私は動物を飼ったことがない。だから、子供の時から初老の現在まで長きにわたり、犬を飼っている友人に聞いてみた。友人いわく。犬は人間に一番に従順な動物で、家族の一員であり、癒しの存在だ。かわいがればますます従順になり、いじめれば寄り付かない、アイ・コンタクトで十分に気持ちが通じ合い、喜びや悲しみの感情をストレートに表す。親が亡くなっても涙を流さない人間が、愛犬が死ぬと号泣する場面をたびたび体験してきた。
ペット霊園に行くと人間が顔負けする豪華な墓があるほどだ。世の中には、ペットを飼う人間は社交性がないとか、友人が少ないとか、独立心や自尊心がないとか、いう人間がいるが、彼の場合はまったく逆で、多くの愛犬家の人々と交流することができている。お前が今、読み考えているらしい、哲学者の『動物に魂はあるのか-生命を見つめる哲学』とやらの設問自体が愚問なのだ。「魂はある」に決まっているじゃないか。愛犬家の友人の返答はある程度は予想していたが、聞いたこと自体が藪蛇だったようだ。おそらく、ほとんどの愛犬家は程度の差はあれ、この友人と同種の感情を持っているものと推察する。
いささか、友人の単純明快すぎる返答を聞きながら、本書を論評するのはつらい。しかし、フランス語圏の科学思想と生命倫理学を基調とする、多数の重厚な生命哲学書を刊行され、私自身も多くを学んできた哲学者でもあるので、身を入れて読み込んだが、先の友人の単純明快な答えとは真逆で、その思索の道筋は相当に複雑な回路をたどるあまり、その論理を追跡するのに苦労する。そもそも霊魂とは何かを感得するのはなかなか困難だが、まずは、アリストテレスの霊魂論から始まり、セネカ、プルタルコス、モンテーニュなどの霊魂論、デカルトの動物機械論を基軸にして、ライプニッツ、ヴォルテールなどの霊魂論をへて、現代のハイデッカー、デリダ等々の霊魂論まで論じきる。その詳細な分析と論理には頭が混乱するくらいだが、最後に、これらの哲学者の歴史的霊魂論を俯瞰し、現代の生命論にとって動物霊魂論はどのような現代的意味を持つのかを議論している。
しかし、長い分析と解説の道程を経ながらも、著者の結論はあっけなく、きわめて単純で常識的なことを言って終わっている。単純で常識的な結論とは、先にみた私の友人の感情とほぼ同位相に舞いもどっていることである。しかし、そうは言っても、何よりの本書の特徴は、動物愛好家ですら考えも及ばない動物霊魂なる存否を、先人の哲学者は、どのように考え論じ著述してきたかを、ごく普通の常識人に示すことで、人間と他種の動物との関係性を再確認させる大きな学問的役割を果たしていることはまちがいない。よほどの狭い特定時代の生命論を研究する偏狭な専門家でもなければ、存在自体も知らず興味もない、多量のフランス語文献に登場する学者の人物像と霊魂論を次々と抽出し、手際の良いコンパクトな日本語で知らせてくれている。これは紛れもなく学者の仕事である。
最後に、私は長年、近代科学の源流はデカルトの徹底した自然的機械論にあると認識してきたが、本書の論述によって、人間以外の動物が、痛みも感情もない機械だとする、吐き気をもよおすほどの虐待的振る舞いを、具体的に知ると、ますます近代科学思想の延長線上にある現代の科学技術思想の深層には、これと同種の人間機械論を無意識に容認する精神が忍び込んでいるようにも想える。