書評:橋本毅彦『描かれた技術 科学のかたちーサイエンス・イコノロジーの世界』(東京大学出版会、2008年12月19日)

私は理科教育の現場から離れて久しいから最近の現場教育の実体には疎くなっているが、中学・高校・大学の世界を問わず、そこでの授業実践者の授業はますます視覚化されているようである。何よりもかによりもめんどうくさい難解な文字による科学的論述よりもそれらの内容を図像化した一枚の絵画の方が端的にその対象の本質を深く描き出すことがあるからである。一枚の絵画のまえにたたずんで身心とも吸い込まれるという体験は誰にでもあるものだ。とはいえ抽象画の場合は、見るものの受け止め方は千差万別であるが、植物や建築や機械などの精密な図像は何がしかの普遍性を持つ。本書は描かれた技術としての図像が科学技術史の世界でどのような働きと効用をもたらしてきたか、さらにはその歴史的背景を考察したものである。

このような科学技術史の図像の果たす役割に注目するようになった著者の問題意識は著者自身のジョンズ・ホプキンス大学(アメリカ)留学中に受けた講義にある。その様子を著者自身次のように述べている。「著者は一九八〇年代後半に科学史を勉強するためにアメリカに留学したが、その際に、スライド見せながらの講演にとりわけ興味をそそられたことを覚えている。ゴシック様式の大聖堂から二十世紀の高層建築までを見せる技術史の授業、科学革命期の科学書の表紙の絵を見せながら「スライドショーにようこそ」という一言で始まる学会講演、背景いっぱいに暗緑色の化石を映し出しステージを左右に歩きながら進化論史を説く講演、十八世紀の実験装置が並んだ部屋をスライドで見ながらそれぞれが何の実験装置なのかみなで考えるセミナー。スクリーンに映し出されるイメージを見ながら、演者とともに映し出されたオブジェと情景に注目し、その意味を探っていくうちに、いつしか過去の世界に引き込まれるような思いを味わったものである」(本書231頁)。

アメリカの大学の授業風景が端的にリアルに表現されているが、こうした著者の受けた授業体験をもとに、今度は著者は「科学技術史における図像の役割」というこれまた科学史の重要な課題に注目し29の話題をとりあげ、それらを5つのジャンルに分類し、それぞれ個々の図像を示しながら具体的かつ詳細に解説を加えている。

それらを手短に眺めてみよう。

Ⅰ「技術の風景」、Ⅱ「機械のかたち」、Ⅲ「機械仕掛けの自然」、Ⅳ「自然の形態学」、Ⅴ「科学の場所」である。

まず、Ⅰ「技術の風景」では、日本の刀匠や宮大工の仕事現場、西洋の鉱脈と坑道と採掘、金属加工職人、イギリスの土木技術者による灯台など。Ⅱ「機械のかたち」では、共にイタリアの「技術者」のレオナルド・ダ・ヴィンチとアゴラスティノ・ラメッリの機械仕掛けの図像、イギリスの船大工の図像、アシェットの機械分類表、エジソンの手書き図像など。Ⅲ「機械仕掛けの自然」では、修道院で発明された時計、デカルトの渦動宇宙論、オランダ科学者の顕微鏡下の生物、香りの種類を類別する図像など。Ⅳ「自然の形態学」では、イギリスの植物画家の緻密な図像、ダーウインに影響を与えたグールドの鳥類図像、コッホの著作中の菌類、鉄の変態の模式図、中谷宇吉郎の雪の結晶、雲の種類の図像、音の視覚化と数学化(グラニド図形)、航空学の理論を作る渦、イギリスの地質と化石の図像など。Ⅴ「科学の場所」では、ティコ・ブラーエの天文台の内外部の図像、錬金術師の作業風景、十八世紀フランスにおける電気実験風景、ファラディの実験室とクリスマス講演など。

これらの多様な図像が作成される科学史的・歴史的背景が詳細に記述されているが、その小気味よい文章は読者を魅了する。さらに本書の特長は著者自身が上記の図像を具体的に解説するが、それはちょうど美術館の専門学芸員が一枚の絵画を丹念に説明する仕事に匹敵する。

中でも特に興味を引いたのは、日本刀製造と研究に一生をかけた岩崎航介という人物、中谷宇吉郎の雪の結晶構造の多様性、音の模様とされる「グライドの図形」、牧野富太郎が絶賛したといわれるイギリスの植物画家ウォルター・フイッチの植物画などである。蛇足ながら、私は、牧野の最後の弟子で世界的な評価を受けている日本の独学者(植物・細菌学)故清水大典氏の「神技」といわれる膨大な図像を思い出していた。ちなみに同氏は私の中学・高校時代の同級生の父親である。紙面がないので、その他を上げるわけには行かないが、いずれも優れた科学者は自ら優れた画家・図像家であり、または近くにそれに熟達した人々がいたことを教えてくれる。いわば科学者と図像家・画家との共同作業がある。

このような技術現場の種々の図像を示し解説したあと、著者は総論で「科学技術の活動における図像の機能」を論じる。この総論では「視覚的思考」が技術活動の重要な動因となった歴史的な研究状況を紹介している。本文に取り上げられた著書論文だけをあげておこう。ファーガソン『技術屋の心眼』、ヴォルフガング・ルフェーブル編『機械を描く、1400-1700』、『世界科学史百科図鑑』(全6巻)、ロレーヌ・ダストンとピーター・ギャリソンの「図像の客観性」、同「客観性」、額賀淑郎「科学論における視覚表象論の役割」、マーティン・ラドウィック「地質学における視覚言語の登場、1760-1840」、ウルスラ・クライン『実験室科学における道具と表象様式』、ブルーノ・ラトゥール『実験室研究』、同論文「事物といっしょに描く」、さらには東洋では、フランシスカ・ベイ他編『中国の技術知識の生産における図像と文章』などである。個人的にはベイもなつかしい(1985年、バークレーで会った)。

本書を手に取るものはおそらく上記の論文を解説する著者もたびたび指摘しているように、それぞれの著作の中に図像を入れた目的と歴史的・文化的・時代的状況の重層的な意味をひとつひとつ解明すること、そのことが科学史家の役割だと思うにちがいない。現代の視覚表現手段の多くはコンピーター画像処理に依存するが、先人の職人の手仕事として画像・図像に想いをはせ、当時の技術と美術の共同関係を考察することは現代にも生かされるはずである。そもそも本書は東京大学出版会のPR誌『UP』に連載されたものを、さらに資料収集し考察を重ね再編集したもので、コンパクトな体裁ながら大変に読みごたえのある著作になっていて、文書もよく整理され読みやすい。(猪野修治)