私が市民科学研究室(旧科学と社会を考える土曜講座)を知りかかわるようになったのは1993年ころであるから、もう12年ほどになる。この間、主体的に具体的な研究活動にかかわることはなく、あくまでも市民科学研究室の活動に時間の余裕があるとき参加したり、支援したりしつつ、いろいろ学んできたというのが実情である。その理由は、私の公務は都内の私立中学高等学校のフルタイム教育労働者(物理担当)であるからである。その授業のために市民科学研究室が発行する資料や科学に対する考え方を学び活用してきた。したがって市民科学を抽象的にたかるのではなくて、私にとっては中高校生相手の授業自体が市民科学でるといえる。さらに、1998年、もっぱら公務以外の休日を利用して「湘南科学史懇話会」なる市民の寺子屋的学問所を主宰するに及んでいるが、これはこれでかなりの労力と多大な出費を伴っているが、私がやりたいことをある程度はかなえられているのではないかと思っている。したがって、私の内面では、公務の教育労働者(物理担当)の労働と授業、市民科学研究室の活動、そして湘南科学史懇話会の活動はいったいのものである。私の内面の精神はこの三者の活動間を行ったり来たりしながら、精神の安定を図りつつ教員社会と子供たち、一般市民にたいじしてきたことになる。こうした教育労働者の生活にのみに没入することなく、ひろい社会的な活動としての市民科学研究室と湘南科学史懇話会の活動に関わりながらの「公務」の労働と教育に、ある意味では精神的な余裕をもってあたれたのは事実だし、単なる教科書だけの知識の伝達だけの授業ではなかったことは、私自身の長い教育労働者の生活にとっても、私の授業を受けた子供たちにも、「よかったことだ」と思うようにしている。いや、いまさら否定されたところで、どうしようもないからである。私なりに、良かれと思って、学校教育内に「科学と社会」の問題を意識的に導入してきたのである。
具体的にあげよう。私が教育労働者になったのは1971年である。ベトナム戦争がたけなわの時代であり、世界中で反戦運動が盛り上がっていたときであった。学問や科学のありようが厳しく問われた時代でもあった。当然、戦争と科学・科学者の有様の問題が重大事であった。この問題は今日でも重大な問題である。その後、時代は原子力問題(原子力発電所の事故)、環境問題(温暖化、酸性雨、エネルギー)等々が大きな社会的な問題となり国際的な政治的課題にもなった。これらが物理労働者の私の「授業の副教材」として登場したことは言うまでもない。その副教材の資料は、現代科学技術社会のなかで抑圧され被害を受けている人々が発するメッセージ・刊行物であったし、現在でもその姿勢は変わってはいない。しかし、時代は21世紀の革命とも言うべき、ITの時代が到来し、その急展開についていくのが精一杯であり、かつてのように、ゆっくりとその社会的意味等々を考える余裕がなくなり、それに追われているというのが現実である。このようなめまぐるしく急展開する科学技術に追い立てられるような生活を強いられる現実を冷静沈着に考察し、市民に提供する仕事は重要である。市民科学研究の意味と存在価値はここにある。市民科学研究室のますますの発展を期待している。2005年3月31日、34年間の教育労働者の生活に終止符を打ったばかりの私は、あらためて市民科学と学問の課題がどこにあるのかという課題に直面しているが、それに参加する多様な人々とともに考え行動し実践して行きたいと思っている。