書評:唐木田健一『1968年には何があったのか-東大闘争私史』(批評社、2004年7月10日) 2004年9月5日『科学・社会・人間』No.90 掲載

●価値観を転換させた時代の誠実な生活史・青春群像-あなたとは友達になれる。

 著者は1946年に長野県に生まれる。1966年東京大学入学、1970年同理学部化学科卒業、1975年理学博士。現在、企業の技術部門に勤務の傍ら、メタサイエンティストとして活躍中である。1968年は、著者がちょうど大学3年生のときである。東大の場合は駒場(教養学部)から本郷(専門課程)に進んで来たばかりである。本書は、1968年5月から1969年1月までの、ほぼ一年間の「備忘録日記」である。著者と同世代の私はこの期間は、夜間は東京理科大学(物理学科)の学生、昼間は東京大学宇宙航空研究所(材料科学研究室)の末端労働者である。当時の言葉では「勤労学生」である。同研究所を退職したのが1969年7月であるから、ちょうど2年間勤務したことになる。だから、著者の「備忘録日記」の時期を包み込むように完全に重なっている。

 研究所は駒場といっても離れていて、教養学部は井の頭線の「東大駒場前」にあるのにたいして、研究所は小田急線の「東北沢」、井の頭線の「池ノ上」からほぼ等距離にある。研究所には学部学生はほとんどいないので、静かな場所である。同じ東大にいたということになるが、環境はまったく異なる。著者は時間に拘束されない自由な身分の学生である。私は時間に拘束されているフルタイム労働者である。したがって、静かな研究所にいても自由が束縛されている私は、自由な学生たちのいる駒場と本郷の様子をまったく知ることができない。テレビ・新聞報道でしか知れないのである。

 何十年も経過して初めて、私は同世代の著者と知り合い、私が主宰する湘南科学史懇話会に参加していただき講演までしていただくなどの付き合いから、たまたま、本書を原稿の段階で見せてもらう幸運を得たのである。この原稿を読み始めてすぐに夢中になって読んでいる自分に気がついた。なんとそこには、「普通の学生」が本郷で何を見て何を感じて何を問題にしながら生活していたのかが、正直・誠実に述べられているからである。まずもって私は親近感をもった。と同時に嫉妬した。この歳になってもなおかつ、何でも自由に話せる友達を得たような気分である。よく書いてくれたとも思った。なぜそう思ったかというと、私から見て一般的に秀才と見られている東大生の普通の身体感覚で書かれた本書によって、当時の本郷で起こっていることが手に取るように理解できたからである。「そうか、あなたにはそういうことがあり、そういうことが問題であったのか」と思ったのである。

 著者の「備忘録日記」は1969年1月24日(金)で終わっているが、私は、その3日前、の1月21日(火)の夜、全国から駆けつけた何千人もの学生・労働者とともに日比谷公会堂で開催された「東大闘争―労学市民連合集会」に参加していた。その場で東大全共闘議長の山本義隆さんが後に語り継がれる衝撃的な演説をやった。内容は省くがこの集会が引き金になり、宇宙航空研究所を退職し、日雇い労働者になった。この集会は私の人生途上で大きな転換点となったのである。詳しくは、拙著『科学を開く 思想を創る-湘南科学史懇話会への道』(柘植書房新社、2003年)を参照されたい。

 大学時代ぜんぱんの著者は普通の学生がそうであったように保守思想の持ち主であった。著者によれば「価値相対主義を確信し、「理性」に疑問を覚え、《現に存在するもの》をそれとして認めるというものである」。当時の私はこんなむずかしい表現を知る由も理解することもできなかったが、今になって見ると、たしかに、そうだろうと思う。しかし、はっきり、「保守思想」から抜け出し「思想的転回」を自覚するのは「東大ポポロ事件」を詳しく知ってからだという。まあ、「教育県の長野」の教育ある親のもとに生まれた、受験秀才の思想などというものはこんなものであったろう。しかし、物事に誠実に向き合い思考する著者は、本郷で生起するすべての事柄にたいして、ひとつひとつ熟考すること通じ、保守思想から徐々に解放されていく。私には想像もできないことだが、自由時間がありまわるほど持っていた学生は、見も心も身辺に生起するすべての事柄に真摯に向き合い、自分が徹底的に考え抜き納得するまでそれを貫き通す営みから思想を創り出していく。いや、意識的にそうしたのではなく、そのときどきに遭遇する東大闘争のこまごまについて、熟考する過程でおのずから思想・価値が生じたというのが実情であろう。

 その具体例は、女友達の影響から『サルトル著作集』の読み込みと理解に悪戦苦闘し、アインシュタイン、ディラック、朝永振一郎等々の物理数学書を熟読する世界にはまっていく。その当時の若者の感性をよく体現している。たとえば、「きのうの午前中からほとんど徹夜で、矢野健太郎訳のアインシュタイン『相対論の意味』を読み終えた」などという文章を読むと、なんという恵まれた身分であろうか。なんともうらやましい。こんな時間は私には皆無であった。望むべくもない希望であった。

 これも、親からの仕送りで生活していた昼間の「普通」の学生の実態であろう。こういう私の思い込みに。読者は違和感を持つに違いない。しかし、私には、この思い込みは、非常に重要であり根源的である。これは私の思考スタンスの原点である。それは現在でも続行中である。広くは「労働と学業」を一対のものとして考える体質になっているからである。

 この十数年間、著者は数々の科学哲学の著作を刊行しており、それらの内容を真摯に読み込んでみると、著者のメタサイエンス論の内実は、この自由な大学生時代のめぐまれた多様な体験に基づいていると確信できる。その意味で、著者は「実にすばらしい自由な学生時代」を送ったのである。いい時代を生きたのである。ここまで述べながら、私自身に即しても、著者にしても、あるいは誰であっても、共通して、若い時代における生活環境と体験は、そのごの人生途上でおそろしいほど決定的な思考態度を決定付ける。

 本書は、私から見て、秀才東大生の「普通の生活」を赤裸々・誠実に独白した生活史・青春群像でもある。なんとすばらしい1968年であったことか。鈍才の私のそれ以来の三十数年の生活史は、この時代精神のなかで燃焼しきれなかったことがらを、ささやかながら、生涯をかけて実現しようと種々に努力する苦しい日々であった。

 しかし、それにしても著者は三十数年も時間が過ぎたこのときになって、なぜ、はるか昔の備忘録日記を公にしたのだろうか。私が想像するに、「保守思想」から「思想的転回」にいたる思想的土壌を培った全共闘運動と全国の学生運動とそれに主体的にかかわっていた人々の青春群像を、昨今の超保守化・反動国家の政治状況の時代だからこそ、再確認したかったのだろう。その証拠に著者は、労働者の解放などといった抽象的正義では行動しないことを個人的規範とすることを覚悟したと述べたあと、「政治的行動に当たっては、自分にとってのりこえるべき具体的矛盾を必ず確認することにした。その上で、私は、自分が為したことは一生引き受けていく覚悟をした」と述べているからである。実に硬たくるしい表現ながら、重大な「決意表明」である。私はこの言動を素直に歓迎し引き受ける。

 それ以後、下記にあげる著者の著作活動と言論活動は一貫して全共闘運動を継続中である。それに反して、著者に影響を与え人生観・価値観の転換をももたらした多数の同時代の人々の堕落振りを見てみぬ振りをできなかったのだろう。

 よくぞ、書いてくれた唐木田さん、あなたとは友達になれる。


著者の本書以外の作品は次のとおりである。
『戯曲アインシュタインの秘密』(サイエンスハウス、1982年)
『基礎からの相対性理論-原論文を理解するために』(サイエンスハウス、1988年)
『ネオ・アナーキズムと科学批判』(共著、リプロポート、1988年)
『サルトルの饗宴―サイエンスとメタサイエンス』(サイエンスハウス、1991年)
『化学史 常識を見直す』(共著、講談社、1988年)
『理論の創造と創造の理論』(朝倉書店、1995年)
『分数ができない大学生』(共著、東洋経済新報社、1999年)