論文:科学随想

目次

1.科学への視点
2.女と男の科学
 A 男らしさのおしつけ
 B 小説から学ぶ
3.科学的精神の変質
 A 日本における戦後の科学者運動
 B 1960年以降の科学者運動
4.科学と何か
高木仁三郎に学ぶ
科学は変わる
新しい知の地平を求めて
現代科学技術の怪物―放射能
二つの自然像―文学としての科学
おわりに
・・・・・・・・・・・

はじめに
 私はかって本誌に次のように書いた。「科学史家アレキサンダル・コイルの著書を丹念に読む作業を通して、現代科学技術の基礎的な概念である近代科学思想形成に関心を向けてきました。というのも16-17世紀の科学形成過程の理論的研究はとりもなおさず現代の科学技術社会の思想のあり方と密接にからむ問題を含んでいるからです」。

 ここ数年の近代科学の形成過程の研究を通じ、コペルニクスやガリレオやデカルトを経てニュートンをもってその枠組が、ほぼ出来上がる様子が多少は理解できつつあると思える。16-17世紀に形成された近代科学がその理念的・観念的な枠組を深めながら現代の科学へと「発展」するのであるが、その近代科学の最高の出来高である現代の科学技術に対する私の所感を述べてみたい。

 この「現代科学」への私の思い入れは「16-17世紀」の科学への思い入れよりも深い。というよりも緊張関係にあると言ってよいかもしれない。というのは、私達は現代の科学技術思想の枠組に否応なく支配され私達の価値意識がそこから逸脱するのを「社会的」に厳しく制限されているからである。

 私の少年期は戦後の民主主義の形成期に科学技術が大きな役割を果しつつある時代であった。学校教育の場で「男」にとっては数学や物理学が重じられていた。それは一重に発展途上の「科学技術社会のなかでの中堅」としての立場を要請されたものであった。「科学技術社会の中堅」という言葉を何度聞かされたかわからない。私も例にもれず、ただひたすら数学や物理学を他の教科よりも力を入れて学習することになる。今になって振り返れば、その思い入れはある枠組のなかでの「パズル解き」であった。しかし私は、その「パズル解き」を熱心に教える教師を尊敬し、それと異質の教師を意識的に排除してきた。

 その後「パズル解き」の少年期を経て大人になるにつれ、「パズル解き」を批判した教師のことが気になり始める。この二つの異なる教師像の間を私の意識はさまようことになるのだが、「物理学」という分野を専攻した私は、自分の専攻した物理学と科学技術がきってもきれない関係にあることに気づき、私に影響を与えてきた「二つの教師像」と科学技術の問題を重ね合わせながら考えるようになっていた。その思い入れをますます深めるようになったのは、上京し一年間の会社勤め後、勤労学生として仕事をしながらも送った夜学の学生時代であった。

 この間の諸事情をここで述べることはやめるが、その間の体験は私の心の奥底に根強く存在していた「二つの教師像」を自覚的にみつめさせるような大きな出来事で、善悪の価値が私の心の中で大きく変化するのを「実感」できるほどの大きな転機となる時期であったと思う。その意味では、「科学とは何か」という問題は、男・女・科学・社会という広い領域にわたることになる。以上のような時期を経た今、現代の科学技術についての私の考えを述べてみようと思う。

1.科学への視点
 昨年の卒業講演で言語学者田中克彦の講演「小さなことばへの旅」を聞いた。校務の広報係の仕事としてテープから活字化する作業を行ない、田中から多くのことを学んだ。田中はけっして話上手とは言えないが、言葉を慎重に選びながらのその語りは、私が科学を考える際の有力な視点を示唆するものであった。田中の言語を考える枠親はあくまでも「小さなことば」から出発し、「小さなことば」のたどる終末的な言語情況を、あくまでも「小さなことば」に思いを寄せながら述べる。しかも「小さなことば」を話す人々が減少すると共に、そこでつちかわれた民族的伝統と文化が「大きなことば」によって収奪され絶滅していくことに心を痛め、人類にとって重要な文化が失われていくような文明のあり方を批判している。

 日本語の問題に関しても、田中の視点は「正しい日本語を話そう」といった中央志向の言語学者の視点とは異なり、失なわれてゆく地方の文化的伝統と長きに渡る地方特有の生活環境のもとに成立した「方言」に限りない愛情を注ぐものだ。田中の著書を数冊買い求めて読んでみると、扱う対象に違いはあるにしても、それらの対象の間に共通している「考え方の枠組」はつねに同じである。

 田中はいぜんある雑誌に次のように述べている。

「近代の学問や科学が、そのきらびやかな術語で武装しながら我々の前に立ち現われるとき、そこで示される論や説には、素朴なしろうとの実感にさからうものが少なくない。科学が科学らしくみえるのは、それがしろうとの実感をくつがえすときなのだと言った方が適切であるかもしれない。実感とは日常性そのものではないか。・・・それだけではない。この数百年間は科学的認識に対する実感の敗北の歴史でもあって、科学は、実感が何一つ現実に対応していないということを説得的に示す数多くの実例を集積してきた。・・・科学的真理とは実感からむしろ遠いものであるという認識の支配の前に'実感はすでに批判のためのてことはなり得なくなっている。実感や経験のみが唯一のたよりである非専門家にとって、こうなると、科学の前にはつつしんで口をつぐんでしまうほかない。科学はいまや、まばゆい支配の機構となってしまった。・・・(途中略)・・・科学も人間の主体的いとなみである以上、そのいとなみは主張にもとづいており、主張の言語表現はエネルギーにありふれた象徴性を断念しないものだからである。ソシュールはその記号理論から、象徴性の問題を注意深-除くことによって記号の恣意性の原理を守り、言語理論もまた、限りのない遁走の路線の上に乗せたものであったが、この路線の上での言語学が、言語のより深部へと接近する道をはばむものはほかならぬ言語そのものであった。」(『展望』1977年3月号)

 私は言語学にはまったくのしろうとであるが、ここで述べられている「しろうとの実感」という田中の思い入れを素直に受け止めたい。言語の王道ともいうべき道をはずれ、王道の言語を解体し、言語学に「新しい道」を整えようとしているように私には思える。なぜ長々と言語学者をひっぱり出したかと言うと、田中の結論部での言語を「科学」に置き変えると、この文章は、そのまま、これから考えてみたい今日の科学技術の様相を示していると思えるからである。

 科学技術の歴史は、名実ともに、その客観性と実証性という認識の仕方において、科学を担う人間の持つ美や匂いや音といった個々人の個性的・感性的特質を根こそぎ収奪し、一つの原子化した無機的物体とする営みであった。この認識はデカルトの機械論的世界像にその源流を求めることができるが、この世界のもとでは、個人個人の情感が排除されつつ、人間的特質が説明される。

 いや次のように言っても良いかもしれない。――科学がこのような認識方法を内在的に持つが故に時間とともに「より善なる過程」すなわち進歩の過程をたどったのだと。デカルト、ガリレオ、ケプラー、そしてニュートンで、ほぼその枠組が完成をみる近代科学は、その認識方法をとりつつ、現代科学技術社会の有力な武器となって、ますます「しろうとの実感」を排除する方向へと向いつつある。私は現代の科学技術を貫ぬく近代科学の思想を考える際、田中に導かれつつ「しろうとの実感」の立場からその有り様を考えたいと思う。

2.女と男の科学
A 男らしさのおしつけ
 最近女性の社会参加はめざましい。新聞などによれば、世界のいたるところで女性はすぐれた仕事をし、自立化の一方をたどっているという。しかし長い歴史的な時間帯でみると、女性の社会参加がマスコミによって積極的にとりあげられるようになったのは、ごく最近のことである。しかも、日の当たる場所で仕事をしているのはごくわずかである。とりわけ日本のような科学技術先導型の政治的・経済的構造を持つ国では、男性社会の中で差別されている。産業によって異なるであろうが、企業内の労働時間は、西欧に比較しベラボーに長い。このような経済システムをとる国では、女性がフルタイムの労働時間に耐えることは不可能に近い。つまり女性自身に労働意欲があっても社会的仕組がそれを許さないという構造がある。

 西欧の労働組合のみならず、政権党の指導者達までもそのことを盛んに主張し始めている。したがって日本では、女性が社会に参加しにくい社会構造になっている。女性の男性依存の現象は科学技術立国をめざす国々に共通の現象である。この考え方は「しろうとの考え」であるが'科学技術立国と男性社会の関係を分析してみると、これまで長期にわたって言われたことでもあるが、'女性の抑圧や支配という構造が逆に見えてくるような気がする。

 このように考えてくると、科学技術を主体的に創造する科学者の内にある「科学的認識」や「科学精神」に実は、歴史的に見て女性への抑圧や支配という観念が内包されているのではないかと思える。換言すれば、男性の女性への抑圧や支配を歴史的に考察することによって、現代科学技術社会ひいては近代科学の特徴が明らかになるのではないかということである。このような問題設定は一見すると、短絡的に見えるかもしれない。

 ところで私は最近この観点とのかかわりあいで興味ある書物に出合った。イギリスのサセックス大学で「科学と社会」を講じているブライアン・イーズレーが書いた『Fathering the Unthinkable―-scientist and the nuclear arm race』(邦訳『性からみた核の終焉』(新評論)である。著者イーズレーは、はじめ原子核物理専攻の物理学者であった。彼は途中で核物理学者の道を捨てる決心をする。それは一九六〇年代のことであった。それまで西側で言われていたような、ソビエーは侵略的全体主義国家であり、そのソビエトから、西側の文明を守るためには、核兵器が必要であるという考え方に、十分な意義を見い出せなくなったときである。

 その後、現代科学技術社会における核兵器競争の分析へと進み、誰にも明らかなことだが、続行する核兵器競争の存在が、今人間が直面している多-の諸問題を解決する際の障害になっているという認識に基づき「科学と社会」の研究に入る。誰にも明らかな絶対悪としての核兵器競争はなぜ激化の一途を辿るのであろうか。続行する兵器競争は、早晩、人類と共存する多くの野生生物や惑星の双方に対して、宇宙的規模の核による大虐殺と計り知れぬ破滅をもたらして終結することは明らかである。

 このような核兵器競争の軍事科学に重要な役目を果した近代科学を考えるにあたり、イーズレーの論点は実に興味あるものである。

 彼はこう述べる。

「核兵器競争は科学的研究を追求し応用するという点において、大部分「男性的行動」であると言える。 近代科学は基本的に「男性的な営み」であり国家や団体が競争している世界では、それは人間同志の争いを抑制するどころか、むしろ、それに火をつける役目を果すのである。」

 この解釈を率直に受けとめれば、16-17世紀にその源流を持つ近代科学は「男性的性質」を帯び、この男性優位の理念の産物が絶対悪としての核兵器競争を生み出したことになる。これまでの現代科学技術に対する解釈は、主に、政治的・経済的な組織論の観点からなされるのが常であるが、この観点からだけでは説明できない。現に政治体制や経済的枠組が異なる国々でも、核兵器競争が存在するのではないか。そのようにイーズレーは男が女を抑圧する構造を歴史的に分析することによって近代科学思想を考える。近代科学が男性的性質を持つならば、女性的性質を持つのは何かというと、それは、自然であるという。この男性的性質を持つ近代科学が女性としての自然を女性の承諾もなしに暴力的・侵略的に女性のスカートをめくりあげてきた。そこにあるのは男側からの女側への一方的な価値のおしつけであり、それは「男らしさ」を確証するための、もっぱら男だけの儀式であり、男の証をたてることだけだ。さらにこの一方通行の男の儀式が男のみならず、女を含む人間には手に負えない「怪物」を創り出したのだ。このように自然を暴力的・侵略的に支配する男の行動様式は、近代科学の発生の時期とほぼ同じく生じたもので文字使用以前や未開社会には見られなかったことである、とイーズレーはいう。

 そして、近代科学とそれ以前の魔術の世界について、イーズレーは述べる。

「男性的科学は、科学が成立する以前の魔術や儀式とはちがう。この男性的科学をとりわけ危険なものにしているのは、科学が真に作用すれば現実に有効であるがゆえに、科学は、歴史上、はじめて自然を支配する十分な力を捷供する一方、それらの力を、人間性を悪用するために使う人々にも提供してきたのという点である」。

 このときから男性科学は女性なる自然の最奥へと暴力的に侵入し「すばらしい子供達」を生み出していくが、その行為が極限化したところに、男性にも女性にも手に負えない怪物を生み出すことになる。

 ここで詳述する余裕はないが、近代科学を創造してきた科学者の言葉から、「おしつげ的」な男性的な精神を読み取ることができ、現代科学技術の様相を説明できる、とイーズレーは考える。このような男性―女性の抑圧構造の分析から、彼はアメリカにおけるマンハッタン計画や長崎・広島の原爆投下の問題の分析へと進んでいく。

B 小説から学ぶ
 近代科学は男性的科学であり、男性が女性なる自然を暴力的に支配してきたというイーズレーの構想は実におもしろい視点である。しかも彼はこの構想を19世紀の有名なSF小説『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー著)に求めているのを知ればなおさらである。

 私は小説などあまり読まず、読んでも著者の意図がよく理解できないのであるが、イーズレーの視点のおもしろさにさそわれて読みなおしてみた。この小説はあまりにも有名ではあるが、原作は欧米でもほとんど読まれることはなかった。にもかかわらず「フランケンシュタイン」という名前がよく知られているのは、原作が改作され映画となったこと、それにSFの世界において、この小説がH・G.・ウェルズ以前の古典のひとつにあげられているからである。ここでもまた「しろうとの読み取り」になってしまうが、後半で現代の科学者の自然像の認識を述べる際に必要と思えるので簡単に、この小説のあらすじを述べておこう。

 主人公フランケンシュタインは純粋な研究を追求する科学者志望の学徒である。彼はこれまでの学者達の研究にあたらず、無生物から生物を創り出すという、いわば生命の神秘を発見する仕事にいどむ。この間、人間的愛情や自然の美しさにも心をむけず、ひたすら生命の神秘を明らかにする仕事に心をうばわれる。苦難に満ち狂気地味た精神で彼はとうとう無生物から生物を生み出すことに成功する。ところが創り出されたこの生物は不運なことに、およそ人間の姿とは言えない異様な姿と巨大な体を持つ「怪物」であった。この怪物は人間的なやさしさと情感を、人間と共有しょうと自ら努力するが、その姿のあまりの巨大さと醜さのために、人間から恐怖の的となり逆にすべての人間によって迫害される。逆上した怪物は、自分の創造主フランケンシュタインに限りない敵意をいだき、創造主の家族を次々と殺害していく。フランケンシュタインは純粋な研究を求め自らの様々な情感を犠牲にまでして創り上げた研究の成果である怪物によって、不幸のどんぞこにおいやられる。

 これが簡単なあらすじであるが、作者シェリーが言いたかったとはなんであろうか。一つには、純粋な研究を通しての知識の獲得に関すること、もう一つは科学者の責任の問題があげられよう。科学者フランケンシュタインは、普通の人間が持つ愛や幸福や自然の美しさを破壊することによって、自らが破滅の道をたどることを余儀なくされる。

 ここでは真理の探求と平凡な幸福とが対立している。自然の摂理をあるがままにながめるのではなく白然の最奥まで侵略的に追い求めるという、知識獲得のための科学者の精神とは一体何であろうか。この精神こそが「男性的」であり、その行為が男性的科学である。男性的科学の創り出す産物が人間の世界とは相容れない「怪物」を生み出すのだ。

 ここで男性的科学を営む男性的精神をはっきりと示す言葉を、当の科学者フランケンシュタインに述べさせてみようー怪物と創造主フランケンシュタインとの戦いの途上にあって怪物を追う創造主が北極に近いところで疲労と絶望のもとにあるとき、北極探検中の船長ウォルトンに助けられる。この船が悪条件に遭遇する。船員たちは探検は危険なので南へひきかえそうと船長に申し出るが、それに対してこの探検船のいわば客人フランケンシュタインが「英雄的」な大演説をぶつ一説である。

「君たちは船長に何を要求するのかね。それでは君たちは、そんなに容易に君たちの計画を変えてしまうのかね。君たちはこれを光栄な遠征と呼んだではないか・・・。危険と恐怖に満ちているからであった。危険と死がそれをとりまき、それを君たちがのりきり征服せねばならかったからである。将来君らは人類の恩恵者として歓呼されるはずであった。ところが今はじめて危険を想像しただけで、さっそくしりごみし、寒気と危険に耐えるだけの力をもなかった人間として言い伝えられることに満足するのだ。寒さにちぢみあがって暖かい暖炉のそばへ帰っていったとね。なにそんなことなら、これだけの準備は必要じゃない。・・・-おお!男になれ、男以上のものになれ、目的をしっかりつかまえて、岩のようにしっかりしろ。家はどうにでも変わる。きみたちの額に不名誉の格印をおびて、自分の家族のところへ帰ってはいけない。戦い征服した英雄として帰りたまえ!」

 男以上になれ、というこの象徴的な男性的精神は、男と女の健全な関係を作らない。一歩進めれば、男と女は社会的な生活を共有しないのと同じように、家庭的な生活も共有しないのである。そこには女の科学と言うべき観念はみじんもない。女性を排除する男性的科学は自ら破滅する運命にあるのである。イーズーは最後に「我々の文化は、基本的に男性的性格を持っており、近代科学はその切断面である」と述べている。

3.科学的精神の変質
A 日本における戦後の科学者運動
 日本軍国主義は男性的精神をみなぎらせ、ギラギラとした栄光を求めて海外侵略をはかってきたが、1945年、その野望は完全にくじかれる。この海外への拡張主義の精神は、イーズレー流に言えば、「極限化された男性的精神」と言ってよい。その精神は侵略的・暴力的に自然と人間を支配した。その結果我々の前に生じたものは、自然と人間をとりまくすべての生態系を破滅させるものであった。「男性のおしつ的」な軍国主義が崩壊し、一転して、米国型の民主主義が登場することになるが、一夜明ければ、すべての価値が転倒し、長きにわたって神格化された人物が、人々の前に平然と姿を現わすことになる。

 その有様は、まるで子供だましの様相を呈しているが、この男性的精神の変わりように、この時代に生きたすべての人々の精神はとどめようもないほどの動揺をきたした。しかも戦後、その精神は姿を変えつつ、万世一系をもって、脈々と生きながらえている。

 さて横道にそれてしまったが、話を「科学」にもどそう。まがりなりにも戦後の民主主義の基礎が成立するうえで、科学者たちの民主主義を求める運動は大きな役割を果したと言える。この辺の事情は多くの論者がこれまでなんども述べていることでもあるので、著名な物理学者の動向にかぎって述べてみたい。日本で最初にノーベル物理学賞を受賞したのは湯川秀樹であるのは誰しも知っている。湯川の同期生に朝永振一郎がいる。彼も後に量子電磁気学の理論によって、アメリカのシュゲインガ-やファイマンなどとともにノーベル物理学賞を受賞した。

 この湯川・朝永という京都大学を中心とする物理学者に他に武谷三男、坂田昌一らがいる。彼らの研究は相互に影響しあいながら、日本の物理学を世界的レベルまで引きあげた。その研究システムは、これまでの日本の科学者集団には見られない民主的なものであった。彼らの研究は、物理学的研究に限定したものでなく「研究体制と物理学的研究の総体」を射程に入れた学問の方法論や科学的認識論までをも、その考察対象とした。

 このような事物への価値観や人間論まで含めた研究システムを作り出したのは、日本では彼らが初めてであり、そのシステムが物理学の理論にフィードバックするという好結果を生み出したのである。その後、日本の物理学研究は湯川・朝永・坂田・武谷などの素粒子論グループの研究体制を学びつつ発展することになる。その意味で彼らの研究態度は戦後日本の物理学研究に大きな役割を果したと言える。湯川も朝永もそして坂田もいまは故人となってしまったが、最近再び湯川や坂田の理論が西欧の物理学者や物理学史家から注目をあつめている。

 さて以前の日本の素粒子論グループのなかで、戦前から今日まで積極的に社会的発言を展開してきたのは武谷三男である。武谷の言論活動は物理学や自然科学全般にとどまらず、'物理学、'科学史、科学方法論、技術論、芸術論、文化論などまで及び、その考察領域は実に広い。物理学者がマスコミを媒体として、自らの科学精神を多様な分野へと拡大し融合させていき、独自の体系的な論理と哲学を構築していく。体系的な論理と哲学の有効性を説いていく。科学思想はこれまで思想界では小さな存在であったが、武谷の広範な言論活動によって思想界に大きな位置を獲得するにいたった。

 この武谷の言論活動はなにゆえにそれほどに大きな影響を与えたのであろうか。それは思想界が混乱している最中にも、様々な諸分野への武谷のアプローチの仕方が、「絶対的な科学的精神」とも言うべき実証性、客観性を基調とする認識の上に立っていたからであろう。そこでは、あくまで科学の「有効性」が強く主張され有効性を持たないものは排除される。

 武谷は述べている。

「これまでの技術論は、哲学者の単なる感想であるか、また経済学者の便宜上の設定にすぎず、技術そのものを進める上に何らの力も持たないものであった。それゆえ技術論は技術家を納得せしめず、'むしろ技術者の瑚笑を買うのが落ちであった。正しい技術論は技術家をして技術そのものの発展をなさしめる有力な指導原理でなければならない。かくして技術論は技術家の実践にとって有効であり、それゆえまた技術家を納得せしめるものでなくてはならない」(『弁証法の諸問題』)。

 この文章を読んだ科学者はおおいに勇気づけられるが、別の見方をすると歴史家や哲学者に対する物理学者・科学者の優位性を説くものである。手短かに言えば社会的変革を強力におしすすめることができるのは唯物史観の科学的・合理的精神を持つ科学者とりわけ物理学者によってである、とまで語る。この思想は物理学者を中心とする職業科学者の社会における優位性を説き、歴史家や哲学の議論は言葉のあそびであって何ら有効性を持たないというものである。

 武谷のこの考え方は、物理学を絶対的なものとみなす物理学帝国主義的な観念であるが、このような私の考えは、いまになって、そう否定的に思うのであって、私自身も武谷の言論活動から学びそれを支持するひとりであったからである。

当時の私はまさに武谷理論の熱烈なファンであった。何度も言うように、今になれば、武谷理論についての功罪は言えるけれども、いずれにしても武谷の言論活動が、戦後科学者運動と思想界に与えた影響は絶大である。私が科学の認識を変える転機になった動因も武谷の論理と哲学に遭遇したからである。

B 1960年以降の科学者運動
 1960年代の世界的規模の大学改革運動は、科学者の研究体制や科学的認識を大きく変えるインバクトを持ったことは記憶に新しい。この運動は日本にかぎらず、米国カリフォルニア大学バークレー校、シカゴ大学を拠点とする米国の学生を中心に進められ、それが全世界に拡散していくという世界的現象であった。当時の政治情勢はベトナム戦争に対する世界的な反米運動がたけなわであり、この政始的事情とも重なって、研究者のみならず学問のあり方そのものが弾刻された。学問論、知的営利の批判まで含む幅広い世論動向によって、科学者の科学認識は大きく変えられることになった。

 その意味で1960年代は大きな社会的ダイナミズムを持った時代であったが、その見取図をここに示す力量を私は持ち合わせていない。ここでは、この混乱のなかにあって、真剣に科学者としての存在を問い、その後、現代科学技術批判を真剣に展開することになる科学者の動向を述べてみょう。

 武谷に代表される戦後の科学者運動と大学改革運動(1960年代)後の科学者運動は大きく異なっている。前者の科学者たちの考えるのは民主的社会を作るには、具体的に有効性を持つ物理学者が主導権をとる必要があり、その他の専門家はあてにならないというものである。つまり、武谷は戦前戦後を通じ、一貫して反権力の思想を貫徹したのだが、彼の科学運動はあくまでも物理学者の「科学的精神」を絶対化し、この科学的精神を人間の諸活動に普及することにある。

 このような思考の枠組にあっては、研究者としての職業すなわち職業科学者の存在そのものに疑問をはさむ余地は全くない。これに対して後者の運動は科学者の「科学的精神」のあり方のみならず、「職業科学者」の存在自体にまで力を及ぼすきわめてダイナミックな運動である。当然これまで言い尽されてきた絶対的科学的精神が解体され科学者の「知を求める」ことの意味をも問題にされる。このような「科学的精神」という科学主義が批判され客体・相対化されていく過程は、自然発生的に生じたのではない。

 その原因は、そう単純ではない。だが、私自身の科学についての考え方が変わらざるを得なかったのと同じく、その変化の過程は、1960年代の時代的情況の過程と同一歩調をとったと言ってよい。どの世界でもそうだが、政情が安定するのを最も欲しているのは国家権力であり、その安定化政策が民の欲求や人権を支配するようになるのは政治の常識である。そこは人間的価値や美や情感が抑圧される構造があるが、その構造の矛盾が当時の若者や思想界に暴露される。若者は実に観念的に行動するものであるけれども、その感性は大変ナイーヴであるゆえに鋭い。彼らの観念的ではあるけれども鋭い感性は、良識ある科学者をつき動かさざるを得なかったのだ。表面的で具体性にとぼしい言い方になったが、「科学の変化の過程」は職業科学者ないしは集団の主体性に原因があるのではなく、その時代の政治的・経済的な諸要因が重なりあった複合的で動的な社会事情に求められるべきだ」私は言いたいのである。

 この時代の社会的事情の変化の過程と科学者の認識を考えるとき、まず科学史家広重徹について述べねばならない。広重は京都大学理学部物理学科出身で、湯川の最後の弟子であった。彼は学生時代から物理学と社会の関わりの問題意識を持ち、前にのべた武谷三男の熱烈な信奉者であった。物理学者として出発するが、後に物理学それ自体の研究をはなれ科学史(物理学史)家の道を歩む。好きで好きでたまらない物理学を広重はどうしてやめたのであろうか。 広重は述べている。

「もともと好きで物理学をやろうとしていた私が脇へそれて科学史にもっぱら取り組むようになったのは、職業的な物理学の世界に身をおいてみて、こんな物理学はいやだと強く感じるようになっていったのが一つの大きな理由であった。なぜ「いや」と感ずるのか、「こんな」とはどういうことなのか。それを明らかにしていくことが、私の科学史であったとも言えるだろう」。

 その後の広重の仕事を簡単に述べておこう。一つは物理学理論の歴史構造の分析、日一つとは、近代日本の科学技術体制を歴史的に分析することである。広重の物理学史の研究は、日本ではまだ市民権を持たない科学史研究を世界のレベルまで上昇させたと言われる。科学技術の側面では「科学の体制化」とか「野生の科学」とかの広重流の概念を積極的にうち出しているが、これらの仕事は、自らの内にある武谷流の「科学的民主主義」や「科学的精神」を超えるために自らに課した仕事であった、と私は考える。

 いずれにしても広重の科学史への関わり方はまことに深いものであって、物理学史の世界にはじめて「活動家」的な視点からの科学を展開し、それはもっぱら武谷流の「物理学帝国主義」の思想を乗り越えようとするものであった。彼の科学思想はどういう方向性でどこへ行くのであろうかと、科学に関心を持つ誰しもが注目したのであるが、残念なことに、広重は46歳の若さで他界するのである。誠に残念でならない。しかし、彼の思想は、これから私が述べようとする科学批判論者のなかに脈々と受けつがれ、その思想がたたき台にされながら「新しい科学運動」を引き起こす源動力ともなっている。

4.科学とは何か
 私はこの「科学随想」を出来るかぎり、「私」に即して語りたいと思ってきたが、しかし、書き出してみると、知らず知らずのうちに、一般論に筆が走りだし、気がついてふり返ると、きわめて具体性のない表面的な文章になっていることに気づく。というのも他者に語る言葉というものは、自らの現場における体験やそこで生ずる精神の体験を、客体化・相対化し、私流に述べていかないと、全くリアリティーをもたないからだ。文献学的な資料をいくら集めてある事象を論じても、私にとって事象の何たることかがにじみ出てこない。その意味では、先人の文章から学ぶこともいいが、同時代の人間との話し合いや討論から学ぶことは、量的にも質的にも、前者の比ではない。

 それは私の性格なのかもしれないが、同時代の人々との交わりから私が学んできたことは絶大である。私をとりまくすべての人間と自然は、生き物として私にせまってくる。生きている事柄はある特有の色彩をはなち意を発し、まさに体感的に語りかけてくるからである。

 さて、これまでどちらかと言えば文献学的な資料や読みかじりの書物を私流に解釈して科学を考えてきたが、「体験的」な語らいや人々の交わりから学びたいと思う。私の身近に『ぷろじえ』という同人雑誌があった。この雑誌は1969年9月に創刊され10号まで出た。その当時私はこれまで述べてきた武谷や著書を仲間と一諸に読んでいたが、それはあくまでも、文献学的な知識であり、実体として私の精神にせまるということはなかった。たしかこの同人の編集会議にはじめて私が出席したのは4号が出た直後だと思う。この『ぷろじえ』の創刊号で同人の一人の梅林宏道はこう述べる。長い引用になるが、重要な問題が提起されているのでご容赦願いたい。

「我々を未開の恐怖から解放してきた等の科学技術が、現代の人類に文明の恐怖を、それも最も根源的な非人間化という形をとって、もたらした。・・・いま、知識人はこの事態を真正面から見据えることから彼等の仕事を始めなければならない。慣性と化した彼等の論理の根本を問いただし、人間の知識とは何んであったのかをもう一度問い直さなければならない。そのことはとりも直さず、知識人個人個人が自己の内部に向って『いかに生きるべきか』という切実な問いを発することを意味している。とりわけ、高度に分化し専門化した科学技術分野に携わる知識人にとって、この問いかけは深刻である。
 現代の科学技術は『いかに生くべきか』の問いとは全く無縁のところに精巧な世界を形造ってしまった。彼等はそれを無視するのではなく彼等個人の社会変革の意志に統一しなければならないのである。そのとき彼等の遭遇する問題は彼等をこれまでになかった科学技術者へと変容させる可能性を孕んでいる。
その変容を恐れない数人の科学技術者がここに『ぷろじえ』同人として集った。我々にとって物質の中で原子や電子の集合がいかに光や音や電場や磁場と相互作用するかということに興味をもつ人間と、我々の置かれている状態に心底から怒り、そこから突破口を切り拓きたいと願う人間とは同じ一個の人間なのである。我々はこの統一を守り貫きたい。現代においてこれを守るためには我々は闘わなければならない。そして闘いは我々をもっと大きな歴史の場に連れ出さずにはおかないだろう。我々の直面する問題は科学技術の領域を大きく越えて同じ人間性の回復を目指して立上った多くの人々との連帯をいやが上にも要求するだろう。」

 梅林がこの文章を書いたのは、おそらく30代の前半であろう。実に硬い文章である。同人誌の発刊の辞というよりも、知識人に対する闘争声明ともとれる。それだけこの当時の科学者のおかれた立場が厳しく問われていることを示している。彼等同人はすべからく職業科学者=知識人の構図で、その批判の的を自分達にも向けていくが、この文章から、武谷や広重の視点とは全く異なるものを読み取ることができる。

 この『ぷろじえ』の発行の最中'彼らの身辺に重大な事件が発生する。1972年8月、相模原の米軍基地(相模補給廠)からベトナム向けの戦車が搬送されたのだ。この経過は長くなりそうなので省略するが、彼らは相模原市民とともに「ただの市民が戦車を止める会」を作り、数年にわたり戦車搬出拒否の戦いを、まさに体をはって行動を起す。この運動は、全国の様々な所で多様な諸問題をかかえる団体とも連動して大きなうねりをみせることになるが、この問題にはこれ以上立入らない。彼らの科学者としての運動が武谷や広重などの運動と異なるのは明らかである。

 後に彼らは職業科学者の道を捨てることになるが、それはまことに厳しい選択である。当時私は時には彼らと行動を共にしていたが、私自身大きなとまどいを感じざるを得なかった。この問題を現在の私が述べるにはあまりも荷が重すぎるようだ。いずれにしても私にとって『ぷろじえ』同人(梅林宏道、山口幸夫)との出合いによって科学技術の問題を考える転機となったことは確かである。

高木仁三郎に学ぶ
 梅林の文章に端的に表明されている観点は、物理学の研究者として自然の見方と、目前にある社会的事象に対する見方を、「生活」のレベルで統一しようという観点であり、多くの研究者のもつ研究内容と生活とは別のものであるする二元論を乗越えようとする。この二つの自然像を統一する営みが、彼らの科学技術論であり、この考え方は、この当時(現在もそうだが) の彼らの共通の認識である。

 高木仁三郎は『ぷろじえ』創刊当時から「科学技術論」を展開している人物である。高木は東大理学部で核化学を専攻し、10数年間、職業科学者として大学内の研究に関わるが、その後、二つの自然像を求める作業を自らに課し、職業科学者の道を捨て、生活のレベルで市民や「しろうと」の人々と共に科学技術の問題を考え始めることになる。とりわけ現代社会の最重要課題である核兵器競争や原子力発電の難問に、生活者としての立場から活発な言論活動を行なっている。また高木は、ここ十数年間、集中的に多くの著作を残しているが、その文章は大変わかりやすく「しろうと」の私にでも、高木の認識の深まり様がよくわかる。それは現代の科学技術批判論者の象徴ともいえるものなので、高木の著作を中心に科学について考えてみよう。

科学は変わる
 高木は自分の立場を次のようにのべている。

「実際に現場に置いてみると、原子力を人間に使いこなせる技術として定着させるのには、その科学的基礎があまりにももろいと痛感しました。<原子力時代>が言われるようになり、原子力の産業化・商業化が急ピッチで進められようとしたわけですが'、済的・商業的な要請だけが先走り、現場ではまだきわめて初歩的・基礎的な所で問題が片付いていない。そしてそのアンバランスが時代とともに深まる一方ではないか、と感じられたのです。」「私が一番こだわっているのは、人と人との関係を傷つけたり、自然に対して、侵略的・破壊的でないような科学や知のあり方は、どんなものか、どのようにして可能となるのか、といった点です。その方向とは対照的な原子力開発に反対していくのは、私にとっては当然のことですが、単に反対というだけでなく、それとは別の科学や知のあり方、もっと自分に引きつけていえば、専門家としての利害のために自分の人間的全体を歪め、社会的な関心から眼をそらすことによって初めて専門家として純化していく、そういったあり方ではない生き方や行動を自分なりに追求したかったからです。」

 こう言う高木の発想はどこからくるのだろうか。梅林と同様、高木の発想は'職業科学者の存在自体が問われた当時の社会的事情から学んだものであろう。この発想を先へ進め、科学的自然認識の客観性や普遍性や数量性が科学の最大の武器であったこと、原子力問題やそれに関わる放射能の問題に言及したあと、この科学的認識の持つ二つの柱、客観性・普遍性という認識は、自然の認識の仕方のあるひとつの限定された約束ごとの世界であって、それ以上ではないと具体例を出して述べている。

「たとえば、利根川から水を採ってきて、そこから純粋な水を取り出し、これを分子や原子に分解し、さらには、水やその中の不純物や、岸辺に繁殖する植物についての個別的な情報をいかに集めた.ところで、ある地域を流れるイメージを総合的に再現できないのです。この種の感得・認識の操作は、科学の苦手とするところであり、むしろ、歴史の記述'一編の詩、一枚の絵画の方が、利根川についての包括的で豊かなイメージを与えてくれるでしょう。」

 これが科学者の視点かと思えるほど、自らのこれまでやってきた分析的な知を相対化している。むしろ文学者の持つ情感的イメージだ。もちろん'戟後の民主主義に大きな役割を果した科学的民主主義者武谷三男にはみられない認織である。これまでにも述べてきたように'武谷の自然認識は分析的な知を「有効」に使うことを求めたが、高木には、そのような「知の有効性」それ自体を一度解体し自然を総合的に「実感」として認識しょうとする「心的作用」がある。ではこの高木の「心的作用」は何を媒介にして生じたのか、これが私が最も関心のもっていることなのだが、高木の著書を読み進めていくうちに明らかになるであろう。

新しい知の地平を求めて
 科学の客観性・普遍性という科学的認識に変わる「新しい知の地平」の方向を探ってみよう。高木は方向として、「不平等を減らすこと」、「自然と人間の総合化」、「実践を媒介とした知の相対化」という知の枠組を設定する。

 「現代の科学技術は、多くの場合、人と人との間の平等を促すよりは、多様なやり方で、差別ないし、差別感を助長してきました」(不平等を減らすこと)。その具体例として、公害問題が表面化したとき、科学者の多くは、「被害者側」ではなく「企業側・加害者側」の立場に立ってきたという事実をあげる。これは公害裁判を調べれば明らかなことだが、これが説得力をもつのは、高木白身がはっきりと「被害者側」に立って行動している「科学者」であるからだ。

「一般大衆にとっても、科学技術の生れてくる過程に主体的に参加し、自ら意見をそのデザインに反映させていく余地はますます少なくなっているといえます。人々はただ、結果としての「成果」を受け入れ、電化製品や自動車などの商品化された枠組の内側でのみ、わずかに選択の自由を発揮しているにすぎません。このような主体的な働きかけの喪失が、はっきりと抑圧として人々に感じられるよぅになって来たのが現在の状況だと思います。」(抑圧を減らすこと)

 高木はこのイメージをさらに発展させ「自然と人間の関係の総合化」という知の方向性を示す。科学は自然の生き物としての生存の質を高める方向にいくのではなく、自然と人間を別個のものと考え対峠させるという枠組の狭さが歴史の発展の中で矛盾として現出した。それは遺伝子組み替えの実験や炭酸ガスの発生による気温や気候の変化にみられる。

 生物の進化の流れを破壊する方向に、人間自身を順応させるという、この人為的要素による自然の造り変えが、自然な生物という人間の生活に決定的に対峙するところまで進行している。このような観点から、高木は「生態系の総合的な営みの内側」に、われわれの生と生活を位置づけ、組み入れる」という立場を明らかにする。

 この立場は、原子力発電や遺伝子組み変え実験等々の自然を改造する立場とは全く異なる立場である。そのような立場における知=科学は「実践と密接に結びついており、絶対的な知」がひとり歩きするのを防ぐ、そのような知のあり方が可能になっていくのは、人々が共通の実践に立ちうることである」という(実践を媒介とした知の相対性)。

 このような知を求めて高木は、専門家としての科学者の道を放棄し、つまり一個の市民・住民の立場に身をおき、反原発の運動に精力的に関わり、非専門家の人々との共通認識を求めていく。現代科学の巨大化の象徴としての原子力発電に対する内在的・外在的批判は、けっして分析的・要素論的手法ではない。科学的知の結晶といわれる現代科学技術の前に、生活権をもおびやかされている住民とのはざまにあって、科学者的体質がしみついている自己の実証主義性を、科学技術的実践の中で、自己検証しょうとする手法である。

現代科学技術の怪物―放射能
 私の手もとに高木の『プルトニウムの恐怖』(岩波新書)、『危機の科学』(朝日選書)がある。この二冊は同時期に出版され、高木の科学的実践の過程と科学的認課が具体的かつ詳細に述べられている。前著の第四章「核文明のジレンマ」で、現代科学技術の怪物としての放射能について、次のように述べている。

「プルトニウムは、この世で最も毒性の強い物質のひとつ、とよくいわれる。・・・その毒性の評価は未だ専門家の間でも大きく意見がわかれるところだが、どんな評価をとってもブルトニウムが「地獄の王の元素」の名にふさわしく、超猛毒の物質であることはまざれもない。・・・このような大きな毒性が生じる最大の原因は、その放出するアルファ線である。アルファ線は、その通過にそって電子をたたき出すが、これが放射線のもたらす生体に対する悪影響の主な原因である。このような放射線の作用を電離作用と呼んでいる。電離作用が生体結合に与える破壊・損傷効果によって、いろいろな障害がもたらされているのである。」

 こういったプルトニウムを作り出す科学は、発ガン、環境汚染、科学の情報管理、労働者被曝、放射性廃棄物といった、人間にとって絶対悪としての「怪物」を作り出していることを立証する。プルトニウムという物質を一般の我々はよく知らないので、もう少し高木に聞いてみよう。

「このプルトニウムが満ち満ちた工業社会において、たった35グラムの物質が、10億人分もの許容量にあたるのである。35グラムものといわざるを得ない。そこがブルトニウムのプルトニウムたるゆえんである。・・・直径一ミクロン以下の酸化プルトニウム微粒子の一個一個を規制の対象としなくてはならない、という人さえいる。」

 この猛毒物質が我々市民には全く知らされることがないまま、今後ますます増大し、なにくわぬ顔をして我々の身近なところに存在する。しかも、ここが最も重要な点であるが、この放射能は、通常の化学反応によって、「化学処理」することができず、何万年、何十万年もこの地上に存在することになる。このような猛毒物質を作り出さなくてはならない我々の工業文明とは何んであろうか。

 ここが意見がわかれる今日の重要な問題である。連日、新聞・雑誌等々で論じられている、いわゆるゴミ「放射性廃棄物」の処理をめぐる問題は、きわめて重大な社会問題となっており、そのしまつをめぐって様々な「あらそい」が起きている。今日の工業文明を支えるエネルギーを原子力発電に求めるかぎり、必ず、この猛毒性をおびた「ゴミ」が増大し続け、しかも通常の化学処理の方法がとれない。

 この放射性廃棄物というゴミの問題はどこにしわよせがいくのであろうか。それは一種の「いじめの構造」をとって現われている。アメリカ、日本、フランス等の大国は、このゴミを南太平洋の島々の近海に捨てようとした。これに対して南太平洋の島々の人々は、この大国の侵略的・暴力的なやり方に抗議行動を起している。大国はこの抗議行動をかわすために、島々の人々を「金」で買収しょうとしている。この構造は「いじめ構造」でなくして何んであろうか。このゴミの問題は、政治体制の異なるソビエトや中国でも同様である。まさにメアリー・シェリーの「怪物」が我々の前にはっきりとその姿を現わしたのだ。

二つの自然像―文学としての科学
 現代の科学技術思想という枠組のなかでは、形態は異なるにせよ、前記のような人間には手に負えない「怪物」が必然的に生じる。そのような「怪物」を作り出させないような「新しい科学の枠組」を求めることが我々に課せられた仕事であろう。この仕事は言葉で示すほど容易なことではない。人間の感性とはほど遠いところまで「進歩」してしまった科学的認織を相手に、いわば孤立無縁の闘いを要するであろう。

 戦後の科学者運動は常にそのような情況にあったが、この項をしめくくるにあたり、私の最も関心事である「新しい知」の枠組を求めて、その可能性をみつける作業を続ける高木の「心的作用」を考えてみよう。その心のさまよいを高木は『わが内なるエコロジー』(農山漁村文化協会、人間選書)において、赤裸裸に述べている。私はこの著書を前にして、一人の科学者が自己の精神を厳しくみつめ、科学者の立場を越え、いわば文学の領域へ入りこんでいく、その心のさまよいに、感動の念を禁じえない。

 これは私の感傷であろうか。少々長くなって恐縮だが、彼の独白を聞いてみよう。

「私にとって自然とは何だろうか。この間をめぐって私の心が揺れ動き、ある種の紡復へと旅立ったのは、いつ頃のことであったろうか。そもそも自然とは何か、といった一般的な問に対する答を求めていたのではない。私の前に二つの自然があった。そのどちらが私にとってほんとうの自然なのか。私の脳裡に焼きつい原風景ともいうべき自然は、赤城山である。私は群馬県前橋市に生れ、十八歳に東京に出てくるまでずっとそこで育った。赤城山と利根川の町である。とりわけ、赤城山は私にとって強烈な存在であった。・・・わが家の窓を開けるとちょうど窓枠にはめこまれた一幅の絵のように、赤城山の姿があった。青い山というには近く、緑の山というには遠く、妙に赤味がかった山肌を示していた。・・・東京に出てから赤城の山の姿をみたいと、ほとんど渇きにも似た衝動を覚えたことも少なくない。穏やかな冬の日々はかえって落着がなくさえあった。そしてあのカラッ風は、私の心の奥底でいつもカラカラと吹きすさんでいた。それが私の自然であった。

 この原風景ともいうべき心境は高木にかぎらず誰にでもある風景である。だが人々は、都会に出ることによって、自らの原風景を意識的に排除しようとするものだ。それは、人々の心の中には「大きさ」と「はなやかさ」への絶えざる欲求が働くからだ、ともいえる。

 一方、高木は職業科学者として、もう一つの自然に出合う。「職業科学者としての道を選んだとき、私はもう1つの自然に按ずることになった。そこにあるのは、私の研究対象としての自然、いわば実験室的な自然であった。それは生きた自然からはぎとられた、固く冷たい物体であった。」

 この実験室的な自然は、自分にとってほんとうの自然ではない。しかし、彼の心にはその自然が現然として存在するのだ。この二つの自然像、彼の脳裡に焼きつけられた山の姿、つまり「わが故郷の自然を通して私の感性と肉体にすみついた自然像と実験科学者として日々を通じて私の中に形成された科学的な自然像」とを、可能なかぎり統一する仕事に彼はとりかかる。

 反原発運動の中から「新しい知のあり方」を学んだ高木は、ここでもまた、現代の科学技術のもとで抑圧されている東北の漁村の人々との交わりや生活から、自らの内にある二つの自然像を「実感」として結びつける手がかりを得る。それはこれまでのような科学論や自然論といった書誌的な方向ではなく、旅を通してさまざまな人たち、さまざまな自然と出合うことによって示唆されるものである。

 この旅を通じて彼は、自分の有り様を科学者・文学者宮沢賢治の世界に照らして行き、賢治の世界に入りこんでいく。だが、賢治と高木は、時間的にも空間的にも異なる次元にあり、そのことを十分承知して、彼は賢治の世界にある科学のイメージを自らの世界で実現しようとする。「そうやって、一連の旅を総括しながら、私の思索は、再び私自身のことへと戻ってきた」と高木は述べているが、この言葉はもはや科学者の言葉ではなく、実践的な哲学者・生活者の言葉である。三木清の言葉の「哲学は現実から出発し再び現実に帰ってくる。その空間をいかにうめるかが哲学の問題である」の現代版である。

おわりに
 私の科学についての観念は、いわば夢遊病者の観念のようなもので、宇宙の中に不規則に散在する星々のようなものだ。それは散在する星々を自覚的にながめ、その体系が織りなす色彩を私的に受けとめて述べることにする。

 ここ十数年の科学技術の発展はめざましいが、その科学技術の持つ自然認識は、何度も述べてきたように、自然を侵略的・暴力的に支配し、人々の中に抑圧構造を生み、男女間に性的分業を作り出していることが明らかになった。私達が「小さな科学」「小さなことば」をどのように声高らかにさけぼうとも、「男性的」で「抑圧的」な構造図を持つ自然認織が我々「しろうとの生活」のレベルまで貫徹され続け、我々はその枠組を知らず知らずのうちに身につけてしまっている。

 その内なる感性に対して「実感的」に生態系の一部として出発することで、「新しい知」の方向をさぐらなければならない。この仕事を私は、イギリスの核物理学者ブライアン・イーズレー、言語学者田中克彦、科学者梅林宏道、同じく高木仁三郎などの人々を引っぱり出して、その手がかりにしようとした。ふりかえってこの四者の言動を調べてみると、扱う対象は異なっていても、多くの点で共通した視点を持っていること、さらには彼らは、すべからく「新しい自然認識」を求めていることに気づく。くしくも彼らは私より少し上の年代の同世代である。その意味では、ここでもやはり、人間の事物や世界に対する認識の仕方というのは、次のようなものであることを、新ためて思い知らされる。

「多くの進歩史観や啓蒙史観のいうように、自然科学は、人がとらわれのない目で虚心担懐に自然を観察しそこから法則性を読み取り帰納と演樺の操作を通して体系化したことによって出来上ったものではないし、したがってまた、そのようにして人類は古代から一歩一歩と自然の謎を解き明し知識を蓄積し、近代にいたってはじめてとらわれのない目と合理的な推論を身につけて近代科学を開花されたわけでもないだろう。そうではなく表の概念枠と評価基準とを持って自然の複雑な諸相を人為的に理想化しそこに法則性を読み込んで作り上げたものが自然科学であり、しかもその概念枠や評価基準は人間の社会的関係のなかから生れているのである。したがって一つの理論体系は、自然の一つの読み方を表わしているといえよう。科学のある時点での現在高は、いかに精巧で完備に見ようとも、その概念や道具立ては歴史的・社会的に制約されたものでしかなく、その科学にもとづいて形成された世界像が超時間的・絶対的に妥当するというのは迷妄にすぎない。」(山本義隆《重力と力学的世界》現代数学社)

 この観点に立つならば、我々の「新しい知」を求めるという価値判断もまた、一つの歴史的・社会的産物であろう。私は科学における「新しい知」を求めている現代の様々な人々から学びつつ、私自身にとっての科学のイメージを豊かなものにしたいのだ。16-17世紀の科学革命期に生じた西洋の自然観は、人間中心主義の自然観であり、人間が自然を意のままに作り変えることを善とするものである。このような自然観のもとでは、人間自身までも破滅の道を歩まざるのを得ない。いま必要とされているのは、人間が自然に対して優位性や抑圧性を示すような自然観ではなく、人間と自然が共生的で相互に交感し得るような自然観である。とは言うものの、この理念を現実の生活の場において、どう進めていくのか。これが最も重要な問題なのだ。最近、エントロピーとかエコロジーなどという言葉がよく使われるようになった。

 ここに詳述する余裕はないが、この運動もまた、この理念を実現しようとする一つの知的・生活的な営みであろう。ギリシャの時代から、「自然観」の転換が人間の価値基準の転換にも結ながり、その自然観はもっぱら男性中心の自然観であった。その意味でフェミニズムの自然観の提示する理念は、今後ますます重要性を増すであろう。

 未熟な議論をグジャグジャ述べてしまった。ご容赦願いたい。