一九七二年七月、評者は神奈川県にある米軍の補給廠からベトナム向けに搬出れる戦車阻止闘争にかかわっていた。多くの科学技術者が「ただの市民」の立場からすすんでこの運動にかかわった。当時、軍事研究に関係する科学技術者が告発されて、科学と社会のあり方が厳しく問われていた。
江戸末期から高度成長期までの科学の発展を時代と対応させて描いた本書の文章は、七十年初めに、科学雑誌『自然』に連載され、日本の科学技術者や市民運動家に大きな影響を与えたものである。科学技術は、資本主義、社会主義の問わず体制の内側に組み込まれながら発展したきた。著者は、それが二十世紀の日本では、どのような形で実現されていったのかを綿密に考察する。
たとえば戦時下においては科学者が造船、通信、原子力、気象、防災などの研究開発に動員された。そのなかで新たな科学技術が登場した。それが戦後の経済発展にも寄与した。また、その経済成長が深刻な環境破壊を招いた。このように、科学技術もまた人間社会のさまざまな考え方や実践によって決まるものであることが明らかにされる。
科学技術の学説がどのような社会的状況のもとに成立したのかを解き明かす仕事は科学史の本務である。日本における「学問としての科学史」を主導しその志なかばに四六歳で夭折した著者は、科学技術を国家から市民の手に取り戻そうと呼びかけ、人間的な科学技術のあり方を追求する。その姿勢は、没後二八年の今日でも本書は古びていない。