔認識の本質を〕直接的自己所与性へもたらすことにほからないであろう。
・再論および補足、認識批判学の可能性に対する反対論の論駁
諸科学において着々と成果をあげ絶えまなく進展する自然的態度の認識はその的中性を確信しているので、認識の可能性や認識された対象性の意味につまずくきっかけをもたない。しかしいったん反省が認識と対象性の相関関係に(場合によっては一面ではイデア的意義内実に、他面では認識対象性に)向けられると、たちまちいろいろな困難や支障が生ずる。すなわち基礎づけられているかのように思われながら、その実あい矛盾する諸理論が成立し、ひいては「認識一般の可能性がその的中性については謎である」と自白する羽目になるのである。
したがって一個の新しい学問がここでぜひとも誕生しなければならない。すなわちこれらの混乱を調停し、認識の本質についてわれわれを啓蒙しようとする認識批判学が誕生するのである。形而学上学の可能性は、すなわち絶対的・究極的意味での存在学の可能性は、明らかにこの認識批判学の成功いかんにかかわっている。では認識一般についてのこのような学問はいったいどのようにして確立されうるのだろうか? およそ学問というものは自分が疑問にしているものを、それをそのままあらかじめ与えられた土台として利用するわけにはゆかないのである。ところが認識批判学は認識一般の可能性を、しかもその的中性について問題にするのであるから、ここでは一切の認識が疑問にされているわけである。いったん認識批判が始まれば、この学問にとってはいかなる認識も所与としては妥当しないのである。したがって認識批判学は学問以前の認識領域から何かを転用するというわけにはゆかず、ここでは一切の認識が疑問符を付されるのである。 出発点となる認識の所与がなければ認識の発展もありえない。
ところで私も「どのような認識も最初から無批判的にあらかじめ与えられたものとして妥当することはできない」とする点では、右の説の正当性を認めたのである。
しかしたとえ認識批判学にどのような認識をもただちに〔他から無批判的に〕転用することは許されないとしても、認識批判学自身が自分に認識を与えることから始めることは可能である。勿論この場合の認識は、認識批判学が基礎づけ、論理的に導出する認識ではなく・・・もしそうであればあらかじめ与えられているはずの直接的認識がさらに必要とされるだろうから・・・したがってそうではなくて、それは認識批判学が直接的に明示する認識であり、絶対的に明晰で疑いようがなく、認識の可能性に対する懐疑をすべて排除し、これまでいろいろな懐疑論的混乱の誘因になっていた謎を少しも含んでいないような認識である。ところで私はすでにデカルトの懐疑考察に言及し、そして絶対的所与性の領域すなわちコギタチオの明証という呼び方で把握されている絶対的認識の範囲を示唆した。そこで今度は、この認識の内在性がこの認識に認識論の最初の出発点として役立つ資格を与えるものであること、またこの認識があらゆる議論的困惑の源泉である不可解さをまぬがれているのはまさにこの内在性によるものであること、そして最後に、内在性一般があらゆる認識論的認識の必然的性格であること、ただ単に〔認識論の〕出発点においてばかりでなく一般に超越の領域からの借用は、換言すれば心理学その他の自然的態度の科学に認識論の基礎を求めるのはナンセンスであること、などの点がくわしく証示されなければならないであろう。
もうひとつ補足しておくと、「認識論は認識一般を問うものであり、出発点となる認識も、それが認識である以上、やはり同時に疑われているのであるから、そうなると認識論はいったいどのようにして始まりうるのであろうか、認識論にとってあらゆる認識が謎である以上、認識論自身の出発点となる最初の認識論もやはり謎である」というような皮相な論法があるが、私に言わせればこれは明らかに虚偽の論証である。
虚偽は議論の曖昧な普遍者から生ずるのである。認識一般が〈問われている〉ということは、何も認識一般の存在を不定することでなく(それは不合理であろう)、認識がある種の問題を、すなわち「的中性という認識の能作はいったいどのようにして可能であろうか」という問題をはらんでいるということであり、場合によってはさらにその能作が可能であるかどうかをも私が疑っているということなのである。しかしたとえ私自身が疑おうとしても、そのような懐疑を見当はずれなものにするほど確実な認識が明示され、それによってこの懐疑が即座に破棄されるならば、そこに〔認識批判学の〕第一歩が成立しうるのである。さらにもしも私が「私には認識というものが全然理解できない」ということから出発するとすれば、当然あらゆる認識がこの不可解さという曖昧な普遍性の中に包み込まれでしまう。しかしそれは「私がこののち出会うすべての認識が私にとってはいつまでも不可解なままであるに違いない」ということではない。いたるところでまず最初に台頭する一群の認識に大きな謎が生まれ、そこですっかり当惑した私が「認識一般が謎である」と言い出す場合もあるかもしれない。しかしその反面、別の特定の認識にはそのような謎が含まれていないこともすぐ明らかになるのである。やがてわかるように実際そうなのである。
すでに述べたように、認識批判の出発点となるべき認識は不確実さや疑わしさを、すなわちわれわれを認識論的混乱に陥れるようなもの、認識批判学全体を暴走させるようなものを少しでも含んでいてはならないことである。われわれはこのことがコギタシオの領域にも当てはまることを示さなければならない。しかしそれはわれわれの考察を本質的に推進するようなさらに一段と深い反省が必要である。
・自然的態度の認識の謎、超越
何がそのように不可解であるのか。また認識の可能性をまずさしあたり反省する際にわれわれを当惑させるのは何であるか、という点を子細に考察してみると、結局それは認識の超越性である。科学以前の認識も、それに科学的認識でさえも、すべて自然的態度の認識は超越論的客観化の認識である。この種の認識は客観を存在者として措定するのであり、認識の中に〈真の意味で与えられている〉のではなく、認識にとって〈内在的〉でない事態を認識し、それに的中すると、そう自負しているのである。
・内在と超越、両概念の区別
さらにくわしく検討してみると、この超越には確かに二重の意味がある。まずそれは認識対象が認識作用の中に実的に含まれていないという意味にとれる。したがって〔この場合逆に〕〈真の意味での所与〉または〈内在的所与〉といえば、それは実的に含まれていることと解されよう。認識作用は、つまりコギタチオは実的要素を、すなわちこのコギタチオを実的に構成する諸要素をもっているのであるが、しかしコギタチオが思念するもの、通常コギタチオが知覚するとか、記憶するなどといわれる事物は、体験としてのコギタチオ自身のうちに、その一部分として、すなわち本当にその中に存在するものとして」実的に見出だされるわけではない。したがって「どのようにして体験はいわばそれ自身を超えるのであろうか?」ということが問題である。したがってこの場合内在的とは認識体験の中に実的に内在することを意味するのである。
しかしさらにそれとは別の領域があり、これに対立するのは〔前述の内在とは〕全く別の内在、すなわち絶対的で明晰な所与性、絶対的な意味での自己所与性である。正当な懐疑をすべて排除するこのような所与存在がすなわち思念された対象性そのものがあるがままに端的に直接的に直観し把握することが、重要な明証の概念を、しかも直接的明証という意味での明証概念を形成するのである。明証的でない認識、すなわち対象的存在者を確かに思念ないし措定してはいるが、しかし〔対象〕そのものを直観していない認識は、すべて第二の意味で超越的である。このような認識の場合われわれは、そのつど真の意味で与えられているもの、直接的に直観され把握されるものを超え出るのである。この場合には「どのようにして認識は認識のうちに直接的に真に与えられていないものを存在者として措定するのであろうか?」ということが問題になる。これら双方の内在と超越は、さらに深い認識批判的論争が始まる以前の最初の段階では、まだ互いに混同されている。実的可能性に対する第一の間を提起する者が実はそれと同時に明証的所与性の領域を超える超越の可能性についての第二の問をもその中に含めて問題にしていることは明らかである。すなわち彼は「認識作用に実的に含まれている要素の所与性だけが唯一の本当に理解可能な、疑いようのない、絶対に明証的な所与性である」ということを暗に仮定しているのであり、だからこそ彼には、認識された対象においても認識作用に実的に含まれていない面はすべて不可解で、疑わしく思われるのである。われわれはこのような考え方が不幸な誤謬であることをまもなく間もなく知るであろう。
・認識批判学の第一の問題、超越的とは認識の可能
ところで超越は〔いま述べた〕どちらかの意味で解され、また最初は意味の曖昧なまま理解されるであろうが、ともかくそれは認識批判学の出発点の問題であって、それは自然的態度の認識を阻止して新しい研究の推進力ともなる謎である。もっと普遍的に認識一般の本質の問題を認識批判学の主題であるとする、最初はこの〔超越〕問題の解決を認識批判学の課題であるとして、それによってこの新しい学科の領域をひとまず暫定的に限定することができるであろう。
ともかく初めてのこの学科を確立するにあたりこの点に〔超越の問題〕謎があるとしても、しかしいまは「何があらかじめ与えられたものとして要求されないのか」がかなり規定される。すなわちそれによれば超越者をあらかじめ与えられたものとして利用することは許されないのである。「認識が認識にとって超越的な何かに的中するということは、どのようにして可能なのか」その点をまず会得しなければ、「それが可能であるかどうか」も私にはわからないのである。超越的実在の学問的基礎づけなど私にはもはや何の役にも立ちはしない。なぜから間接的基礎づけはすべて直接的基礎づけに遡及するのであるが、この直接的なものからしてすでに謎をはらんでいるからである。
しかしおそらく次のように言う者もあろう。すなわち「間接的認識も直接的認識も謎をはらんでいることは確かである。しかしいかに(das Wie)という点が謎であっても、そのことの事実(das Daβ)は絶対に確実である。理性的な人間なら誰も世界の実在を疑わないだろうし、懐疑論者は彼自身の実践によって自分の嘘を裁いているのである」と、このように主張する者もあるであろう。それでは、われわれはさらに強力なるもっと大きな射程の論証で彼に答えよう。なぜなら〔射程がより大きいという理由は〕われわれの論証は「認識論の出発点では、超越論的客観化を行う自然的態度の諸科学の内容に依拠することは決して許されない」ということを証明するだけではなく、さらに「認識論の発展過程全体を通じて許されない」ことを証明するからである。すなわちわれわれの論証は「認識論は、どのような種類にもせよ自然的態度の学問の上には決して建設されない」という根本命題を証明するのである。ではわれわれは、われわれの論敵が超越的知識で何をするつもりなのか、それを問うてみたい。
〔そのためひとまず〕彼に客観的科学が保有する超越的真理をすべて自由に利用させてやり、また「超越的科学はどのようにして可能であるか」という謎の出現によっても、それらの超越的真理価値になんらの変化もなかったものとしよう。ところで彼はそのきわめて包括的な知識で何をするつもりなのであろうか、またどのようにして事実から如何にの問題へ(vom Daβ auf das Wie)進むつもりであろうか? 「超越的認識が現実に存在している」ということの、事実としての知識が彼に対しては「超越的認識が可能である」ということをも論理的に自明なこととして保証しているのである。しかし「それがいかに可能であるか」ということが謎の点である。どのような超越的認識にもせよ、ともかくいろいろな超越的認識を前提とする諸科学の措定を基礎にして、果たして彼にこの謎を解くことができるであろうか? いったい彼には何が足りないのであろうか、われわれはこの点を考えてみたい。
確かに彼にとっては超越的認識の可能性が、単に分析的な自明にすぎないが、ともかくそれが自明的に現存しているのであり、だからこそ彼は「私には超越者についての知識がある」と自認するのである。彼に欠けているのは明白である。彼には超越への関係が不明晰であり、認識あるいは知識に備わっているとされる〈超越者に的中する働き〉が彼には不明晰なのである。彼にとって明晰性はいったいどこで、どうなっているのであろうか? つまり、もしも彼にこの関係の本質がどこかに与えられているとすれば、彼はその本質を直観できるだろう。もしそうであれば的中性という語が暗示する認識と認識客観の統一を彼自身はっきり直視するだろうし、そうすれば単にその可能性についての知識をもつばかりでなく、この可能性を明晰な所与性のうちに獲得するであろう。〔しかし実際には〕この可能性そのものが彼にはまさに一個の超越者であり、知られてはいるが、それ自身は与えられても、直観されてもいない可能性なのである。明らかに彼の考えによれば、認識は認識客観とは別のものであり、認識は与えられているが、しかし認識客観は与えられていないのである。しかしそれにもかかわらず認識は客観に関係し、それを認識しなければならないのである。いったい私はどのようにしてこの可能性を理解しうるのであろうか? いうまでもなく、「もしもこの関係それ自身が直観可能なものとして与えられうるとすれば、その場合のみ私はこの可能性を理解しうるであろう」というのが私の答えである。もしも客観があくまでも超越者であり、認識と客観とが本当に切り離されたとすれば、当然彼はもう何ものをも見られなくなるわけであり、それでもまだなんらかの手段で、超越的前提からの逆推理によってでも、明晰性にいたる道を求めようとする彼の希望は、まさにまぎれもなく愚行である。
もしも彼がこのような考えを貫くとすれば当然彼は彼自身の出発点をも放棄せざるをえないであろう。つまり、このような事情では超越者の認識が不可能であり、彼が超越者についての知識と称しているものが先入観であることを、彼自身も認めざるをえなくなるであろう。そうなると問題はもはや「超越的認識はどのようにして可能であるか」ということではなく、「認識に超越的能作を認める先入観がどのように説明されうるか」ということが問題であろう。これはまさにヒュームのたどった道である。
しかし、いまはこの問題から眼を転じて、われわれの根本思想を明らかにするため、すなわち「如何に」問題は(超越論的認識はいかに可能であるか、またさらに普遍的に、認識一般はいかにして可能であるか、の問題さえ)、超越者についてあらかじめ与えられた知識や命題を基礎にしたのでは、けっして解決されない、とするわれわれの根本思想を明らかにするために、ここで次のことを附言しておきたい。たとえば、生まれつきの聾唖者もいろいろな昔のことやあ、音がハーモニーの基礎となり、ハーモニーから素晴らしい芸術が生まれることを知っている。しかし彼には、音がどのようにしてそれを生み出し、音楽作品がどのようにして可能であるかを、理解することはできない。そういうことは彼にはとうてい表象しえないのである。すなわち彼にはそれを直観し、直観によってその如何にを把握することは不可能なのである。〔音やハーモニーの〕実在についての彼の知識はこの場合少しも彼の役には立たないのであるから、したがってかりにも彼が自分の知識を基礎に音楽の本性(das Wie)を演繹し、彼の知識から推論して音楽のいろいろな可能性を明晰にしようなどとするならば、これは全く不可能であろう。単に知られているだけで、直観されていない実在から演繹するというわけにはゆかないのである。直観は論証されたり演繹されたりするものではない。可能性を(しかも直接的可能性さえも)非直観的知識からの論理的導出によって解明しようとするのは、明らかにナンセンスである。したがってたとえ私がいろいろな超越論的世界の存在を確認し、自然的態度のあらゆる科学の妥当性をすべて承認しているとしても〔認識批判の立場では〕私はそれから何一つ借用するわけにはゆかないのである。超越論的仮説は科学的推論によっていずれは、私が認識批判学で意図している目標に到達するであろうというようなことは、すなわち認識の超越的客観性の可能性を見きわめうるであろうというようなことは、とうてい考えられないのである。しかもこのことは明らかにただ単に認識批判学の出発点に対して言いうるばかりでなく、認識批判学が「認識はいかにして可能か」という問の解明をその課題とする限り、このことは認識批判学の発展過程全体にも当てはまるのである。またこのことは明らかにたた単に超越論的客観性の問題について言いうるだけでなく、あらゆる可能性の解明にも当てはまるのである。
・認識的還元の原理
超越化的思考を行い、それを基礎に判断を立てる場合には、いつも超越化意味で判断し、そのため他の類へのメタバシス(ギリシャ語)に陥る傾向が非常に強いのであるが、先に述べたこととこの傾向とを結びつけてみれば、認識論の原理も十分にして完全な演繹がえられるのである。それによればどのような認識類型の研究であろうと、認識論的研究の場合には必ず認識論的還元が行なわれなければならないのである。すなわちその際同時に働いている(mitspielend)超越にはすべて排去の符号または無関心(Gleichgiltigkeit)や認識論的無効(Nullität)の符号を着けねばならないのである。要するに「これらすべての超越の実在は、私がそれを信じようと信じまいと、この場合私にとっては何のかかわりもなく、ここはそれについて判断すべき場所ではなく、それは全く問題外(ganz auβer spiel)である」ということを言い表わす符号をなにか付与しなければならないのである。
認識論の根本的誤謬は、すなわち一方では心理学主義の、他方では人類主義や生物学主義の根本的誤謬は、すべていま述べたメタバシスと関連している。メタバシスが非常に危険な理由は、問題の本来の意味が決して明晰にされず、メタバシスによって全く見失われるからであり、また場合によっては、いったんそれを明晰になしえた者でさえその明晰性をいつまでも有効に保持することが困難となり、そればかりか模索し動揺するうちに再び自然的態度の考え方や判断の仕方に迷わされ、それらの土台にして生ずる虚偽の問題提起の誘惑に陥りやすくなるからである。
講義 3
・認識論的還元の遂行、一切の超越者の排去
これまでの論述によって、認識批判学が利用しうるものと、利用してはならいものとが明確に基礎づけられた。認識批判学の謎は超越であり、それもただその可能性の面だけが謎である。しかしだからといって超越者の現実性をあらかじめ当てにすることは決して許されない。いうまでもなく〔認識批判学の〕利用しうる対象性の領域および利用可能な認識すなわちその妥当性を認められ、認識論的無効の符号をまぬかれている認識の領域が、その結果なくなってしまうわけではない。われわれはすでにコギタチオネスの全領域を確保しているのである。コギタチオの存在は、もっと正確にいえば認識現象そのものは、疑いえないのであり、超越の謎をまぬかれているのである。これらの実在はすでに認識問題の出発点で前提されているのであり、もしかりに超越者だけでなく、認解そのものまでも排棄されとすれば、「超越者はどのようにして認識されるのか」という問は全く無意味なものになるだろう。またわれわれが内在をどのような意味に解しようとも、コギタチオネスが絶対的な内在的所与性の領域を呈示していることは明晰である。純粋現象を直観する場合、対象は認識の外に、〈意識〉の外にあるのではなく、純粋に直観されたものの絶対的所与性という意味で〔直観されると〕同時に与えられているのである。
しかしここ〔認識批判学〕では認識論的還元による保証が必要であり、その方法論的本質をわれわれがここで初めて具体的(in concreto)に研究するのである。われわれがここで還元を必要とするのは、コギタチオの存在の明証が「思惟(sum cogitans)などとしての私のコギタチオが存在する」ということの明証と混同されないようにするためである。現象学の意味での純粋現象と、自然科学心理学の対象である心理学的現象とを根本的に混同しないよう用心しなければならない。自然的態度で思考する人間としての私が現に自分が体験している知覚を注視する場合、私は即座にそして必ずといっていいほど(事実そうであるが)その知覚を私の自我に関係づけて統覚する。〔この場合〕知覚は、この体験する個人の体験として、この個人の状態として、この個人の作用や感覚的内容として、この個人に内容的に与えられたもの、感覚されたもの、意識されたものして、現存しているのであり、この個人とともに客観的時間に配列されるのである。このようにして統覚される知覚ないし一般のコギタチオは心理学的事実である。つまり客観的時間内の与件として統覚されるのであり、体験する自我に、すなわち世界内に存在し、自分の時間だけ(経験的クロノメーター的補助手段によって計測される時間だけ)持続する自我に属する与件として統覚されているのである。したがってこれはわれわれが心理学と呼ぶ自然科学の意味での現象である。
・研究の主題、純粋現象
この意味での現象は、認識批判の場合に当然われわれが従うべき法則、すなわち一切の超越者に関する判断中止(エポケー:ギリシャ語)の法則に服するのである。個人としての、世界の一事物としての自我と ――〔どの時点に配列されるかは〕全く不定であるとしても――ともかく客観的時間に配列されるこの個人の体験としての体験は、それらはいずれも超越的であり、認識論的には零に等しい存在である。還元によって・・・・これをこれから現象学的還元と呼ぶことにしたいが・・・・この還元によってはじめてわれわれは、もはやなんらの超越性をも提示することのない絶対的所与性を獲得するのである。私が自我と世界と自我体験そのものを疑う場合にも、この体験の統覚の中に与えられているもの、すなわち私の自我を端的に直観的に反省することによって、この統覚の現象が得られるのである。たとえば〈私の知覚として統握された知覚〉という現象が得られるのである。もちろん私はこの現象を自然的態度の考察によって再び私の自我に関係づけることも可能であり、それには「私がこの現象を所有している、それは私の現象である」と再び言い直して、この自我を経験的意味で措定すればようのである。しかしそうなると、〔もう一度〕純粋現象を獲得するためには、私は再び自我および時間や世界を疑い、その上で純粋現象、純粋コギタチオを開示しなければならないであろう。しかし私には、知覚しながらしかもそれと同時に純粋直観によって知覚を、すなわち現にあるがままの知覚そのものを注視し、そして自我への関係づけを停止または捨象することも可能である。このようにして直観的に把握され限定された知覚こそいかなる超越をも含まぬ絶対的知覚であり、現象学的意味での純粋現象として与えられた知覚なのである。
このようにすべての心的体験には現象学的還元の方法によってそれぞれに一個の純粋現象が対応するのであり、そしてこの純粋現象はそれ自身の内在的本質(個別的に与えられた)を絶対的所与性として開示するのである。〈非内在的現実〉の措定には、すなわち現象によって思念されてはいるが、その中に含まれていない現実や、また思念されるという意味ですら与えられていない現実性の措定は、すべて排去すなわち停止されるのである。
このように純粋現象を研究対象とする可能性がある以上、もはやわれわれが心理学の立場に、すなわち超越的客観化を行うこの自然的態度の科学の立場に立たないことは明らかである。したがってこの場合われわれが究明し論及するのは、けっして心理学的現象についてではなく、いわゆるリアルな現実性の出来事(それらの実在は終始疑われているのである)についてでなく、客観的現実というようなものがあろうとなかろうと、またそのような超越の措定が正当であろうとなかろうと、〔それとは無関係に〕存在し妥当するものを究明し論及するのである。
この場合われわれはそのような絶対的所与性について論究するのである。たとえこれらの絶対的所与性が客観的現実に志向的に関係しているとしても、この関係する働きはそれら所与性のうちにあるなんらかの性格であるにすぎず、現実性の存在または非存在については何ごとも予断されていないである。このようにしてわれわれは現象学の岸辺に錨を投ずるのである。そしてこの現象の諸対象も、科学がその研究対象を措定するのと同じように、やはり存在者として措定されているのではあるが、しかし〔現象学に置いては〕一個の自然の自我の内部の、ある時間的世界内の実在として措定されているのではなく、純粋内在直観によって把握された絶対的所与性として措定されているのである。すなわち純粋内在者はここでも何よりもまず現象学的還元によって性格づけられるのである。私はまさに「このこれ」を思念するのであるが、しかしそれが超越化的に思念するものを思念するのではなく、それ自身の内的本質(was es in sich selbst ist)を、それが与えられているがままに思念するのである。勿論このような論議はここで見られるべき第一のこと、すなわち超越的客観の疑似所与性と現象そのものの絶対的所与性との相違、を見きわめられるようにするための回り道であり便法であるにすぎない。しかしわれわれが〔現象学の〕この新しい土地で足場を固め、最後までその岸辺で挫折しないためには、さらに新しい処置、新しい考慮が必要である。なぜならこの岸辺にはさまざまな岩礁があり、懐疑の暴風でわれわれを脅かす不明晰性の暗雲がこの岸辺をおおっているからである。われわれがこれまで述べてきたことはすべての現象にあてはまるのではあるが、しかし理性批判のためにわれわれの関心を引くのはいうまでもなく認識現象だけである。しかしながらわれわれがこれから論述することは、適宜に変更すれば(mutatis mutandis)あらゆる現象に妥当するのであるから、どの現象の場合にも同じように留意されるべきであろう。
認識批判を意図することによっておのずからわれわれはある出発点へ、すなわちわれわれが自由に利用することができ、またわれわれにとって何よりも必要を思われる所与性の大陸〔確実な土地〕へ導かれる鵜のである。認識の本質を闡明するためには、当然私は問題になるあらゆる形態の認識を所与性として所有しなければならない。しかもこれを所有するにあたっては、この所与性自体には通常の認識に伴う問題点が・・・・すなわち通常の認識はそれがどれほど所与性を提示しているように見えても、必ず問題を含んでいるのであるが・・・・そのような問題が少しでも含まれていてはならないのである。
われわれはすでに純粋認識の分野を確保したのであるから、これでいよいよ純粋認識を研究し、純粋現象についての学問、すなわち現象学を確立することができるのである。当然この現象こそ、われわれを動かす諸問題を解決するための基礎ではなかろうか? しかし私が認識の本質を明晰になしうるのは、私が認識そのものを直視し、認識自身が客観の中にありのままに私に与えられている場合に限られることは明らかである。私は認識を内在的に純粋直観的に純粋現象の内部で、〈純粋意識〉の内部で研究しなければならない。認識の超越性は確かに疑問を残している。
認識が超越論的である限り、それが関係する対象性の在は私には与えられてはいないのであるから、したがって「それにもかかわらず対象性はどのようにして措定されるのであろうか、またそのような措定が可能であるとすれば、いったい対象性はどのような意味をもち、またもちうるだろうか」ということがまさに問題である。
しかしその反面、超越者へのこの関係には、たとえ私が超越者の存在をその関係の的中性の面で疑うとしても、やはりそれには純粋現象の内部で把握される何か備わっているのである。超越者に関係すること、はやはり現象の内部的性格なのである。〔このように論考してみると〕あたかも絶対的なコギタチオネスの学問だけが重要であるかのように思われる。思念される超越者のあらかじめの所与性を排棄しなれればならない以上、このような自己超出的思念(uber sich hinaus Meinen)の意味ばかりでなく、意味と同時にそのような思念が妥当する可能性ないし妥当性の意味をも研究しようとすれば、この意味が絶対的に与えられており、また関係、確証および立証の純粋現象の中に妥当性の意味自身が絶対的に与えられるようなところ、〔すなわち絶対的なコギタチオの領域〕を除いて、いったいそれ以外のどこでこのような研究をなしうるであろうか?
勿論ここでわれわれは忽ちつぎのような疑惑におそわれる。すなわち「いやしくも妥当する超越というようなものがあるからには、やはりそれ以上のもの(ein Mehr)が働いているはずではなかろうか、つまり妥当な所与性は、単なるコギタチオの所与性ではありえないような客観の所与性をも伴っているのではなからうか」という疑いを抱くのである。しかしいずれにせよ、コギタチオネスと意味での絶対的現象の学問はまず第一に必要なものであり、少なくとも問題解決の主要部はこの学問が果たしてくれるであろう。
・絶対的現象の〈客観的妥当性〉の問題
このようにして現象学が、ここでは特に純粋認識現象の本質論としての認識の現象学がまさに意図されているのである。見通しは明るい。しかしどのようにして現象学は始まるべきであろうか、またそれはどのようにして可能であろうか? 私は判断をし、しかも客観的に妥当な判断を下し、純粋現象を学問的に認識しなければならない。一般にあらゆる学問はそれ自体に存在する客観性の論定を目指し、さらにそれによって超越者に到達するのであろうか? 学問的に論定されたものは存在しているのであり、しかも自体的に存在しているのであって、それを私が認識し存在者と措定しようと措定すまいと、それは端的に存在しているとされるのである。学問の本質には、学問をもってしてはただ単に認識し、学問的に基礎づけたにすぎないものの客観性が、その相関者として属しているのであろうか? したがって学問的に基礎づけられたものは普遍妥当的なのではなかろうか? しかいここでは〔純粋現象学では〕その点がどうなっているのだろうか? われわれの研究は純粋現象の分野で行われるのである。それにしてもなぜ私は分野というのであろうか、むしろそれは諸現象の永遠なヘラクレイトスイトス的。流れなのである。ここではどのような言表をすればよいのであろうか? たとえば直観的に「このこれ!」と言うことができよう。疑いもなく、それは存在している。しかしおそらく私はこうも言えるだろう。すなわち、この現象は部分として含んでいるか、またはそれと結合しており、この現象はあの現象へ流入するのであると、このように言うこともできるであろう。
しかし明らかにこれらの判断にはいささかの〈客観的〉妥当性も認められない。それはなんら〈客観的〉意味をもたず、単に〈主観的〉真理をもつにすぎないのである。「これらの判断が〈主観的〉に真理であることを要求するからには、やはりなんらかの意味で客観性をも備えているのではなかろうか」という疑問については、われわれはその研究に立ち入るつもりはない。しかしすでに一見して明らかなように、学問以前の自然的態度の判断がいわば上演してみせ、また精神科学の妥当的判断がそれとは比較にならぬほど高度に達成するあの客観性の尊厳がここに全く欠如しているのである。「このこれが存在している」などというような、われわれが単に直観的に下す判断には、なんら特別の価値が認められないであろう。
いずれにしても諸君はここで知覚判断と経験判断の、カントの有名な区別を思い出すであろう。〔われわれの論旨はカントの区別と〕明らかに類似している。しかしその反面、カントには現象学や現象学的還元の概念が無く、また心理学主義や人類主義から完全に抜け出せなかったために、カントはこの必然的区別の究極志向を会得できずに終わったのである。勿論われわれにとって重要なのは、その妥当性が経験主観に限定されるような、単に主観的にのみ妥当する判断ではなく、客観的に妥当する判断、すなわち一般にどの主観にも妥当する判断である。ところでわれわれはすでに経験主観を排去したのであるから、したがってわれわれにとってやがて超越論的統覚が、意識一般が、これまでとは全く違った、しかも少しも神秘的なところのない意味をもつようになるのであろう。
ともかくわれわれはわれわれの考察の本筋へ再びもどることにしよう。現象学的判断も単称判断であってはわれわれに余り多くのことを教えはしない。では判断は、しかも妥当な学問的判断はどのようにして獲得されるのであろうか? それに学問的という言葉にわれわれは忽ち当惑する。すなわちわれわれは次のような疑問を抱くのである。客観性には超越性が附髄しているのではなかろうか、そしてさらにこれには、超越とは何を意味するのか、またどのようにして可能なのか、という疑惑が伴うのではなかろうか? 認識論的還元によってわれわれは超越的前提を排除するのであるが、その理由は超越性の妥当性と意味に疑問があるからである。そうだとすれば認識論自身は学問的論定、超越的論定をおこなうことが果たして可能であろうか? 認識の可能性が基礎づけられるまでは、認識論自身も超越的論定をなしえないのが当然ではなかろうか? しかし認識論的判断中止が――事実それを要求しているように思われる――われわれが超越の可能性を基礎づけ終えるまでは、いかなる超越をも妥当させないことを要求し、しかも超越の可能性の基礎づけ自身が、客観的基礎づけという形で、超越的措定を要求するとすれば、ここには現象学と認識論を不可能ならしめる循環があるように思われる。そしてそうであればこれまでの熱心な努力は徒労に終わるであろう。
しかしわれわれは現象学の可能性や、また明らかにこれに含まれている認識批判学の可能性にただちに絶望するわけにはいかない。そこでわれわれはわれわれのためにこの虚偽の循環を打開してくれるような前進を試みなければならない。ところが先に二重の超越と内在とを区別した際、われわれは根本的にはすでにそのような前提を行っていたのである。諸君の記憶する通り、デカルトはコギタチオの明証を(とういうよりもむしろ、われわれがそれを継承しなかったけれども、「われ思う故にわれあり」を)まず論定したうえで、私にこれらの根本所与性を保証するのは何であるか? を問うたのである。そしてそれが明晰・判明な知覚(clare et distincta perceptio)であった。われわれはこれを糸口すればよいのである。しかし改めて言うまでもなく、この点ではわれわれの方がデカルトよりももっと純粋にさらに深く事象を把握しているのであり、したがってその明証の意味、すなわち明晰・判明な知覚の意味をも、もっと純粋に把握し理解しているのである。ともかくわれわれはデカルトにならって(便宜に変更して)さらに先へ進むことができる。すなわち、単一のコギタチオ同様、明晰・判明な知覚によって与えられているものであれば、何によらずそれをわれわれは同じように利用しうるのである。確かに第三、第四省察を、すなわち神の証明と神の誠実性(veracitas dei)への訴えなどを思い起こす場合は、何か悪い予感がしないでもない。しかしいずれにせよ、諸君はひとつ大いに懐疑的に、というよりもむしろ大いに批判的であったほしい。
われわれは純粋コギタチオの所与性が絶対的であることは確かめたが、しかし外部知覚の場合の外的事物の所与性については、たとえ外部知覚が事物それ自身の存在を与えると主張しても、それを絶対的所与性と認めるわけにはゆかない。事物の超越性のゆえに、われわれは事物を疑わざるをえないのである。「知覚がどのようにして超越者に的中しうるのか」はわれわれには理解きないが、しかし「知覚がどのように内在者に的中しうるか」は、純粋に内在的な反省的知覚という形で、すなわち還元された知覚によって、理解することができるのである。ではなぜそれが理解できるのであろうか? つまりわれわれ自身が直観し把捉しながら思念しているものを、われわれは直接的に直観し、直接的に把捉するのである。「それ自身は現出の中に与えられていない何か」を思念する現出に直面して「そのような何かが存在するかどうか、またそれが存在するということはどのようにして理解いうるのか」を疑うのは、それは無意味なことではない。しかし直観し、そして直観的に把捉されたものだけを思念していながら、なおかつそれに疑問を抱くのは、それは無意味なことである。要するにここで言いたいのは、「いやしくも本当の直観が、もっとも厳密な意味での本当の自己所有性が現前していて、しかもそれとは別種の、非所与を思念する所与性がないとすれば、直観こそ、すなわち自己所与の把捉こそ究極のものである」ということに他ならない。これこそ絶対的自明性である。ところが超越化思念の場合は、すなわち与えらえていないものの思念や確信、あるいはさらに複雑な基礎づけの中には、自明でない点、疑問の点、またおそらくは神秘的な点さえも伏在しているのである。それにもかかわらずその場合にもなんらかの絶対的所与性が、すなわち思念することや確信することそれ自体の所与存在が確認されうるのであるが、しかしこのことは少しもわれわれの役には立たない。そのわけは反省してみればわかるはずである。つまりこのような所与は思念されたものではないからである。
・単一的所与性へ限定してはならない、現象学的認識論は本質認識である
ではいったいどうして絶対的自明性、直観的自己所与性は単一の体験と単一の要素や部分にのみ見出されるのであろう。すなわちどうしてこのこれの直観的措定だけがそうなのであろうか? それとは別の所与性を、たとえば普遍性を絶対的所与として直観的に措定することは不可能なのであろうか? すなわち直観によって普遍者がもはやそれ以上疑うのは不合理なほどの自明的所与性になるというようなことはありえないであろう?
コギタチオの現象学的・単一的所与性へ限定することがどれほど卓見であるにしても、しかしかえってそれが原因で、われわれがこれまでデカルトにならって試みてきた明証の考察が、しかも確かに絶対的証明性と自明性によって隈なく照らし出されてこの明証性の考察が、すべてその妥当性を失うことにもなりかねないのである。すなわち〔デカルトの考え方からすれば〕たとえばわれわれがちょうどいま体験している感情のような、単一的に現前するコギタチオについては、「それは与えられている」とおそらく言いうるであろうが、しかし「還元された現象一般の所与性は疑いえない絶対的所与性である」というきわめて普遍的な命題を主張することはけっして許されないであろう。
しかしこれは諸君の思索を軌道に乗せるために述べたまでである。いずれにせよ認識批判学の可能性が、還元されたコギタチオネスとは別の絶対的所与性を明示することにかかっていることだけははっきりしている。子細に検討してみると、われわれがそれらのコギタチオネスについて下す陳述判断によって、すでにわれわれはコギタオネスを超出しているのである。「この判断現象の基礎にはこれこれの表象現象がある」とか「この知覚現象は色彩内容など、これこれの要素を含んでいる」と言うような場合は無論そうである。またわれわれが完全にコギタチオの所与性にのみ準拠してこのように言表すると仮定した場合でさえ、言語表現のなかにも反映している論理形式を用いている以上、確かにわれわれは単なるコギタチオネスを超え出ているのである。そこには新しいコギタチオネスの単なる寄せ集めのようなものとは全く違ったそれ以上の何か(ein Superplus)があるのである。したがってわれわれによって言表されるコギタチオネスに、陳情思考によりさらに新らしいコギタチオネスが付け加えられるにしても、これらのコギタチオネスが陳情事態を、すなわち言表の対象性を形成するわけでない。
・〈アプリオリ〉の概念の両義性
「単に個別性ばかりでなく、普遍性も、すなわち普遍的対象や普遍的事態も絶対的自己所与性になりうる」という認識は、少なくとも、純粋直観の立場に身を移して、自然的態度の予断的思念(Vormeinung)を遠ざけることのできるものにとっては、比較的把捉しやすいであろう。この認識は現象学の可能性にとって決定的な意義をもっている。なぜなら、現象学が純粋直観的考察の枠内での、すなわち絶対的自己所与性の枠内での、本質分析であり本質研究であることは、現象学固有の性格だからである。このことは必然的に現象学の性格である。すなわち現象学はいろいろな可能性を、認識の可能性や価値づけの可能性を解明するための、しかもそれらの本質基礎から解明するための、学問であり方法であろうとするのである。つまりいろいろな可能性が普遍的な問題になるのであるから、したがって現象学の諸研究は普遍的本質研究なのである。本質分析はとりもなおさず(eo ipso)類的分析であり、本質認識とはWesenに、Essenzenに〔ともに本質の意〕、すなわち普遍的対象性に向けられた認識のことである。そしてここにアプリオリ論もその正当な座を占めているのである。
なぜなら、少なくともわれわれが経験論的に偽造されたアプリオリな諸概念を排除する以上、アプリオリな認識とは、類的本質に向けられた、純粋に本質からのみ純粋にそれ自身の妥当性をえる認識をおいて、いったいほかに何を意味するであろうか?
いずれにせよそれこそ正当なアプリオリ概念である。しかし、範疇として特定の意味でのある原理的意義をもつ概念を、さらにまたこれらの範疇概念に基礎をもつ本質法則までも、すべてそれらをアプリオリと解するならば、その場合にはまた別のアプリオリ概念が成立するのである。
ここでは第一の意味でのアプリオリ概念だけを問題にするとすれば、現象学は根源の領域における、絶対的所与性の領域におけるアプリオリを、すなわち類的直観によって把捉されるスペチエスとそれらスペチエスに基づいて直接直観可能的に構成されるアプリオリな事態を取り扱うのである。しかし理性の批判を、しかも理論理性だけではなく、実践理性その他の理性の批判をも目指す方向では、その主目標はいうまでもなく第二の意味でのアプリオリであり、自己所与となりうる原理的諸形式および諸事態をまず論定し、さらにこれらの自己所与性にとって、論理学、倫理学、価値論の諸概念および諸法則を、すなわち原理的意義を要求して現れるそれらの諸概念および諸法則を実現し、評価し、価値づけることである。
講義 4
・志向性による研究領域の拡張
認識の現象学に限定していえば、ここで問題になるのは直接的直観的に明示される認識論の本質であり、〈認識〉という広義の名称に包括される諸現象のいろいろな特性をあくまでも現象学的還元と自己所与性の限界内で直観的に明示し、分析的に区別することである。したがってここでは、何が現象のうちに本質的に伏在し基礎をもっているか、現象はどのような要素によって造られているのか、どのような複合可能性が現象の常に本質的かつ純粋内在的な土台になっているのか、またいったいどのような類的相互関係がここから生ずるであろうか、などの点が問われるのである。
つまりただ単に実的内在者ばかりでなく、志向的意味での内在者も問題になるのである。これは認識体験の本質に属することであるが、認識体験はなんらかの志向(intentio)をもつのであり、それはなんらかを思念し、それぞれの仕方でなんらかの対象性に関係しているのである。たとえその対象性が認識体験に〔実的に〕含まれていないとしても、対象性に関係する働きはそれらに体験に属しているのである。したがって対象的存在者は認識現象に実的に内在しているのでもなく、またコギタチオとしてあるのでもないが、それにもかかわらず対象的存在者は現出することが可能であり、現出することによってなんらかの所与性をもちうるのである。それゆえ認識の本質を明らかにし、まつまた認識に属する本質的関連を自己所与性にもたらすということは、これらの両面を研究し、認識の本質に属するこの関係を追及することにほかならない。しかもここには認識の対象性の窮極的意味をめぐって、とくにそれが判断認識である場合はその的中性ないし非的中性の、またそれが明証的認識である場合はその十全性の、それらの究極的意味をめぐって、いろいろな謎や不可思議や諸問題が伏在しているのである。
いずれにせよこの本質的研究はすべて実際明らかな類的研究である。意識流の中で生滅する単一の認識現象は現象学的論定の対象ではない。
われわれが求めているのは〈認識〉の源泉であり、類的に観取されうる根源、すなわち類的な絶対的所与である。そしてこれらの類的所与性こそ一切の意味とひいては錯綜した思考の正しさを測定する拠り所となり、また思考がその対象性について提起する一切の謎を解き明かす拠り所ともなる普遍的根本基準なのである。
・普遍者の自己所与性、本質分断の哲学的方法
しかし、普遍性は、すなわち普遍的本質とそれらに属する普遍的事態とはいったい本当にコギタチオと同じ意味で自己所与性になりうるのであろうか? 普遍者そのものは認識を超越しないであろうか? 絶対的現象としての普遍的認識は確かに与えられている。しかしこの普遍的認識の内部に普遍者を求めることは不可能である。すなわち同じ内在的内実をもつ無数の可能的認識においてはもっと厳密な意味での同一者でなければならないはずの普遍者を求めても、それは徒労である。
勿論われわれとしては、前にも答えたように、「普遍者は当然このような超越性をもっている」と答える。認識現象というのはこの現象学的個別性の実的部分はそれぞれがまた個別性であるから、したがって個別性でない普遍者が普遍性意識の内部に実的に含まれているということはありえない。しかしこの超越性につまずくといいうのは、それは先入観以外の何ものでもなく、そのような先入観は〔認識の〕源泉そのものから汲みとられたものではない不適当な認識考察から生ずるのである。絶対的現象が、還元されたコギタチオが、われわれにとって絶対的自己所与性として開示されるからなのである・・・・ぜひこの点を明晰に自覚しておかねばならない。われわれは普遍性をも純粋直観によってまさにこのような絶対的所与性として見出しうるのである。
しかし本当にそうであろうか? では次に、普遍者の所与性の場合を、すなわち観取された自己所与的な個別性に基づいて純粋な内在的な普遍性意識が構成される場合を注視してみたい。私が赤の感性的直観を一ないし数個もっているとしよう。私は純粋内在だけに留意して、現象学的還元の気構えをする。赤が超越的にどのようなものとして統覚されていようと、たとえば私の机上の吸取紙などの赤として統覚されているとしても、ともかく赤が通常意味しているものを切り捨て、その上で私は純粋直観によって赤一般という思想の意味を完成するのである。すなわち赤のスペチエスを、たとえばあれこれのものから直観的に抽出された同一的普遍者を完成するのである。そこでは個別性そのものは思念されず、これとかあれとかではなく、赤一般が思念されているのである。事実われわられ純粋直観によってそのように思念しているとすれば、その上さらに「赤い一般とは何であるか、その本質がなんであるにせよ、いったいそれによって何が思念されているのか」というようなことを果たして本気で疑いうるだろうか? われわれは現にそれ〔赤一般〕を直観しているのであり、現にそれは存在しているのである。それ(das da)を、この赤の種的特性を、われわれは思念しているのである。いったい神格ならば、無限の知性ならば、赤の本質について、現に彼が類的に直観している以上のものを所有しうるのであろうか?
たとえば二種の赤が、ふたつの赤の濃淡がわれわれに与えられているとした場合、われわれには「こちらあちらが互いに似ている、個別的な個々の赤の現象が似ているのではないが、種的特性が、濃淡そのものが似ている」とそう判断できないであろうか? この場合の類似の相互関係は類的な絶対的所与性ではなかろうか? それ故この所与性もまた純粋に内在的な所与性なのである。ただし悪い意味で、すあわち「個別的意識の領域内に制限される」という意味で内在的であるのではない。ここでは心理学的主題における抽象作用や、抽象作用を行う際の心理学的条件を論じようとしているのではない。ここで論じられるのは赤の類的本質ないし意味であり、類的直観における赤の所与性なのである。
赤を直観し、その種的特性を把捉すると同時に、まさにこの把捉され直観されているそのものを赤という言葉で思念する場合には、その上さらに「赤の本質はいったい何か」とか「赤の意味は何か」などと問い疑うのは無意味であるが、ちょうどそれと同じように、現象学的還元の領域内での純粋直観的・イデー化的考察によって当該の類的現象を直視し、そしてその種的特性が与えられているとすれば、その上さらに認識の本質と認識の主要形態について「認識の意味は何か」と疑うのは全く無意味である。ただし、言うまでもなく認識は赤のように簡単な事象ではないから、認識の場合はいろいろな形式や種類を区別し、さらにそれら相互の本質関係を究明しなければならない。なぜなら認識を理解することは、認識の目的論的関連を類的に明晰化することにほかならないからであり、そしてこれらの関連が結局は知性の諸形式のいろいろな本質類型の特定の本質関係にもなるのである。したがって認識するためには、学問の客観性を可能ならしめるイデア的条件としてあらゆる経験科学的方法を規範的に規整する諸原理を、究極的に解明することもまた必要なのである。それらの原理を解明する研究はすべて本質領域の内部で行われるのであり、そしてさらにこの本質領域も現象学的還元の単一的現象を土台にして構成されるのである。
分析はどの段階においても、直接的直観によって構成される類的事態の本質分析であり究明である。したがってこの研究はすべてアプリオリな研究でありが、しかし勿論それは数学的演繹の意味でのアプリオリな研究ではない。この研究をアプリオリな科学化的諸科学と区別するのは、その方法と目的である。現象学は直観的に解明し、意味を規定し、意味を区別するという方法で研究を進めるのである。現象学は比較し、区別し、結合し、関係づけ、部分にわかち、あるいはまた諸要素を分離するのである。しかしすべて純粋直観によって行われるのである。現象学は理論化したり数学化したりはしない。すなわち演繹的理論の意味での説明は行わないのである。現象学は客観化科学を支配する諸原理たる根本概念や根本命題を解明するのであるから(ただし最後には現象学自身の根本概念を諸原理をも反省的解明の対象とするのであるが)、客観化的学問が始まるところで現象学は終結するのである。したがって現象学は〔客観化的科学とは〕全く違った意味での学問であり、全く別の課題と方法をもつ学問である。きわめて厳密な現象学的還元の内部での直線的・イデー化的方法は現象学の独占的私有財であり、またこの方法が認識批判の意味に、また一般に理性のあらゆる批判(したがって価値判断理性や実践理性の)に本質的に属している以上、これは全く哲学固有の方法である。ところで真の意味での理性批判と並んでやはり哲学と呼ばれているもの、すなわち自然の形而上学、すべての精神的生命の形而上学その他きわめて広義の形而上学一般は、ことごとくこの理性批判に関係づけられねばならないのである。
・明証の感情説批判、自己所与性としての明証
このような直観の場合明証ということが言われる。事実、明証概念の重要さを知り、その本質をしっかり捉えているひとびとはもっぱらこのような事柄に注目している。その場合「明証とは実際に直観し、直接かつ十全的に自己を把捉する意識のことであり、このような意識はまさに十全的な自己所与性にほかならない」という点を見落とさないことが肝要である。根源研究の重要性をしきりに強調しながら、しかも極端な合理論者と同様、真の根源に近づけない経験論的認識者たちは、「明証判断と非明証判断との区別はすべて感情の中に存立するものであり、明証判断の優越性はこの感情によって示される」とそうわれわれに信じさせようとしている。しかしこの場合感情が何を理解させてくれるのだろうか? 感情が何をなしえるのだろうか? たとえば感情がわれわれに向かって「待て! ここに真理がある」とそう呼びかけるとでもいうのであろうか? いったい何故われわれは感情を信じなければならいのであろうか? このような確信はさらになんらかの感情指標を必要とするのではなかろうか? 「二掛ける二は五」という意味の判断はなぜ一度もそのような感情指標をもたないのであろうか?
そこで次のように言う者もあろう。たとえば「二掛ける二は四」という判断のように、論理的に言えば同じ判断でも、私にとってはそれが明晰判明な場合もあり、そうでない場合もある。同じ四の概念でも、私にとっては直感的に明証的に与えられ場合もあるし、また単なる象徴的事象の中にのみ与えられる場合もある。つまり内容的には双方とも同じ現象なのであるが、しかし一方には価値の優位、価値を賦与する性格、すなわち優越感情があると。しかし本当にただ一方には感情は付与され、他方はそうでないとうだけの違いで、この場合私は両方とも同じ現象を所有しているのであろうか? それらの現象をよく見れば、すぐに気づくことであるが、実際には二回とも同じ現象が現前しているのではなく、それらは二個の本質的に異なる現象であって、ただ単にある共通なものを両者は共有しているというにすぎないのである。「私は二掛ける二は四に等しい」ことを見てもとる場合と、曖昧な象徴的判断によってそれを表現する場合とでは、私は同じものを思念しているのであるが、しかし同じものを思念するということは、同じ現象をもつということでない。その内実は両方の場合でそれぞれ違っているのである。すなわち一方では私は直観し、直観の中に事態そのものが与えられているのであるが、しかし他方で私は単に象徴的に思念しているにすぎないのである。すなわち私は所有しているのは、一方では直観であり、他方では空虚志向なのである。
では双方に共通するものが、すなわち同じ〈意味〉が現にあるのではあるが、一方にはそれに感情指標が伴い、他方にはそれは伴っていない、という点に相違があるのであろうか? 高見から現象を論じ、勝手に構成する(konstruieren)ような真似はやめて、現象そのものをよく注視するようにしてほしい。もう一つもっと簡単な例をとりあげてみよう。たとえば私が一方では生き生きとした直観によって赤を伴い、他方は感情をと伴わないというだけの違いで、両方とも同じ赤の現象が実的に現在しているのであろうか?
つまりこれらの双方の現象をよく注視しさえすれば、これらの現象が全く違いのであり、ただ単に、われわれが意味と呼ぶところのものによってのみ、一致していることは認識されるであろう。しかし現象自身のうちに相違があるとすれば、〔両者を〕区別するのにいったいその上さらに感情までも必要であろうか? つまり、一方には、赤の自己所与性や、数や類的な数等式の自己所与性が現前しており、また主観的に言えば、これら事象の十全的な直観的把握とそれ自身の所有(Selbsthaben)があり、そして他方には事象の単なる思念があるに過ぎない、という点にまさに〔両者の〕相違があるのではなかろうか? それ故われわれとしはこのような感情的明証には承服できない。かりに感情的明証が正当性をもちうるとすれば、それはこの明証が純粋直観の中で証明されるとした場合に限られる。つまり純粋直観が、われわれが純粋直観に対して不当に要求するもの、そして感情的明証に矛盾するもの、を意味するとした場合に限られるのである。
さてそこで明証概念を使って次のように言うことができよう。「コギタチオの存在についてはわれわれは明証を所有している。そしてわれわれが明証をもつからこそ、コギタチオはなんらの謎も、したがって超越の謎も秘めていない。コギタチオはわれわれにとって疑いえないものであり、安んじて利用しうるものである」と。それと同じようにわれわれは普遍者についても明証を所有しているのであり、それゆえ普遍的な対象性および事態がわれわれにとって自己所与性となるのである。したがってそれらは〔コギタチオ〕と同じ意味で不可疑的に与えられているのであり、まさにもっとも厳密な意味で十全的な自己所与なのである。
・実的内在の領域へ限定しないこと、すべての自己所与性が主題である
上述のようなわけで現象学的還元はけっして実的内在の領域へ、すなわちコギタチオの絶対的「これ」のうちに実的に含まれているものの領域へ研究を限定しようとするものではない。それはけっしてコギタチオの領域への限定を意味するものではなく、純粋自己所与性の領域への、すなわち単に論じられ単に思念されるだけではないものの領域への限定を意味するのである。さらにまた、知覚されるものの領域への限定でもなく、それが思念されているそのままの意味で現に与えられているもの、つまり思念されたことがすべてそのまま与えられているような仕方で、きわめて厳密な意味で自己所与であるものの領域への限定を意味するのである。一言でいえば、純粋明証への限定である。ただしこの語は〈間接的証明〉や殊に曖昧な意味での明証をすべてあらかじめ排除するような特定の厳密な意味に理解されねばならない。
絶対的所与性こそ究極のものである。「何かが絶対的に与えられている」と口先で主張するのは勿論たやすいことであるが、しかし実はそうではない。絶対的所与性も、ただ漠然とそう言われるだけの場合もあり、またそれ自身が絶対的所与性のうちに与えられている場合もある。たとえば私がある赤の現象を直観する場合もあるし、また直観しないで単にそれについて論ずるだけの場合もあるが、それと同じように私は赤の直観について論ずることもできるし、また赤の直観をさらに直観して、赤の直観そのものを直観的に把捉することもできるのである。しかしその反対に自己所与性一般を否認するのは、一切の究極的規範を、すなわち認識に意味を付与するいっさいの根本基準を否定することである。もしそういうことになればいっさいを仮象であると公言し、さらに仮象そのものをも仮象であると公言する不合理を犯し、その結果全面的に懐疑論の矛盾に陥らざるをえなくなるであろう。だが言うまでもなくこのような仕方で懐疑論者を論駁できるのは、根拠を見る者、すなわち見ること、直観すること、明証にまさに意味を認める者だけである。見ていない者、あるいは見ようとしない者、論じ立て論証する反面、自分自身は相変らずいろいろな矛盾を犯し、しかも同時にいっさいの矛盾を拒否しようとする者、そういう輩はわれわれにはどうしようもあるまい。〔そういう相手に対しては〕「〈明らかに〉そうである」と答えるわけにはゆかない。彼は〈明らか(offenbar)もののあることを認めないのである。たとえて言えば、それは見ていない者が見えることを拒否しようとするようなものであり、もっと適切に言えば現に見ている者が自分が見ている事実や見る働きがあることを否定しようとするようなものである。もし彼があくまでも自説を変えないとしたら、いったいわれわれは彼を納得させるすべがあろうか?
それ故われわれはあくまでも絶対的所与性を確保してゆきたい。なおすでにわかっているように、ここで言う絶対的所与性とは、たとえばコギタチオの絶対的個別性の如き実的個別性の自己所与性のことではない。さてここで次の問題は「絶対的自己所与性がどの範囲まで及ぶか、またそれがどこまで、ないしどのような意味でコギタチオの領域や、コギタチオを類的普遍化する普遍性の領域に拘束されるか」という点である。単一のコギタチオと実的内在の領域にのみ唯一の絶対的所与を認めるよくありがちな最初の先入観を放棄したならば、次には、この実的内在の領域からえられる類的直観のなかにのみ、新しい自己所与的対象が成立するかのように思うこれまたよくありがちな先入観をも取り除かなければならない。
〈反省的知覚においてはコギタチオネスが意識的に体験されているから、われわれはそこではコギタチオネスを絶対的所与として所有している〉ということが出発点にされる。その場合、コギタチオネスとそれらの実的要素のなかで個別化されている普遍者を直観し、直観的抽象によっていろいろな普遍性を把捉すれば、純粋にこれらの普遍性に基づいて成立する本質関連を、直観的に関係づける思考によって(in schauend-beziehenden Denken)自己所与的事態として構成することができる。それで万事が終わる。
しかしながら、根源をすなわち絶対的所与性を直観的に認識するためには、あまりに思索を弄し、それらの思考的反省から憶測的自明性を汲み取る傾向ほど危険なことはない。自明性は大抵の場合一向にはっきり形式的に実現されていないため、直観によって批判されることもなく、したがってうやむやに研究の方向を規定し不当に限定しがちである。直観的認識は悟性をまさに理性に高めようとする理性である。悟性には〔理性に〕くちばしを入れたり、自分の不渡り手形を支払手形のなかへまぎれこませるような真似は許されない。大蔵省証券に基づいてのみ成り立つ悟性の両替・換算の方法はここでは全然問題にならないのである。
それ故できるだけ悟性を用いず、できるだけ純粋直観(悟性的思考なき直観(intuitio sine comprehension)を用いるべきである。実際われわれは、悟性的知識ではないとされる知的直観を記述する際の神秘主義たちの議論を思い起こさせる。また芸術はすべて直観する目にのみ語らせることによって、したがって直観とからみあった超越化的思念を、同時に与えられたものの思考的所有を、同時に考えられたこと、また場合によっては反省によって付け加えられた解釈などを、排去することによって成立するのである。〔この場合〕常に次のような疑問が残る。この思向されたものは真の意味で与えられているのであろうか、すなわちもっと厳密な意味で直観され把捉されているのであろうか、それとも思向の働きにはそういうことを超出するのであろうか?
このことが前提されれば、「直観的研究はいわゆる内部知覚の領域と、その上に築かれる純粋内在的抽象、すなわち内部知覚の諸現象や現象の諸要素をイデー化する抽象の領域で行われる」と信じるのは虚構であろうということを、われわれはただちに認識するのである。対象性にも、またそれらに伴っていわゆる所与性にもいろいろな様態があるのであり、そしておそらくいわゆる〈内部知覚〉という意味での存在者の所与性やまた自然的態度の客観化的科学の存在者の所与性もそれぞれこれらの所与性の一つに過ぎないのである。他方それらとは別の、通常非存在と形容されている所与性もやはり所与性であり、また所与性であるからこそ、これらは前者の所与性と対置され、明証的に前者から区別されうるのである。
講義 5
・時間意識の構成
われわれはコギタチオの明証を確認し、次いで普遍者の明証的所与性へ進みそれを承認したのであるが、この足取りは直ちにその先を進むものである。色を知覚しつつ同時に還元を行うことによって、私は色という純粋現象を獲得すう。次いで純粋抽象を遂行すれば、私は現象学的色一般という本質を獲得する。しかし〔色の〕明晰な想像をもつ場合も、私はこの本質を完全に所有しているのではなかろうか?
次に記憶について言えば、記憶はそれほど簡単な事象ではなく、対象性の諸形式や所与性の諸形式のからみ合いを呈している。たとえばいわゆる第一次記憶、すなわちそれぞれの知覚と必然的にからみ合った過去志向を例にあげることができよう。われわれがいま体験している体験は直接的反省によってわれわれの対象となり、しかもこの体験の中には引き続き同じ対象的存在者が呈示されている。たとえばつい最前まだ現実の今としてあった同じ音は、過去へ後退し、それと同時に同じ客観的時点を構成しながら、なおも同じ音であり続けている。しかもその音は鳴り止まずに持続し、持続しながら内容的に同じ音ないし内容的に変化する音として呈示されている場合、その音の持続ないし変化は(一定の限界内にせよ)明証的に把捉されるのではないだろうか? またそうであるからこそ、直観は単なる今の時間を超え、したがっていまはもはや存在しないものもそのつどの新しい今の中に志向的に保持し、過去の広がりをも明証的所与性として確認しうるのではなかろうか? したがってこの場合も一方にはそのつどの対象的存在者が、すなわち現にありかつてあった、そして持続しまた変化する対象的存在者が、そして他方にはそのつどの現在と過去の現象、持続と変化の現象が区別されるのであり、そして現象はそのつど一つの今であり、現象自身の射映と現象自身が経験する絶えざる変化の中で、時間的存在を現出させ呈示するのである。対象的存在者は現象の実的な一部ではなく、それ自身の時間性の中に「現象の内部には決して見出されず、したがって現象に解消されない何か」をもっているのであるが、しかしそれにもかかわらず対象的存在者は現象の中に構成されるのである。対象的存在者は現象の内部で自己を呈示し、その内部に〈存在者〉として明証的に与えられているのである。
・本質の明証的所与性としての本質把握、単一的本質の構成と普遍的意し識の構成
次に本質所与性について言えば、本質的所与性は知覚および知覚に織り込まれた過去志向に基づいて構成されるのであるが、しかしそれは本質的所与性が現象そのものから普遍者をいわば単純に取得する(entnehmen)というだけのことでなく、現出している対象を本質的所与性が普遍化し、その対象を視向して、たとえば時間的内容一般、持続一般、変化一般などの普遍性を措定する仕方で、構成される。さらに想像と想起も本質的所与性の基盤として役立つのであり、想像や想起自身が純粋に把捉されるいろいろな可能性を与えるのである。つまり〔知覚の場合と〕同じ意味で本質所与性はこれらの作用〔想像と想起〕からもいろいろな普遍性を取得するのであるが、しかしその反面それらの普遍性はこれらの作用に実的に含まれているのではない。
すでに明らかなように、全く明証的な本質把握は単に直観的に遡求し、それに基づいて構成されなければならないのであるが、しかしそれだからといって類例的個物を実的にいま現在するものとして与えられている単一的知覚に遡及する必要はない。現象学的な音質、音の強度、色調、明るさなどの本質はつねに自己所与であり、イデー化的抽象が知覚に基づいて行われようと、あるいは想像による現前化に基づいて行われようと、その点に変わりないのである。したがって実在措定は、現実であろうと変様されていようと、いずれにせよ、なんら重大な意味をもたないのである。これと同じことは、判断、肯定、否定、知覚、推論など、心的与件の本来的意味におけるスペチエスに関係する本質把握についても当てはまる。したがって当然このことは、そのような普遍性に属する類的事態にも当てはまるのである。「二つの音調のうち一方は低い音調、他方は高い音調で、しかもその相互関係は反転できない」という洞察は直観によって構成されるのである。類例は現前になければならないが、しかしそれらは必ずしも知覚の事態として眼前にある必要はない。本質考察にとっては知覚と想像表象とは全く地位にあるのであり、そのどちらからも同じ本質が全く同じように看取され、抽象されるのである。したがってそれに伴う実在措定はなんら重大な意味をもたないのである。知覚された音はその強度、性質などを含めてなんらかの意味で実在し、想像の音は、まさにこれをわれわれは虚構の音と呼ぶのであるが、実在しないということ、一方は明証的に実的に現在し、他方ではそうでないということ、想起の場合は音はいまとしてではなく、むしろ既存として措定され、いまはただ現前化されているに過ぎないということ、そういったことは〔本質考察とは〕別の考察に属していて、本質考察の問題にはならないのである。ただし本質考察がまさにこれらの相違・・・・これらもまたそれぞれの所与性を所有するのであるが・・・・を現示し、それらについての類的洞察を論定する場合はこの限りではない。
いずれにせよ、すでに明らかな通り、〔本質考察においては〕根底にある類例な知覚の中に与えられている場合でさえ、知覚の所与性に実在という特徴を与えられるそのものは考察されないのである。しかし想像は本質考察にとっては知覚と同等の働きをするばかりでなく、それ自身の中にも単一的所与性を、しかも本当に明証的な所与性として、所有しているように思われる。
単純想像を、つまり記憶措定を伴わない想像を取りあげてみよう。想像された色は感覚された色という意味での所与性ではない。われわれは想像された色とこの色を想像する体験を区別する。(祖雑な表現ではあるが)色が私の現前に浮かんでいるのは一つの今であり、現にいま存在するコギタチオではあるが、しかし色そのものはいま存在している色ではなく、それは感覚されていない。しかしその反面それはやはりなんらかの仕方で与えられているのであり、私の眼前にあるのである。感覚された色と全く同様、想像された色も一切の超越的意義を排除することによって還元されるのであり、したがってそれは私にとって紙の色、家の色など〔特定のリアルな色〕を意味するのではない。経験的実在措定をすべて停止することも可能であるが、その場合私は想像された色を、ちょうど私がそれを〈直観史し〉、疑似的に(quasi)〈体験する〉がままに、受け取るのである。しかしそれにもかかわらずその想像された色は想像体験の実的部分ではない。それは現在する色ではなく、現前化された色であり、それはいわば現前にあるのであるが、しかし実的現在としてではない。しかしやはりそれは観取されているのであり、観取されているからにはなんらかの意味で与えられているのである。しかしそれだからといって私はその色を物理的ないし、心的実在とし措定しているのでもない。なぜならコギタチオは実的な今であり、明証的に今の所与性(Jetztgegenbenheit)の性格をもつ所与性だからである。しかし想像された色が以上のどちらの意味でも与えられていないということは、それがいかなる意味でも与えられていないということではない。想像された色は確かにそれ自身現出しているのであり、自己を呈示しているのである。現前化される想像色そのものを直観するからこそ私はその色について、またその色を構成する諸要素やそれらの諸関連について、判断できるのである。勿論これらの要素や諸関連も〔想像色そのものと〕同じ意味での所与であるが、しかしそれと同じ意味で想像体験の内部にはどこにも〈本当に〉実在していない。つまり実的に現出しているのではなく、単に〈表象〉されて存在するにすぎないのである。内容だけを、すなわち現出するものの単一的本質だけを表現する純粋な想像判断は「これはこのような特徴をもち、これらの要素を含み、しかじかに変化する」とは言いえても、「現実時間のうちにある現実的存在」としての実在や、現実的な今の存在、過去存在、未来存在については何も判断できないのである。したがって「個体的本質については判断されるが、実在については判断されない」と言えるだろう。
まさにこの理由から、通常われわれが単に本質判断と呼んでいる類的な本質判断は知覚と想像の相違にはなんの係わりもないのである。知覚は実在を措定するが、しかしまた本質とも所有しているのであり、〔知覚によって〕実在として措定された内容は〔想像による〕現前化の場合も同じ内容でありえるのである。
しかし実在と本質を対置するのは、それによって「この場合二つの在り方が自己所与性の二つの様態のうちに告知され区別される」ことを言い表わそうとするにほかならない。色を単に想像するだけの場合は、色を時間内の現実性として定位する実在は全く問題外であり、したがって実在については何も判断されず、想像の内容の中にもそれは少しも与えられていないのである。しかしこの〔想像された〕色は現出しているのであり、それは現にあり、判断の、しかも明証的判断の、主語となりうる「これ」(ein Dies)である。したがって所与性の様態の一つは想像直観とそれらに基づく明証的判断の中に告知されるのである。しかし勿論われわれが個体的な個々の領域にとどまる限り、そのような判断を以てしても格別たいしたことは為しえない。ここでわれわれが類的本質判断を構成する場合のみ、われわれは学問が要求しているような確固たる客観性を獲得できるのである。しかしここではその問題には触れない。ともかくそれによってわれわれは大変な渦巻に巻き込まれるように思われる。
出発点はコギタチオの明証であった。そこでまず最初、あたかもわれわれは確固たる地盤を、すなわち全く純粋な存在を所有しているように思われるのである。そこではただ単に掴まえられ直観すればよいように思われていた。「これらの所与性について比較し区別できれば、スペチエス的普遍性を開示し、さらに本質判断をも獲得できる」と誰しも安易にそう認めようとする。しかしさらに詳細に考察してみると、コギタチオの純粋存在はけっしてそのように簡単な事象としては呈示されないことが明らかになるのである。すでにデカルトの領域においてもさまざまな対象性が〈構成される〉ことがわかったのである。そして構成するということは次のようなことを言い表わしている。すなわち、内在的所与性は、初めの思惑とは違い、たとえば箱の中に入っているように単純に意識の中にあるのではなく、それらは〈現出〉のようなものの内部に、すなわちそれら自身は対象ではなく、また対象を実的に含んでいない現出の内部に、そのつど自己を呈示するのであり、現出はその可変的なきわめて特徴的な構造によって・・・・ただしそのような特性と組織をもつ現出がそのために必要な限りにおいてではあるが、・・・・対象を自我のためにある程度いわば創造するり(gewissermaβen schaffen)のである。そしてそれによって現に〈所与性〉と言われているものが現前しうるのである。
・規範的所与性
過去志向を伴う知覚によって構成されるのが時間客観であり、そのような意識の内部でのみ時間は所与たりえるのである。それと同様に知覚または想像に基づいて作られる普遍性意識によって構成されるのが普遍者であり、想像および知覚によって・・・・ただし実在措定は別として・・・・構成されるのが単一的本質という意味での直観内容である。そしてさらにこれには、もう一度念のため言えば、こういう場合つねに明証的言表の前提となる範疇的作用が加わるのである。その場合に現れる規範的諸形式は、すなわち陳述や附加語の形式をとるであるとない、同一と他、一と多、そしてとあるいはなどの語によって表現される規範的諸形式は、思考の諸形式を示唆しているのであり、これらの思考形式が適切に組み立てられるならば、綜合的に結合される基本的作用を基礎に、これらの思考形式によっていろいろな所与性が、すなわちさまざまな存在論的形式の諸事態が意識されるのである。この場合にも一定の形式の思考作用によるそのつどの対象の〈構成〉が〈生起するgeschieht〉のである。事象の所与存在は、いわば事象の純粋直観は意識の内部で完成されるのであるが、しかしこの場合にも、意識は、これらの所与性が単純に納めこまれているただの箱のようなものではなく、直観する意識であり、―注意を別にすれば―一定の形式の思考作用なのである。したがって思考作用ではない事象もやはり思考作用によって構成され、思考作用によって所与性になるのである。そして本質的にこのように構成されることによってのみ、事象はあるがままの自己を示すのである。
しかしそれは全く奇跡ではなかろうか? またこの対象性の構成はどこで始まりどこで終わるのであろうか? それには本当に限界があるのだろうか?一つ一つ表象や判断の働きによってなんらかの意味で所与性が完成されているのではなかろうか? それぞれの対象性は、それが一定のものとして直観され、表象され、思考されている以上、すでに一個の、しかも明証的な所与性ではなかろうか。外的事物を知覚する場合にはまさにその事物が、たとえば目の前にある一軒の家が、知覚されていると言われる。この家は一個の超越であり、したがって実在の面では現象学的に還元されるのである。本当に明証的に与えられているものはその家の現出であり、意識の流れの中に浮かび上がり流れ去るこのコギタチオである。この家の現象の中にわれわれは赤の現象や延長の現象なども見出すのである。それらは明証的な所与性である。しかし家の現象の中にはまさに一軒の家が現出しており、だからこそそれがまさに家の知覚と言われることも明証的ではなかろうか。またそれ故一軒の家が単に一般的ではなく、まさにこの家がしかじかであると規定され、そのように規定されて現出するのである。だからこそ「現出の面では、またはこの知覚の意味では、その家はしかじかであり、煉瓦造りで、スレート屋根である」などと、そう私は明証的に判断し言いうるのではなかろうか?
ではもし私が想像によって何かを虚構する場合、たとえば騎士聖ゲオルグが怪竜を退治する場面を思い浮かべる場合、この想像現象がまさに聖ゲオルグを、しかもしかじかであると記述されるこういう場面のゲオルグを、しかもいまこの〈超越〉を、表象していることは明証的ではなかろうか。この場合私は想像現出の実的内容についてではなく、現出している事物対象について、明証的に判断できるのではなかろうか? 勿論ただ対象の一面だけが、しかも時に応じて別の面が、本来的に現出化されるのに過ぎないのであるが、しかしやはり騎士聖ゲオルグなどのこの対象が現出という意味で現前し、現出のうちに現出的に〈所与性として〉告知されていることは明証的である。
・象徴的思考内容そのもの
では最後にいわゆる象徴的思考を〔とりあげてみたい〕。たとえば私がなんかの直観を用いずに「二掛ける二は四」と考えるとしよう。私は、自分がこの数の命題を思考していることや、この思考内容が今日の天気などにはなんの係わりもないことを疑いうるだろうか? この場合にも私は明証を、つまり所与性のようなものを所有しているだろうか? しかしここまで論考してくると、もうどうすればよいのかわからなくなり、われわれは「不合理なこと、全く背理さえなんらかの仕方で〈所与〉である」と認めざるをえなくなる。丸い四角は、怪竜を退治する人物が私に現出すると同じように想像の中に現出するわけではなく、またなんらかの外的事物と同じように知覚の中に現出するのでもないが、しかしやはり一個の志向的客観が明証的に現存しているのである。私は〈丸い四角の思考〉という現象をその実的内実に則して記述することができるが、しかしそれだからといって丸い四角が思考現象の内部に存在しているわけではない。しかしそれにもかかわらずそれがこの思考の中で考えられていること、このような思考内容そのものに丸と四角の性質がまさに思考的に付与されていること、ないしはこの思考の客観が丸くてしかも同時に四角であることは明証的である。
・最も広範囲の研究領域、認識はン的による対象性の諸様態の構成、認識と認識対象性の相関関係の問題
ところで最後に列挙したこれらの所与性が真の意味で本当の所与性であるなどとけっして言ってはならない。かりにそうだとすれば知覚されているものも、表象されたものも、虚構されたものも、象徴的に表象されたものも、一切の虚構や背理までも結局はみな〈明証的な所与〉ということになるであろう。したがってむしろ「ここには大変な難問が伏在している」ということを示唆するにとどめるべきである。しかし原理的にはそれらの難問題も、それらが明晰にされていない限り、われわれが「本当の明証が及び限り、所与性も及ぶ」と言うのを妨げることはできないのである。それにしても、何が明証的に本当に所与であり、何がそうでないか、その際何が非本来的思考によって初めて創造的に附加(hineinschaffen)され、所与性の根拠なしに勝ってな解釈を加えられたものであるかを、全く明晰的に純粋に論定することは、無論いかなる場合にも大問題であろう。
したがっていかなる場合にも大切なことは、任意の現出を所与として論定することではなく、所与性の本質と対象性の諸様態の構造とを洞察することである。確かに思考現象はそれぞれが各自の対象的関係を所有しているのであり、しかも・・・これこそ第一の本質洞察であるが・・・・それぞれが〔一方では〕各自の実的内容を、各思考現象を実的な意味で合成する諸要素の確信(belief)として所有し、また他方では各自の志向的対象を、すなわち各思考現象がそれぞれの本質特性により「しかじかに構成されたもの」として思念する対象を、所有しているのである。
このような事情が本当に明証化されるならば、この明証は必要なことをすべてわれわれに教示してくれるはずであり、したがって「この〈志向的内容〉がいったい何を意味し、またそれが思考現象の実的内実そのものとどのように対応しているか」という問題はこの明証によって明晰にされるはずである。「どのような関連の中で志向的内在が本当の本来的明証として現れるのか」また「このような関連の中で何が本当の本来的な所与性であるか」を、われわれは見きわめなければならない。その場合には、本来的所与性の諸様態を、したがってまた対象性の諸様態の相互関係を開示することが重要であろう。すなわちコギタチオの所有性、鮮明な記憶の中に生きつづけるコギタチオの所有性、現象的流れの中で持続する現出統一の所与性、現出統一の変化の所与性、〈外部〉知覚における事物の所与性、想像および想起の諸形式の所与性などを、それらに対応する諸関連、すなわち綜合的に統一されるさまざまな知覚その他の表象の関連においても開示しなければならない。
勿論さらに論理的所与性、すなわち普遍性、述語、事態などの所与性やまた不合理、矛盾、非存在などの所与性をも同じように開示しなければならない。いかなる場合にも所与性は・・・・その中に告知されるものが単に表象されたものであろうと真の存在者であろうと、またリアルなものであろうとイデア的なものであろうと、可能なものであろうと・・・・常に認識現象内での所与性であり、きわめて広い語義での思考現承に内在する所与性なのである。したがっていかなる場合にも本質考察においては最初は非常に奇妙に思われるこの相関関係が追及されねばならない。
認識の内部でのみ対象性一般の本質はそのあらゆる基本形態について研究されうるのであり、認識の中にのみそれは与えられ、明証的に直観されるのである。この明証的直観こそ最も重要な意味での認識である。しかし対象性はまるで袋の中に入っているように認識の中に詰め込まれているのではない。〔そのように考えられるのは〕認識というものが、あたかもいつでも同じ空虚な形式ででもあるように、またその時次第でいろいろ違った品物が詰め込まれる一個の同じ空袋ででもあるかのように見なされているからである。
しかし実はそうではなくわれわれは所与性のうちに、対象が認識の内部で構成されること、対象性の基本形態やさらに能与的認識作用の基本形態および認識作用の群や関連がいろいろ区別されること、を見るのである。したがって認識作用は、さらに広く解して思考作用一般は、意識の流れの中でなんの関連もなく去来する関連なき個別性ではない。それらの作用は本質的に相互に関係し合って目的論関連性を示し、さらにそれらに対応する充実、保証(Bekräftigung)、論証(Bewährung)の諸関連およびそれらと反体のものを示しているのである。したがって悟性的統一を呈示するこれらの関連が問題になるのである。これらの諸関連こそ対象性を構成するものであり、これらの諸関連が非本来的な能与作用と本来的な能与作用とを、単なる表象ないしはむしろ確信の作用と洞察の作用とを、そしてさらに、直観的な思考作用であろうと非直観的作用であろうと、ともかく同一の対象的存在者に関係する多様な諸作用を、論理的に結合するのである。
したがってこれらの関連によって初めて・・・・一挙にはなく、上昇的過程を経てではあるが・・・・客観的科学の対象性が、とりわけリアルな空間的・時間的現実の対象性が構成されるのである。
認識の本質や認識対象性の相関関係の意味などの大問題を解明するためには、以上の論点をすべて研究する必要があり、しかも純粋明証の領域でそれを研究しなければならない。根源的な問題は主観的な心理学体験とその中で把握される現象自体と相互関係、すなわちまず第一にリアルな現実性との、そしてさらに数学的現実性およびその他のイデア的現実性との相互関係であった。しかしむしろ根本問題は必然的に認識と対象との相互関係に帰着することがまず第一に洞察されなければならない。しかもこの場合の相互関係とは還元された意味でのそれであり、したがって〔認識についても〕人間の認識が問題になるのではなく、経験的自我に対してであろうと、リアルな世界に対してであろうと、一切の実在的共措定関係(existenziale Mitsetzungsbeziehung)を停止した上で、認識一般が問題にされるのである。真に重大な問題は認識の究極的意味付与の問題であり、したがってそれは同時に「およそ認識との相関関係においてのみそれ自身の本質を保有する対象性一般」の問題でもあることを洞察しなければならない。そしてさらに、この問題は純粋明証の領域でのみ、すなわち絶対的であるが故に究極的規範となる所与性の領域でのみ解決されうること、したがって闡明されるべきあらゆる相関関係の意味を規定するためには、認識のあらゆる基本形態と、認識の完全にないし部分的に与えられる対象性のあらゆる基本形態とが一つ一つ直観的方法によって究明されねばならないこと、をも洞察しなければならないのである。
附論
附論一:これは後年(1916年?)に加筆されたもの、本書三四頁と対照。
認識の内部には自然が与えられており、さらにいろいろな集団や文化的産物の中での人類も与えられている。それらはすべて認識される。しかし文化を認識するには、対象性の意味を構成する作用としての価値づけや意志の働きも必要である。
認識は対象に関係し、対象の意味は自我の体験の変動および好みや行動(Affektionen und Aktionen)の変動に伴って変動する。
形式論理学的意味論や妥当的意味としての真理命題に関する理論のほかにも、われわれは自然的態度の見方においてさらに他の自然的態度の学問研究を所有している。われわれは諸対象の基本的類(領域)をいろいろに区分し、そしてたとえば単なる物理的自然という領域について「この領域には、すなわちそれ自身にも相対的にも自然客観たる自然の各対象に、何が必然的に属しているか」を原理的・普遍的に考究する。つまり自然の存在論を研究するのである。われわれはそれによって意味を、この場合は自然認識の対象としての、すなわち自然認識によって思向される客観〈一般〉としての自然客観の妥当的意味を、分析的に明らかにするのである。このような思向された客観がなければ、自然客観というような、なんらかの外的自然経験の客観は、たとえそれが真に存在しているはずであっても、思考されえないのである。それ故われわれは外的体験の意味(対象について思念されたこと)を考究するのであり、しかも意味をその真理において、その真の存立ないしは妥当的存立において、その必然的構成要素について考究するのである。
それと同じようにわれわれは芸術作品一般の真の意味やまた特定の芸術作品の特殊な意味をも考究する。第一の場合われわれは芸術昨品の〈本質〉を純粋に普遍的に研究するものであり、第二の場合は現実に与えられている芸術作品の現実的内実を研究するのである。したがって後者の場合はたとえばベートーベンのあるシンフォニーのような(真に規定されて、真に存在する)特定の対象を認識するのと同じことである。それと同様にわれわれは国家一般の本質を類的に研究することであり、またある時代のドイツ国家の本質を、その一般的特徴ないしは全く個体的な規定について、すなわち〈ドイツ国家〉というこの個体的な対象的存在を経験的に研究することもある。さらにたとえば地球という個体的対象の自然規定についてもそれと同じことが言える。つまり経験的探求や経験的法則性、個体的な探求や法則性のほかにも、存在論的研究があるのであり、これらは真に妥当する意味を、単に形式的普遍性においてではなく、事象に則した領域的被規定性において研究するのである。
勿論、ごくわずかな例外はあるにしても、純粋な本質研究が完全に純粋に行われたことはなかった。確かに多くの学問研究がこの方向を目指しているのであるが、しかしそれらは自然的態度の地盤にとどまっている。心理学の研究もその例外ではなく、認識体験や自我の働きを普遍的に研究したり、あるいは問題になった各対象領域との関係においてそれらを研究するのである。すなわち、そのような対象がどのようにしてわれわれに与えられるか、それらにたいして主観がどのような係わり方をするか、それらの対象についての〈表象〉がそのようにして形成されるのか、その際どのような特殊な種類の(たとえば価値づけや意志の)作用や体験が働いているか、などの問題を主観的な方法で研究するのである。
補足
客観そのものの存在へ迫る可能性という問題は、最初はまず自然についてのみ、感じとられる。自然は、われわれが認識しつつ同時に同時に現存していようといまいと、それ自体に存在し、それ自体の運行をつづけるものであると言われる。人間が対象の場合は、彼らの身体性の表現によって、すなわち物理的客観を手掛かりにしてわれわれは人間を認識するのである。したがって芸術作品その他の文化対象や社会的産物を認識するのと全く同じである。初めの予想では自然認識の可能性さえ理解すれば、ほかのあらゆる認識の可能性も心理学によって理解されるように思われる。しかも認識者は自分自身の心的生活を直接体験し、また他人をも自分との類比により〈感情移入〉によって経験するのであるから、心理学はそれ以上何も格別な困難を呈しないように思われる。しかしわれわれは、最近までの認識論がそうであったように、自然認識の理解に限定したい。
附論 二 :本書、 三六頁と対照。
修正と補足の試み。私は現にある通りのものであろうし、かつてあった通りのものであったろうし、また今後なる通りのものになるであろうと仮定した場合、それに私の視覚や触覚その他の知覚一般に何一つ欠けたものがなく、私の統覚の過程、私の概念的思想、私の表象や思考体験および私の体験一般にも何一つ欠けるところがなく、それらがすべて具体的に充実され、はっきり整理され結合されて獲得されているとした場合、「それ以外にもはや何も、全く何も存在しないであろう」とは考えられないであろうか? 全能の神かまたは人を欺く悪霊が私のこころを創造し、さまざまの意識内を与えてくれた際に、私のこころの内部で思向された対象性も、それらが何かこころの外部のものである限り、何一つ実在しないように仕組んだのではなかろうか? おそらくいろいろな事物が私の外部に存在するのであろうが、しかし私が現実的なものと見なす事物は何一つ私の外部には存在しないであろう。したがっておそらくいかなる事物も私の外部には存在しないであろう。
しかし私は現実的事物を、私の外部の事実を承認している。いったいそれはいかなる保証によってであろうか? 外部知覚の保証によるのであろうか? 端的な視向は私の物的環境を上はきわめて遠方の恒星の世界までも把握する。しかしすべては夢であり、錯覚であるかもしれない。しかじかの知覚内容、しかじかの統覚、しかじかの判断、それらは所与であり、真の意味での所与である。では知覚にはこのような超越の能作に対する明証が備わっているだろうか? しかし明証とは、それはなんらかの心的性格以外のなんであろう。知覚と明証性格、それはつまり所与であるが、しかし何故このような複合に何かが対応しなければならないのであろう、その点が謎である。ではこう言ってはどうだろう。われわれは超越を推論し、推論によって直接的所与を超えるのであり、一般に所与によって非所与を基礎づけるのは推論の能作である、と。そのようなものがどのようにして基礎づけを為しうるのか、という疑問は保留するにしても、しかし「分析的推論ではなんの役にも立つまい」とだけ答えられよう。超越者は内在的なものの中に包含されてはいないのである。では綜合的推論ならばどうであろう。それらも経験推論となんの違いがありえよう。経験されたことは経験の根拠を提示する。すなわち経験されていないことに対する蓋然性の理性的根拠を提示するのであるが、しかしそれは〔たとえいまは経験されていなくとも、原理的には〕経験可能なことに対してのみ、そうであるにすぎない。だが超越者は原理的に経験されえないのである。
附論 三 :五十八頁と対照。
超越者に対する認識の関係は不明晰である。いったいわれわれはいつどこで明晰性をもちうるというのであろう? ところで、かりにどこかでこの関係の本質が与えられ、この関係を直視しうるとすれば、われわれは(そのようなことが可能であるとした場合の認識も特性については)認識の可能性を理解するであろう。しかし勿論このような要求はすべての超越的認識にとってはもともと充実されえないのであり、したがって超越的認識というようなことは不可能であるように思われる。
つまり懐疑論者に言わせれば、認識は認識された客観とは別のものである。認識は与えられているが、認識された客観は与えられていないのであり、しかも超越的と呼ばれる客観の領域の場合は原理的に与えられていないのである。それにもかかわらず認識が客観に関係し、それを認識するはずであるとすれば、いったいそれはどのようにして可能であろうか?
一枚の写真がある事実に一致するのはどうしてなのか、われわれはそのわけを理解しているつもりである。しかしそれが〔その事象の〕写真であることをわれわれが知りうるのは、双方を比べてみて、全く写真の通りの事象をかつてわれわれが所有した例がわれわれに与えられていたということにのみよるのである。
しかし認識はどのようにして自己を超えて客観に到達し、しかも関係を確認しうるのであろうか? 認識がその内在性を失わずに、しかも単に的中性を有しうるばかりでなく、さらにその的中性をも証明できるということは、いったいどのようにして理解されるのであろうか? このような証明の存在ないし可能性は「いま問題になっている種類の認識の場合には、その認識がここで要求されていることを果たしているのが、私に見きわめられる」ということを前提しているのである。したがってそういう場合にのみ、われわれは認識の可能性を理解しうるのである。しかし超越性がある種の認識客観の本質的性格であるとすれば、いったいどういうことになるであろうか?
つまりこの場合の考察は「超越性がある種の客観の本質的性格であり、そのような種類の認識客観は決して内在的な所与ではなく、またそうではありえない」ことを前提しているのである。そしてすべてのこのような見解は「内在そのものは疑われない」ということをすでに前提しているのである。内在がどのようにして認識されうるかは理解されるが、しかし超越の場合は、その点が理解されないのである。
Ⅴ 附録 原典批評―テキストの成立と形態
本書の原典となった手稿はルーヴァンのフッサール文庫に保存されている。この手稿の整理番号はFⅠ43で、21.5×17極判の用紙42枚から成り、大分部の手稿と同様ガーペルスベルク式速記で書かれている。テキストは全体を通して黒インキで書かれている。それにはいろいろな補足や訂正が加えられており、それらは主要に鉛筆で記入されている。主原稿には若干の附論が含まれており、それらはそのまま本書に収録した。第一の附論はかなり後になって(1916年?)書かれたものと推定されるが、第二、第三の附論はもとの原稿とほぼ同じ頃に書かれたものと思われる。
主原稿、すなわち「思索過程」と本来の講義原稿はフッサールのゲッチンゲン時代、つまり1907年の春に書かれたものである。フッサールが原稿に記入しておいた日付によると、最初の講義は4月26日に、最後の講義は5月2日に行われている。同じくフッサールのメモによると、彼は最後の講義を終えて晩に「思索過程」を書いている。またその反面「思索過程」では第五講義の原稿の範囲を超えた問題まで論及されていることから推して、このずれは第五講義の口述に対応するものと思われる。
フッサール文庫にはこの原文手稿のほかに、以前フッサールの助手をしていたラントグレーベ教授がおそらく1923年ないし1926年の間に作成したトランスクリプションも保管されている。その文庫整理番号はMⅢ9Ⅰで、タイプライター用紙81頁から成り、それにはところどころフッサールの注もついている。編集に当たってはできるだけ完全に原文を再現することを主眼とした。したがって加筆、補足、捕捉、訂正などもすべて考慮に入れ、しかも同時に、特にフッサールの思想的発展に対する『五講義』の重要性を考え、テキストの原形を容易に再認できるように心掛けた。そのため原文手稿やラントグレーベの写本にフッサールが書き入れた訂正はすべて附録(校注を参照)の中にそれとわかるよう記載した。校注のうち、特に日付のない注の場合は、その補足ないし訂正が手つけた稿と同じ頃のものと思われる。「後年の加筆」の付記されている場合は1910-22年の期間の訂正を意味し、「1922年以後」と付記されているのはフッサールがラントグレーベのテキストに記入した注であることを示している。
テキストの形態の最終決定には勿論原文手稿を基準にした。ラントグレーベのテキストからは特にフッサールの注と大部分の節の標題を借用した。なおこれらの標題はラントグレーベがつけたものである。なおこれらの標題はラントグレーベがつけたものと推測される。句読点と強調は原文に準じたが、しかし必ずしも厳密にその通りにしたわけではない。(編者)
Ⅵ おわりに
いつものことながら、このような作業を何十年もやってきたせいか、眼がやられ、ぼやけてしまい、なかなか大変な作業であった。それでもやはり、現象学という学問を構築する途上にあったフッサールの学問的執念と、それを日本の読者に紹介しなければならない、という訳者(立松弘孝)の哲学的執念(翻訳と詳細な訳注)にはあっとうされるばかりである。同氏はまさに哲学的な職人であったと言えるだろう。
なお、本書『現象学の理念』の裏表紙に記した備忘録(メモ)を見ると、1976年12月に1400円で本書を買い求めている。31歳の時である。あれからもう49年(2025年現在)もの長い年月が経過した。とうぜん、その間の私の人生途上でさまざまなことがあった。当時、どんな思いで本書を買い求めたのかも、思い出すこともできないが、なんとかここまで生きのびることができたのは、やはり幸運なことであったのだろう。 2025年4月30日。