古川 安 書評:猪野修治『科学を開く 思想を創る ― 湘南科学史懇話会への道』(柘植書房新社、2003年7月7日) 2004年9月28日『科学史研究』第43巻(No.231)2004年秋 掲載

 本書は、猪野修治氏の「自伝的科学技術論」である。著者は都内の私立中高等学校に30年以上勤務する物理の教師である。しかし、奇妙なことに、この「自伝」には、教育現場の話は全くといっていいほど出てこない。本書の主眼は、著者のもう一つの世界、湘南科学史懇話会の創設への道を語ることである。

 著者が主宰する湘南科学史懇話会のユニークさは、参加者の顔ぶれを一瞥するだけで察しがつく。大学の学会や研究会とは異なり、アカデミズムの学者のみならず、高校教師、サラリーマン、学生、坊さん、主婦、OL、バーのママさん、出版関係者、ジャーナリスト、市民運動家、フリーランサー等々、種々雑多なのである。現代科学技術と科学技術史の諸問題を、毎回招く講師の講演をタネに皆で日曜日のまる半日をかけて自由闊達に議論、交流する場になっている。したがって、視点や価値観も多種多様で、素朴な疑問から、本質に迫った真剣な議論や批判、また本旨から逸脱した意見や笑い声が飛び交う。著者は、この会を「市民的な寺子屋的学問所」と呼び、アカデミズムと市民を結ぶ橋渡しの役を果たしている。さらに、会の記録を『湘南科学史懇話会通信』と題する手作り雑誌として発行している。

 湘南科学史懇話会は著者の生活と学問の信条を具現化したものといえる。そのことは、本書の前半「自己形成」の章にある著者の波乱に富んだ生い立ちの記を読むと理解できる。学問に対する素朴なまでの「飢え」と、その学問の創造と享受を「独占」するかに見えるアカデミズム界に対する反発が、団塊の世代である著者の原体験を通して生起する。

 終戦の年の夏、東北の農家の四男として生まれた彼は、家庭の事情で普通高校への進学を断念し、工業高校機械科に進んだ。1964年卒業とともに上京し、働きながら東京理科大学の夜間で物理学を学ぶ。昼間の職は転々としたが、東京大学宇宙航空研究所の実験助手として勤務していた時、同世代の大学院生や研究者たちが「ふんだんに金を使い」、「ゆったりと研究をしていた」のを目の当たりにした。まともに教科書やノートも買えない極貧生活を送っていた彼は、「ここで初めて国家権力に保護された研究があることを実感した」という。温室のようなこの研究所で自身も博士論文を書いて宇宙科学の研究者になることを一度は夢見たものの、毎日毎日一つの実験のために外界から隔離されて仕事をするのは著者の性分には合わなかった。折から起こった大学紛争やベトナム反戦運動に共感するようになり、政治的に無風の研究所を飛び出す。

 その後縁あって市ヶ谷にある東京家政学院中高等学校に教師の職を得た著者は、傍ら戦火のベトナムやカンボジアを旅したり、反戦や反原発の市民運動に身を投じたりするようになる。当時を、「自分の生き方を冷静に見ることもなく、夢中で運動に参加していた」時代、「今後どのように生きるかを考えつつ精神的にはかなり整理がつかず混乱していた時代」と顧みる。

 科学史への目覚めは35歳の時に訪れた。ある市民の勉強会で、山本義隆氏が講師を務める「力学的世界像の系譜」のゼミに参加し、これまで苦学時代には果たせなかった学業をここで思い切りやり直そうと決心する。そして「水を得た魚のように」猛烈に物理学史を学び始める。元東大全共闘代表の山本氏は、学園紛争以降、アカデミズム界に属することなく、予備校講師として在野で物理学史の探求に励み、つぎつぎと硬質な科学史・科学哲学関連の書を著してゆく。同氏の作品は最近話題になっている『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房、2003年)を通してご存知の方も多いだろう。氏の生き様に共鳴した著者は、以後彼を「学問上の師」と仰ぎ、科学史関連の書物を広く読み漁るようになる。その後、国際科学史会議や国内の研究会にも進んで参加し、アカデミズムの科学史研究者たちとも交流をもつようになった。(私が著者と初めて会ったのも、1985年のバークレーでの国際会議であった。)1997年、ベルギーでの国際会議の帰途にアムステルダムのマンデル・センターに立ち寄った際、そこが世界の労働運動の活動家、市民、学者が集って交流する場になっているのを目の当たりにした。この訪問の経験が、翌年に湘南科学史懇話会を立ち上げる直接のきっかけになったという。

 本書では、懇話会の立ち上げ以後の展開についてはほとんど述べられていない。それを語るには、また1つの書物ほどのスペースを要するのであろう。代わりに、本書の後半は、これまで著者がさまざまな場所で綴ってきた書評のコレクションとなっている。著者は科学史のオリジナルな研究者ではない。まずもって読書家であり、批判的な書評者であることを自認している。そして、書評を通して著者自身の科学技術や科学技術史に関する思いや主張を表明する。

 著者の科学史に対する問題意識は、専ら現代科学技術を批判的にとらえるための手段としての歴史である。書評の対象となる本も、七三一細菌部隊、マンハッタン計画、原子力発電、日本帝国主義下の科学といったように、科学技術がもたらす負の問題をストレートに扱ったテーマに重心が置かれている。その書評はしばしば、本の著者の生き方にまで肉薄する。そして自身の生き方と重ね合わせ、共鳴(レゾナンス)するものを探る。そのために、本の著者を直接訪ねてインタヴューすることもある。時として、本の内容についての論評以上に著者についての議論に多くを割くことすらある。こうしたスタンスは、自伝的著作の書評で最も本領を発揮する。たとえば、故高木仁三郎氏の『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年) に対する熱のこもった長編の書評(初出は『化学史研究』)である。高木氏は周知のように、日本原子力事業株式会社、東京大学原子核研究所、東京都立大学に勤めた後、アカデミズム世界を飛び出し、原子力資料情報室を興し、在野の「市民科学者」として反原発運動の先頭に立った人物である。著者は、「私自身の知の求め方、生き方を、形態はともかく、著者[高木氏]のそれと、いくらかでも共鳴させることはできないか、悩み苦しみながら読み考えてきた」という。高木氏の自伝を書評するのも「アカデミズムと市民運動の間に風通しのよい窓を作るような提言をしたいという思い入れがあるからである」という。いうまでもなく、著者にとって湘南科学史懇話会が、この「窓」の1つなのである。高木氏と同様、著者もアカデミズムの外に足場を置いて、市民の側に立つ科学史・科学技術論を模索している。

 評者が知る猪野氏は個性的な熱血漢である。大胆でユーモアもあり、弱者に対する情も深い。一方、傍若無人でアグレッシブであるが故に、時として周囲との摩擦も生む。いずれにしても、「湘南禿ボーイ」「熱血不良少年」から、「日本のマイケル・ムーア」「湘南のメルセンヌ」まで、自称・他称を含めてさまざまなニックネームが付けられているのは、著者の存在感の大きさを表している。湘南科学史懇話会のような多様な価値観の持ち主の集まりを維持するのは実際容易なことではない。特定のイデオロギーやドグマを押し付けたり、意思統一した声明を発しようとするようなことがあれば、会独自の良さを失い、忽ち賛同者を失うであろう。参加者相互の価値観や立場の違いを認め合ったうえで、「緩やかなレゾナンス」のもとに自由闊達に懇話ができる稀有な場であったからこそ、これまで成功を収めてきたといえる。教師として多忙な校務の傍ら、会を組織してきた著者の努力に敬意を表したい。同時に、会を背後で支えてきた人々の善意も忘れてはならないであろう。今後の会の動向に注目したい。