論考:ヨハネス・ケプラー著『ケプラーの夢』(渡辺正雄・榎本恵美子=訳、原著1634、講談社(英語重訳)1972)の全貌を眺め読み、ケプラーの肉声を聴く。

 本書は英語翻訳版からの重訳である。原著はラテン語であり、その扉には、IOH. KEPPLERI MATHEMATICI OLIM IMPERATORII SOMNIVM, Seu OPVS POSTHVMVM DE ASTRONOMIA LVNARL. Divulgatum a M. LUDOVICO KEPPLERO FILLO, Medicina Candidato. ANNO M DC XXXIV. と記されている。『皇帝付き数学者、故ヨハネス・ケプラーの、夢、もしくは月の天文学に関す遺作―右息子 医学博士補、修士 ルードヴィッヒ・ケプラー出版―著書の相続人たちの出費により、シレジアのザ―ガンにて一部分の印刷を行い、フランクフルトにて完成、1634年』である。
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Ⅰ はじめに
Ⅱ 『ケプラーの夢』の総目次
Ⅲ ケプラーの息子のルードヴィヒ・ケプラーの献辞
Ⅳ ケプラーのことば
Ⅴ 「天文学的な夢に関するケプラーの註」をめぐって
Ⅵ おわりに
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Ⅰ はじめに
 ケプラーの著作(ラテン語)のうちで日本語訳が出ているのは、現時点では、『宇宙の神秘』『新天文学』『宇宙の調和』(工作舎)、そして今回取り上げる『ケプラーの夢』だけである。前記の3冊の書はいわゆるケプラーの惑星運動をめぐる議論が主な内容であったのにたいして、今回の書ばかりは、かなりおもむきがことなる。この書はケプラーの没後に義理息子(ルードヴィッヒ・ケプラー)によって編集刊行されたものである。しかも、その内容はきわめて特異なもので、もし人間が地球以外の月または他も惑星の住民となった場合、この地球とその他の惑星はどのように見え運行するか、という、まさにケプラーの同時代の人間には想像もしないことを夢想したケプラーがいわば、科学推理小説(SF小説)として書いたものである。したがって本書はSFの先がけとも言われている書である。

 ところが本書の中味を読んでいくと、特異な構成になっていることに気がつく。その特異な構成とは、本文がきわめて短い1本の小説から成っていることであり、その短い1本の小説とは「ヨハネス・ケプラーの夢もしくは月の天文学」である。さらに特異なことは、この短い小説が完成したあと、ケプラーは実に膨大な註を付記し、この小説の中味を裏付ける科学的根拠をえんえんと書いているのだが、その意味では本文の小説のみでは完結できなかった「未熟な作品」ともいえる。また、この小説があまりの奇妙さとそれが大きな要因となり、母親が魔女の疑いで魔女裁判にかけられる、という異常な事態をもたらした。それではたまらんと思ったケプラーは命がけで渾身の「科学的な註」をほどこし、母親の救出運動を起こすのであるが、結果的には救出に成功するものの、母親はまもなく死去する。

 したがって、繰り返えすが、本書の構成をふまえると、本書は読みにくい。というのは本文を読み進む途中で、そのつどその註に当たらなければならなくなる。だから失敗の作品だと言えるのだろう。しかし、その異様な構成と内容を味わうのも、人間ケプラーを知るための大きな手がかりになるだろう。

 さて、ここでは、その短い本文(全文)と、それに付記された膨大な註のなかから、最後の部分に付記された長い註(全文)をあげることにした。本書はラテン語版原典の直訳でなく英訳翻訳版からの重訳である。

Ⅱ 『ケプラーの夢』の総目次
・訳者序言
・夢、もしくは月の天文学に関する遺作
・ヨハネス・ケプラーの夢もしくは月の天文学
・レヴァニアからデーモン
・プリヴォルヴァ半球について
・スブヴォルヴァ半球について
・天文学的な夢に関するケプラーの註
・地理学的もしくはよりふさわしくは月理学的附記
・付録への註
・訳者註
・ケプラーの生涯
・訳者解説図
・索引

Ⅲ ケラ-の息子ルードヴィッヒ・ケプラーの献辞
 ヘッセン領主、カッツェネレンボーゲン、ディーツ、ツィーゲンハイン、およびニッダの伯爵、もっとも著名にして高貴なるフィリップ大公殿下に。もっとも寛大なる大公殿下に

 私の父である皇帝付数学者ヨハネス・ケプラーは、この大きな地球の運動に関する研究に疲れ果てたとき、月の天文学とその運動について夢み始めました。私はしかし、この夢がどのような前兆をもたらしたかは知りません。ですが私ども彼の子どもたちにとっては、それはまさしく悲しみでありました。もっとも、彼にとっては、この前兆の結末は楽しいものであり、非常に望ましいものでありましたけれども。と言いますのは、この『夢』が書かれて印刷される途中で、父は深い永遠の眠り(ああ!)についてしまったからです。彼の魂は月の領域を越えて天界にまで昇っていきました(と私どもは願っております)。あとには私ども子たちが、戦争の傷跡の中、人生の苦悩のただ中に置き去りにされました。しかも世俗的な富はほとんど何も残してくれなかったのです。『夢』の印刷の仕事は、著名で学識を備えた私の義兄、ヤーコブ・バールチ医博が引き受けてくれました。彼はシュトラス大学の数学教授に任命されておりました。ところが彼もまた死に至る病におかされて、仕事の完成をまたずにこの世を去ったのです。

 とかくするうちに、私はオーストリアの男爵といっしょだった旅行を終えてドイツに戻ってまいりました。二年間というもの、私は身内の者たちの近況について何も耳にしませんでした。フランクフルトからルサティアに手紙を送り、彼らがまだ元気でいるのか、どのように暮らしているか知らせるようにといってやりました。すると驚いたことに、四人のみなし子を抱えた貧しい寡婦である私の継母が身を寄せてきたのです。しかも物騒な時期に、生活費が高くついて非常に住みにくい土地にです。母はこの『夢』の原稿を未完成なままに携えており、私に援助を求めました。ですが私自身が他の人々の援助と支持を必要とする状態でした。母はわけてもこの『夢』の原稿を完成してくれるように私に求めたのですが、父と義兄に死をもたらしたこの『夢』から私がいったいどんなよいことを望めるというのでしょう。けれども、息子はその父親の世に知れえわたった栄誉ある名を隠すべきではありません。もし息子が自分の力で父の名声を高めることができないとしたら、せめてできることだけそれを保持すべきでありましょう。こういうわけで、私は母の願いを退けることはできず、それを目標とするまでになりました。

 けれどもこの著作にはまだ後援者がありません。たしかに軍人の中には後援者は見つかりません。彼らはさしあたり月球の天文学には少しも興味をもっていません。それよりも、小銃弾や砲弾に吹き飛ばされたり傷つけられたりしないよう警戒する必要に迫られているのです。したがって、この著作が援助を受ける方として、もっとも著名な貴大公殿下より以上にふさわしい方は他には考えられませんでした。殿下は数学の研究に熟達しておられますし、戦争の騒乱からも遠く離れておいでです。そのうえ、生前の私の父に暖かい御恩願をくださいました。ですから、私どもケプラーの遺児たちは、殿下が私どもとこの著作とを援助してくださらないことはないと確信しております。もっとも高名なる殿下に、私どもはへり下だってこの身とこの『夢』とをお委ねする次第でございます。全能なる神の恵みふかい御計らいによって、殿下ならびに妃殿下が心身ともにお健やかであらせられますよう、また御領地が敵の攻撃や軍隊の侵略をすべて免れるよう、切にお祈りいたします。このゆえに、もっとも高貴なる殿下、神と国とのために末長く御?栄あらんことを。
    一六三四年九月一六日

フランクフルト・マインツにて
もっとも高名なる殿下のもっとも献身的なる下僕 
医学博士補 修士
 ルードヴィッヒ・ケプラー (本書、pp.15-17)

Ⅳ ケプラーのことば
〔本文〕
 一六〇六年のこと、ルドルフ皇帝とその弟君であるマティス大公との間に激しい争いがもちあがった。彼らの行為は、ボヘミアの歴史に見られる先例をまた人々に思いださせたのである。人々の関心が高まってきたことに刺激されて、私もボヘミアについて何か読んでみようと思い立った。そうして魔術の技で名高いリビュサをヒロインとする一編の物語に行き当たったのだ。すると、ある夜のこと、星や月を眺めてからベットに入った私は、深い眠りに落ち、その眠りの中で、市場を求めた一冊の本を読んでいるらしかった。本には次のようなことが書いてあった。

 私の名はドゥラコトゥスという。国は、古代人がチューレと呼んでいたアイスランドである。母はフィオルクヒルデといったが、最近なくなったので、私は自分があいだ書きたいと思っていたことをやっと書けるようになった。なにしろ母が元気なあいだは、注意して私にものを書かせないようにしていたからである。母がいうには、世の中には文芸を毛嫌いする悪人ども少なくない。彼らは、自分の頭が鈍いために理解できない事を中傷の材料にするし、また法律を人に害悪を与えるものにしてしまう。そのような法律による宣告を受けてヘクラの淵に果てた人も少なくないということであった。母は父の名前を教えてくれなかった。けれどもお父さんは漁師で、一五〇才まで長生きしたといったことがある。父が死んだのは、結婚して七〇年くらいたってからのことで、そのとき私は三才だったとか。

 私がまだずっと幼かった時分に、母は、私の手を引いたり肩にのせたりして、よくヘクラ山〔図1をみよ〕のふもとまで連れて行ったものだ。遠足に出かけるのはだいたい聖ヨハネの日の前後だった。このころには太陽が二十四時間中ずっと輝いていて夜がまったくなかった。多くの儀式をしながら薬草を集め、家に帰ってから母がそれを煮るのだった。母は山羊の皮で小さな袋を作り、それをいっぱいにすうと、近くの港まで出かけていって船長たちに売ってはその金で生計を立てていた。

 あるとき、私は好奇心にかられてその山羊皮の袋を切り開いてしまった。そうとは知らずに母は袋を売りに行こうとしたものだから、切り口から薬草やらさまざまなしるしを縫い取った麻布やらがバラバラとこぼれ落ちた。私は母のささやかな収入をふいにしてしまったわけだ。母はカンカンに怒ると、袋の代わりに私を船長に売り渡した。ところが、早くもその翌日には船は出港してしまったのだ。帆は追い風を受け、ノルウェーのベルガンあたりに舵がとられた〔図1をみよ〕。 そして二三日すると北風が吹き立ち、船をノルウェーとイングランドの間の海峡へと吹き送った。船長は、アイスランドの司教からの手紙をフヴェー島に住むデンマーク人のティコ・ブラーエに届けなければならなかったから、船はデンマークを目ざして海峡を通過した。私はといえば、まだやっと十四才になったばかりだったから、船のゆれや不慣れななま暖かさにやられてすっかりまいっていた。それで船が着岸すると、船長は私を手紙といっしょに島の漁師の手に託し、また戻ってくるからといい残したまま出帆してしまったのである。

 さて手紙を届けるとブラーエはたいそう喜び、次々に質問を浴びせた。ところがブラーエの話すことばは、二、三の単語を除くと、あとは今まで聞いたこともないことばばかりだったから、いったい何をたずねられているかさっぱりわからなかった。そんな私の様子を見たブラーエは、おおぜい置いている学生たちに命じて、私にしょっちゅう話かけるようにしてくれた。こうしたブラーエの親切と、二、三週間にわたる練習のおかげで、やがて私はデンマーク語がかなりよく話せるようになった。学生たちは矢つぎばやに質問してきたが、私も負けずにしゃべった。だがこれもみな、今まで見たこともないたくさんの物事に私が驚嘆したからであり、また学生たちの方でも、私が話して聞かせた私の国の珍しい風物をおもしろがったからなのである。

 とうとう船長は私を連れ戻しにやって来た。だが彼を追い返すことができたのは何よりだった。ところが私がいちいばん気に入ったのは何といっても天文学であった。何しろブラーエや学生たちは、すばらし器械を使って月や星を一晩中観察するのだ。それを見るにつけても私は国の母を思いだすのだった、母も絶えず月と親しく交わっていたものだから。

 ふりかえってみると、私の国はなかば未開国といってよいほどであったし、その中で食うや食わずの生活をしてきたこの私が、たまたまこういう機会に恵まれたことによって最も神に近い学問を身につけることができたのである。しかもここで得た知識は、さらに偉大なものへの道を切り開いてくれたのであった。

 島で数年過ごしたころ、私はとうとう望郷の念に耐えられなくなった。なにしろ私はここで学問を修めたのだから、故郷に帰って頭の古い連中の間で一旗あげることなどたやすいことではないかと考えた。そこで私は、後援者に敬意を表して帰国の許しを得てから、コペンハーゲンにおもむいた。ここで旅行中の道づれに出会ったが、私がことばもよくわかるし地理にも精通しているのを知って、彼らは快く私を保護してくれた。こうして国を出てから五年目に、私は再び故郷に舞い戻ったのだ。

 帰ってきてまず何より嬉しかったのは、母が昔と変わらず元気に暮らしていることだった。母は、自分が性急だったばかりに息子を失ってからというもの、毎日悲しみ通しだったという。だが私が生きてしかも偉くなって帰って来たのを見て、長い間の悲しみも晴れたのだった。折しも秋が訪れようとしていた。秋が過ぎると、私たちの国に特有な長い長い夜がやってきたのだ。やがてキリスト降臨の月に入ると、太陽は正午になってようやく昇り、すぐにまた沈むのである。こうして仕事を休んでいるあいだ母はつきまとってそばを離れず、私が推薦状を持って出かけるときもおかまいなしについてまえわるのだった。ときどき、母は私が訪ねた国々のありさまをたずねた。またときには天空についてもきた。私が天文学を勉強してきたことは母をこの上なく喜ばせた。そして、私のいうことと母の知っていることを比べては、もうたった今死んでもいいと叫ぶのだった。あとは彼女の知識を受け継ぐ息子がいるからというのであった。実際、母の知識こそは、彼女の持っていた唯一の財産だった。

 私は生まれつき新しい知識を吸収するのに熱心だったから、今度は母に向かって、母の術のこと、他からこれほどかけ離れた住民の中にあってそれを教えてくれた先生のことについてきいてみた。するとある日、母は時を見計らって、そもそもの始めから話してくれたのだ。その話とは次のようなものであった。

 わが息子ドゥラコトゥスよ、おまえが訪ねた外国ばかりが恩恵に欲しているわけではない。われわれの国もすぐれたものを受けているのだ。なるほどわれわれは、寒さや闇やそのほか不便な条件に縛られて生活している。おまえから明るく温暖なよその国の話を聞いて私はそのことを痛感した。だが、われわれの国には賢明な人たちが大勢いる。また、われわれのいうことをきいてくれる賢い精霊たちがいる。彼らはよその国のまぶしい光線やら騒々しい連中を毛嫌いして、こちらの薄暗い物陰を慕い、われわれになら親しげに語りかける。彼らのなかでも主だった九精霊がいるのだが、そのうちの一精霊を私は特によく知っている。いちばん穏やかで、いちばん欠点のない精霊だ。二一の文字を使って呼び出すことができる。彼の助けを借りれば、私はどこへでも行きたい所へ一瞬のうちに連れていってもらえるのだ。だがあまり道のりがあってついていくのを、尻込みしてしまうような場合には、その場所のことについて彼にたずねさえすれば、さながら自分が、そこにいるのと同じようにいくらでも知識を得ることができる。おまえが自分の目で見たこと、伝え聞いたことと、書物で読んだことを私に話してくれると同じように、たいていのことは精霊が私に話してきかせてくれたのだよ。そうだ、精霊がよく話していたあの国へおまえといっしょに行ってみたいものだ。話では何もかもおもしろそうだよ。そしてその国の名は「レヴァニア」だと母はいった。

 何をためらうことがあったのだろう。母が魔術の師を呼び出そうかときいたとき、私はすかさず賛成したのだった。私は腰をかけて、旅行の全計画とその土地についての説明を聞くため心を落ちつけて待った。時はすでに春であった。月は新月で、太陽が地平線に沈んだかと思うともう輝き始め、金午宮〔雄午座〕において土星と会合していた。母は私から離れると、いちばん近くの十字路に立った。そうして大声をあげて願いをこめたことばを数言となえた。やがて儀式をすっかり終えるともどって来た。そして、右の手のひらをひろげて黙っているようにとの合図をしてから私のかたわらに腰をおろした。すると、私たちが(われわれの契約に従って)頭に服をかぶり終わるか終わらないうちに、どこからともなく不明瞭な声が聞こえてくるではないか。その声はアイスランドのことばで次のような話をきかせてくれたのだった。(本書、pp.20-24)

〔レヴァニアからのデーモン〕
 五万ドイツマイルかなたの空中に、レヴァニアの島がぽっかり浮かんでいる。ここからそこへの道、あるいはそこからこの地上への道はめったに開くことがない。だが道が通じた時には、われわれは精霊の仲間であればいともたやすく行き来ができる。ところが人間どもを運ぶとなるとこれは大仕事だ。生命の危険をはらむといっていい。だがどうしても道連れにというのなら、まず無気力な人間とか、デブとか、めめしい奴ははじめからお断りだ。反対に、いつも馬術の訓練に余念がなく、航海するなら遠くインド諸島にまで出かけるといったぐあいに体を鍛え、しかも堅パンやニンニクやら干魚などうまくもない食物で命をつなぐのを常にしたたくましい面々を選ぶのだ。とりわけ、若いころから、雄山羊や二股の枝にまたがり、ボロボロの外套をひるがえして広い世界を夜な夜な飛び回って過ごしてきたようなひからびた老婆を好んで選ぶ。ドイツ人はどいつもこいつもいただけない。しかし、スペインの頑丈な連中ならまず合格だ。

 レヴァニアまではかなりの距離があるが、全行程を行くのに四時間あれば十分だ。それは、われわれはいつも忙しいので、月の東側が月食になり始めるまでは出発しないことにしているからである。しかも旅の途中でもし月食が終わって光がすっかりよみがると、せっかく出発してもまるで無駄骨になってしまう〔図6を身よ〕。このようにほんのつかぬ間のチャンスしかないのだから、めったに人間を連れていけないし、われわれに心底から身をまかせる者しか許されないのだ。こういう人間を、われわれが一団となってみんなの力で下界から天空へと押し上げる。出発にあたって人間の体はたえず激しいショックを受ける。なにしろ、大砲で空高く打ち上げられて海や山を越えるようなものだからである。それゆえ前もって麻酔剤やアヘン剤をかがせてたちまちだけ尻と胴体がちぎれないように、胴体から頭から飛んでしまわないように、そしてショックが四肢の分散するように、四肢を按排(あんばい)にしておかなければならない。次に新たな困難が出てくる。極度の寒さ、それに呼吸困難だ。だが、寒さはわれわれが生まれながらにもっている力でやわらげられるし、呼吸は湿った海面を鼻孔に当てておけばどうにかなる。さて、こうして旅行の第1の階段をこうして切り抜けると、それからはずっと楽になる。その時になると、われわれは人間どもの体を外気にさらしてわれわれの手を離すのだ。彼らの体はちょうどクモのように丸くなる。それを、ほとんど、われわれの意志だけで転がしていくのだが、ついにはそれ自身が目的地に向かって自然に進むようになる。だがこの前進も、あまりに遅すぎてわれわれにはほとんど役に立たない。そこで、先にもいったように、われわれの力で早く動かしていくのである。しかし、その次からは、われわれが先頭に立って、人間の体が月と激して傷ついたりしないようにする。やがて人間たちは意識をとり戻すと、いうにいわれぬ手足の疲れを訴えるがふつうだ。だが、じきに治って歩けるようになる。

 まだ他にも、数え挙げるのさえめんどうなほどの困難が生じる。ところがこれは人間についてのことであって、われわれの方は全く平気だ。なぜかというと、われわれは一団となって地球の影の中に住んでおり、この影の長さはさまざまに変わるが、それが長くのびてレヴァニアに達するときに、まるで船から岸へ移るようにやすやすとレヴァニアに上陸するからなのだ。だが上陸後はすばやく洞窟や暗がりに身をひそめなくてはならない。ぐずぐずしていると、太陽が戸外からわれわれを捉え、せっかく選んだ住み家から追い払うので、われわれはどんどん引き下がっていく影を追いかけねばならなくなるからだ。レヴァニアに着いてしまうと、各自の好みに応じて精神を働かせる暇が与えられる。われわれはその地域のデーモンと相談して同盟を結ぶ。やがて再び、太陽の光線が消えると、われわれはすかさず一隊となって影の中に飛び込む。この長くのびた影の頂点はふつう地球にまで達するのであるが〔図6を見よ〕、そのときに、われわれは同盟軍といっしょに地球に突進するのである。これができるのは人間が日食を見るときに限られている。そこで、人間どもはあれほどまでに日食を恐れるということになるのだ。

 レヴァニアへの旅のことはこれで十分話した。次には、レヴァニアの自然について話そうと思う。では地理学者がまず天空の様子から始めよう。レヴァニアのどこにいても、恒星はわれわれが眺めるのと同じように見える。だが、その運行とか惑星の大きさとなると、われわれが地上で観察するのとは非常に違って見える。このため、レヴァニアの天文体系はわれわれのとはまったく別なのである。

 ところで、地理学者たちが天文現象を基礎にして地球を五つの地帯に分けるように、レヴァニアも二つの半球に分けて考えることができる。そのひとつは、スブヴォルヴァだ。そこでは、ちょうどわれわれが月を眺めるように、いつでもヴォルヴァを見ることができる。だが、もうひとつの半球であるプリヴォルヴァからは永久にヴォルヴァの姿を望むことはできない。これら二つの半球を分ける境界線は、われわれの二至経線と同じように天の両極を通っており、分割線とよばれている。

 ではまず最初に、両方の半球に共通な現象について説明してみよう。まず、昼夜の交代は、われわれの場合のように、レヴァニア全土にわたってみられる現象である。だが、一年を通じての変化というものはない。レヴァニアではどこでも昼夜の時間がほとんど等しいからである。ただし、プリヴォルヴァでは一様に昼が夜より短く、スブヴォルヴァでは反対に昼の方が長い。もっとも、八年を周期とする変化もあるのだが、これについては後で述べることにしよう。北極と南極とでは、太陽は地平線上の山々に沿って一周するが、その間半分の時間は隠れ、あと半分の時間は輝いて、昼夜の長さは等しい。われわれ人間が地球を不動のものと考えてしまうのとちょうど同じように、レヴァニアの住民たちには、レヴァニアは、めぐりゆく星々の中にじっと静止しているように思えるのだ。ところで、レヴァニアにおける夜と昼とを加えたものは、われわれの一か月〔正確には一朔望月すなわちニ九・五日〕に等しい。その証拠に、どの日にも朝の日の出の時刻になると黄道十二宮のうち、その前日には見えなかったひとつの宮のほとんど全部が現われるからである。われわれにとっては、一年間で太陽が三六五回転、恒星天は三六六回転する。あるいは、もっと正確にいえば、四年間で太陽が一四六一〔365×4+1〕回転、恒星天が一四六五回転するのである。ところがレヴァニアでは、一年間で太陽は一二回転、恒星天は一三回転なのだ。詳しくは、八年間で太陽が九十九回転、恒星天が一〇七回転するのである。だが、レヴァニアの住民には一九年の周期の方がより普通のものになっている。というのは、この期間に太陽は二三五回昇り、恒星天は二五四回めぐることになりからだ。

 スブヴォルヴァの中央部に住む者たちは、ちょうどわれわれが下弦〔正しくは上弦〕の月を眺めている時に日の出を迎える〔図8をみよ〕。そして上弦〔正しくは下弦〕の月の時にはプリヴォルヴァの中央部で太陽が昇るのである。中央部について私が述べることは、両極と中央部を分割線に垂直に引かれた完全な半円に対して当てはまるものと考えなければならない。これを中央ヴォル線と呼ぶことができよう。

 両極のちょうど真中には、われわれの地球の赤道に相当する円、同じく赤道という名で表すことができる円がある。これは、分割線および中央ヴォルヴァ線と反対側で二度交差している〔図4を見よ〕。この赤道の上でならどこにいても、太陽は毎日正午になると、ほぼ正確に真上を通過する。しかも、正確に頭上を横切る日が一年のうち春と秋に一日づつある。だが、赤道の両側の両極よりの部分に住んでいる者には、正午でも太陽は天頂からいくらかそれているのだ。

 レヴァニアでも夏と冬の交代はある程度は認められる。だが、夏冬の違いは地球のそれとは比べものにはならないし、またわれわれの場合のように同じ場所ではいつも一年のうちの同じ時期にそれが起こるというわけでもない。それというのも、レヴァニアの夏は、どの場所においてもいつも一〇年の期間で恒星年のある個所から反対の個所へと移るからである。(図7を見よ)。その理由は、一九恒星年もしくは二三五レヴァニア日の周期のうち、夏冬が、両極付近では二〇回、赤道では四〇回繰り返すからだ〔図3を見よ〕。われわれの〔一二ヵ〕月のように、レヴァニアでは毎年夏が六日、残りが冬である。この交代は赤道近くではほとんど感じられない。このあたりでは太陽がそれぞれの側に五度以上はそれることがないからである。両極の近くならそれはもう少しはっきりと感じられる。そこでは、地球の南極または北極付近の住人の場合のように、半年交代で太陽が現れたり隠れたりするのである。したがって、レヴァニア球も、地球の諸地帯にある程度まで相応した五つの地帯に分けられる。ただし、レヴァニアの熱帯は、寒帯もそうであるが、一〇度にも満たない範囲を占めているにすぎない。その他はすべて、われわれの温帯に似た地帯に属している。熱帯は両半球のちょうど真中でを走り、全経度の半分はスブヴォルヴァ、残りの半分はプリヴォルヴァにある。

 赤道と黄道が交差する点は、われわれ地球の昼夜平半分点や至点のような四つの基本的な点を構成する〔図2を見よ〕。これらの公点は黄道の出発点を示すのである。だが、ここから出発して十二宮の順に天空をめぐる恒星の動きはきわめて速い。なにしろ〔これらの点は〕二〇回帰年(一回帰年は一冬および一夏と定義される)のうちの全黄道帯を横切りのだから。われわれの場合、それになんと二万六千年もかかるのである。

 レヴァニアで認められる第二の運動についての理論は、われわれの用いるものとあまり変わらないが、われわれの場合よりずっと複雑である。というのは、六つの惑星(土星、木星、火星、太陽、金星、水星)全部が、われわれも知っているような多くの不規則さを示すだけであく、さらに三つの不規則を示すからである。これあ三つのうちの二つは経度の変化で、そのうちのひとつは日々のことだが、もうひとつは八年半の周期で起こる。第三の不規則さは十九年の周期をもつ緯度の変化である。どういうことかというと、プリヴォルヴァの中央に住む者たちは、正午になると他のものは同じ大きさに見えるのに、太陽だけが日の出の時より大きく見え、スブヴォルヴァでは反対に小さく見える。そこで両方の住人とも、これは太陽があちこちの恒星の間で黄道から前後に何分かそれるためであると考えている。

 この変動は前述したように、十九年の周期で元の位置にもどる。もっともこの逸脱に要する時間は、プリヴォルヴァの方が少し多く、スブヴォルヴァの方が少し少ない。それにまた、レヴァルニアをめぐる第一運動において太陽と恒星とは一様な速さで進むものと考えられているが、実は正午のプリヴォルヴァルでは太陽は恒星に対してほとんど前進を示さず、他方スブヴォルヴァでは正午ともなると非常に速く進むのである。そして真夜中にはちょうどその反対のことが起こる。こういうふうだから、太陽はまるで恒星に対してジャンプしているかのように見えるのだ。それも、その日その日で違ったジャンプをするのである。

 同じことは金星と水星および火星についてもいえる。だが、木星と土星の場合には、こういった現象はほとんど見られない。

 さらに、日ごとの運行は、毎日の同じ時刻であっても、同様ではないのだ。太陽だけでなく、恒星もときどき運行が遅くなる。そうかと思うと、それと反対の季節には同じ時刻に運行が速くなるのである。そして、この遅れの起こる日は年の中で次第に移っていくのであって、ある時は夏の日に当たり、またある時は冬の日に当たる。後者は、何年か前に運行の速まった日であったわけだ。こうして、それは九年たらずの周期でひとまわりする。だから、時に昼間が長くなってみたり(これは自然に起こる遅れのためであって、われわれ地球上でのように自然の日々が不均等なためではない)、また夜が長くなることもあるのである。

 もしも、プリヴォルヴァで夜に遅れが起こったとすると、昼間に比べて夜はいっそう長くなる。ところが昼間場合は、夜と昼の長さがなり方に近づくのである。こういうことは約九年に一度の割合で起こる。両半球に共通ともいうべき現象はこのくらいである。(本書、pp.25-31)

〔プリヴォルヴァ半球について〕
さて、各個の半球に固有な事がらについては、両半球の間に非常な相異がある。なにしろヴォルヴァが存在するしかないかで全く異なった光景が生じるし、そればかりか、共通の現象までもが一方の側と他方とでは非常にかけはなれた結果をもたらすのである。

 そのため、プリヴォルヴァ半球は気候は厳しく、スブヴォルヴァ半球の方が温和であるといえるだろう。それというのも、プリヴォルヴァではわれわれの時間に直して十五日から十六日ものあいだ夜の闇が続くからだ。しかもヴォルヴァからの光さえ受けないのであるから、ちょうど月のない晩のような真暗な闇に閉じ込められて、それはおそろしいことだ。このためすべてが氷や霜でいてついてしまう。そのうえ身を切るような鋭い激しい風が追い打ちをかける。

 次には昼が地球の時間にして十四日間ないしもう少し短い期間ずっと続く。この間太陽は巨大で、恒星の間をゆっくりと動く。風はない。その結果ははかりしれない暑さである。こういうふうにして、われわれからすれば一か月ごとに、レヴァニアの時間では一日の間隔で、同じ場所がアフリカの十五倍の暑さにみまわれたかと思うと今度はキヴィラよりも耐えがたい寒さに襲われるのである。

 特記すべきは、プリヴォルヴァではときどき火星がわれわれの見るものの二倍の大きさで現れるということである。これがプリヴォルヴァの中央部ではちょうど真夜中に見られが、他の場所でもそれぞれ夜中の特定の時刻に観察することができる。(本書、p.32)

〔スプヴォルヴァ半球について〕
 主題をスブヴォルヴァに移すにさいして、まず、分割線上に住む辺境の住民のことから始めよう。ここの住民だけに特別のこととして、金星と木星と太陽からの離角はわれわれが見るのよりずっと大きく見えるのである。そのうえ、ある時には金星がわれわれの見る二倍もの大きさに見える。これは北極近くに住む者特に著しい現象である。

 だが、レヴァニアでの眺めのうち最も美しいものは何といってもヴォルヴァの姿である。彼らは、われわれの月の代わりに、これを眺めて楽しむのである。われわれの月は、彼らのプリヴォルヴァの住民も見ることはできないのだ。このヴォルヴァが常に存在するところから、この地域はスブヴォルヴァと名づけられている。同様に、もう一方の地域はヴォルヴァが存在しないところからプリヴォルヴァと呼ばれている。そこではヴォルヴァルヴァの姿を見ることはできないからである。

 地球に住むわれわれがよく経験することだが、満月が遠くの家々の屋根の上に昇ろうとしているときには樽の周辺くらいの大きさに見えるものだ。だがやがて中空にかかる頃ともなると人間の顔ほどの大きさにも見えない。しかし、スブヴォルヴァからみた子午線上のヴォルヴァは(この半球の中心部つまりへそに当たるところに住む者に対してヴォルヴァはこの位置を占めるのであるが)、直径にしてわれわれの月より四倍弱も大きく見えるのだ、だから、両者の丸い面を比べられるとしたら、彼らのヴォルヴァはわれわれの月のなんと十五倍も大きいわけである。だが、ヴォルヴァをいつも地平線上にかかっている位置に見る者には、その姿はまるで遠くの山火事のいうに見えるのだ。

 こういう次第で、ちょうどわれわれが極の大小に従って地帯を区分しているように、もっとも極そのものを目で見るわけではないが、彼らも同様の役割をヴォルヴァにさせることができる。ヴォルヴァはつねに見えており、しかもは半球上の場所に応じて高度を異にするからである。というのは、すでに述べたように、ヴォルヴァは、ある者たちにはその頭上に輝くが、他の場所では地平線上に低くかかり、その他の者にとっては天頂から地平線の間にあって、それぞれ一定の場所でいつも一定の高度を保つからである。

 しかし、レヴァニアにもそれ自身の両極がある。それは、われわれの天の両極が位置している恒星のところにあるのではなくて、黄道の両極をわれわれに示す他の恒星のあたりに存在するのだ。この、月の住人たちの両極は、竜座〔北天〕およびその反対側〔南天〕でかじき座(とびうお座)、大マゼラン雲などの星座のところで黄道の両極をめぐって十九年の周期で小さな円を描く〔図2を見よ〕。この、月の住人たちの両極はヴォルヴァからほぼ象限の距離〔九〇度〕にあるので〔図7を見よ〕、彼らの地域に境界線を引くためには、両極にもとづいてもよく、またヴォルヴァをもとにしてもよい。だから、この点では彼らの方がわれわれよりずっと便利だといえる。なにしろ彼らは、経度を不動のヴォルヴァにもとづいて示すことができ、緯度をヴォルヴァと両極とから決めることができるからである。ところがわれわれの場合には、経度を知るのに、どうやらやっと感知できる程度のあの磁針の傾きしか頼りにできないのだ。

 彼らのヴォルヴァは一定の場所に固定していて、まるで天に釘づけされているかのようだ。その上を、太陽をはじめとして他の諸天体が東から西へと動いてゆく。夜には決まって黄道帯上のいくつかの星がこのヴォルヴァの背後にかくれ、また他の側からちょっこり顔を出す。しかし同じ恒星が毎夜これをくり返すのではなくて、黄道から六度ないし七度の距離にあるすべての星が順番にそうするのである。それは十九年で一周してまた最初の星にもどってくる。

 ところで彼らのヴァルヴァもわれわれの月と同様に満ち欠けする。両方とも同じ原因、すなわち太陽が近くにあるか離れているか〔見かけの角度のうえで〕によって起こる。自然をよく観察してみると、その時間の長さもまた同じであることがわかる。ところが、彼らは彼らの方法で測るし、われわれはそれとは別の方法で測るのだ。彼らは、ヴォルヴァがその満ち欠けを完了する時間を一昼夜と考えている。これはわれわれが一か月と呼んでいる時間に他ならない〔図8を見よ〕。

 ヴォルヴァは、その大きさと輝きとが著しいために、たとえ新しい相の時でも、サブヴォルヴァ人に全く見えなくなってしまうというようなことはない。とくに、両極付近において太陽が隠れているときには新相でもはっきり見ることができる〔図9を見よ〕。

 そこで中央ヴォルヴァ線上での正午になるとヴォルヴァがその両角〔弓型の両端〕を上に向けて見えるのだ。一般に中央ヴォルヴァの半円上で、ヴォルヴァ〔の直下〕と両極との中間部に住む者たちにとっては、新ヴォルヴァは正午のしるしなのである。そして、上弦は晩の、満ヴォルヴァは真夜中の、下弦は夜明けの合図なのだ。また、両極とヴォルヴァとを地平線上にのぞむ人々で赤道と分割線との交差点に住んでいる人々にとっては、朝晩が新ヴォルヴァまたは満ヴォルヴァとともにやって来るし、正午と真夜中は上弦または下弦のときに迎えることになる〔図8を見よ〕。これらの事がらは、中間地帯に住む人々に関する結論を導くための基礎となるのである。

 日中でも彼らはこのようにヴォルヴァのさまざまな相によって時刻を知る。たとえば、太陽とヴォルヴァがお互いに接近すればするほど、こちらでは正午に近づき、あちらでは日暮れすなわち日没が迫るのである。しかし、われわれの時間にして十四昼夜もずっと続く夜には、彼らはわれわれよりもはるかによい方法で時をはかることができる。それは、前に述べたとおりの、満ヴォルヴァは中央ヴォルヴァの円周上で真夜中のしるしであるというようなヴォルヴァの一連の相の変化のほかに、ヴォルヴァそのものが時間をきちんと彼らに示すからである。

 というのは、ヴォルヴァは少しも空間的な動きをしていないように見えるけれども、われわれの月とちがって、その場所で回転しているのであり、それが東から西へと一様に回るにつれて次々と素晴らしいさまざまの模様を見せてくれるのである。同じ模様がもどってくるまでの一回転を、スブヴォルヴァの住人はわれわれの場合の一時間のように考えている。それは、われわれからすれば一昼夜余りに相当する。これが、時間を測る唯一の一様な尺度である。なにしろ、前にも指摘とおり、月の住人たちのまわりを毎日めぐる太陽と恒星の動きは一様ではないのであるから、もしも月から恒星までの距離との比較を行うならば、この非一様性は、このヴォルヴァの回転によってきわめてはっきりと示されるであろう。

 ヴォルヴァの上部つまり北の部分だけについてみると、これはどうやら二つに分けられそうである。これはどうやら二つに分けられそうである。そのうちの一方は少し暗くほとんど切れ目のない斑点の模様で覆われている。もう一方はもう少し明るく、光るベルトが北へのびて両半分の境界をきわだたせている。暗い方の部分では模様の形状を描写するのはむずかしい。だが、その東側は肩から切り離された人間の頭部の前面のように見える。長いドレスを着た少女にキスしようとして前かがみになっているところだ。少女とはいえば、じゃれつく猫をあやして手を後に伸ばしている。模様のうちでもっとも大きく広い部分はしかし何もはっきりした形を示さず西の方へ拡がっているだけだ。ヴォルヴァの他の半面を見ると、斑点よりも光った部分の方がずっと広い割合を占めている。これは、綱で吊り下げられて西の方へ揺れている鏡の輪郭だといっていいだろう。しかし、鏡の下と上の方に横たわる部分は、なんともたとえようもない〔図12、13を見よ〕。

 ヴォルヴァは、こういうふうにして彼らにその日の時間を知らせる時間を知らせるだけでなく、さらに、一年のうちの季節の移り変わりをもっとはっきりと示す。それは、よく観察している者にも、恒星の配列など知らない者にも、よくわかるのだ。太陽がかに座にあるときでも、ヴォルヴァはその回転の北の極をはっきり見せている。先に述べた少女の姿の上方にある明るい部分のちょうど中ごろにくっついている小さな黒い点が認められるが、この点は、ヴォルヴァの最も高い最も上の部分から東の方へ移動し、それから表面を下降するにつれて西の方へ動く。そしてここからまたヴォルヴァの頂上に向かって東の方に行く。それは、この時には、こうして絶えず見えているのである〔図10を見よ〕。だが太陽が山羊座に座を占める時〔図7を見よ〕には、この周囲の全コースとその極とがヴォルヴァの背後に隠れてしまうので、この点はどこにも見つからない。そして一年の〔春分・秋分に近い〕これら両時期には、波紋は四方へ直線的に移動する。だが、両時期にはいる時期、すなわち太陽がひつじ座から天秤のどちらかにのあるときには、波紋は少し曲がった線に沿って斜めに下降または上昇する〔図10、11を見よ〕。これらの事実は、ヴォルヴァの球体の中心は静止しているが、この回転の両極は月の住人たちの極のまわりを一年に一回北極圏に沿ってまわるのだということをわれわれに示している。もっと注意深く観察する人は、ヴォルヴァの大きさがいつも同じではないことに気づく。なぜかというと、一日のうち恒星が速く動く時刻には、ヴォルヴァの直径はより大きくて、優に月の直径の四倍以上になるからである。

 では今度は、太陽をヴォルヴァの食について話をするとしよう。食はレヴェニアでも起こる。しかも、地球上での日食と月食と同時に起こるのだが、理由はちょうど逆である。つまり、われわれが皆既日食を見るとき彼らはヴォルヴァの食を観察するのであり、反対に、われわれが月食を見るときに彼らには日食が見えるのだ。

 けれでも、この対応は完全なものではない。なにしろ、われわれには月の一部がかげるのが認められないときでも彼らには太陽の部分食が見えることがしばしばあるからである。そうかと思うと、われわれには太陽の部分食が見えるのに彼らにはヴォルヴァの食が認められないということもよく起こる。われわれにとって満月の時に月食が起こると同じように、彼らにとっても満ヴォルヴァの食が起こる。また、われわれにとって新月の時に日食が起こるように、彼らにも新ヴォルヴァの時に日食が認められる。彼らの昼夜は非常に長いので、彼らは両天体の食を非常にひんぱんに経験するのである。というのは、われわれの間では、食の相当な部分が対蹠地の側にまわるのに対して、彼らの場合には対蹠地はプリヴァルヴァルであって、こういった現象は何も見られないので、食の現象はすべてスブヴァルヴァの住人たちが見るのである。

 彼らがヴォルヴァの皆既日食を見ることは決してない。その代わり、ヴォルヴァの上を、周辺部は赤みがかっていて真中の黒い小さな点が横切っていくところが観察される。この点はヴォルヴァ東側から侵入して西の縁に抜ける。これはヴォルヴァの自然の斑紋と同じコースをたどるわけだが、スピードはもっと速い。これに要する時間はレヴァニア時間で六分の一時間、われわれの時間で四時間である。

 日食はヴォルヴァによって生じる。それは、われわれの場合に月によって生じるのと同様である。ヴォルヴァの直径は太陽の四倍もあるので〔視直径で〕この現象は必然的である。太陽が東から南に進み不動のヴォルヴァのむこう側を通って西へと渡る際に、しばしばヴォルヴァの背後を通過するので、太陽は部分的または全面的に隠されることになるのである。だが、太陽が全く姿を消すという現象は、ひんぱんに起こるとはいってもやはり著しい事態である。なにしろ、われわれの時間でいえば数時間の長きにわたって続くわけだし、太陽とヴァルヴァの両方の光が同時に消えてしまうのだから。スブヴォルヴァの住人たちにとってこれは驚くべき光景である。ふだんの夜は、つねに存在するヴォルヴァの輝きと大きさのために、昼間と比べてもそれほど暗いということはないのだが、日食の間だけは太陽とヴォルヴァの両方の光がかき消されてしまうのである。

 彼らから見た日食はまた次のような珍しい特徴を示す。太陽がヴォルヴァの背後に隠れたかと思うとその反対の側が明るくなるのだ。これは非常に起こることで、ふつうには太陽はヴォルヴァの何分の一かの大きさにしか見えないにもかかわらず、まるで太陽が広がってヴォルヴァ全体を包み込んだかのように見える。したがって、各球体の中心がほとんど一直線上にそろって、しかもその中間の透明な媒質の状態が適切である場合以外は、全くの闇が生じるということにはならないのである。それにまた、たとえ太陽がヴォルヴァの背後にすっぽり隠れてしまっても、ヴォルヴァの明るさが突然消えて見えなくなってしまうというわけではない。その唯一の例外は皆既食のちょうど真中の瞬間に起こる。分割線上のある場所で皆既食が始まる頃にはヴォルヴァはまだ輝いており、まるで炎が消えてしまった後の燃え残りの「おき」のように見える。そして輝きさえ失われるその時が、皆既食のちょうど真中なのである。(皆既食でない場合にはヴォルヴァの輝きは消えることはないからである)。再びヴォルヴァが輝きはじめると(分割線円周上の反対の部分で)、太陽もまたやがて現われ出るのである。こういうに、輝く両天体は皆既食の最中に同時にある程度までその輝きを消すのである。

 レヴァニアの二つの半球、すなわちスブヴォルヴァとプリヴォルヴァについての話はこれでにしよう。私が何をいわなくても、以上の諸現象から考えて、スブヴォルヴァとプリヴァルヴァが他のすべての点でいかに違うかを推測することは困難ではないはずだ。

 スブヴァルヴァの夜はわれわれの時間になおして十四昼夜も続くとはいえ、ヴォルヴァが地表を照らして寒さをやわらげてくれる。まったく、これほどの大きさがあってこれほど強く輝いているのであるから、熱を与えないなどということはありえない。

 また一方、スブヴォルヴァの昼には、われわれの時間にして一五ないし一六昼夜の間にわたって太陽があきあきするほど照り続けるのであるが、しかし、それはやや小さい太陽なのでその偉力はそれほど危険ではない。太陽とヴォルヴァは重なり合うので、水という水はこの半球の方に引き寄せられ、そこの陸地は水中にすっかりひいて引いてしまうから、乾ききって厳しい寒さに見舞われる。だが、スブヴォルヴァに夜が始まりプリヴォルヴァに朝がおとずれる時刻になると、二つの天体は両半球に分れるので水も両半球に分られる、スブヴォルヴァの原野から大水が去り、プリヴォルヴァには湿り気がよみがえって暑さを少しやわらげてくれる。

 だが、スブヴォルヴァに夜が始まりプリヴァルヴァに朝がおとずれると、二つの天体は両半球に分れる。スブヴァルヴァの原野からは大水が去り、プルヴォルヴァには湿り気がよみがえって暑さを少しやわらげてくれる。

 レヴァニア全体の円周は一、四〇〇ドイツマイルに満たない。つまり地球の四分の一にすぎない。ところが非常に高い山々や深く広い谷を有している。それだけにわれわれの地球よりも不完全な球体である。しかも、どこもかしこも穴だらけだ。いたるところ洞窟や岩穴でいわばえぐられているのである。プリヴォルヴァではとくにひどい。だが、こういう奥まったところは、住人たちが熱気や冷気から身を守るためのかっこうの場所である。

 およそこの地上で生まれるものあるいは地上を動きまわるものはすべて怪物のような大きさに達する。成長の速度はきわめて大きい。だが、あまりに途方もなく巨大な体になるため、みな寿命が短い。プリヴァルヴァに住むものは、一定のすみかや決まった住居をもっていない。彼らは群をなしてその全〔月〕球上を一日中歩きまわる、それぞれがそれぞれの本性に従って。すなわち、地球上のラクダよりずっと速い脚を使うものもあれば、翼を用いるものもあり、また引いていく水の上に舟を走らせるものもある。だが何日間か待たなければならない時には洞窟の中に入り込むのだ。大部分のものは水を潜ることができる。なにしろ彼らはみな自然にしたがって生きているので、非常にゆっくりと息をする。そこで水中では底にひそみ、こうして技術をもって自然に協力するのである。なぜなら、上の波の部分は太陽に熱せられても、こういった深い層は冷たい水のままであるからだと彼らはいう。もしも水面が離れずにいようものなら、真昼の太陽にゆでられ、さまよい歩くものどもに寄ってたかって食べられてしまうのである。

 全般的に見て、スブヴォルヴァ半球はわれわれの郡や町や公園などに相当し、プリヴォルヴァ半球は野原や森や砂漠に似ている。呼吸はことに必要なものたちは、狭い水路を熱い水を洞窟の内部にまで導く。こうすれば、水は長い間かかって内部に来て次第にさめて冷たくなるのだ。彼らはこの水を飲み、洞窟の中で一日の大部分を閉じこもってすごす。そして夕暮れになると食物を探しに出かけるのである。その体の大部分が、植物なら外皮、動物なら皮膚またはそれに代わるもので占められており、それは海綿状で多孔質である。もし日中、何かを外にさらすと、その表面は固くなり、焦げてしまう。そして晩になると、その外皮がポロリと落ちるのである。土の中で生まれたもの―山々の背には多くはないが―は、ふつう同じ日に生まれて死ぬのである、日々に新しい世代を生み残しながら。

 一般的にヘビのような種族が優勢である。彼らは、まるで楽しんでいるかのように、真昼時の日光に自分の体をいとも巧妙にさらすのだ。だがその場所は洞窟の入り口に限っていて、いつでもすばやく引っ込めるようにしている。

 太陽の熱のために止まった息の根と失った命を、夜になって取りもどす生きものもいる。これは、われわれの間にいるハエに見られるのとちょうど逆の類型である。また、地面のあちこちには松かさのような形をしたものが散らばっている。昼のあいだその外皮は焼かれている。しかし夜になると、いわば秘密をあらわにして、新たな生命を誕生させるのである。

 一方、スブヴォルヴァ半球を熱から守るものは、おもに、消えることのない雲と雨とである。それらは、時にはこの領域の半分以上をおおうほど拡がることがある(ニニ三、★)。

 夢の中でちょうどここまできた時である。風が吹き、雨が窓をたたいて私の眠りは破られた。同時に、フランクフルトで手に入れた本の結末もかき消されてしまった。私は、精霊の語り手と、頭に布をかぶって耳を傾けていたドゥラコトゥス、フィオルクヒルデ母子とを置き去りにして、われに返った。するとどうだろう。私の頭はまがいもなく枕でおおわれ、体には毛布がからみついていたのだった。(本書、pp.20-42)

Ⅴ 「天文学的な夢に関するケプラーの註」をめぐって
 前記Ⅳ(ケプラーのことば)には、ケプラー自身によるSF小説「ヨハネス・ケプラーの夢 もしくは月の天文学」の全文を掲載した。お読みになればすぐに分るように、小説としてはきわめて短い作品である。ところが、ケプラーは後の一六二二年から一六三〇年にかけて、その作品本文の4倍ものとてつもない分量(二二三項目の「註」、「付記」、「付記への註」をつけ加えているのである。これには驚くばかりだ。その理由は、本書の訳者渡辺政雄によると、『夢』の内容がケプラー母子に酷似しているゆえ、つねづね母親をよく思わなかった連中が母親を魔女と断定し魔女裁判にかけられることになり、その母親をケプラーは救出するためであったという(本書、p.3)。

 その多数の註を取り上げることは不可能なので、その中から一点だけ記載しておくことにする。本文の中にある最後のケプラーにとっては渾身の註(二二三、★)だと思えるので、かなり長文なのですが、ご容赦願いたい。 以下引用

註(二二三、★):
 私はこの推測を、メストリンが座長になって行われた討論で、一六〇六年に『惑星の諸現象』を題して出版されたものから得たものである。これについて私は『会話』十六ページにおいても論じた。しかしながら、この問題は、その適切さのゆえにここでもそっくりそのまま取り上げる価値がある。私が言ったように、彼は命題一三六と一四三で次の諸現象についての議論を開始している。月は時たま、朝には旧月として、夜には新月として、同じ日に二回見えることがある。そのときには月は太陽から六度から七度以上には離れていないはずである。しかし、別のときにはそれが二回あらわれるためには一二度離れていることが必要である。この現象の原因を説明するために、彼は命題一四六で、月はある空気のような物質につつまれているという新説を提出している。というのは、命題一三九で彼は、月が太陽からまるまる一二度動いたとしても、そのとき太陽に照らし出されるのはその見える直径の八〇分の一にも達しないということを証明しているからだ。ではもし月が太陽から七度以上離れていないとしたら、照らし出される部分はどれほど小さくなるだろうか。

 そこで彼は結論して、月面のふちを取りまく大気はすべて太陽光線によって色づけられる、それは、太陽光線がこの大気中を通過することができるから、すなわちこの大気は透明だからである、と言っている。したがって、月はその中心で合になるときでさえも、完全に見えなくなることはないというのである。彼はこの説を五つの付加的な議論によって支えている。

 その第一は、日食中の太陽からの光線を孔から取り入れると、太陽の像における外側の凸形をした円筒は、内側の凹状になった円周、すなわち、月球の凸形にさえぎられてできた暗い部分の円周よりも〔直径において〕つねに大きいのである。けれども満月はふつう太陽よりも大きい直径を有する。したがって彼はこう考えた。満月を測定するとき、われわれは、月の本体からはみだしてこれを取りまいている照らし出された月の大気の部分を測っているのだと。しかも月が太陽をおおうときには、太陽光線が妨害も干渉も受けずにその中を通過する気体の衣装の助けは何も借りずに、月自身でおおうのだというわけである。

 日食の観測から導き出されたこの議論は、まぎれもなく正しい。それは、ティコ・ブラーエをも納得させ、新月の直径は満月の直径よりも小さいと言明させた。ロングベルクも『デンマークの天文学』のなかで彼の師を支持した。

 さらにこの月のまとう夜着については、フリーランスの天文学者ダーヴィド・ファブリツィスが詳細に論じている。その彼の意見を私は『天体位置水算暦』の序論で公表したのである。繰り返すが、食した太陽の像が小さな孔を通じて採り入れられたとき、凸状の円周は大きい円の一部であり、凹状の円周は小さい円の一部であるということは全く正しいのだ。しかし論者が進めた推理は満足しうるものではない。

 私は、月の上に大気があるということを否定しようとは思わない。私の『光学』二五二ページならびに『会話』一八ページで私はこの説を受け入れたのである。けれども、これだけでは論者が探し求める結論は完成しないのだ。なぜなら、なぜなら、この現象には別の説明、つまり太陽光線を取り入れる孔の半径による説明もあり得るからだ。この孔の半径と同じくらいの幅をもった明るいふちが、鎌形をした太陽の像の周囲全部にわたってついている。鎌形の先端部分でもそうなっているのであまり尖っていないように見える。この明るいふちがすっかり取り除かれると、残るのが純粋な像である。その外側の円筒は前より狭く、反対に内側の凹形の円周は前より広い。こういうわけで、矯正が加えられれば、太陽をおおうときの月の直径は満月の直径に匹敵するのである。

 これが問題に対する私の解答である。討論の答弁書は、その当時出版されていた私の『光学』からこの私の解答を引用した。彼は命題〔一四六〕の註において、新月と満月の間の相違を否定した私の議論を引用してこれを受け入れている。しかしながら、彼は、月面上の空気に関する一連の議論の中からこの第一の議論を消去しなかった。彼は読者自身に決めさせればよいと考えたように思われるのである。それとも、極度に細い孔を用いたので像の先端部分さえも十分に鋭くなったと思ったからであろうか。少なくとも私は彼の説を信じない。

 なぜかというと、著者が一六〇五年一〇月二日(〔グレゴリオ暦で〕一二日)の日食の観測から出している比率と、私が同種の観測から求めた比率との間には大きな差異があるからである。したがって観測者は、食した太陽の像を受ける紙にはいかなる障害もないようにし、また、それがつねに孔から等距離でしかも孔を通って来る光線に直角に置かれるように注意しなければならない。というのは、もし紙がゆがんでいると明るい像の円周がひずんで、円が楕円になってしまうからである。したがって、こういう欠陥が生じないように適切な方策を講じたどうかを論者は明らかにしなければならない。

 直径が減少することの説明として挙げられた事実に関するかぎり、私は事実そのものを否定はしない。それゆえ私は、なぜそれがこの直径の減少の原因となりえないかも説明しなければならない。その理由は、疑いもなく、透明な物体が太陽の光の中に置かれた場合、それも影響を生じるということである。このことは、私の『光学』の中で、水を満たしたガラスの球を用いた実験によって証明されている。その球は太陽光線を通過させもするし、衣類を燃やし火薬を発火させるほど光線を集中させもする。しかし通過した光線を他の場所にそらしてしまう。ところが球の輪郭の方は太陽からまっすぐのところに影を投げるのである。もしも太陽の光が通過しうるところには影は作られないとしたら、両天体が地平線上にあるときにわれわれがよく見ることのある月食は、いったいどうなるのだろうか。

 太陽の光はここでわれわれの大気中を通過し、月に向かって直進し続ける。太陽も月も地平上にあるから、地球は何の邪魔もしない。すると、このとき月を影の中におおい隠すものは、太陽の直線的な光線を妨害するわれわれの空気ではないとしたら、いったい何であろうか。それゆえ、空気を通ってその中で屈折する光線のために太陽のにせの姿がなくなるわけではなく、太陽光線による地球の大気の影がなるわけではない。したがって、月の大気の影もなくなりはしないだろう。 以上が、月面上の大気に関する第一の証拠についてである。

 月をとりまく大気についての第二の論拠は、命題一四八に収められている。半月による星の掩蔽(えんぺい)が月の暗い側から始まるとき、その側は、それと反対の明るい側の端よりも、月の中心に近いように見える。満月がまさに星々をおおいかくそうとしているときは、まずそれらを輝く衣の中へ抱き込んでいるように見える。それからついに、星々を月の本体のうしろに隠して完全におおってしまう。この種の観測は、『ルドルフ表』九四ページ法則一三三、の、月と金星との合に関する項で見ることができる。命題一五〇における第四の議論も同じ種類のものである。すなわち、明るい三日月の弓型の部分とその残りの薄く青白く光っている部分とから成る若い月を見ると、明るい三日月の円筒は、それとは反対側の円周よりも幅があるように見えるというものである。論者は、この三日月の部分の明るい光は月の本体からはみ出した月の大気の広がりに由来するものと信じている。さらに、命題一五一の第五の議論をこれに付け加えよう。月の三日月の幅は決して一ディジット〔直径の十二分の一〕以下と見積られることはない。もっとも、時には照らされている部分が月の直径の八〇分の一にも達しないで、同じに満月状と新月状との両方に見えることがある。このときにも、論者は、大気の衣が月の球体の縁からはみ出しているのが見られるのだと主張している。

 これらの三つの議論は、月の本体の外側にかなりはみ出した部分があるということを証拠立てるのに十分なものであるとは私は思わなかった。この現象の原因を私は視覚の過程と結びつけた。夜になると眼の瞳孔が自然に拡がるからである。光源の一点からより多くの光が入って来て網膜の中の視覚精気を広い範囲にわたって刺激することになる。網膜上で広がるこの作用は昼間でも起こる。それは目が強い光の方に向けられたときである。このようにして、網膜上にできる視覚対象の像はそこなわれる。明るい部分がひろがってこれに接している暗い部分に侵入するからである。しかし眼球の中で凹面を網膜上にできる像は、外界の視覚対象と正確に、かつ上下逆になって対応するのである。命題一五一の註において、著者は私の名前をあげずにこの解答をも受け入れている。だが、同じ事は昼間でも起こるという理由からけっきょくそれを退けている。けれども、私が彼を論破するのに用いた現象は、たしかに夜の方が顕著であるとはいえ、日中にも起こるのである。

 しかし、月面上の空気の存在を支持する証拠は、これらの材料、特に第四と第五の議論によって与えられる。といのは、太陽光線は月の大気の中を通過し、これを非常に明るく照らすからである。そこでへりの部分は、一方では影を作ることはできるが、また、その大気の明るさを吸収して強く視覚を刺激しもする。その強さは、網膜上に広がる効果と刺激とにも相応し、したがって視覚対象に幅のある明るい部分を見かけさせるだけのものである。月の再出発が早すぎるのは、この見かけが原因なのであって、もちろんその真の幅のせいではなく、その真の強さおよび明るさによるのである。三日月の真の可視的な幅と見かけ上の幅とが、あたかも匹敵するものであるかのようにして、前者が後者の原因であるとは、私は言わなかった。しかし、真の明るさが、網膜に対する強い刺激のために、虚偽の、大きすぎる幅の原因になるのである。ダーヴィト・ファブリッツィスの類似した議論を私がこうして退けているのを『天体位置推算暦』の序文で読まれたい。

 私は論者が命題一四九に提示した第三の証拠のことはあとまわしにしたのである。輝く月のふちは明るく純粋で斑点がないが、中央部の月面はどこも斑点だらけのように見えるのだ。その理由はまぎれもなく、月の大気が中央部では薄く、両側では浅いが、ふちの方にかけては深いように目には見るからである。同様に、地球上の平野でも、頭上の大気は、太陽に照らされているにもかかわらず、視覚に強い影響を与えない。そして深い井戸の中から見上げている人々に対して大きい星を隠したりはしないのである。しかし遠くの山々をとりまいている空気は、視覚に達するまでに深い層を通ってくるので白色になる。そしてさらに遠くの山々には青色の色を帯びさせる。実際、山々をすっかり暗くさえするのだ。そして、太陽が出ていないときには、もっとも明るい星が上がってくるのさえも暗くしてしまう。このように、頭上には雲はないか、あるいはあっても散らばっていて見通せるのであるが、地平線の方向には雲はつねに厚いのであり、頭上に最小限の雲しかないときでさえそうである。

 以上は、月の大気に関するメストリンの論証である。そしてこれが説得力である。その後に彼は命題一五二を示している。それはこの小さな書物で最後から一つ手前のものだが、その中で彼は月の大気とわれわれの地表をとりまく大気とを比較している。また、すばらしい光景を生じさせるへりのあの輝きをわれわれの夜明けになぞらえている。そして彼は、私が月を仰ぐにしても、われわれの目を高くあげさせ、そこからわれわれ地球上の現象とよく似たものを見出せるのである。終わりに彼は註を付け加えこういっている。「あの大気がわれわれの大気のように凝縮して雲になり、その不透明さのゆえに非常に硬い部体のように見え、そのため、日の出や日没のわれわれの雲のように光り輝いているかあるいは燃えているかのように見えるかどうかという問題は、未決定のままにしておく。月を包むあの輝きは、ときによって清く澄み切って見えたり、澄み方が少なかったりすることを、確かにわれわれは経験によって知っている。」

 そして彼はまさしく私の仮説と一致する証拠をつけ加えている。「一六〇五年、棕櫚(しゅろ)の日曜日の前後に食になって赤く熱した鉄の色をした月の面に、残りの部分よりも暗い黒っぽい点が北の方に認められた。あなたはこういったかも知れない。それは、広い地域にわたって雨と暴風雨をはらんだ雲が広がっているからで、高い山の頂上から谷あいの低い土地を見下ろすと見ることができるのと同じ種類のものだ。」

 後に私は彼と話をする機会があった。そのおり彼は、あの斑紋は普通の大きさではなく、直径の半分くらいはあったと私に語った。私の『夢』の最後の部分はこの言葉を思い出してあのように結んだのである。それをここに繰り返して註を終えることとする。(本書、pp.118-124)

Ⅵ おわりに
 そもそも、一連のケプラーの書を読み込んでみようと思ったのは、先の私の3つの「論考」、つまり『宇宙の神秘』『新天文学』『宇宙の調和』にかんする論考でも述べたように、山本義隆『世界の見方の転換』全3巻の最終12章「ヨハネス・ケプラー―物理学的天文学の誕生」を、さらに深く理解・把握するためには、どうしても、ケプラーの原典を読まなくてはならない、と思ったことである。そうして、そのことをやっているうちに、ケプラーの数学的・天文学的な論述も重要だが、それと同じくらい、それを論述するケプラーのことば、それ自体に関心を向けるようになったことである。しかし、ケプラーのことば、とは言っても、彼が使用したラテン語原典ではなく英語翻訳からの重訳である日本語訳のだが、これも私の能力を踏まえれば仕方のないことである。

 冒頭の「はじめに」でも述べたように、本書の特異な構成のゆえ、かなり読みづらいものであるが、日本語翻訳版とはいえ、ケプラーの肉声にかぎりなく近づこうと努力したことだけはまちがいない。それにしても、「もしも彼(ケプラー)に、惑星と正多面体や音階との対応関係を求めようとする新プラトン主義的な動機と熱意がなかったとしたら、彼は三法則さえも発見しなかっただろう」(本書、p.175)という翻訳者(渡辺正雄)の見識に納得するのだが、現時点から見れば、惑星運動と宇宙になり響きわたる音楽の相関関係にたいするこの異常なまでの関心があってこそ、ケプラーの惑星軌道の解明であった。

 それにあきたらなくなり、今度は地球上を飛びだし、近隣の地球を眺める月面上に立ることを夢見たケプラーは、この月面上では、どんな音楽が聞こえてくるかを語ったのが、この小説であった。そして、生誕454年、没396年を迎えた2025年、ケプラーは自ら解明した惑星運動中のどの惑星をさまよい、どんな音楽を聴いているのだろうか、そしてまた、現代の宇宙構造論をケプラーはどのような音楽とともに語るのだろうか。その思いは尽きない。(終)