自然の美は科学を超えるか ―稲村良雄先生を送る― 2001年3月1日紀要『ばら』第39号掲載

 稲村良雄先生(理科・化学)が退職されることになった。私と稲村先生は本校における同期生である。1971年4月に13名の同期生とともに本校に赴任したなかの一人である。稲村先生が退職されると、残っている同期生は江口正信先生(体育科)のみである。2001年3月末でちょうど30年になる。この30年間本校では、公私ともに最も密接なおつきあいをいただいた。出身大学・教科が同じで、校務分掌も長い期間一緒だった。しかも年中、「日があたらない理科室」で一緒に生活した。こう長い期間一緒にいると、お互いなにも話さなくても、なにを考えいるか暗黙の内に理解し合っていた。いま、ここにその稲村先生の送別の言葉を書くことになろうとは夢にも見たことがない。いつも2歳ばかり年上の私が先であろうと思っていたからである。

 稲村先生は北海道旭川近郊の純粋農家(米作り)の次男坊に生まれた。ものごころついた頃には、親も本人も将来は大工になることを考えていた。ほとんどの友達は中学を出れば就職した。高校へ進学したは、同級生のなかで3人だけである。当時の北海道の貧村は、そういう時代と環境であった。ところが中学時の担任が「この子は勉強ができるから高校だけはあげなさい」という助言があった。学業成績が抜群だったのだ。しかし、当時の農家にはそんな経済的余裕はない。その結果、担任教師のはからいで、授業料免除の特待生として北海道龍谷高校に入学する。この当時から友人たちのなかでは最も寡黙で、もっぱら旭川近郊に咲き乱れる花々の美しさに魅了されていた。

 私も例にもれないが、経済的に厳しい農家では長男をのぞいて、次男以下の子供は、はやく家を出なければならかった。当然のごとく上京し都内のある会社に就職するととに、同時に東京理科大理学化学科に入学する。ほかの学生のように実家からの仕送りなど考えられないから完全な自活の生活である。手先の器用さと勘の良さもあって、パチンコのプロも経験した。大学の授業料はすべてパチプロの稼ぎでまかなった。当時の大卒の月給などよりはるかに高額な金額を稼いだ。みごとというより言うより言葉がない。それだけ、都会でだれの力も借りず、自活で生きることに必死だったのである。進路は研究職も考えたが、偶然のことから卒業と同時に本校に赴任する。1971年4月のことである。

 本校でもその実力はいかんなく発揮された。授業の明晰さは抜群である。しかも「思考の柔軟さ」に驚くばかりである。また、新人当時、私の化学の先生でもあった。こんなことがった。本校に就任して間もないころ、私は物理、化学、地学の三科目で20時間持たされた。いまから思えば無謀なことをやらされた。化学を教えるに当たり、教えを受けた。当時、先生が住んでいた品川のアパートに泊まり込み、翌日の授業内容を手取り足取り教えてもらったのである。その日の授業が終わるとまた、彼のアパートに行って翌日の授業内容を教えてもらう。この繰り返しが何日も続いた。先生はノートを取らない主義であった。その秘密はなんだろうと不思議に思っていた。アパートに行って理解した。驚いたことに、部屋の壁全面に、専門の化学関係の内容を書いた模造紙が張り付けられているではないか。それを先生は長時間、じっと眺め考えこんでいる。精神を集中させ熟考する姿は魅力的であり、恐ろしくもあった。すべを頭にたたきこんでいたのである。いつも近くにいるので、聞こえてくる先生の授業はむだがなく明晰で実にわかりやすかった。

 30年間も一緒に生活した理科室は特殊な空間であった。いつの時代でもそうだが、教師業などやっていると、生徒の前では、いかにも教師たるふるまいやら言動をはかざるを得ない場合が多い。その結果、深い自己嫌悪と自責の念に捕らわれることたびたびである。いや毎日と言ってよい。教師はその意味で悩み多い罪深い仕事でもある。みんな疲れている。そんな疲れている連中が頻繁に理科室を訪ねてきた。そして、ぐだぐだと愚痴をこぼしていくのである。理科の教員に限らず全ての教科の教員にまたがっている。いわば、理科室は癒しの空間であったのだ。その中心に稲村先生がいた。その癒しの空間で、ぐだぐだ述べた後、何事もなかったかのように、我をとりもどし仕事にもどっていく先生を何人も見てきた。もちろん、私もそのひとりである。

 癒しの空間は外へと広がることたびたびである。言わずと知れた酒席である。自らは他人には決して話しかけることのない稲村先生は、酒が入ると実に多弁である。宴席での言動でもはきわめて柔軟な思考が作用していた。わかりやすいことばでいうと、考え方がこりかたまっていないことだ。百人いれば百人の考え方があるのだが、それらの考え方を虚心に受け止め理解した。その上で、自らの考え述べる。なんと柔軟な思考をもっているのだろうと思ったことは数限りない。先生の人望はそこから来ている。私は先生の柔軟な思考に魅了され続けてきて現在に至っている。

 この柔軟な思考態度と自然科学の学問が、ある意味で相関関係があるのだろうか。かれは根っからの自然科学学徒である。いや学校や大学で教えられた学問のことではない。存在と感性、それ自体がそうなのだ。生けとし生けるもの全てを容認する。この数年、生活の場「理科室」での話題が自然界の植物の美しさや生き物の美しさに集中して行った。動植物の美しさをかたる稲村先生の言葉がしだいに熱気を帯びているのを感じていた。そのころからすでに退職を考えていたのかもしれない。自然界に生きる動植物がそれ自体でかもし出す美しさに、こころから魅了されてきたのだ。山も花も魚もそうだ。先生はこれから自然界の美しさを堪能する仕事(研究とビジネス)に転ずる。子供時代の旭川で体感した自然の美しさが、数十年して、先生のこころに再びよみがえり、自然の美は科学を超えると確信したのであろう。生物研究とビジネスが成功することをこころから期待している。

 最後に、御礼を申し上げなければならない。寡黙な稲村先生とはことなり、じゃじゃ馬みたいにうるさい私と30年も生活しなければならない宿命であったことは、どんなに迷惑なことだっただろう、と私は恐縮し恥じる。検討を祈る。では、また。