書評:キム・ジュン『くだらないものがわたしたちを救ってくれる』(米津篤八訳、柏書房、2022年7月24日)

 身近にある動植物の不思議な動きと多様な色彩に強い興味と関心をもち、将来は科学者(生物学者)になりたい、という夢と目標をもった少年が、その夢と目標を実現するため、なんのためらいもなくその夢にいどみつづけ、生物学者になるまでの体験をつづった、実にさわやかな高質の科学エッセイである。そのきれのある明快な文体にどんどん引きこまれていく。著者は1990年生まれの新進気鋭の生物学者で、現在はソウル大学基礎科学研究院博士研究員の任にある。

 新進気鋭の生物学者は「線虫の遺伝子進化」の研究を専攻し博士号を取得したのち、若くしてはやばやと国際的に高級な学術雑誌(Genome Research、Nucleic Acids Researchなど)に掲載されていることからも、その才能と実力をうかがい知れる。

 線虫の遺伝子進化の研究というが、そもそも線虫とはどのようなもので、どのような挙動と特徴をもつ生きものなのであろう。門外のものには驚くばかりの事実が記されている。線虫はつぎのような挙動と特徴をもつ。体長は1ミリほどで、口だけがあり目鼻はないが、しかし光を感知し匂を嗅ぎわける。また海中の熱水噴孔や極寒の極地でも生きられ、一部の線虫は雄雌同体で単独で繁殖する。

 さらに驚くべきことは、10億年ほど前に地上に現れたが、あまりにも小さい生きものであるため化石も見つからない。ところが4万年以上前に生きていた線虫が、あろうことか、2018年に長い眠りから覚め、何事もなかったかのように動き出し、エサの大腸菌まで食べるにいたった。この驚愕する発見は、ロシアの生物学者たちにより、シベリア極致の永久凍土のサンプルの研究によってなされた。ほんとうに信じがたいことだ。まさにSFの世界のようだ。

 これらの事実によって、人類はいまだ未見の細菌やウイルスにも同様の目覚めが起こる可能性もあり、そのようなことが起これば極低温冷凍下における医学や生物学や宇宙生物学の研究にもつながる。

 こうして、線虫の遺伝進化の研究のほんの一部分を見たが、その他の興味深い話がわんさと出てくる。たとえば、各種生物の染色対の進化、遺伝学上の突然変異と自然変異、ゲノム編集技術などであり、いずれも具体的で面白い。とにかく、研究最前線の現場における楽しさと苦しさが、いくえにも入り混じった生物学研究の実態が具体的に述べられ、あっという間に吸い込まれていく感覚を覚える。

 しかし、線虫の遺伝子進化の研究など、他者からみれば、一般社会では役に立つとは思えない研究で生活をしていけるのは、ほんのひとにぎりの研究者にすぎず、ほとんどの研究者は生活手段をもとめ転職して行かざるを得ないのが現実で、韓国の研究者たちの置かれた厳しい研究環境を目の当たりにする。

 研究者が定職に就くことの困難さは、韓国内に限らず世界中の研究者にも見られる実態であり、その実態はまさに生物学者の生き残りをかけた烈しい生存競争にならざるをえない。その結果、長時間労働、低賃金、就職難などのきわめて困難な事態に直面しつつも、それらにもめげず、生物学の研究に邁進する姿は、若いうちにしか体験できない特権のようにも見える。国際的に高級な科学雑誌『NATURE』や『SCIENCE』などに掲載されるような研究論文を書かなければ、生き残れない厳しい現実もある。それでも、「幼いときからの夢がかなったいま、毎日が楽しくて、幸せでたまりません」と言っているから、とうめんはそれでいいのだろう。

 すぐれた日本語翻訳にも助けられてもいるのだろう。著者の科学エッセイの文章能力は高く、文脈は一点の曇りもなく読み取れ理解できる。茶目っ気もユーモアもあり若さに満ち溢れている。だから、第一線の生物学の研究者の仕事と並行して、生物学の解説者としての役割もありそうだ。

 幼いときの夢を叶えたのだから、その一途な道をまっすぐに歩いていってほしいし、また今後将来、苛酷は研究競争のなかで思わぬ深刻な不測の事態に遭遇する可能性も考えられる。そのときは、少年時代に夢中になり読んだ『少年ジャンプ』を読み直し、その深刻な不測の事態をすんなりと乗り越える、こころの振る舞いをも身につけてほしい、とも思う。