書評:池内 了『寺田寅彦と現代―等身大の科学をもとめて』(みすず書房、2005年1月) 2005年9月20日『化学史研究』第32巻第3号(通巻第112号)掲載

 著者は泡宇宙論を提出した著名な宇宙物理学者である。第一線の研究現場にいながらにして、多数の科学解説書および啓蒙書を書いているが、現代日本の物理学者のなかでは、突出した多産な物書き(文筆家)でもある。現代科学と社会のかかわりの諸問題にも強い問題意識から重厚な言論活動を行っている。近年、著者が提唱しているのは「等身大の科学」、「新しい博物学」、「文理融合(文理連携)の学問」であることは良く知られている。20世紀は物理学の革命の時代であったが、その革命が起こった最前線の研究は原子核物理学や素粒子論の領域であった。それらの研究手法は典型的な要素還元主義で行われてきて相当の実りある成果もあげてきた。

 しかし、近年になりその手法と思想では説明できない種々の現象が登場し、それとは対極にある複雑系の科学やフラクタル理論(全体論的思想)が要請され、流行にさえなっている感がある。科学研究の最前線は要素還元的な手法と思想のもとでは行き詰まり感があり、つぎつぎと「超」や「極」の接頭語をつけざるを得ない肥大化した事態になっている。つまり、この思考をいくら推し進めたところで、とどのつまりは認識論的限界に陥り、人類の自然観を転換させるような発見は望めない状況にあるという。

 こうしたどんづまりの閉塞状況をいかに乗り越え新たな道を切り開いていくかという問題意識から、著者は、物理学の先人のなした歴史的業績を真摯に学びそこからヒントを得ようとする。いわゆる、著者が提唱する等身大の科学、新しい博物学、文理融合、複雑系の科学、フラクタル理論などを暗黙的に提唱した人物の業績である。これらの種々の新たな科学の認識論的思考を希求する際、さきがけとなった人物がいた。今年で没70年になる寺田寅彦(1878-1935)である。寺田寅彦が生きた時代は、まさに先に述べた原子物理学の研究が花盛りのときであり、そのよってたつ思考態度は要素還元主義の思想であった。寺田寅彦は流行する研究動向に反発するかのように、きわめて身近な自然現象を深く考察する研究態度をとったことはよく知られているが、本書は、寺田寅彦の科学的認識を現代の科学のなかに復権させようとする試み、そこから現代科学の困難性を打開しようともくろんでいる。

 そこで著者は、若い時代から読みついてきた『寺田寅彦随筆集』全5巻(岩波文庫)を収集した『寺田寅彦全集』(岩波書店、1996-1999)のすべての随筆集を丹念に読み返えし、その膨大な随筆集の文章をテーマ別に分類し、「新しい科学」「技術と戦争」「科学・科学者・科学教育」「自然災害の科学」「科学と芸術」等々の項目を設定する。寺田寅彦の文章を虚心坦懐かつ忠実に再現・整理統合し、それらの文章に詳細な論評を加えている。

 著者と同世代の評者もまた岩波文庫版の『随筆集』の愛読者である。今回、あらためて読み直してみた。そのご、再び本書を読み直してみると、著者流の「寺田寅彦の随筆の読み方」のみごとな手引書になっていることを知った。

 評者は、著者は現代版「寺田寅彦」の文筆家だと思っている。おそらく著者もそれを意識・自覚しているはずである。そうでなければ、第一線の宇宙物理学者があんなに多くの文章を書く動機と問題意識も時間もないからである。数学を使用することではじめて科学的・実証的な学問であるとされる現代科学研究の最前線の思考態度に一石を投ずる問題意識もある。寺田寅彦の物理学と随筆は「別もの」と考えられがちだが、そうではない。日常の身辺に起こる何気なく見過ごしている現象を深く探求する思考の営みを執拗に追求した随筆は、一流の物理学でもあり文学なのだ。「科学と文学と人間」が渾然一体となって融合しているのである。著者も述べているように、寺田寅彦にとっては、科学者が文学に最大限に貢献できる「唯一の表現形式」は随筆であった。したがって、その随筆は物理学理論と同等の「価値ある研究」と考えるべきであると評者は考える。おそらく著書も同じように考えるから、多産な随筆活動を展開しているのであろう。

 それにしても現代版「寺田寅彦」の著者、そのひとりのファンである評者をも含む多くの人々が、没後70年も経過した今日でも、寺田寅彦の随筆に魅了されるのはどのようなわけがあるのだろうか。それはひとえに「等身大の科学」や「新しい博物学」には、科学的・文学的思考がちりばめられていることに気づき、それに安らぎさえ覚えるからではないだろうか。ともかく、本格的な「寺田寅彦の随筆の読み方」が登場したことを喜びたいし、そのエッセンスが、現代の科学技術や種々の学問にも浸透していくことを希望している。