論文:ガリレオ・ガリレイにおける科学と宗教の問題 ―ローマ教皇庁の最終声明をめぐって―
猪野修治 1994年3月1日紀要『ばら』

はじめに
 
 科学と宗教をめぐる問題は古くて新しい問題である。自然学が自然科学となるための枢要な用件は、時間的・空間的に時代を支配したそれぞれの宗教を内在的に合蓄した自然学を、その宗教の支配から自然学を分離し、自然を数学のことばでいかにかたるか、という知的作業であったといっても過言ではない。
 近代科学の創立者アイザック・ニュートンでさえ、その時代の宗教的呪縛から逃れることができなかったし、いやむしろ、かれは神の被創物である自然を探究することが少しでも神に近づくためであり、当時の支配的な神への対抗的で古典的なニュートンの特有な神を追求するなど、神学研究になみなみならぬ精力を注いだのである。
 ニュートンの神学研究が当時の支配的な宗教の世界とは異端的な宗教であったとしても、ここで考察するガリレオのように社会から断罪・処罰されるようなことはなかった。それだけ市民的杜会的状況が成熟したと見るべきか、あるいは、コペルニクス、ジョダール・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、ガリレオなど、ニュートン以前の思想家・哲学春たちが、形態はさまざまだが、いずれも科学と宗教をめぐって社会的な制裁・断罪を受けながら苦悩にみちた闘いのもとで構築した哲学や科学に、ニュートンとかれの科学はその恩恵に預かっていると見るべきか。いずれにしても、ニュートンの科学と宗教が社会的制裁を受けることなく、近代科学の創立者の名をほしいままにできるのは、ニュートンの非凡な数学的・哲学的な能力にあったとしても、ブルーノやケプラーやガリレオの杜会的断罪と社会的犠牲の上に成り立っているといえる。
 いわばニュートンの科学的業績とニュートン主義的世界像が形成されてきた背景には、上記のような先人の苦難に満ちた科学と宗教を巡る闘いがあったことを記憶しておかなければならない。
 さて、ここで考察するのは、近代科学者の創立者アイザック・ニュートン(1642-1727)が生まれた1642年その年に死去した、近代科学の父ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)における科学と宗教の問題、いわゆる科学と宗教をめぐるあまりにも有名な「ガリレオ裁判」についてである。あにをいまさらとも思われるが、それというのもヴァチカン(Vatican)当局が、科学と宗教をめぐり永きにわたってかたりつがれてきた歴史的裁判「ガリレオ裁判」に対して、このたび「最終声明」をほぼ4世紀ぶりに出すにいたったからである。
  ちなみに、ヴァチカンとは、ローマ市の西端のヴァチカノ丘にある教皇宮殿のことで口-マ教皇庁の別称でもあり、ローマ教皇の統治する独立国(129年成立)で面積4.4km2、人口約750人(1988年現在)である。(1)

 現代の世界状況をみても、科学と宗教の問題は単なる科学と宗教の問題の領域におさまるものではなく、いまや国際政治の問題を左右するにいたって政治の問題であるからには、人間の生死にまでおよぶことさえまれではない。ヴァチカンの動向しだいで国際政治が大きく動いてきた歴史があり、現在もそうであるがゆえに、今回のヴァチカン当局(ローマ教皇庁)が、4世紀ぶりにガリレオ問題の歴史的裁判に最終決着をつけようとする姿勢に真撃に耳をかたむけるとともに、その最終声明にいたる経過と声明内容、その現代的意味、そして、そもそも「ガリレオ裁判」とはいかなるものであったのか、その歴史をさぐることにしよう。

1.ガリレ才問題の再審発足の契機となった法王ヨハネ・パウロ2世の講演
 
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は1971年11月10日、ローマ教皇庁立科学学士院で開催されたアルバート・アインシュタイン生誕100年記念祝典の講演「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」のなかで、ガリレオ間題を再審する調査委員会を発足させることを表明した。
 なにしろ法王の講演であるからには、私の要約に誤りがあってはならず、しかも歴史的・画期的声明であるので、読者にもその講演をぜひ読んでいただきたい。世知幸い現代杜会にあるわれわれは、仏教やキリスト教といった宗教にこだわることなく、また有神論者であろうが無神論者であろうが、何世紀にもわたり、そのときどきの時代の「現代杜会に生きるひとびと」に絶大な彰響カを行使してきた宗教界が、その世界では、もっとも困難とする「自已批判」をはじめようとする姿勢と言葉に、真剣に耳をかたむけなければならない。

 なお、出典・訳文は『みすず』(1993.8.8みすず書房)の柳瀬睦男解説・川田勝訳による。 以下にそのあらましを示すことにする(2)。

 法王ヨハネ・パウロ2世はまず、科学の基本的な任務は真理の探究である、純粋科学は知性的な人間をつくるのが要素であるので、それが技術的応周につながらなくとも、人類文化の不可欠な要素であるとしたあと、「基礎研究の自由」を説き、基礎研究は権力から自由であり、権力はその発展に協カすべきだとし、それば人類自身と、人類と万物の創造主たる神にたいする責務だとしている。基礎研究を応用した応用科学は、人類の愛の良心に基づかねばならず、「科学・技衛・良心」がそろってはじめて人類の真の善性と;なる自さらに、倫理を技稚に、人間を事物に、精神を物質の上位におくことが、創造主が人類に課した本質的意味である。これらのことを人類にたいして、十分に奉仕できるよう手助けするのが教会の役目であり、そのことによって教会が魔術的・迷信的な妄想を宗教から排除し、神についていきいきした認識をもつことができる。
 第2点目は宗教と現代科学の協力を説く、宗教が信教の自由を保障するのと同様に、文化、特に科学がいかなるものからも自律的でなければならないことを承認する。アインシュタインの宇宙体系の学説は教会本来の領分を越えたことで、教会が判断すべきことでない、が、神学者が科学の新しい学説に学びそれを取り入れ、「料学の真理と啓示の真理の調和」を見いだすよう、教会は努カすべきだ。アインシュタインとガリレオはひとつの時代を課した偉大な科学者であったが、アインシュタインは讃えられているのにたいして、ガリレオは大いなる苦しみを味わったのだ。
 しかも、その原因を作ったのは、ほかならぬ教会内部の人闇と教会機構であったと自己批判し、そのことが、信仰と科学とか対立するものだという恩考をひとびとに与えたのだ。そこで教会は神学者、科学者、歴史家が、「ガリレオ事件の真福」を協同で調査し、いずれの側の誤りであれ、その誤りを率直に認めることを求め、さらに、科学と信仰、教会と世界の調和を説いている。
 箪3点目は「ガリレオ事件」の本質、第4点目は「長い対立関係の率直かつ誠実な解決」をもとめる核心にせまる講演である。これは法王(教皇庁)の公式表明で重要な問題提起でもある。

 "正当にも近代物理学の祖とされるガリレオは、信仰の真理と科学の真理が互いに矛盾することはあり得ない、と明確に主張しました。1613年12月21日にガリレオがカスッテリ(Benedette Caste11i)
神父に書き送った書簡には、「聖書と自然はともに神の言葉から発したものであります、聖書は聖霊の命ずるままに書かれたものであり、自然は紳の命令の忠実な実行者なのです」、と記されています。
 第2ヴァチカン公会議の言わんとするところもこれと異なることはありません。「あらゆる知識の分野における学間的研究は、真実の学間的方法によるものであって、倫理の法則にしたがって行われるのであれば、けっして信イ卵に対立するようなことはないはずである。世俗は、現実と信仰の現実とは、ともに同じ神に起源をもつものであるからである」と説いている箇所には、ガリレオの表現との類似性さえ認められます。科学研究の精神の最も深いところで働くことによって、それを勅激し、その洞察力を導き、援助する創造主の存在にガリレオは気づいていました箏望遠鏡に関して、彼は『星界からの使者』(Sidereus Nuntius)の冒頭に慈悲深い神が与えたもうた啓示に導かれて、私は望遠鏡を考案しました。 それを使ってこれらを発見し観察したのは、ついこの間のことであった、と記しているのです。(3)[途中省略]
 
 ガリレオは認識論上の重要な規範を作り上げました。そして、それは、聖書と科学を調和させるための不可欠のものと認められています目彼は、トスカナ大公の母公・ロレーヌのクリスティーナ妃宛ての書簡の中で、聖書が真理であることを再確認してこう述べています。
 「真の意味が理解される場合、聖書は誤ったことを決して語っているはずはない、と主張するのは非常に信心深くもあるでしょう。またそう主張するのが分別というものでしょう。しかし、しばしば、聖書の真の意味は奥深く隠れていて、言葉その
ものの意味が示すこととはかなり違っているのを、誰も否定できないであろうと、私は考えます」。(4)[途中省略]
 ローマ教会の教導権は、聖書解釈の原則が複数存在することを認めています。事実、教会は、ビオ12世の回刺『ディヴィイノ・アフランテ.・スピリトウ』(Divio Afflante Spiritu)に示されているように、聖書にはさまざまな文学類型があること、したがってまた、それぞれの性格にふさわしい解釈があることを、明確に教えているのです。[途中省略]
これらの共通了解は立派な解決の出発点として、長い対立関係の率直で誠実な解決へと向かうにふさわしい心構えをつくるのに役立つでしょう。
 教皇庁科学学士院については、ガリレオもその前進である由緒あるアカデミー会員として、ある程度の関係をもっているわけですが、優れた科学者たちの参加を得たこの科学学士院の存在こそは、人類や宗教の違いを越えて、すべての人々に対して、科学の真理と信仰の真理の間には深い調和が存在し得ることを証明する目に見える象徴となっているのです。
 
 このように、法王ヨハネ・パウロ2世の声明は、教皇庁科学学士院にたいして、ガリレオ間題の再調査を命じたのである。ここでいうガリレオ問題とは、もちろん・地球は宇宙の中心に静止し、その他の天体は地球の周りを回るというアリストテレス・プトレマイオス主義者の天動説にたいして、ガリレオが、地球は太陽の周りを回る単なるひとつの物体にすぎないというコペルニクス主義者の地動説を援護し、それを著作等で論証したことに、当時のトマ教皇庁が異端とする判決を下したこと、また、この判決が4世紀間の永きにわたって、ローマ教皇庁の公式立場・見解とされたままになってきていることである。

2.ガリレオ事件調査委員会報告

 この法王の要請を受けた口一マ教皇庁は、1981年7月3日、ガリレオ事件調査委員会『16世紀から17世紀にかけてプトレマイオス主義者とコペルニクス主義者との間で行われた論争を研究する調査委員会』を設立した。組織委員長にガロ一ネ(Garrone)枢機卿が任命され、調査委員会には4つの専門部会が設けられた。各部会名と座長はつぎのとおりである。聖書解釈部門はカルロ・マルティー二(Car1o Martini)枢機卿、文化部門はポール・プパール(Pau1 Poupar)枢機卿、科学・認識論部門はカルロス・チャガス(Car1os Chagas)教授とジョージ・コイン(George Coyne)神父、歴吏・法律部門はミケーレ・マッカローネ(Miche1e Ma㏄rrone)視下、事務関係統括はエンリコ・デイ・ロヴァセンダ(Enrico di Rovasenda)神父である。
調査委員会は10数年間、当時の裁判記録と歴史的事実を掘り起こし、それらを当時の宗教文化状況に照らしながら総合的考察を行った。この調査研究の過程で、これに関する記録集・報告集を出しているが、これらの調査研究をもとにして、1992年10月31日、調査委員会の文化部門の座長ポール・プパール枢機卿(現在ヴァチカンの教皇庁の文化評議会・無信仰委員会議長)が、調査委員会を代表して、ヴァチカン宮殿内の科学学士院で、「ガリレオ事件調査委員会報告」を行った。
 その講演の要約は次のとおりである。
 専門部会の目的は、第ニヴァチカン公会議(1962-65)の精神のもとに、歴史的・文化的背景を考慮し、冷静・客観的に再考することとし、「何が起こったのか」「いかにしてそれは起こったのか」、なにゆえにそれは起こったのか」という3つの間題を掲げた。ヴァチカン秘密文書室資料、裁判記録(特にガリレオの尋問調書)、ベラルミーノ枢機卿のガリレオに対する確認書等をもとに、17世紀の文化的・哲学的・神学的背景に光をあてるとともに、トレント公会議布告教令や当時の聖書解釈の観点から、ガリレオの論点と立場および啓蒙期から現代までのガリレオ関係文献を再評価した。
 まず、ロベルト・ベラルミーノ(Rebert Be11amino)枢機卿は、1615年4月12日付のカルメル会士フォスカリー二宛ての書簡で、コペルニクス主義者の天文学が、真なるものか、単に推測と蓋然的なものか、聖書の記述と両立するのかどうかを述べている。
 
 仮にもし、世界の中心にあるのは太陽であって、地球は第3の天球に位置していること、そして、太陽が地球の周りをめぐっているのではなくて、地球は太陽の周りを回っているということを裏づける真の証明が見いだされるとすれば、これとは逆のことを物語っているかに見える聖書の記述を解釈するには、細心の注意をもって臨まなければならないということになりましょう。そして、この場合、私たちは、証明された当の主張の方が実は誤りであるのだ、などと言うのではなく、聖書の言わんとするところをよく理解していなかったのだと受けとめるべきでしょう。(5)
 
 ガリレオは、地球の年周運動(公転運動)と日周運動(自転運動)の証拠として、海の潮汐現象や貿易風の存在を示すものの、その批判に対して反駁不可能な形で証明できなかったのだ。それが光学的・力学的に証明されるまでには、150年以上の歳月を要した。
 したがって、「1633年の判決は相対的であり、変更不可能ではない」。事実、それが174!年に証明されると、ベネディクト14世は検邪聖省に初の『ガリレオ全集』に出版詐可を与え、1757年には、禁書聖省が太陽中心説支持の著作を禁書目録から除外することで、1633年の判決は「暗黙のうちに変更」された。その後の1820年代には、教皇庁の一部の神学顧間が地動説支持の著作を出版拒否したことで、いまだに1633年判決が有効であるかのような印象をもたれたが、ドミニコ会前総会長で検邪聖省のオリヴイエーリ(O1ivieri)神父がコペルニクスをひとつの学説と認め、1846年に新しい禁書目録が出版され適用された。結論として言えることは、新理論(コペルニクス主義的天文学)に対して哲学的・神学的に誤った評価がなされた原因は、当時の天文学の知識が過渡的状況にあり宇宙論に聖書解釈が混乱していたことである。その緒果、ガリレオは処罰され「大いなる苦しみを味わねばならなかった」(6)。

 以上が調査委員会を代表したポール・プパール枢機卿の講演趣旨であるが、ここでガリレオ裁判に対する教皇庁の見解を明確に自已批判している。これを受けるかたちで現在のローマ教皇庁の最高指導者法王ヨハネ・パウロ2世が、1992年10月31日、教皇庁立科学学士院総会(アインシュタイン誕生100年記念祝典)で、最高責任者としてプパール枢機卿の調査報告を確認することはもちろん、法王自らガリレオ問題にふれ、それを教訓として、宗教家・哲学者の立場から、近年、発展著しい数学、物理学、科学、生物学などの現代科学と哲学・神学の関係がどのようなものでなければならないか、という非常にこんにち的な問題にまで言及していることに、われわれは注目すべきであろう。
 これは歴史的・画期的声明であるので、つぎに詳細に見ていこう。

3.ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の最終声明一『信仰と理性の調和』一

 ここでは法王講演内容の感触に直接ふれていただくために・上記のポウル.プパール枢機卿講演と重複する部分を省略し・文意を変えることのない範囲で文章に手を入れてあるものの、講演内容を要約することなくその全貌をあげることにする。

"まず第1に、この教皇庁立科学学士院総会において、今日非常に重要な問題、数学、物理学、科学、生物学で生じた複雑性の問題が取りあげられたことを祝したいと思います。複雑性の問題の出現は、自然科学の歴史に、おそらくひとつの段階を画し、その重要性は、ガリレオの名前に関連づけられて記憶されている段階に匹敵するものでありましょう。ガリレオの時代には、自然秩序に対して単一のモデルが妥当することは明白であると思われていました。
 ところが、複雑性の問題は、実在の豊かな多様性を説明するためには、数多くの相異なるモデルを用いなければならない、ということを意味しているのです。このことが認識されるや、科学者、哲学者、神学者たちは一つの問題をつきつけられました目素粒子的な存在や現象のレヴェルから始まる世界についての説明と、「全体は部分の総和以上のものである」という事実の認識とを、どのように折り合わせるか、という問題です。…現象を記述することと同じくらい、現象の解釈を考察する哲学が重要であることが分かります。たとえば、生物の発生を説明する、科学的レヴェルでの新しい理論を作り上げる場合のことを考えてみましょう。
 正しい方法をもって、もっぱら科学の枠組みの中で、ただちにこれを解釈することはできないでしょう。特に、人間という生物、あるいはその脳を問題にする場合、科学理論によって、霊的な魂の存在を証明ないし否定したり、創造の教義の証明を与えたり、逆にその教義は無益であるとしたりすることはできないでしょう蓼解釈の仕事は哲学の努めであり、哲学が経験データの全体的な意味、さらには、諸科学によって集積された現象の全体的な意味を研究する学問であるのです。…真の文化は、ヒューマニズムや知識なくしては得られないのです。…ガリレオ事件はとうの昔に解決され、誤りはすでに確認されたことなのです。
 しかし、この事件の背後には、科学の本質と信仰のメッセージ、双方に関わることですので、いつかまた再び同じような状況が起こる可能性があります。…複雑性の問題によって得られた方法は、この問題を解くための良い例となるでしょう。
 
 ガリレオ問題には二重の問題があります。2つは認識論の次元で聖書解釈の問題です。 これにはさらに2つの問題があり、第1はガリレオがかれに敵対するほとんどの人々と同様に、自然現象へのアプ目一チと、一般にそのアプ回一チが要請する自然についての哲学的レヴェノレの考察をまったく区別しなかった、まさにそれが、反駁不可能な証明によって確証されない限り、コペルニクスの天文体系を仮設とせよ、という忠告を、拒否した理由であり、そうであればこそ、ガリレオが霊感を受けてその基礎を築いた実験的方法の確立が急務であったことです。
 第2は地球が世界の中心であるという表現が聖書の教えと完全に合致するものとして、当時の文化に広く受け入れられ、聖書の記述は文字通り理解するなら、地球中心説を確証するようにも思われたことです。
 ですから、当時の神学者たちの問題は、太陽中心説と聖書が両立可能か、ということでした。…当時の神学者たちは一体どうしていいのか分かりませんでした。・・コペルニクスの天文体系が引き起こした混乱は、かくして聖書学の認識論的反省を迫り、これは後に、現代の聖書学研究の中で豊かに実を結び、第2ヴァチカン公会議の教令『デイ・ウェルブス』(Dei Verbum)で是認され、新たな刺激を受けることになったのです。
第2は司牧的な次元です。教会の使命は自らの教えがどのような司牧的結果を生むかに注意し、教えは真理に対応する物だということです。
しかし、ここで問題になるのは、新しい科学的データが信仰の真理に矛盾すると思われるとき、そのデータをいかに判断するか、ということです。地球中心説が聖書の教えの一部であるかのように思われていた限り、コペルニクス説の当否を司牧的に判断することは困難なことでした。おそらくは、ものの考え方の習慣を一挙に乗り越えるとともに、神の民の教化を可能ならしめる新しい教授法を工夫すべきだったのでありましょう。

19世紀末から今世紀はじめにかけて、聖書学の進歩によって聖書と聖書の世界についての新しい理解が得られるようになりました。そしてこれらの知識を最も多くもたらしたのが合理主義的であったために、それらの知識はキリスト教研究にとって危険なものとみなされたのです。キリスト教の中には、信仰を守ろうとするあまり、確固たる根拠のある歴吏的結論を退けねばならないと考える人々もあったのです。これは性急かつ不幸な判断でした。…現代文化が、科学主義的な傾向を特徴とするならば、ガリレオの時代の文化的地平は、一元的であり、特定の一つの哲学体系を支持しました。文化の一元的な性格それ自体は、今日でも有用で望むべきことなのですが、まさにそれがガリレオ断罪をもたらすひとつの原因となったのです。
  神学者の大部分は、聖書とその解釈の間に明確な区別を認めていませんでした。だからこそ彼らは、実は科学研究に帰すべき問題を、信仰についての教義の問題の中に持ち込むという誤りを犯してしまったのです。…啓蒙時代の幕開きから私たちの時代まで、ガリレオ事件は一種の「神話」となってきました。
 この神話において形成された事件のイメージは、現実とはまったく掛け離れたものでした。このイメージによれば、ガリレオ事件は、科学の進歩に対する教会の拒否、あるいは、真理の自由な探究に反対する「教条的な」啓蒙主義を象徴するものだというわけです。
 この「神話」は、すくなからざる文化的影響をもたらしました。そして、正しい信仰をもった数多くの科学者に、科学の精神とその研究の原則はキリスト教信仰と決して両立し得ない、という考えを植えつけてしまったのです。悲しむべき相互の無理解が、科学と信仰との間に根本的な矛盾があるとする考え方を生んだのです。近年の歴史研究によって与えられた説明によって、この悲しむべき誤解はすでに過去のものとなった、と述べることができるようになりました。ガリレオの時代には、いわば絶対的な物理的基準点とでもいうべきものを欠いた世界を創造することなど、思いもよらぬことでありました。
 そして、当時知られていた宇宙を包み込んでいたものは太陽系だけだったので、この基準点は地球か太陽に置く以外にはなかったのです。今日、アンシュタイン以降、現代宇宙論の見方からすれば、どちらの基準点もかつてほどの重要性をもはやもたないのです。言うまでもなく、このことは論争におけるガリレオの正しさを否定するものではありません自それは、二つの不完全な、相対立するものの見方があったときに、それらを視野に合みつつも、そのいずれをも越えたいっそう広いものの見方が存在することを示しているだけです。私たちが得ることのできるもう一つの教訓は、知識の相異なる領域は相異なる方法を必要とする、ということです。
 卓越した物理学者としての直感と、種々の方法を実際に編み出したガリレオは、なぜ太陽だけが、当時知られていた、いわば天文体系としての世界の中心として機能するかを理解していました。地球が中心であることを主張したときの、当時の神学者たちの誤りは、物理的世界の構造についての私たちの理解が、ある意味で聖書の文字どおりの意味によって決められている、と考えたことでした。
 バロニウス(Baronius)が言ったとされる「聖霊の意図していることは、いかに天が動くかではなく、いかに天に行くかをわれわれに教えることである」。事実、聖書それ自体は物理的な世界の細部にまで関わるものではありません。それを理解するのは、人間の経験と推論の能力によるのです。知識には二つの領域があります。一つは、啓示にもとづく知識であり、もう一つは理性がそれ自身の力で発見できる知識です。特に、実験科学と哲学は、後者に属しています。この知識の二つの領域の区別は、矛盾と解されるべきではなく、またまったく無関係でもなく、接点を持っています。それぞれの知識にふさわしい方法論は、実在の相異なる側面を明らかにすることです。

 科学学士院の主たる任務は、聖座が科学学士院の規約に明確に認めているように、科学に認められている正当な自由を尊重しつつ、知識の進歩を促進することです。…科学学士院の目的は、科学の現状とそれにふさわしい限界の中で、何が獲得された真理であるとみなされ得るか、あるいは、少なくとも、それを拒否することは軽率で不合理であるほどの真理の蓋然性があると考えられるものはなにかを見極めて、これを知らしめることです。…教会はその特別な使命として、深刻な問題に注意を払うとともに、問題の定式化と解決に努めなければなりません。…その深刻な問題とは、もはや単に天文学、物理学、数学に関係しているだけでなく、生物学や生物遺伝学など比較的新しい分野にも関係しているのです。
 最近の多くの科学的発見と、それらの実現可能な応用は、人間や、その思想、行動に対してかつてないほど直接的な影響を及ぼし、人間存在の最も根底にある基礎を脅かすまでになっています。
 人類の進歩すべき道には二つの方向があります。
 一つは文化、科学研究、技術など、人間の水平的な視野の中にあるすべてのものや、創造を合むもので、それは圧倒的な速度で進歩しています。この進歩が、人間から完全に離れたものとなってしまわないようにするためには、同時に、良心の高まりと、良心を伴う行動とが前提とされねばなりません。
 第二の進歩の方向性は、人が世界や自分自身を越えて万物の創造主たる神を仰ぎ見た時に、人間存在の最も深くにあるものに関わっています。人間の存在や行為に対して十全な意味を与えることができるのは、この垂直的な方向性のみです。なぜなら、これこそが、人間をその起源と終焉の中に位置づけるからです。水平方向と垂直方向というこの二つの方向性の申で、人間は、自らが霊的な存在であり、ホモ・サピエンスであることを十全に認識するのです。しかし、私たちの知るとおり、進歩は一様かつ直線的に起こるわけでもなければ、必ずしも常に正しい順序で起こるわけでもありません。
 このことは人間の条件に影響を及ぼす混乱が存在することを示しています。科学者がこの二重の方向性を認識し、これを考慮にいれることが、調和の回復に貢献するのです。科学技術の研究に従事する人々は、科学技術が進歩するための前提として、世界はカオスではなく、「コスモス」であることを認めています竈すなわち彼らは、理解され検証され得る秩序や自然法則が存在すること、また、そうである以上、それらが精神と何らかの親和性をもつことを認めているのです。アインシュタインは、「この世で永遠に理解できないことは、世界が理解可能なことだ」とよく述べていたものでした自この理解可能性は科学技術の驚くべき発見によって裏付けられるところですが、このことを考えて見るにつけても、やはり私たちは、万物に刻印された超越的かつ根源的な意志の存在を想わざるを得ません。
 みなさん、この演説を終わるあたり、みなさんの研究や考察が、人間的なものにいっそう敬意を払う調和のある杜会をこの世に作るための有用な指針を私たちに示すものとなることを心から望んでいます。聖座への奉仕に感謝します。神の恵みが豊かにありますように"(7)

 以上がローマ法王ヨハネ・パウロ2世のガリレオ事件・断罪に関して公式に自己披判した願罪の「最終声明」である。先にも述べたように、法王講演のほぼ全文を載せたのは、この講演はローマ法王の公式見解つまりヴァチカン当局の科学と宗教に関する公式見解として、これまでと同様に、いついかなるときでも、科学と宗教をめぐる問題が登場するときには、ローマ教皇庁の公式態度として、今後数世紀に及ぶ来るべき「未来杜会」においても効力をもつ文書として扱われるからにほかならないからである。
 法王講演の論点は一読すれば分かるように、10数年に及んだガリレオ事件調査委員会の調査・研究をもとにして、360年にわたり科学と宗教の分離の原因であった「ガリレオ神話」に頭を痛めてきた、カトリック教会に所属する神学者・科学者・哲学者を「救済」することとなったのである。が、この講演で法王は神の存在を認める立場から、現代社会における現代科学と宗教(信仰)の調和をつよく求めていることを忘れてはいない。

4 法王のガリレオ復権の講演の背景はなにか。

 いくら科学と宗教をめぐる歴史的事件であるとはいえ、ガリレオ裁判の判決がくだされてから360年もたったいまごろになって、ローマ教皇庁がガリレオ再審を開始し法王の最終声明を行ったのはなぜか。現代科学技術の時代にあるわれわれには、なんとも不思議な現象であり、むしろ滑稽な話でもある。
 ローマ教皇庁が再審を開始すると発表した当時(1979年)のヴァチカン発のマスコミ報道によると、ガリレオ復権を呼びかけた背景にはいくつかの要因が考えられている。(8) まず第1は、現代杜会での宗教離れ、特にカトリック離れの世界的な潮流に歯止めをかけたいという現実的な配慮からだ。ローマ・カトリックのお膝元のイタリアでも名目上90%がカトリックであるが、教会にはまったく関係をもたない世代が台頭しつつあることをあげている。そこで、科学と宗教の分離の重大な原因となったガリレオ事件・裁判が誤りであった、と明確に「自己批判」することで、教会と教義が非科学的であるという「神話」をなんとか払拭することで、現代杜会にカトリックの再生をはかりたい、という目論みがある。第2は、現代科学技術が日進月歩する現代にあって、科学と宗教の調和を唱える際、数百年に及ぶ「喉に刺が刺さった状態」のガリレオ事件に決着をつけないことには、科学と宗教の問題をどのように述べようとも説得力をもたないこと、さらに、現ローマ法王ヨハネ・パウ回2世の個人的な個性と行動力にあると見ている。
 それゆえ、最近のヴァチカンは、詳しく後述するように、科学と宗教の共存を積極的に提唱するとともに、独自の天文台を作るのはもちろんのこと、聖書の創世記の思想とは根本的に相容れない、天文学上の理論「宇宙膨張説」さえも否定していないという。聖書に記述されていることとまったく異なる学間的理論がつぎつぎと登場する、そのたびごとに、かれらの万物の根本理念である聖書の記述内容の解釈を変えなければならないのであるから、なんとも苦しい立場である。
 逆説的に言えば、それだけ、最近の天文学や宇宙論の発展がめざましいことを物語っているのだともいえよう。たとえて言えば、現代日本の代表的な艮主主義的政党である社会党が、最近の政治情勢の変化にともない、政権政党の一翼を担いたいがために、戦後一貫して保持してきた根本的指針・理念である自衛隊違憲、日米安保条約破棄、エネルギー問題等々の重要理念をかなぐり捨て始めている現状によく似ている。
 蛇足ながら、冷戦構造が終焉したいまこそ、政権政党などに関与せず社会の政治思想を貫き通し、しかも国際的にも国内的にも支持が得られる情勢であるのに、とも思う。こちらは自ら苦しい立場を作ってしまったのだが。

 話をもどそう。現ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の行動カには目を見張るものがある。法王就任以来というもの、世界中を飛び回り布教活動に余念がないことばよく知られている。さらに、ガリレオが地動説を唱えた『天文対話』(1631)は、浅王と同国ポーランド人コペルニクスの『天体の回転について』(1543)を支持したものであった。法王にはガリレオ復権をはたすことで、コペルニクスをも復権させたいという意図があるともいわれている。
 ガリレオ復権はよいとしても、当時の科学者、神学者、哲学者たちが、宗教的に異端とされてきた問題をどうするか、つまり、ガリレオ復権はガリレオだけにとどまるのであれば、教皇庁が唱える科学と宗教の調和という観点からしても論理的整合性がないという、これまた頭が痛い間題を抱えることになるのは必然である目現にイタリア国内での報道の中には、宗教裁判に示された中世教会の世界観と、そのもとでの裁判における判決・断罪のあらゆる見直しがなされなければ、ガリレオ復権も、一人の「有名人」だけが免罪されたところで、なんの意味もないという論調さえある。さらには、現在でも「危険な思想家」、禁書、破門者が存在するというから、なんとも致し方がないほどに内部矛盾を抱えているといえる。
 もしかしたら、いつの日か、科学と宗教の調和をめぐる法王主導による一連の改革運動で、教会内部に熾烈な宗教論争が生じ、あらたな火種をつくることの可能性も無きにしもあらず、である。

5.1663年6月22日のガリレオ才裁判における「最終判決文」
 
 これまで、ガリレオ裁判に最終決着をつけるローマ法王の講演を詳細に見てきた。そして、ヴァチカン当局が、この問題に最終的な決着をつけることになった背景をみてきた。
 では、ローマ・カトリック教会は、4世紀前にガリレオ問題にどのような断罪を与えたのであろうか。が、当時のガリレオ裁判のプロセスはそう単純ではない。というのも、裁判であるからには、きわめて宗教、人間、杜会が幾重にも螺旋的な重層構造をなしていて、単なる地動説と天動説の対立といった学間的な話で片付けられるような悶題ではないからである。その実相に入りこむのは容易なことではないし、また、その余裕もない。そこで、今回の法王のガリレオ間題の最終声明で、なにが撤回されたのか、という見通しを明るくするために、4世紀前のローマ教皇庁のガリレオ裁判における「判決文」を詳細に見て行こう。時は1633牢6月22日水曜日の朝のことである。
ドミニコ会修遺院ミネヴァの聖マリア聖堂(サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ)のなかの会堂で、ガリレオは、駿罪の意を表した白衣に身を包み、裁判官の前で、つぎのような「判決文」を聞くのである。

 "汝、ガリレオ、フィレンツェ故ヴィンチェンツィオ・ガリレオの子、70才は、1615年、本検邪聖省に告発された。それは汝が、一部の者の教えた偽りの学説、つまり太陽は世界の中心で不動、地球は動きしかも日周運動するという学説を、真実であると信奉したことによるものであり、また弟子をとってこの学説を教え、この説に関してドイツの一部の数学者達と文通し、さらに『太陽の黒点について』と題する書簡を出版し、この中でこの学説を真実であると詳説したことによるものであり、あまつさえ、折りにふれて、この学説に対する聖書に基づく反論に応酬の際、前述の聖書を自己流にこじつけて解釈した。
 これが告発の理由であった。そして、この告発とともに、汝の門人であった者宛てに書いたとされる手紙形式の文書の写が提出された。この文書には、コペルニクスの立場に従うさまざまな主張が展開されているが、これらは、いずれも聖書の真の意味と権威に違背するものである。
 したがって、この聖なる法廷は、法王聖下、並びに至高にして全世界に及ぶ当異端審問宗教裁判所の諸枢機卿視下の命により、以上の誇点に由来し「聖なる信仰」をますます傷つけて止まない無秩序と毒害に対して、所定の裁判手続きを進める意図であったところ、太陽の不動並び地球の運動という二主張に関して、検邪審問の神学者により.次のような評定があった。
 太陽が世界の中心でその場所から動かないとする主張は、哲学的には馬鹿げており偽りである臼また形式的には、明自に聖書に違背しているから、異端である。地球が世界の中心ではなく、不動でもなく、動き日周運動をするとの主張も、同様に哲学的に馬鹿げており偽りであり、神学的には、少なくとも信仰上誤りだと考えられる。
 しかし、その当時には、汝を穏便に計らうことが望まれたために、1616年2月25日、法王聖下の御前で開かれた検邪聖省総会では、次のように決定された。ベラルミーノ枢機卿視下が、汝に対して、前述の偽りの学説を全く放棄するよう命ずる。
もし汝がそれを拒否すれば、検邪聖省の予審総主任が・汝に対し、前述の学説を放棄し、それを人々に教えず、弁護せず、議論してもいけないとの執行命令を課する。もし汝がこの禁止命令におとなしく従わないときは、汝を投獄せよと。この検邪聖省の命令を執行するため、翌日、前述のベラルミーノ枢機卿視下の館において、同狽下が臨席され、同視下が自らが穏やかに戒告された後、検邪聖省の当時の予審総主任神父により、書記と証人が立ち合う前で、汝に対して、前述の偽りの説を全く放棄し、今後はどのような形ででも、口頭でも、ないしは著述によっても、それを信奉し、弁護し、教えてはいけないという禁止命令が課された。汝は、服従を約束して、放免された。
 そして、これほど有害な学説がすっかり根絶され、また、これ以上浸透してカトリックの真理に重大な障害とならぬよう、禁書聖省は省令を公布して、この学説を敢り扱っている書籍を禁書とし、学説それ自体が偽りであり、神聖な聖書に全く違背するものだ、と宣告した。
 ところが最近、当ローマに一書が表れた。これは昨年フィレンツェで出版され、表題が『二大世界体系に関するガリレオ・ガリレイの対話』となっていたため、汝がその著者であると分かった。そのしばらく後で検邪聖省は、前述の書物の刊行によって、地球が動き太陽が不動だという偽りの説が、日に日に広まって行くとの通報を受けた日このため間題の書を入念に検討したところ、同書中に、先に汝に課せられた禁止命令に明白に違反している事実が発見された。
 つまり汝がこの書物の中で、先に断罪され、また汝の面前で断罪された旨をはっきりと宣告された前述の説を弁護している。もっとも汝は前述の書物の中で、さまざまな趣向を凝らして、その説の当否を、どちらともつかぬような印象を作り出すことに努めており、はっきりした表現では、その説が正しいこともあり得る、としか述べていない。
 しかし、聖書に違背すると宣告され、明示された説が正しいこともあり得るとは、決して考えられないから・これは非常に重大な誤りである。
 このため、われわれの命により、汝は当検邪聖省に召喚された。そして当聖省において宣誓の上、取り調べを受けた結果、汝は、前述の書物をおよそ10年ないし12年前、つまり上述のように、命令が汝に課された後で書き始めたこと、この書物の出版許可を求めたものの、許可を与えた人々に対して、汝が閲題の学説をどのような形でも信奉し、弁護し、また教えてはいけないと、命ぜられていたことを、通告しなかったと自白した。
 同様に汝は、この書物の多くの箇所で、虚偽の側を支持するものとして持ち出された数々の議論が、読者によって容易に論駁されるどころか、却ってその適切さのため、読者がどうしても確信してしまうように恵図されたものだ、と考えられそうな形式で書かれている点をも自認した。
 しかし汝は、この書が対話形式で記されている事実を挙げ、誰しもが、だとえ偽りの説のためであったとしても、巧妙でもっともらしい議論を案出すれば、自分には明敏な知性があると思い込み、しかも自分が挫人よりずっと賢明なことが立証されたとして、当然自己満足を覚えるものだと申し立てて、汝自身の意図とは全く無縁な過失に陥ってしまったと弁解した。
 さらに汝は、自身の抗弁を準傭する適当な機会が与えられると、ベラルミーノ枢機卿視下自筆の確認書を提出し、この確認書は汝の敵が中傷によって、汝が検邪聖省の処罰を受け、宣誓の上放棄したのだと非難したことから身を守るために、手に入れたものであると言い張った。確認書には、汝が宣誓の上、放棄したことも、処罰を受けたこともなく、ただ法王聖下が仰せ出され、禁書聖省が布告し汝に伝達されただけであり、その布告には、地球が動き太陽が不動だとの学説は、聖書に違背するものであるから、弁護しても信奉してもいけないとある、と言明されている。
 ところがこの確認書には、禁止命令中の二箇条、すなわち、「教えて」はいけないことと、『どのような形でも』いけないとの二つ命令について、何も述べられていないことから、汝は、14年ないし16年も時が経過した間に、その二箇条についてのすべての記憶を失ってしまい、そのために汝の書物を出版する許可を求める際、この禁止命令について全く触れなかったのだ、とわれわれが当然信じなくてはならないかのように申し立てた。しかも汝は、これらすべてのことを申し立てたのは、汝の過失を弁解するためでなく、これらすべてのことが、悪意というよりは、むしろ自惚に基づく野心によるものであったと書き留められるよう願ったためだ、と申し述べている。
 しかしながら、汝が抗弁のために提出した確認書は、汝を一層罪深くしただけである。つまり確認書には、前述の説が聖書に違背すると述べられているにもかかわらす、汝はその説を論議し、弁護し、その上、同説が正しいこともあり得る、と論じることさえ敢えてしたからである。また汝が術策によって狡滑なやり方で無理矢理に手に入れたこの出版許可証も、何ら汝の助けとはならない。それは汝が、汝に課せられた禁止命令のことを、申し出なかったからである。
 その上汝が己の意図について残らず、ありのままに申し立てていないと思われたので、われわれは汝を厳重に審問することが必要だと考えた。汝は、この審間において、ひとりの立派なカトリック教徒らしく答えた。
 したがってわれわれは、上述の汝の自白と弁解と共に、汝の申し立ての非理並びに正当に理解し考慮されるべきすべてのことを、理解し、塾考した上で、汝に対する下記の最終判決に達した。…
 われわれは、汝、前述のガリレオが、裁判において提示された事由により、また汝が上述のように自白したところによって、当検邪聖省の判断では、汝自身に極めて強い異端の嫌疑をもたらした。つまり太陽は世界の中心であって東から西へ動くものではなく、また地球は動き世界の中心ではない、という偽りで、神聖なる聖書に違背する学説、および、ある説が聖書に違背すると宣告され明示された後でも、この説の正しいことがあり得ると信奉し、弁護してよいと信じ、信奉した極めて強い嫌疑をもたれたことである。したがって汝は、かかる狙罪者に対し、聖なる教会法とその他の一般および特殊の法規において課され、告示されている譲責と刑罰のすべてを招く結果となったと述べ、申し渡し、判決し、宣告するものである。
 しかしわれわれは、まず第1に、汝が誠意ある心情と偽りのない信仰心とをもって、われわれが汝に示す形式に則り、カトリックおよび使徒的ローマ教会に違背する前述のもろもろの過誤と異端並びにその他すべての過誤と異端とを、われわれの眼前で宣言の上、放棄し、呪い、嫌悪するとの条件付で、汝の上述の罪状を許すことに溝足を覚えるものである自なお、汝のこの重大で毒害を及ぼす過誤と違狙とが、全く処罰されずに済むことがないように、また今後、汝が一層慎重となり、かつ他の者が同様な罪を犯すことを差し控えるその見せしめとなるように、『ガリレオ・ガリレイの対話』なるこの書を、一般布告により禁書とするよう、ここに命ずるものである。
 また、汝には、われわれより追って沙汰たるまで、当検邪聖省の法規通りの牢獄に入るよう申し付け、さらに汝に身のためとなる苦行として、向こう3年間は週1回、『悔罪詩篇』七篇を反復読調するよう命ずる。ただし、われわれは、上述の刑罰と願罪の苦業のすべてあるいは一部を軽滅、変更ないし撤回する権限を留保するものである。
 それ故われわれは、ここに示されたやり方と形式をもって、また別にもっと良いやり方と形式があれば、われわれは当然それを用いることができ、またそうしてよいのであるから、そのやり方と形式でも、述べ、申し渡し、判決し、宣告し、命じ、かつその留保をするものである"(9)

6.ガリレオ裁判と『天文対話』
 
 以上が1633年6月22日、ガリレオに宣告された最終判決のほぼ全文である。教会権力の権威を随所にちらつかせた、非常にもったいぶった言いまわしには呆れるばかりであるが、裁判の判決文というのは、いつの時代でもこんなものかも知れない。が、この判決文はガリレオが裁かれるに至った経過を、教会権力側から見た歴史的・論理的「事実」として詳細に描いているという点では、みごとな文章である。逆説的に言えば、当局が、教会権力を思う存分に振りかざさなくては裁けなかったということは、ガリレオが『天文対話』で示したコペルニクス説に基づく宇宙論の主張・論点が、敵の支配的イデオロギーを十分に加味しつつ、その論理を引っ繰り返していくという、実に巧妙な手法・論法を用いたことを物語っている。
 さて、ガリレオの主要な著作には、『運動について』(1590)、『星界の報告』(1610)、『太陽黒点についての手紙』(1613)、『海の満干についての議論』(1616)、『彗星論争』(1619)、『偽金艦識官』(1623)、『インゴリの論争に答える手紙』(1624)、『天文対話』(1632)、『新科学対話』(1638)などがある。 が、上記の「判決文」が詳しく述べているように、ガリレオが裁判・判決という悲劇を被る要因となったのは、『天文対話』である。この著作は、アリストテレス・プトレマイオスの地球中心説を、コペルニクスが『天体の回転について』(1543)で提起した太陽中心説を支持・援護し、宇宙観の「コペルニクス的転換」を推し進めることになった古典中の古典である。そこで、ガリレオ裁判との関わりで『天文対話』を簡単に振りかえることにしよう。
『天文対話』は、現代では、よほど科学史、特にこの時代の科学や宗教に関心がなければ、ほとんど読まれることはない。それというのも、近代科学は、後期ガリレオの『新科学対話』と、それを発展させて地上の現象と天上の現象を統一的に体系化したニュートンの物理学の思考的枠組みさえあればよいし、現代科学は、相対性理論や量子論の思考的枠組みさえあれば、それで事足りるからである、が、現代的観点からいえば、相対性理論や量子論が時代を画する大事件であったように、『天文対話』は、それ以上に、科学の世界ばかりか、ひとつの科学の理論が杜会的事件を巻きおこすという歴史的大事件でもあったのだ。
 『天文対話』は対話形式で書かれている。かれはガリレオ以前のノレネスサンス時代の著述形式で、当時すぐれた音楽理論家であったガリレオの父の『古代と現代の音楽についての対話』や、この無限宇宙論を唱えたばかりに、火炙りの処刑にされたジョルダーノ・ブルーノの『無限・宇宙と諸世界について』なども、対話形式である。(10)
 その対話には3人の人物が登場する。サルヴィアチ、シムプリチオ、サグレドである。サルヴィァチはガリレオ自身でコペルニクス説の支持者、シムプリチオは伝統的なアリストテレス・プトレマイオス説の支持者、サグレドはどちらにも加担しないが学問的には良識をもった人物日この3人の対話は4日間にわたるが、1日目はアリストテレスの伝統的な宇宙観が述べられ、敵の思想をまず十分に披灌し、それに対して、敵のことばで敵を刺す論述で、一貫してスコラ自然学の批判である。2日目はアリストテレスの地上の運動論批判。3日目はアリストテレスの天文学批判。 ここでガリレオは金星の満ち欠け、木星の衛星、太陽黒点などの観測事実をあげ、天上界の不変性を退ける。
 4日目は、ガリレオが、地球が運動する根拠として自信をもって論ずる「潮汐現象」である。ガリレオの潮汐現象の説明は、歴史の皮肉であるが、上記の法王講演にも抽象的に触れられているとおり、全くの誤りである。潮汐は、地球の日周運動と年周運動との合成で起こるとしたものである。
 
 これはニュートンの万有引力説までまたなければ説明できないことであった。 本書の目的と総論をガリレオのことばでいえば、こうである。

 3つの主要な間題が論じられる。第1になされる経験はすべて大地の運動性を結論するには不十分な手段であり、したがって、大地が運動するとしても静止するとしても等しくこれに適合しえるものであることを示すのに努めましょう。そしてこの場合、古代には知られなかった多くの観察を明らかにしたいと思います。第2に天界の諸現象が検討されましょう。そしてコペルニクスの仮設が絶対的な勝利者となるようにこれを強力にし、また新しい思弁をつけ加えましょう。これは自然の必然性のためでなく、天文学の容易化のために役立つでしよう。第3に巧妙な幻想を述べましょう。もう何年も以前に、わたくしは大地の運動を認めれば海の満潮という、これまで解けなかった間題が、若干はあきらかになるだろうといったことがありました。…わたくしは大地が動くとすれば、この問題が納得しうるようになるということを明らかにするのがよいと考えました…。(11)
 
 とにもかくにも、ガリレオは地球の回転を示す「決定的証拠」とした潮汐現象の解釈では誤りを犯したものの、自らが唱える宇宙観が歴史的な革命性をもっていることを、はっきりと意識していた。
 『天文対話』は、われわれ現代人にはなんともまわりくどい文章である。が、一読すればわかるように、単なる自然の研究者の論文といった無味乾燥なものではなく、そこにはイタリア・ルネスサンスの息吹を十分に貯えた科学性・文学性・芸術性で満たされていることを知るはずである。『ガリレオ裁判』の著者サンティリャーナにいわせれば、「そこにはガリレオのすべてがある」。
 物理学者、天文学者、文士、論争家の姿があり、現代版ソクラテス流の間答も復活させ、あらゆる面で伝統的なアカデミズムの世界と決別し、ルネスサンスの対語形式を用い、プラトン学派の内的質を復活させたのだ。さらに、それ以前のかれの論考、『星界の報告迎、『太陽黒点についての手紙』などで、個別に論じられてきたものを、それらに内通する論理の謎ときをやったのだという。(12)
 さて、ガリレオは、『天文対話』でコペルニクス説を支持したガリレオの新しい宇宙観が、教会の基盤である聖書の記述内容に違背する、との理由から、異端・断罪の刻印を押されたのは当然としても、もうひとつの大きな要因は、教会権カを取り巻く複雑な人間関係にあった。この種の事件に関しては時代を問わない現象で、現代でもよくある話である。『天文対話』に登場するゴリゴリの伝統的なアリストテレス主義者のシムブリチオに、次のようなことを語らせたのである自つまりこれまでの長い対話を通じて、自分の考え方が誤りであったことがほっきり分かった。
 が、これまで私が自分の説のよりどころとしてきたのは、「もっとも学識があり、もっとも有名なその人の前では、沈黙しなければならぬ人によって教えられたもっとも堅個な学説」をもっていたからである。(13)
ここでシムプリチオが述べる学識者の学説の言明とは、誰が読んでも、当時の法王ウルバヌス8世の学説とみなされた。これがローマ教皇庁と法王ウルバヌス8世を激怒させる原因となったのである。法王ウルバヌス8世は法王になる前は、バルベリー二枢機卿と呼ばれ、新しい科学や考え方に非常に理解を示すとともに、さまざまな場面でガリレオを支援していた。いわばガリレオとは友好的な関係にあった目ガリレオはかつて法王が枢機螂の時代、『太陽黒点についての手紙』などを献上するなど、ふたりの関係はいわば相思相愛の関係にあった。
  が、『天文対話』の記述で法王を馬鹿にしたという風評、またそれを扇動するガリレオの敵対者の圃策などがあり、法王のメンツをつぶすこととなり、法王・教皇庁とガリレオの関係は泥沼状態に入って行く。
 さらに、『天文対話』と直接には関係ないが、上記の現法王ヨハネ・パウロ2世の最終講演で言及されている、「1613年のベラルミーノ枢機卿との約束を守らなかった罪」が、ガリレオが宗教裁判にかけられる法的根拠の根本原因であるともいわれる。それはつぎのような次箪である自たしかにガリレオは、当時の法王パウルス5抵の命令でベラルミーノ枢機卿から警告を受けていた。
 が、その警告はかなりおだやかなものであったが、ガリレオ自身、この警告をベラルミーノ枢機卿にわざわざ文書で書いてもらっていた。

"余、口ベルト・ベラルミーノ枢機卿は、ガリレオ・ガリレイ氏について、中傷的な樽が伝えられ、同氏が、余の手許で、放棄することを誓い、さらに、彼のためになる罪科をもって・処罰されたといわれていることを耳にし、またこの件で、事の真梱を述べるよう要請を受けたことから、以下の通り宣言するものである。余は法王が発し給い、聖なる禁書聖省が公表した布告だけを彼に通告し、その中には、コペルニクスのものとされる教説、つまり地球は太陽の周りを動き・太陽は世界の中心にあって静止し、東から西へ動かないという教説は・聖書に違背するため、弁護し、また信奉することも罷りならぬと述べられている旨、申し伝えるまでであった。以上のことを証拠として、1616年5月26日・余は自筆で本確認書を記し、これに署名するものである"(14)

 ところが・ガリレオ裁判で教皇庁が証拠文書としてだしてきたものは、次のような文書である。

 "1616年2月26目、火曜日。ベラルミーノ枢機卿視下はその常住の邸宅に上記がガリレオを呼ばれ、上記枢機卿視下、ドミニコ会の検邪聖省委員・セジツィ殿の前で、枢機卿から上記意見の誤りを訓告され、これを棄てるよう訓告された。ひき続いてすぐ、わたくしと証人の立合いのもとに、枢機卿狽下もまだおれらたが、上記委員はかれに、教皇閣下と全検邪聖省との名により、太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話して書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命ぜられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。
 この禁止命令に上記ガリレオは同意し、従うことを約束した。
 証人として、上記枢機卿の家に一員であるノレスとモルガルド立ち合いのもとにローマ、上記邸宅で執行"。(15)

この文書がガリレオ裁判の決定的な証拠文書とされたのである。が、この文書は偽造文書であると、現代の歴史家は結論する。
その理由として、この文書が作られたときの証人がいない、印章がない、枢機卿の署名がない、正式の記録の体裁がない等々をあげている。これに反論するガリレオは、ベラルミーノ枢機卿に書かせた文書を持ち出して免罪であると申しでて、誤解を解こうと努力するが、その努力は無益に終わったのである。これらのことを考慮すると、ガリレオ裁判は、教皇庁がこの裁判を陰謀によってデッチあげたのだとも考えられるという(16)。

7.ガリレオの晩年

さて、裁判後のガリレオは、最後まで自宅軟禁状態のまま、その生涯を終わるのであるが、この間のガリレオの研究心は衰えること知らない。
 本稿はその場ではないから詳細を述べることはできないが、近代科学の基礎を作ることになった、かの有名な『新科学対話坦の執筆に、はやくも判決直後の1633年12月に取りかかっている。自宅のアルチェトリに引きこもって、執筆の日々が続き、1635年6月には、厩稿がほぼ完成する。
 そして、1638年7月、『新科学対話』はオランダで出版される。この聞のガリレオは、不幸の連続の日々であった。ガリレオの世話をすることが生涯の生きがいであった、最愛の娘の修道女マリア・チェレステが34才の若さで発病後6日目にして急死する(34年4月)。

『新科学対話』執筆が終盤に近づいた37年7月には、持病の緑内障が悪化し、左眼の視力を失い、38年1月には、完全に失明する。
 ガリレオが10数年かけて完成した『新科学対話』こそ、近代科学の源泉である。『天文対話』がイタリァ・ルネッサンスの芸術性と精神性を十分に取り入れた文学的・芸術的な文体で、壮大な字宙観の転換を論じたのにたいして、『新科学対話』は、もはや世界観などの間題に言及することなく、自然研究の本質を具体的に単刀直入に記述している。その分だけ、炉天文対詰』に見られたような情緒性を欠いており、無味乾燦なものになっている。ここに、近代科学の祖と言われる原型が誕生することになる。最近の科学史家がガソレオ・ニュートンの恩考的枠組み、つまり近代科学が現代杜会における功罪とりわけ罪の部分を語るとき、必ずとりだされるのが、いわゆる「ガリレオ間題」である。
 その原型がガリレオの『新科学対話』にあることはいうまでもない、これは、別の機会に論ずるべき重要閤題である。(17)晩年のガリレオは、最初の伝記を書いた当時17才のヴィヴィアー二、のちに「トリチェリーの真空」で歴史に登場するトリチェリーに口述筆記をさせ、数学論争をさせては楽しんでいた。1642年1月8日。ガリレオ死去。

8『ガリレオ・ガリレイの裁判記録』の公闘・出版
 
 これまでわれわれは、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、1972年11月10日、ガリレオ復権を呼びかける講演からはじめて、1981年に設置されたガリレオ調査委員会の調査報告、およびこの報告を基に1992年10月31日、ヨハネ・パウロ2世がガリレオ裁判の無罪を主張した最終声明によって、ガリレオが最終的に復権した経緯を見てきた。
 この20年間、ヴァチカン当局は、自ら4世紀前のガリレオ裁判関係資料の探索・研究にあたり、1984年、『ガリレオ・.ガリレイの裁判記録』を公開・出版した。この裁判記録は一部のガリレオ研究者には自明のことではあっても一般的には公式には公開されていなかったものである。
 この裁判記録は、原記録が手書きであるため細心の注意のもとに「その忠実さ、誌みやすさ、鷹大な資料の再吟味」を心がけていること、また、「これにまさるガリレオ裁判関係の資料はもうない、といわれるほどの決定版」であるという。(18)
 この裁判記録関係文書には、当時の政治情勢がからんだ物語がある。1800年代のはじめにナポレオン1世がイタリアに攻め入ったとき、ヴァチカンから裁判記録を含む多量の資料がパリに持ち去られ、その後ルイ18世の命によってローマに召喚されたというのである。ローマ、パリ、・ローマへと政治的な旅をすることになったヴァチカンの厖大な資料のなかには焼却・.売却されたものがあったというが、この裁判記録文書だけは、当初から特別扱いであったらしく、1843年10月21日、ようやくヴァチカンに戻ったのである。

 さて、1633年のガリレオに対する判決内容の要旨は、先に述べたように、異端であること『天文対話』を禁書とすること、投獄すること、それに瞭罪をすることであった。
 これらの判決がどのように解禁されたのであろうか。1734年には墓の建立が、1741年にはガリレオの全著作の再版許可可が、正式に文書で示されていた。ちなみに、この墓は、1737年、ガリレオの最期を見とった弟子のヴィヴィアー二の遺言により、その子孫が建立したもので、現在、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会にあり、あのルネスサンスの巨匠ミケランジェロの墓の向かいにある。
 そういえば、ガリレオは・ミケランジェロが死んだ1543年2月18日の3日前の15日日に生まれた。ミケランジェロの生まれかわりである。また、禁書命令は、1664年に暗黙理に、1757年に完全に禁書目録から除外された。そして、最後に残っているのが、ガリオ裁判のやり直しがあったかどうか、つまりガリレオ無罪を宣言した文書があったか、ということである。
 それはいうまでもないことで、これまで一度もされずにいたのである。その無罪宣告が公式に出されたのは、先に見てきたように、ローマ法王ヨハネ・.パウロ2世が最終声明を行った、1992年10月31日である。実に360年ぶりのことである。これでガリレオはローマ・カトリック教会のなかに完全に復権を果たしたわけだ。何をいまさらとの感があるが、これが長き伝統のあるキリスト教という宗教の持つ負の側面なのかもしれない。
 時間を多少もどすと、教会がガリレオ復権を求める「運動」のさきがけになったのは、20世紀最大の教会史と言われる「第2ヴァチカン公会議」(1662-65)である。この会議でなされた議論の結果は、『現代世界憲章』として文書にまとめられているが、現代の科学・技術の進歩や杜会の動向に憤応した形でカトリック教会を刷新しようとするものである。(19)
 数世紀前のガリレオ事件によって、科学と宗教は分離・対立する、という観念をもたらしたことを憂慮するカトリック教会が、この歴史的汚点の反省のうえにたって、現代の科学と宗教をなんとか調和させなければならない、という意図がある。
 この運動の行く先が、ヨハネ・パウロ2世のガリレオ復権の呼びかけに終着したことはいうまでもない。

9.現代における科学と宗教
 
 本稿の冒頭にも述べたように、科学と宗教の閥題は古くて新しい間題であることを再確認することができる、これ裏で長々とガリレオにおける科学と宗教の間題、とりわけ歴史的に有名なガリレオ裁判から復権までの経緯を詳細に追いかけてきた後にも、この思いはますます強くなっている。
 17世紀ヨーロッパで誕生した近代科学が成立する背景には、キリスト教が多大な影響力をもったとは、もはや科学史の常識である。現代の科学は日進月歩で発展しつつあり、とりわけ天文学の世界では、遇去100年の出来事がわずか10年のなかに凝縮されて「進歩・発展」しているのが実態である。
それにともなって、科学と宗教の調和・統一をめざすカトリック教会にとっては、現代科学と宗教をいかに統一的に解釈するかというシンドイ仕事を課せられる。科学の理論的枠組みが転換すれば、そのつど、新たな聖書解釈を余儀なくされる。これは、ガリレオ問題の処理の失態という汚点を繰り返さないためにも、また、教会離れのはげしい現代人をローマに引き寄せていくためにも、神学者は現代科学と聖書研究の両立をめざす研鑽の日々が続く。
その実、ヴァチカン当局は、1988年、『PHYSICS, PHILOSOPHY, AND THEOLOGY:A COMMON QUEST FOR UNDERSTUNDING 、1988』〈邦訳、G・コイン他編『宇宙理解の統一をめざして』柳瀬睦勇監訳、1992)を刊行した。本書は現代科学研究と神学研究の両方から、現代の最先端の科学にせまり論じ解釈する。しかし、宗教界の伝統的な認識に加担することない、きわめて「学問的な研究論文集」であるという。(20)
 ここでは、本書の各論を論ずる余裕はないしその場でもない。あらためて別稿で論ずるものであろう。そこで、おもな項目を示すだけでも、カトリック教会の強い危機意識が読みとれるので簡単に触れておこう。
 第1は、科学と宗教に関する歴史的かつ現代的な考察の以下の各論文である。ただし括孤内は著者名である。
『科学と神学とはいかにかかわるか』(イァン・G・バーブ)、
『自然科学と創造神の信仰一歴史的考察』(ヱルナン・マクマレン)、『ニュートン・パラダイムと無神論の起源』(マイケル・J・バックレイ)、『自然神学は可能かユ(W・ノリス・クラーク)、『ヘブライ語聖書における創造』(リチャード・J・クリィフォ一ド)。
 第2は、認識論と方法論を考察する以下の論文である。
 『科学と宗教における知識と経験一われわれは実在論者でありうるか』(ジャネット・ソスキス)、『物理学、哲学、紳誘』(マリー・B・ヘッセ)、『観察、啓示、ノアの子孫』(ニロラス・ラッシュ)。
 第3は、哲学的・神学的見地より見た現代の物理学と宇宙論を考察する以下の論文である。
 『現代宇宙論から科学と宗教の対語へ』(ウィリアム・R・シュテーガー)、『量子世界』(ジョン・C・ポーキングホーン)、『量子過程としての宇宙の創造』(クリス・J・イシャム)。
 実に興味深い論考ばかりである。現代の科学と宗教の問題は、もはやこの二つの領域を飛び出し、哲学や政治哲学をも射程に入れた世界観・宇宙観、さらには個々人の人生観の問題にもおよんでいる。
 この本の監訳責任者のイェズス会司祭で上智大学教授・柳瀬睦男氏(物理学)によると、本書の特色は、第1に、物理学、宇宙論、哲学、神学の問題が、その専門家の立場から議論されていること、第2に、ヴァチカンの指導原理に基づいた護教的なものでなく、純粋に学問的な議論がなされていること、第3に、上記の各分野の統一的な世界像を探求していること等々であるという。(21)
 たしかに、例えば、クリス・J・イシャム『量子過程としての宇宙の創造』などを丹念に読むかぎり、キリスト教の教義である「無から創造」の間題と、宇宙のビッグ・バン理論や宇宙膨張説、あるいは最近のホーキングの理論などとの融合間題を説得的に論じている。こうしてくると、現代の神学者は、教義や教説をただ単に唱えるだけでは、その存在が保障されず、現在の最先端の理論物理学や宇宙論の察がいやおうなく求められている。 その意味では神学者のなかにも、専門的科学の研究者の誕生という科学技術の細分化、科学の専門性と似たような役割分担が生じていることがわかる。
 したがって、神学者に課せられた仕事は、現代科学の動向とともに際限なく続くだろう。

10.ガリレオの「新しい科学」の革命性と科学史の課題

 本稿の目的は、「ガリレオ復権」という歴史的な事態を、教皇ヨハネ・パウロ2世の最終声明から出発して、その意味と歴史的考察をすることであった。そのあらましは理解されたとも思う。これを書きはじめるまえに、裁判関係の著作はもちろんだが、これまで専門書のある大学や図書館に行く時間的余裕もない私が、個人的に買い集めてきたガリレオ関係の文献や17世紀科学革命期の文献・著作に、手当たりしだいに当たっては「通勤電車のなかで」、あれこれ考えてきた。
 そこで、本稿の目的とはそれるが、ガリレオの科学史上の位置について多少触れておくことにしよう。ガリレオが近代科学の創始者とされる根拠は、晩年の著作『新科学対話』にあり、ここでガリレオは新しい科学、「機械学と力学」を作ったのである。今日ではお馴染みの概念であるが、この新しい科学の革命性は、科学史の分野に止まらない、新しい学問的・精神的基盤をガリレオがはじめて構築したことにある。学問理念の新しさこそが本質的なのである。この学間的新しさとは、スコラ・ルネスサンスの学問が人文的であるのに対して、その対立・抗争から脱却し、人文学や数学のみの数学でなく数学とは区別された。さまざまな機械技術(望遠鏡、顕微鏡、寒暖計、振り子時計等々)と結合した「実験的科学」を作り上げたことにある。つまりガリレオの新しい科学はそれ以前のルネスサンスの精神とは全く別の学問的所産であったのである(22)。
 ルネスサンス巨匠ミケランジェロの死んだ年に生まれたガリレオであるが、それまで支配的なスコラの学間と決定的に異なる学閥理念を定式したのだ。ガリレオの科学史上の位置は、その意味で、古代・中世の自然観と近代の自然観の境界にあり、「彼の自然観をアリストテレス以来の生物的自然観と対照するにあたって、単に自然的事物と、その秩序をいかなるものと見るかという、いわば自然学と物理学の対象の捉え方の違いではなく、それ以上に、自然法則とはなにか、なにを明らかにするものなのか、さらには自然法則における真理とはなにかという点で、つまり自然学と物理学事態の捉え方において、彼と彼以前の学者とは立脚点に根本的な相違があることを忘れてはいけない」のだ。(23)
 こうして近代科学の原点となったガリレオの自然観・世界観は、いま思わぬ所で批判の対象に曝されている。近代の近代産業社会を作り上げてきた産業資本主義体制の負の側面が明らかになるにつれ、その礎となっているガリレオの学悶理念を再考察するという動きが活発である。
 つまり、近代杜会を問い近代を超克すべきという学問的間いかけである。詳論の場でないが、例えば、「科学が生活から遊離したのは、ガリレオによる自然の数学的・実験的理念である」(フッサール)とか、「科学者の体制に対する妥協の産物だ」(ブレヒト)とか、「人間の個性を遇小評価し、それを最終的に追放した罪をガリレオは犯した」(マンフォード)といった批判である。(24)
 近代科学の創始者が、このような厳しい批判に曝されるとは、なんとも歴史的皮肉でもある。それだけ、近現代産業杜会が矛盾を抱えていることを物語っている。が、その矛盾を克服し新たな杜会を構築しようと一歩でも踏みだそうとすれば、われわれは、近代科学の創始者ガリレオや、その創立者であるニュートンの科学とニュートン主義的世界像に立ち入らざるを得ないのである。
 その任務は主要には、現代科学技術の在り方を問う生活者と現代科学を外から冷静に問う科学史家にある。フッサールの生活世界の復権を射程にいれた科学技術の再構築が今こそ求められているとき、生活者と科学史家が共同的な相互交流を真剣に果たすべきである。(25)

おわりに

 科学と宗教の問題は時代を問わない。現代はまさに新興宗教がはびこっている。ガリレオ裁判に関する資料を読み考えながら、本稿の目的であるガリレオ復権のことはもちろんだが、わたくしの脳裏には、常に現代のさまざまな宗教と人間の問題とそれがもたらす杜会的抗争に関する諸問題があった。現代の新興宗教がはびこる時代的状況をどのようにとらえるかは各人の自由だが、少なくとも、それを自覚的・客観的に冷静に見つめようとするとき、過去の時代の科学や社会と宗教の関わりと、それが結果として、われわれ後生の人間になにをもたらしたのか、を考察することが、やはり意味のあることといわねばならない。
 ふり返ってみると、このような、科学と社会の問題や科学史のことを、少なくとも自覚的に考えるようになったのは、1960年代から70年代の特異な社会的事態であるヴェトナム戦争と大学闘争下における市民運動、それに1980年代当初、高田馬場にあった「寺子屋」での講座「力学的世界の系譜」に参加し、そこで知り合い教えを受けた先輩・友人たちとの交流にある。
 さらには、その直後に関係した日本大学物理学教室・科学史研究室とそれにつらなる科学史家たちとの交流にある。そのときどきで養われた科学や社会に対する見方は、現在も続行中である。
 そればかりか、そのときどきで、思いやりに満ちた教えや示唆を受けた人たちに対して、自らの非力を顧みず、なんとか応えねばならない、という一種の使命感のようなものが、ますます強くなっていることに気付く。これはいつ実現するかもわからない、果てしない仕事となるであろう。
 最後に、本稿を書くにあたり、資料の提供をいただいた科学史家・田中一郎氏(西欧近代史専攻)に感謝を申し上げる。

(注)
(1)新村 出編『広辞苑』第4版、岩波書店、1991年
(2)教皇ヨハネ.パウロ2世「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ一ガリレオ裁判をめぐる口-マ教皇庁の見解」柳瀬睦男解麗、川田優訳(『み  すず』、みすず書房、1993年)年8月号)。p.28-33 今回の法王声明に関する引用・要約はすべて、この資料に基づいている。
(3)ガリレオ『星界の報告』(山田慶児・谷泰訳、岩波文庫、1976年)。p.14
(4)青木靖三編『ガリレオ』(平凡社、1976年)、p. 207-211
(5)斎藤 洋「科学のメッセージとしての『撫からの創造』-ベラルミーノの『手紙』に寄せて(1)」(『思想』岩波書店、1993年5月号)、p.86一109
(6)ポール・プパール枢機卿「ガリレオ事件調査委員会報告」(注2)と同書。P.34-38
(7)教皇ヨハネ・パウロ2世「信仰と理性の調和」(注1と同書)。P.39-46
(8)「350年後のガリレオ再審」(『誌売新聞』、1980年12月8日朝刊)。
(9)サンティリャーナ『ガリレオ裁判』武谷三男監修・一ノ瀬幸雄訳(岩波書店、1973年)。p.583-589
(10)ジョルダーノ・ブルーノ『無限、宇宙と諸世界』清水純一訳(現代思想社、1969年)
   拙著「ジョルダーノ・ブルーノの無限宇宙論」(東京家政学院中高等学校紀要「ばら」第38号、1992年3月号)
(11)ガリレオ・ガリレイ『天文対話』上、(青木靖三訳、岩波文庫、1975年 )。p.15
(12)注(9)と同書、p.348-369
(13)ガリレオ・ガリレオ『天文対話』下(青木靖三訳、岩波文庫、1994年)。P.255
(14)伊東俊太郎『ガリレオ』(講談杜、1985年)。p.54-55
(15)音木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1976年)。p.85
(16)注(14)と同書、p.59-60
(17)佐々木 力「ガリレオ・ガリレイ-近代技術的学知の射程」(科学革命の歴史構造』上、岩波書店、1985年)、P.143-239
(18)渡辺正雄編『ガリレオの斜塔』(共立出版、1987年)、p228-241
(19)第ニヴァチカン公会議『現代世界憲章』(カトリック中央協議会、中央出版社)
(20)G・コイン『字宙理解の続一をめざして』(柳瀬睦男監訳、南窓杜、1992年)
(21)同上、p.405-410
(22)下村寅太郎「ガリレイに於ける"Nuove Scienze"について一近代科学の精神史的問題として」(『科学基礎論研究』1954年9月号)。
   また、同氏の「近代科学としての『カ学』の精神史起源について一ガルイに於けるNuove Scienze Ⅱ-」(『科学基礎論研究』、1955年1月号)
(23)山本義隆『重力と力学的世界』(現代数学杜、1981年)、P.48
(24)注(14)と同書、p.3一15。また注(17)と同書論文を参照。
(25)佐々木 力『近代学問理念の誕生』(岩波書店、1982年)