書評:木田 元『わたしの哲学入門』(新書館、一九九八年) 2002年3月『どよう便り』第52号掲載

哲学を志望した最初の動機を優しく教えるてくれる

 もうずいぶんまえからずうと、木田元氏(哲学者)のことが気になっていた。

 それはこういうことである。

 一つは、何十年もまえから、哲学書を少しずつ買しくい求めていた。定年にでもなって時間ができたら思い切って読んでやろうと集めているものだ。

 その主な著作をあげて見る。メルロ・ポンティ(フランスの哲学者)では『行動の構造』、『眼と精神』、『シーニュ』、『弁証法の冒険』、『知覚の現象学』、『言語と自然』、『意味と無意味』、『見えるものと見えないもの』(以上、みすず書房)。フッサール(ドイツの哲学者)では『ヨーロッパの諸学の危機と超越論的現象学』(中央公論社)、『イデーン』、『内的時間意識の現象学』、『現象学の理念』(以上、みすず書房)など。

 カッシーラー(ドイツの哲学者)では、『シンボル形式の哲学』(全四巻、岩波文庫)をはじめとするすべての著作などである。特に、私自身が勝手にわが師と思いこんでいる山本義隆氏訳の著作はすべて身を入れて読んできたが、いまだもって論評できるまでには至っていない。

 ともかく、メルロ・ポンティ、フッサールの哲学書は、その都度、ぱらぱらめくって眺めてきてはいるが、その内容の難解さに閉口するばかりで、いつかと思いつつも、気を入れて読み込むには至っていない。これらの多くの哲学者の日本語訳者が木田元氏でなのである。これが一つ目の理由である。

 二つ目は木田氏が私と同県人(山形県)であることである。西洋の哲学を長年にわたり思索している山形県人(山形が好きなのです)とは、いったいどんな人なのだろうと気になっていたのだ。

 それが最近、偶然のことから、本書『わたしの哲学入門』を一気に読んだ。読んだというよりも「読めた」のである。うれしかった。本当に読みすい。ちょっと横道にそれるが、「読めた」と書いて思いだしたことがある。作家の中村真一郎が晩年、軽い沢の別荘でこんなことを言っていた。

 「この歳になってようやく横文字の小説が読めるようになったのですよ。不思議なものですね」と。

 その境地なのである。ともかく、グイグイ引き込まれていく。

 1928年生まれの木田氏が戦後の青年時代を経て哲学の研究にどのようにしてかかわっていったのか、なぜ、上記の書物を訳す作業に入っていったのか。実にストレートに述べられているからである。

 木田氏が哲学研究の道に入った動機はただ一つ。ハイデッカーの『存在と時間』を読みたい一心からであった。ハイデッカーを読みたい一心からそれにあたるものの、そのためにはハイデッカーの見た無数の哲学者を経由して古典哲学・ギリシャ哲学まで追いかけることになったのである。その思索の動向がよくわかるように書かれている。本書を読みながら哲学者の思索活動とはこういうものかと、あらためて知った。

 教わったことはたくさんある。哲学書を原書で読むことの意味、言葉の意味と歴史的背景、それに木田氏の哲学思索にたいする謙虚な姿勢などである。

 哲学などやってもまったく実用性と意味もないと考えられがちである。それでも哲学という学問をきわめたい人間が、時代状況のいかにかかわらず、かならず一定数いる、この不思議さ。

 そもそも「哲学」という得体のしれない日本語はどこからきたのか。自然、存在、本質、事実、現象、自由、主観、客観、理性・・とはどんなことか。哲学の難しさは「言葉の作られ方」にある。木田氏はこの言葉の作られ方を時間・歴史・人物(哲学者)の絡み合いを、ご自身がたどられた紆余曲折な研究プロセスを丹念に振り返りつつ論述する。小気味がいいほど明快である。さらに哲学書にとりつく最良の方法は、何度も読みながら「読み慣れる」ことしかないともいう。

 これまで哲学入門書など読んでもそれ自体が難解であった。本書は木田氏のこころの動きをご自身の言葉で語っているのからであろうが、私にはこれまでになくわかりやすくとても勉強になった。

 またまた思い出したことがある。

 フランスにカリン・シムラというとびっきり優秀な40代の若き数学史家(女性)がいる。数学史家なら誰でも知っている。彼女と言い合いになったことである。それはパリだったかベルリンだったか忘れたが、ともかくすごい言い合いになった。彼女はメルロ・ポンティのファンである。当時の私はサルトル・ファンであった。私の時代はみなそうであった。わけもわからずともかく読んだことにしたのである。

 そこでカリンはメルロ・ポンティだといい、私はサルトルだと言い張って一歩も譲らなかった。たわいもない話だが、そのときいらい、メルロ・ポンティの名前が消えないのである。

 数年してパリに行ったとき、カリンに合いたいと電話したら、「馬鹿なサルトル主義者には合いたくない」ときっぱり断られた苦い経験がある。

 カリンがしっかり覚えてくれていたのはうれしい。しかし、私の目的は、哲学の話をしたいわけでない。外国で一人で飯を喰うことぐらいさみしいものはない。カリンのようなすてきな女性と食事をしたいだけだったのである。

 その彼女が最近、体調を崩しているとある友人から聞いた。再会できたら、「やはり、メルロ・ポンティだ」と言ってやりたい。木田氏の『わたしの哲学入門』は思わぬことを呼び起こしてくれた。これが哲学なのだろうか。