書評:パトリック・ゲデス著、新戸雅章訳『インド科学の父 ボース-無線・植物・生命』 (工作舎、344 頁、2009年6月10日)

本誌でインドの科学と科学者が取り上げられるのはまれである。評者自身も本書を読むまではこの方面についてはまったく知らなかった。本書の原著はAn Indian Pioneer of Science :The Life and Work of Sir Jagadis C. Bose (London: Green, and Co., 1920 である。著者のパトリック・ゲデス(Patrick Geddes ,1854-1932)はイギリスの「環境教育の父」「近代都市計画の祖」とも呼ばれる科学者である。生物学者とし出発したが、眼病のため生物学の道を断念し、都市計画の研究者として大きな足跡を残した人物である。都市計画を論じた主著『進化する都市』(西村一朗訳、鹿島出版会、1982年)がある。 ゲデスは世界各地の都市の歴史的建造物の重要性を考慮しそれらを保存・修復し再計画し新たな都市を創造することを重んじた。現在でいえば市民参加型の自然と共有・共生する持続的可能な都市の再構築を希求した。そのようなゲデスが1915年インドに招かれ、その後ポンペイ大学(1919-1925)に就任し、古代インドの都市と伝統文化を学びつつ、彼の思想を進化させたという。

このゲデスがその伝記を書いたインド人の科学者とは、インド人で最初の国際的な科学者のジャガディス・チャンドラ・ボース(Jagadis Chandra Bose ,1858-1937)である。電気学と生理学という異質の両分野で特異で奇抜な科学的業績を上げた国際的な科学者である。ただし、このボースは、日本では有名な「中村屋のポーズ」(ラース・ビバーリー・ボースRash Behari Bose ,1886-1945)でも、インドの革命家、スバス・チャンドラ・ボース(Subhas Chandra Bose,1897-1945)でも、はたまた「ボース=アンインシュタイン統計」で有名な物理学者のサティエンドラ・ボース(Satyendra Nath Bose,1894-1974)でもないことを確認しておきたい。

日本ではほとんど無名の科学者であるが、ピーター・トムプキンズとクリストファー・バードの共著『植物学の神秘的生活』(工作舎、1987)のなかの第6章「一億倍に拡大された植物生命」でくわしく紹介されているという。評者は未見だが、表題そのものが興味深く、ボースの科学研究のありようを端的に示しているようである。

上記のように、著者のゲデスと本書の主人公のボースは同時代・同世代に生きた人物たちである(ゲデスがボースより4歳上だけである)。ゲデスが多忙な都市計画の仕事の合間をぬってインド人科学者の伝記を書いたこと自体が、ゲデスがボースに、いかに親近感・信頼感を寄せていたかを示している。というのも、科学と科学者はあくまでも社会的産物であるという認識をもつゲデスは、本書を執筆した目的を次のようにのべているからでる。「科学研究全般、とくにインドの科学研究を励まし解放をうながすことにある。ここにあるのは「天才」に関する従来の熱狂的な文章ではない。何が生活にとって好ましく十分な知的進歩と生産性に貢献する条件であるのか、何が不利な条件となっているか、何がそれを増強して、克服をはばんでいるのかを理解することである」(序文6頁)。

この執筆目的を読むと、ボースの伝記を執筆することで、インドという国家とインドのひとびとにたいするゲデスの愛情と支援が、いかに深いものであるかを窺い知ることができる。当時のインドがおかれた劣悪な政治経済状況を考慮すればするほどその感をますます強くする。

さて、先にも述べた主人公のボースの研究を概観しよう。現代から見れば驚くほど異質で多様な分野(物理学、電磁気学、生理学、精神物理学)に及んでいることに驚く。先ずは物理学を専攻したボースは電波の研究、とりわけ無線電信の実用的研究、いわば今日の半導体の研究のさきがけになるものにとりかかる。当時の電磁気学はマックスウエル、ヘルツ、アンペール等の研究で沸き立っていた。これらの理論的実験的研究を背景にして、ボースは、「科学は計測である」との信念のもとに、先行者よりも優れた見事な「ボース受信機」を発明し開発した。その背後には理論と実験の統一を思考する科学的想像力があった。それらの研究は論文「自己回復するコヒーラ」(1899)や「電気的接触と電波による物質の分子変化」(1900)、「無生物と生物における電気のもたらす分子現象について」(1900)などにまとめられた。これらの研究はヨーロッパの科学界から賞賛された。

その後、ボースは植物生理学の実験研究にとりかかるが、のちに自らが創設した「ボース研究所」開所式の講演で「私は無意識に物理学と生理学の境界領域に導かれました。そして境界線が消滅し、生物と無生物の接点が浮かび上がったのに気づいて驚きました」と述べ、その多才な能力と直感的感性を誠実に披露している。主な著作をみると、『生物と無生物の反応』(1902)、『植物の反応』(1906)、『比較電気生理学』(1907)、『植物の感受性の研究』(1913)、『植物学における生命活動』(1918)、『光合成の生理学』(1924)、『植物の神経機構』(1926)、『植物の運動機構』(1928)などである。いずれも長大な多数の論文が収録され、これらの諸論文には千個以上の実験とその概要が詳述されているという。著者ゲデスはそれらの諸論文を読み込み、本書で概要を読者に必死に提供しようと悪戦苦闘しているが、それでも手に負えないと、ボースのすごさに感嘆しているほどである。

物理学の精密な実験が唯一科学的真実を保証するものだとの信念にもとづき、ボースは、なんと長大な時間を要する植物の微妙な成長過程の変化を自動的に計測し記録する器械装置の開発に乗り出し、植物の種々の成長過程を明らかにした。その具体的で奇妙な機器の開発と実験研究の様子が事細かに記されている。

近代科学の特徴が科学の細分化と要素化にあるとすれば、ボースの科学研究は、それとは異なる問題意識から、インドという政治・文化・風土から発せられた生活向上のため学問という全人間的な解放を呼びかける研究ではなかったと評者には思えてくる。

そのうえで、若い時代にイギリスに留学するボースはその輝かしい研究業績もあって、インド人としてはじめてイギリスやアメリカ等々の多数の大学と研究所でも温かく迎え入れられ、たびたび招待講演を行っている。科学は西洋人だけの専売特許であるという当時時代認識のなかで、ボースの業績によって、東洋人にも科学的能力があることを西洋世界に知らしめる動因となった。

こうした西洋の科学界でかずかずの栄誉と賞賛を獲得したボースは母国インドにおける科学の普及と教育、ひいてはインド国家の発展のために「ボース研究所」を創設した。このためにボースは自らのほぼすべての財産を投入するのである。そこには、若い時代から「発明や発見で個人的利益を追求しない」と、ボースの信念と決意があったという。インド科学の発展のために私利私欲ではなく、無心に勢力的に貢献した。ボース研究所の開所式の講演で、ボースは、「今日、私は、この研究所をたんなる研究所ではなくて、寺院として捧げます」と、その信念と決意のほどを、確固たる自信に満ちた口調で語っている。インドの科学を西洋並みのレヴェルに引き上げるという悲痛なまでの心情を読み取ることができる。その心情と思想の背景には、アジア人で最初にノーベル文学賞受賞者(1913)の詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941)たちとの親密な友情と交流が影響しているのだろう。ボースの妻の献身ぶりにも感動する。

出版社(工作舎)の企画と訳者の労によって評者ははじめてインド人科学者の本格的な評伝を読む機会を得ることができた。訳者の新戸雅章氏は日本におけるニコラ・テスラ研究の第一人者の作家・科学史家であるが、華々しい表の世界に登場しない人物を発掘する作業に取り組んでいる。著者のゲデス、主人公のボース、そして新戸氏が時空を超えて共鳴する本書を得て、日本ではほとんど無名であった「インド科学の父」を知ることができるようになったことをともに喜びたい。(猪野修治)