書評:廣重徹『科学の社会史』(上下、岩波現代文庫、2002年~2003年) 2003年3月25日『物理学史通信』第90号 掲載

学問としての『科学の社会史』の復刊に思う

 これからきわめて個人的なことを述べながら本書に言及することを許していただきたい。1971年4月、物理学を専攻して研究者になる予定であった私は、意識的にその道を放棄し、たまたま偶然のことながら、東京都内の私立の中学高等学校の物理教員になった。このあいだの大学時代(6年)は労働者(早稲田大学・東京大学・日雇)、半分は学生(東京理科大学)という完全自活の生活を強いられていた。飯を食うこと学業を続けることで精一杯でほとんど勉強する時間などなかった。いつも腹をすかした苦学生であった。落ちているたばこを吸った。飲み残しの牛乳やみそ汁をすすった。連日のデモもあり、ほとんど大学に行けなかった。授業料が払えず試験も受けられず、友人から長期の借金をした。郷里の親から仕送りを受けている昼の学生がなんの社会的な関心を示さず、近隣の雀荘で麻雀三昧の姿は、私とは別世界であった。いろいろな仕事を転々としながら、昼は仕事、夜は大学に通う生活でほとんど時間的余裕などまったくない生活であった。

 このような学生と労働者の生活者の前に登場したのは、国際的なベトナム反戦運動と全国的規模の学生運動であった。子どものころから本など買ってもらえず、またその存在自体知らない。高校を卒業するまで一冊の本も読んだ記憶がない。こうした学問的にも政治的にも無学・無知で教養のない山形県の寒村出身の青春多感な私が、個人的にも社会的にも激動する時間と空間に投げ出されたのである。たとえれると、近代文明とは無縁の楽園の島民がニューヨークの雑踏の街のなかに放り込まれたのである。

 当時のほとんどの学生や若い労働者は直接にしろ間接にしろ、日大闘争、早稲田闘争、東大闘争を初めとする全国で起こった学生運動や国際的な反戦運動、とくに日本がもろに関係(加担)したベトナム反戦運動等々の社会的運動に何らかの影響を受けていたはずである。ある者は生き方そのものを転換させ、ある者は学問の世界からはなれ、ある者は反科学や宗教に走りだすありまさであった。

 私もそのなかのひとりでいわば時代の落とし子であった。1972年7月~8月にかけて私の身辺に起こった出来事は私の人生のうえで大きな転機となった。当時の私は東京近郊の町田市に住んでいて、たまたま友人の紹介で同じ町田市に住んでいた山口幸夫氏(当時、東京大学講師・物理学)を知った。山口氏の自宅を訪問したとき、梅林宏道氏(当時、東京都立工科短期大学助教授・物理学)、それから、だれだか忘れたがもうひとりの3人がいた。その時の話題はたまたま彼らが出していた同人誌『ぷろじぇ』の編集会議であった。何も知らない私はただ一言の発言もできないで聞いているだけだった。

 話題はもうひとつあった。町田市の隣に相模原市がある。ここには米軍基地の相模原総合補給廠があり、ここからベトナム戦争下にベトナム人民を殺戮する戦闘車輌は搬出される話題であった。彼らは「何とかしなければならない」などといろいろなことが話題になった。そのとき初めて私は本書の著者・廣重徹氏(日本大学助教授、物理学・科学史)の名前を聞いた。かれらは「廣重ならばわれわれの行動を理解するはずだ」などと述べていたと記憶する。そのとき、私は廣重とはどんな人物なのだろうと頭をよぎった。しかし、私はただの傍観者にすぎなかった。

 ところが、ほんの2・3日日後、梅林・山口の両氏は当時、梅林氏が住んでいた相模原補給廠そばにあった自宅前の「小屋」を拠点に「ただの市民が戦車を止める会」を立ち上げた。その後、すぐさま彼らの運動に関わるようになった私は、その運動がいわば政治的党派とはまったく関係ない運動であることを直感した。「市民の会」はベトナム反戦運動の渦中に投げ出され、連日、考えられ得ることをすべてやってのけた。感動的な場面を沢山みてきた。だからこそ、一般市民の大きな支援を獲得した。徹夜の監視団が結成された。東京の都心に勤務するフルタイムの教育労働者である私は、大学の教員とは異なる。仕事に行くべきか、それともベトナム人民を殺しに出ていく戦闘車輌を止める運動をやるほうが重要か、ずいぶん迷った。

 彼らは後者を選択するよう無言のうちにすすめていると受け止めた私は、本気で考え悩み苦しんだ。そのことを重大な決断をもて連れ合いに話したら、血相を変えて反対された。そのけっか、きわめて「中途半端」な立場から戦闘車輌阻止闘争に関わっていたのである。私は彼らにすまない気持ちでいっぱいであった。こうした教育労働者と活動家のジレンマが何年も続いた。こんにちでもそうである。

 はたから見ると、梅林・山口の両氏は日本の最高学府の東大を出て博士号の学位がありポストドクターでアメリカ留学まで果たし大学の物理学の教員である。いわば「雲の上の尊敬すべきひとたち」であった。休養もあり何でも知っていた。その彼らが基地運動にここまでかかわるのか、そしてその後はどうなって行くのか。頭をよぎった。こうして反米軍基地運動に関わりながら、科学・社会・人間の問題を総合的に自問する雑誌『ぷろじぇ』をすみからすみまで読んだのである。しかし、よくわからなかった。でも繰り返し読んだ。

 その一方、当時の科学雑誌『自然』に連載中の廣重徹氏の「科学の社会史」を読み初めていた。この読み込みは学問のための読書ではまったくない。彼らがそうであるように自然科学者の生き方にかんすることを模索してのことである。それは切実な課題となった。これがきっかけとなり、科学の社会史などにかんする書物を乱読するようになった。あくまでも、今後、私がどう生きて行くかという切実な問題の手がかりを得たかったからである。

 こうして30数年が経過した。そのあいだ、どんな生き方をしてきたかは別の場所(単行本を予定)に詳しく書いたので省略するが、ともかく、こうしてここに『科学の社会史』についてなにがしかのことを書いているいまの私がいるのは、ここに述べてような偶然にも反米軍基地闘争と関わったことにある。あくまでも学問のために読書ではなかった。この期間の相模原の戦車阻止闘争のことは、「ただの市民が戦車を止める」会編『戦車の中に座り込め』(さがみ新聞労働組合発行、1979年)に詳しいので参照してほしい。

 それにしても廣重氏の本書は雑誌『自然』(1971年5月~1972年7月)に連載された後、刊行本として中央公論から刊行されたのは1973年11月20日(初版)である。この時期を考えると本書のための資料収集と執筆は1960年代半ばから後半にかけてのことだと推察される。60年代の後半といううと、著者の研究室はある駿河台周辺は学生運動のまっただかにあったはずである。著者は理論物理学から科学史に専攻を変え、本気で日本の「学問としての科学史」を先導していた時代である。

 アインシュタインの相対性理論の形成史、ボーアらの量子力学の形成史、とくに理論物理学に焦点をあてた現代物理学史で優れた仕事をしたきた。その辺の事情については後に物理学史家の西尾成子編『廣重徹科学史論文集』1・2(みすず書房、1981年)にくわしい。いわば、学説史と社会史、つまり内的科学史と外的科学史にかんする具体的な科学史研究をつうじて全体的科学史を手がけていたといってよいだろう。

 こうした全体的科学史研究の営みが現代科学技術批判の有効な学問的な武器にならなければならないという強い問題意識があった。彼の世代の科学史家には現代科学技術の前線配置に対決する科学技術観があった。そうでなければ全国の大学闘争であれだけ批判された学者の国家権力依存の体質とシステムを乗り越える仕事はでない相談である。

 さて、本書は20世紀以降、日本帝国主義のアジア侵略以前から国内の政治状況を踏まえながら科学技術の動向を浮き彫りにしたものであるが、結論的には、20世紀以降の日本の近代科学体制は侵略戦争下における科学動員に象徴される体制化と制度化に実体を明らかにしたことにつきる。それを浮き彫りにすために著者はイギリス、フランス、ドイツ、そしてアメリカの政治的動向とこれらの諸国の科学技術政策をほぼ均等に考察してもいる。

 著者亡き後、著者の科学の体制化とか制度化とかのことばが一人歩きしているけれども、いずれの諸国においても、政治体制内に科学技術が拘束され発展してきたことは同じである。著者の見解はあたりまえのことを実証しただけであると私は思う。

 しかし、さきにも述べたように本書が構想され執筆される過程をみると、『戦後日本の科学者運動』(中央公論社、1960)を執筆後、同じ問題意識から『日本科学技術史体系』(全25巻、第一法規出版社、1964~1970)の編集事業に参加し、同体系の第四・五巻(昭和期)を編集執筆した際の資料が使われまたその問題意識が持続していることに気づく。この時間的経過と過程を考えると、当時、著者を取り巻く日本の科学者運動が激動した時代である。科学者運動が激動するただなかの政治風土にあって「学問としての科学史」を先導しようとしていた著者がきわめて冷静にまさに歴史に耐えうる本書の執筆をすすめたことは賞賛すべきことだ。

 私は1981年、日本大学理工学部物理学科科学史研究室に国内研究中、西尾成子氏(日本大学)、板垣良一(現在、東海大学)吉岡斉氏(同、九州大学)とともに、生前、著者が仕事場に使っていた錦糸町のマンションを訪ねたことがある。奥様から遺贈された著者の所蔵本を生前勤務していた日本大学の科学史研究室に運ぶためである。著者の仕事部屋の机の正面にはアインシュタイン、ボルツマン、ローレンツ等々の大きな写真が掲げられていたと記憶する。私はこの仕事部屋で上記の著作が書かれたのだと直感したものであった。

 また、私はこうも思ってしまった。60年代以降、著者がいる大学自体が大きな社会的問題となり、また大学の外部では、多くの科学者が書斎を捨て反公害運動、住民運動にかかわっているやさき、そこから逃れるように書斎にこもって執筆していたことへの違和感である。私はすぐさま著者のようなアカデミズムの科学史家と、自らの存在をかけて反公害運動、住民運動、市民運動に関わっている科学者が連帯するときだと切実に感じた。この辺のことを著者はどう考えていたのであろうか。

 1970年に東京大学教養学部に科学史・科学哲学部で登場し、現代科学を批判的・歴史的に考察する新しい科学史の専門学部ができて、33年の時間を経た。その後の科学史の世界の動向を私なりにみていると、科学史の研究自体がアカデミズム体制のなかに完全に組み込まれ所詮は体制内学問に成り下がってしまったと思わざるを得ない。もっといえばそこで科学史の専門教育を受けた科学史家は、かつて著者が批判した御用科学者・科学史家になってはいないだろうか。しかも、科学史研究者集団はその生き方も思考も「ばらばら」と体制内化し、それぞれが大学内の特権的立場を保持・安住し、書籍・研究費・研究室を独り占めにしてはいないだろうか。また、一般民衆に開放する意識があるだろうか。とてもそうとは思えない。

 科学史研究をとりまくこうしたもろもろの環境をみていると、著者が本書の最後で遺言として残した「科学の前線配置を変え、科学を人民の手に取り戻さなくてはならい」という問題意識を継承する科学史研究者はいるのだろうか。みな物知りばかりが増えるだけで、科学の前線配置を変えるどころか、その物知り連中が多額の研究費を獲得し権力機構に積極的に加担し利用されることをむしろ喜んでいるとさえ感じるこんにちである。

 初めにも述べたが、私が本書を知ったのは反米軍基地活動を担っていた科学者運動を通じてであった。その彼らはそのご、一貫して科学者技術者の立場を保持し「科学技術の前線配置の転換」を求めて活躍したし活躍もしている。惜しいかな市民科学者高木仁三郎氏もそのひとりであった。この時代状況をみていると、夭折とも言える若さで他界した著者はそれでも書斎にどどまり続けたであろうか。それとも、「科学者運動の新たな組織運動形態」を創ることに精魂を傾けたであろうか。これを書いている私の目的と任務はそこにある。