科学史の古典書『ギルバート:磁石論』(世界の名著7、ラテン語初版、ロンドン、1600、三田博雄訳・吉田 忠解説、朝日出版社、1981)全322頁をめぐって。

目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 原典『磁石論』の総目次
Ⅲ 具体的な論述
Ⅳ 吉田忠氏と山本義隆氏の総論
Ⅴ おわりに
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Ⅰ はじめに
 本書には、ウィリアム・ギルバート(1544-1603)の主著『磁石論』(De magnete、ロンドン、1600)の原著(テン語版)の完全訳(三田博雄)と解説(吉田 忠)収録されている。正式な書名は『磁石、磁性体、そして大磁石たる地球について、多くの論述と実験とで論証された新哲学』(De magnete, magneticique corporibus, et de magno magnete tellure ; physiologia nova, plurimis & experimentis & demonstrate. 1600)である。

 本書を購入した当時(1981年)には4800円という高額の値段がついていた。よく買ったものだと思う。しかし、何十年もまともに読まずにいたが、最近になって、本気になって厳密に読んでみた。またまた「厳密」などと言うなら、本書はラテン語で書かれているから、とうぜん、ラテン語版(原典)で読み解読しなくてはならない。このことは科学史の常識である。しかし、私はアマチャであるからいたしかたない。日本語訳版で読んだ。それでも込み入った面倒くさい細かい論述に大変に苦労した。しかし、日本語版であれともかく、原典を丹念に読み終えたという充足感を体感じている。その充足感はひとえに翻訳者の肩の上にのってはじめて体感できるのだから、ギルバートの論述はもちろんだが、それ以上に翻訳(三田博雄)とその解説(吉田忠)の労にふかく感謝しなければならない。

 さて、この『磁石論』は、ヨハネス・ケプラー(1571-1630)の惑星の運動論に決定的な影響を与えた科学史上の重要な古典書である。本書は全6巻からなり、第1巻は全17章、第2巻は全39章、第3巻は全17章、第4巻は全21章、第5巻は全12章、第6巻は全9章からなっている。では、その全貌を示す目次を見てみよう。

 

Ⅱ 原典『磁石論』の総目次
■序文
・ 磁気哲学を学ぼうとする偏見のない読者にあてられた序文
・ 極めて卓越し、極めて学識高いお方、ロンドン市民のもとにおける傑出した医学博士にして磁気哲学の父たるウィリアム・ギルバート博士に対し、この磁気にかんする書につきエドワード・ライトによる称揚の辞。

■第1巻
第1章:古代人および近代人たちの、磁石についての著作、単に言及した事実、種々の意見と、空しい議論。
第2章:天然磁石とはどのような種類のものか、またその発見について。
第3章:磁石は自然的能力の違った諸部分と、力能が顕著な両極をもつ。
第4章:磁石のどちらの極が北であるか、またどのようにして南極から見分けるか。
第5章:磁石は自然的位置にある他の磁石を引きつけるように見えるが、相反する位置にあるものは斥け、正しい位置にひき戻す。
第6章:磁石は鉄鉱石も、錬鉄は鋳鉄そのものも、同様に引きつける。
第7章:鉄とは何か、どういう資料から成り立っているのか、またその用途。
第8章:鉄はどのような土地、どのような地方に産するか。
第9章:鉄鉱石はたがいに引きつける。
第10章:鉄鉱石は極をもち、極を取得し、自己自身を世界の極に向かって秩序づける。
第11章:磁石によって刺激されていない鋳鉄が鉄を引く。
第12章:長い鉄片は(磁石で刺激されていないのに)自己を南北に秩序づける。
第13章:鋳鉄はそれ自身のうちに一定の南北の方向、磁気勢力、旋回性、一定の極頂すなわち極をもつ。
第14章:磁石のほかの諸力、医療性について。
第15章:鉄の医療力
第16章:磁石と鉄鉱石は同じものであること、ほかの金属がその鉱石から得られるのと同様鉄は、磁石と鉄鉱石のどちらからも抽出されること、またすべての磁気力能はそのものにも鋳鉄にも存するが、比較的微弱である。
第17章:地球は磁性体であり、磁石であること。どのようにわれわれの周りの天然磁石が大地のすべての第一次的力をもつか、また大地が同じ能力によって世界において一定の方向に停止するか。

■第2巻
第1章:磁気運動について。
第2章:磁気接合について、まず第一に、琥珀の牽引、あるいはより正しくいえば、物体が琥珀に附着することについて。
第3章:牽引と呼ばれている磁気接合についての、ほかの人々の意見。
第4章:磁気と磁気形相とは何であるか、また接合の原因について。
第5章:勢力がどのようにして磁石に内在しているのか。
第6章:磁化された鉄片や比較的小さな磁石がどのようにして小地球や大地そのものに適応し、それによって秩序づけられるのか。
第7章:磁気力能の強さと、それがオルビスに拡がる本性について。
第8章:大地や小地球の地理学について。
第9章:大地や小地球の昼夜平分圏について。
第10章:大地の磁気子午圏について。
第11章:平衡圏
第12章:磁気水平面
第13章:磁軸と磁極について。
第14章:赤道と極との中間部分におけるよりも、極そのものにおいて、何故に接合がいっそう強いか。大地や小地球の種々の部分における接合力の比率について。
第15章:鉄のなかにはらまれる磁気力能は、円や四角やその他の形体の鉄片におけるよりも鉄の棒においてより多く現れる。
第16章:間に固体が介在しても、磁気勢力によって運動がおこること、また鉄片の介在について。
第17章:極に鎧装する(力能を増やすために)磁石と鉄兜と、その効果について。
第18章:鎧装された磁石は鎧装されないものよりもいっそう大きな勢力を磁化された鉄片にひき起こすわけではない。
第19章:鎧装された磁石との結合はより強力であり、したがってより重いのがもち上げられるのが、接合はより強くはなく、概してより弱いこと。
第20章:鎧装された磁石が第二の鎧装磁石をもち上げ、さらにそれが第三のものを引きつける。このことは第一のものの力能がやや小さいときにも、同様に起こる。
第21章:紙その他の媒体が間におかれると、鎧装磁石は非鎧装のもの以上にはもち上げられない。
第22章:鎧装磁石は非鎧装のもの以上に引きつけないこと。また鎧装磁石がいっそう強く鉄に結びつくことが、鎧装磁石と磨かれた鉄の円筒によって示されること。
第23章:磁力は結合しようとする運動を引き起こし、結合されたものをいっそう固く結びつける。
第24章:磁石のオルビスの内部におかれた鉄片は、もし妨害物のためそれに近づくことができなければ、空中に吊下がってそれにくっつく。
第25章:磁石の力能の向上。
第26章:何故に磁石と磁石の間、あるいはその力能のオルビスの内部で磁石の近くのある鉄と鉄の間より、鉄と磁石との間により大きな愛が現れるのか。
第27章:磁気力能の中心は、大地では地心であり、小地球では石の中心である。
第28章:磁石は磁性体をたんに一定点すなわちその極の方に引きつけるだけでなく、昼夜平分帯を除いた小地球のあらゆる部分の方に引きつける。
第29章:容量すなわち崇による力の違いについて。
第30章:鉄片の形体と崇は、接合においてもっとも重要である。
第31章:長い石と円い石について。
第32章:磁性体の接合、離反、規則的運動についての若干の問題と磁気実験。
第33章:力能のオルビスの内部での接合の強さと運動の種々の比率について。
第34章:何故に磁石は、北の区域でも南の区域においても、違った割合で極そのものにおいてより強力なのか。
第35章:著述家たちの述べている磁石の牽引による永久運動の器械について。
第36章:どのようにして磁石がより強力であると知れるか。
第37章:磁石が鉄をとらえることによるその利用法。
第38章:ほかの物体の牽引について。
第39章:たがいに反撥し合う物体について。

■第3巻
第1章:指向について
第2章:指向もしくは旋回する力能(われわれのいわゆる旋回性)とは何であるか、どのようにして磁石に内在しているのか、どのようにして生得的に取得されるのか。
第3章:鉄片はどのようにして磁石によって旋回性を得るのか、またこの旋回性がどのようにして失われたり変わったりするのか。
第4章:何故に磁石で触れられた鉄は相反する旋回性を得るのか、また何故に石の真の北の側面で触れられた鉄が、大地の北に動かされ、真の南の側面で触れられたものが、大地の南に動かされるのか、すなわち、石の北点で摩擦されたものが南の方に旋回されず、南点によるもの北の方に旋回されないのか―磁石について著述したすべての人々が誤解したように。
第5章:種々の形体の鉄片の接触について。
第6章:磁性体の相反運動のように見えるものは、結合をめざす本来的な合流である。
第7章:磁性体を成り立たせているのは、牽引力や反撥力ではなく、またたんなるより強い接合や結合でもなく、定まった旋回性と秩序づける能力である。
第8章:磁石の同じ極の上に立てられた鉄片の間の不調和について、どのようにしたら適合して、ともに役立つようにできるか。
第9章:多種多様な回転を示す指向図。
第10章:旋回性や磁性体の性質の転換、あるいは磁石によってよび起こされた勢力の変化について。
第11章:鉄片を磁石間の両極間の中間の部分に、また小地球の昼夜平分圏に摩擦することについて。
第12章:磁石で刺激されないのに、どんな錬鉄にも、どのようにして、旋回性が存在するのか。
第13章:何故に(磁性体以外の)何らの物体も、磁石の摩擦により旋回性に感染しないのか、また何故に磁性体ではない何らの物体もその力能を送りこみよび起こすことができないのか。
第14章:磁性体の上や下に水平に吊り下げられた磁石の位置が、磁性体の力能や旋回性を転換するのではない。
第15章:両極、赤道、中心は一つの全体のなかに永続し不動に固着しているもので、或る部分が欠けたり分離されたりするときはじめて、それは変化し別の位置を占める。
第16章:もし石の南の部分が欠ければ、北の部分の力能も若干引き去られる。
第17章:ヴェリソリウムの使用とその利点について、より強い旋回性を得るためには、日時計の指針である旋回鉄針や、羅針盤の針はどのように摩擦されるべきか。

■第4巻
第1章:偏角について。
第2章:偏角は大地の隆起部の不均衡にもとづくこと。
第3章:おのおのの場所の偏角は一定している。
第4章:偏角の弧は場所の距離に応じて均等に変わるものではない。
第5章:大洋上の島は、磁石の鉱山と同様に、偏角を変えない。
第6章:偏角や指向は、大地の秩序づける力能や磁性体の回転する本性によるもので、牽引や接合そのほかの隠れた原因によるものではない。
第7章:偏角は何故にその副原因により従来観察された以上に大きくならないのか――極の近くは別として、羅針盤で二ポイントに達することはめったにない。
第8章:普通の羅針盤の構造と、国によって異なる羅針盤の違いについて。
第9章:大地の経度を偏角によって見出すことができるかどうか。
第10章:偏角は何故に極の近くの種々の場所で、低緯度におけるよりずっと大きいのか。
第11章:世界の中心から地心への距離をヘラクレスの石の運動によって求める、カルダーノの『比例論』第5巻は誤り。
第12章:偏角の量の見出し方について、子午線と北極圏との交点から羅針の指向点への水平弧は、どれだけの量であるか。
第13章:航海者たちによってなされた偏角の観測は、たいてい雑多で不確かである。それは一部は誤差や無知や器械の不備により、一部は海が平穏で、器械に射す影や光がじっと動かないことが稀なためである。
第14章:昼夜平分線のもとでの、また近くでの偏角について。
第15章:赤道を越えてエチオピアやアメリカの大海における磁針の偏角。
第16章:ノーヴァ・ゼンブラにおける偏角について。
第17章:ヅルの海における偏角。
第18章:地中海における偏角について。
第19章:大きな大陸の内陸部における偏角。
第20章:東方海岸における偏角。
第21章:ヴェリソリウムのふれがどのように場所の郷里に応じて増減するか。

■第5巻
第1章:俯角について
第2章:球の種々の位置における、また俯角の偏差のない大地の水平面上における、磁化された鉄針の俯角を示す図表。
第3章:各緯度における水平面からの俯きの度を右の力能によって示すための器械。
第4章:小地球上で俯角に適合したヴェリソリウムの長さについて
第5章:俯角は磁石の牽引によるのではなく、秩序づけ回転させる力能にもとづくこと。
第6章:俯角の緯度にたいする比率と、その原因について。
第7章:磁針の回転の図表の表明。
第8章:すべての緯度で磁気俯角を示し、逆に回転と俯角から緯度を示す、磁針の回転の図表。
第9章:指向や真の方向からの偏角ならびに俯角は、たんなる秩序づけ回転する力能によることが、水上にける運動によって証明される。
第10章:俯角の偏差について。
第11章:球状に放散される磁気形相の活動について。
第12章:磁力は生命あるのであるか、あるいは生命を模倣する、それは有機物体にしばられている人間の生命を、多くの点で越えている。

■第6巻
第1章:巨大な磁石としての地球について。
第2章:大地の磁軸は不変なまま永続する。
第3章:長い間尊重されてきた第一動者の説を反駁する確からしい主張としての、地球の磁気日周運動について。
第4章:大地が円運動すること。
第5章:大地の運動を否定する人々の議論と、その反論。
第6章:大地が総対的に回転するのに一定の時間を要する原因について。
第7章:大地の極を黄道の極からひき離している、大地の磁気本性について。
第8章:地極は黄道の北極圏や南極圏を磁気運動することによって起こる分点の前進について。
第9章:分点の前進のアノマリーと、黄道の傾斜のアノマリーについて。
以上、総目次終わり。

Ⅲ 具体的な論述
 何処でもいいのだが、ここでは第2巻第35章と36章を挙げておく。
■第2巻第35章:著述家たちの述べている磁石の牽引による永久運動の器械について。
 カルダーノは鉄とヘラクレスの石によって、永久運動の器械をつくることができると記している。しかし、かれ自身がかつてそれを見たことがあるのではなく、ただトレヴェスのアントニウス・デ・ファンティスの報告によると、そのようなアイディアがあったというのである。アントニウスはその種の器械のことを『事物の多種多様について』の第九巻に記している。しかしそのような器械をつくる人たちは、磁気の実験をほとんどやったことがなかった。というのは、どんな磁気の牽引も(どのような技術、どのような種類の器械によろうとも)、把握する力よりも大きくないからである。すなわち、〔磁石に〕くっついているものや、近づきつつあるものは、引きつけられるものよりも、大きな力で把握され、また運動をよび起こされるときには運動するのである。そしてすでに述べたように、この運動は双方の接合であって、一方の牽引ではないのである。数世紀以前に、ペトルス・ペリグリヌスがそのような器械をつくったか、あるいはほかの人々からアイディアを得て図に描いたかしたが、それはひじょうに目的に敵ったものであった。これをまたヨアンネス・タイスネルが公刊したが、それはみじめな図でゆがめられ、すべての説明を言葉どおりに書き写したものであった、おお神よ! 熱心な研究家たちの心をまどわすこの種のつくりごと、ひょうせつ、ゆがめられた労作の災いが速やかに跡を断ちますように!

■第2巻第36章:どのようにして磁石がより強力であると知れるか。
 強力な磁石はときとしてそれ自身と同じ重さの鉄を空中にもち上げるが、微弱な磁石は細かな鉄線もほとんど引きつけない。だから、より大きな物体をよび寄せかつ把握するのは、形相に欠陥があったり、的確に石の極に近づけたりしないかぎり、いっそう強力である。なお、小舟にのせると、より鋭い力能は自己の極をいっそう速やかに大地の極、もしくは水平面上の偏差である点の方に振り向ける。自分の役割を緩慢に果たすのは、欠陥があり、本来鋭いものであることを示している。つねに同様に調整され、同様な形体の、同じような大きさの磁石を用いなければならない。同様でなく等しくないものでやると、実験の結果が一義的に定まらないかある。また磁石から遠い場所にあるヴェルソリウムで力を試験する方法についても同じことである。きわめて大きな距離でヴェルソリウムを回転できるものは、有力でいっそう力強く保持されるからである。バブティスタ・ボルタは磁石の力を天秤で測っているが、これも正しい方法である。磁石の片を一方の皿におき、もう一つの皿には同じ重さのほかのものをおいて、均等にぶらさがるようにしよう。そのとき板の上に横たわっている鉄を、それが皿のなかにおかれた磁石にくっつき、それらの友好的諸点でもっとも完全にへばりつくように調整する。もう一つの皿には砂を徐々に注ぎ入れて、ついに磁石がおかれている皿が鉄片から離れるまで、これを続ける。このように砂の重さを量ることによって、磁石の力が知れる。同様に、別の磁石で釣り合いを試み、砂の重さを観測することによって、砂の重さからより強力な石を見出すとよい。そのような実験クザの枢機卿の『静力学』によるもので、ボルタはそこからこの実験を学んだものと思われる。良質な磁石はより容易に極もしくは偏差点の方へ向き変る。またそれは舟や、その他大きな容積の木材からなっている妨害物を速やかに押しやり回転させる。俯角計では、磁石のいっそう大きな力が認められるし、また、必要でもある。それゆえ、より容易にその活動をなし、より速やかに動いていって戻ってき、ついに急いで静止してしまうとき、それはいっそう活気のある石である。不活動で鈍い磁石は、より不活発に進み、より緩やかに静止し、より不正確にくっつき、より容易にその持前の性質を乱されるのである。(本書、pp.141-3)

Ⅳ ギルバート『磁石論』をめぐる吉田 忠氏と山本義隆氏の総論
1 吉田 忠氏の総論
 日本語版の冒頭には科学史家の吉田 忠氏が『磁石論』研究を踏まえた詳細な解説「ギルバートの磁気哲学」(pp.5-72)が付されている。その内容をみると次のようである。序文 ギルバートの問題意識 1 生涯と著作(略伝、De magnete『磁石論』、De mundo[宇宙論]) 2 自然哲学(新哲学、テレラ[terrella]、電気的牽引、Coito[接合]、Anima、ギルバートとベーコン) 3 宇宙論(英国におけるコペルニクス説、ギルバートとコぺルニクス説、Orbis Virtutis、ギルバートとケプラー) 4 地磁気と航海術(ギルバートと航海術、偏角、伏角[俯角]) 5 結語。

 その労は多大なるものであるが、現代からみれば、無意味な表現と内容も含まれているが、そんなことを言ったら、科学史的考察にはならない。はやり原典には当時の科学者の世界認識に関する種々のロマンが充満している。その結語で吉田氏は下記のように総論している。以下引用。

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 以上ギルバートの磁気哲学の諸位相をみてきた。ここではそれを要約することで結語としたい。ギルバートは、先ず電気的牽引と磁気牽引とを区別した。同じ牽引現象であるが、磁石は鉄等に限られるのに反し、電気的物質は籾穀やワラ等を引きよせるという現象が知られていたからである。かれはそこで、電気的物質と磁気的物質との相違から、この両者の差異を説明した。すなわち、電気的物質は湿性の精気から成るものであり、摩擦によりこの精気からキメ細かいエフルヴィアが励起され、この作用によりワラ等を引きつけるとされた。したがって、電気的牽引はエフルヴィアという物質的要因による近接作用であった。

 これに反し磁石又は磁気的物質は、地球の深奥部から生じるが故に土からなり、その意味で地球を構成する物質とは異ならなかった。それ故地球は大磁石に他ならなかった。そして磁気的牽引は、非物質的要因たる形相によるとされた。つまりそこには磁気的エフルヴィアといった物質的なものの作用はなかったのである。この点でかれは、霊魂(anima)を磁気的物質に与えるというアニミズムを示している。このように霊とのアナロジーで捉えられた磁気的牽引は、近接作用ではなく遠隔作用であった。そこでかれは、電気的牽引力attractioと区別して、磁気的牽引力を接合coitioと呼んでいる。地球と磁石は同質のものであるから、地球は大きな磁石に他ならなかった。かくして、かれはテレラと呼ばれる球状磁石を作り、このテレラと地球との間のアナロジーをみた。このテレラを用いた実験を通じて、かれはさらに彼の磁気哲学を宇宙論の領域にも発展させた。まずテレラの極をずらした位置におくと、これが元に戻ろうと回転することをみて、磁石には回転する本性があると結論し、この故に地球は自転するとした。すなわち、コペルニクス説における自転(日周運動)は、大磁石たる地球の本性から説明されたのである。しかしかれはこれを公転(年周運動)までは拡張しなかった。かれは磁気で太陽を中心として惑星が回転する原因を説明した訳ではない。それはかれの曖昧な議論を拡張したケプラーの理論である。それ故、かれは公転について明言している訳ではなく、この意味で彼がコペルニクス説論者だとするには制約が残る。またかれが重力を磁気で説明したということもない。かれにとって重力とは、部分が全体又は母体へ戻ろうとする傾向にすぎなかった。

 テレラの実験は地磁気の研究に大いに威力をふるった。彼は実験室における地球の再現として、テレラを用いて磁針の偏角・伏角現象をみたのである。かれは地球の凹凸を模したテレラを用いた実験で、結果的には間違ってはいたが、伏角と緯度との間に相関的関係があるという結論を引き出し、航海用コンパスの示す伏角を測ることで、荒天の場合でも自船が位置する緯度がわかるとした。各地における磁針の振舞を研究するこの地磁気の研究は、当時航海にかかわるものからの要請でもあったのである。ここにギルバートと航海者の結びつきがみられる。それは、科学革命の一特性である職人的伝統にある技術的実践家と、学者的伝統にある理論家との結びつきでもあった。

 以上のごとく、かれは自己の磁気哲学にもとづいてモデルをたて、これを用いて実験をし、さらに自己の理論を構築し、確かめたのである。したがって、かれを代表的実験科学者として称賛するのは誤りではないが、かれの功績を単なる実験データの集積にのみ限定するのは正しくない。ベーコンに非難されたように、かれの実験は、磁気のみにかんす範囲内で行われていて、「光をもたらす実験」ではなかったかもしれないが、それは同時にかれの磁気理論に端を発し、またこれを確証するものであったのである。したがって、かれの実験の成果のみに注目しては、ギルバートの磁気哲学の真相をみたことにはならないと思われる。ともあれ、ライトが献辞に書いている通り、ギルバートの名声は、その著『磁石論』(De magnete,1600)一書によって不朽のものとなったのである。

(附記)本解説は、同じ題の旧稿(『東北大学文学部研究年報』)第22号、1972年、所収)に補訂を加えたものである(本書、pp.70-2)

2.山本義隆氏の総論
 この『磁石論』に関しては、山本義隆氏の近代科学誕生史三部作のひとつの『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房、2003)の特に、第3巻の第17章「ウィリアム・ギルバートの『磁石論』」(pp.605-672)に詳しく論述されている。その内容(項目)をみると下記のようである。1 ギルバートとその時代 2 『磁石論』の位置と概要 3 ギルバートと電気学の創設 4 電気力の「説明」 5 鉄と磁石の地球 6 磁気運動をめぐって 7 磁力の本質と球の形相 8 地球の運動と磁気哲学 9 磁石としての地球と霊魂。

 その最後のまとめの部分でつぎのように総論している。ジックリ読んでみることにする。(同書、pp.669-72) 以下引用、ただし、注( )内の中味は省略する。

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 ギルバートの功績は、第一に電気学と磁気学を分離し、「〔電気〕ヴェルソリウム」という検電器を創りだすことにより実験電気学を定礎し、さらには発散気を介した近接作用としての電気力のモデルを作ったことで、実験と理論の両面でその後の静電気学の出発点を築いたことである。第二に、地球が一個の巨大な磁石であることを見抜き、地球磁気学を築いたことにある。そして第三には、地球が本源的形相として磁性を有する活性的な存在であるという磁気哲学を提唱することで、その半世紀前に生まれた地動説に求められていた地球の自己運動の自然学的ないし形而上学的根拠―曲がりなりも―与えたことである。この三番目の契機は、現代から見れば誤っているため、科学史ではほとんど評価されていないが、一七世紀の前半―とりもなおさず近代物理学と近代宇宙像の登場局面―では、この点がもっとも大きな影響を及ぼした。というのもそれは、天の物体にくらべて地球が賎しくて下等でそれゆえ不活性で動けないという天動説のイデオロギー的根拠をも、同時に打破したからであった。その影響は「地球は惑星であり、世界の底に淀む汚い滓ではない」という十年後のガリレイの発言(38)に読み取ることができる。こうしてギルバートの磁気哲学は、ケプラーそしてイギリスのウィルキンズやフックに引き継がれ、新しい宇宙像の形成にむけて大きな推進力となった。実際それは、一六世紀半ばの幾何学的なコぺル二クス仮説と一七世紀後半に登場する近代的な物理学・動力学的宇宙論の橋渡しをするものであった。

 ところでギルバートの議論そのものは、如上のようにけっして近代的なものではない。そのことは彼が形而上学を展開し、物活論や霊魂論に陥っているということだけを指しているのではない。近代物理学の法則は定量的測定によって裏付けられることをその要件としているが、ギルバートにはその方向性がまったく見られないのである。というのも、実験を実行し解釈する彼の理論は、むしろアリストテレス自然学―質の自然学-の論理にのっとったものであり、それは電気的物質と非電気的物質の分類といった定性的な面では力を発揮しても、定量的に精密な測定を志向するものではなかったのである。

 そしてギルバートは『磁石論』冒頭(第一巻第一章)でひとたび「磁石の本性(magnetica natura)が突き止められたならば、すべての闇は晴れすべての誤りはあらためられるであろう」と語っているが、これはまさしくスコラ哲学のものの見方である。彼の研究は「磁石の自然本性」を究めることにあり、「磁石の法則」を確定することにはなかった。事実、ギルバートは測定をしなかった。ギルバートにおいては伏角現象はきわめて重要視されているが、しかし、『磁石論』では、ノーマンのものもふくめてたったひとつの測定値も記されていないのである。

 ツィゼルが指摘しているように、ギルバートは古代・中世の数多くの学者に論及しているにもかかわらず、その当時ヨーロッパではすでによく知られていたエウクレイデス、アルキメデス、ヴィトルヴィウスにはまったく触れていないのであり、「この三人の人物を省いていることは、ギルバートが当時の数学上の文献に接触しなかったこと、彼が機械学に興味を持たなかったことを示している」(39)のである。このコメントには、『磁石論』には当時イギリスで公知であった、そして新しい数学的な技術と科学を語るさいには欠かすことのできない名前であるロバート・レコートやジョン・ディーにもまったく言及されていないという事実をつけ加えることができる。それゆえギルバートの実験や観察は、一七世紀のガリレイの斜面の実験や、ボイルやフックのおこなった大気圧の実験とは基本的に異なっている。『磁石論』を高く評価したガリレイが、にもかかわらず「僕がギルバートに望みたかったのは、彼がもうすこし数学者であること、とくに幾何学に土台を置くことです」(40)と苦言を呈している所以である。そのかぎりでは、ギルバートは「一七世紀を予感させるよりは、一六世紀の絶頂である」(41)」と言うことができる。ちなみに『磁石論』のもっとも数学的で技術的な部分である第四巻第一二章は、実際にはエドワード・ライトの筆によると伝えられている。(42)。

 しかし、ギルバートに多大な影響をうけて新しい天文学を創りだしたのはヨハネス・ケプラーであった。そして「定量的観測によって裏づけられ数学的言語で表現された」という意味での近代物理学の法則は、『磁石論』の九年後の一六〇九年後の『新天文学』においてその第一法則と第二法則が発表された「ケプラーの三法則」をもって嚆矢とする。ケプラーは一方ではその第一法則と、そして他方ではギルバートの磁気哲学から、天体間にはたらく重力という観念を導き出したのであり、ここから近代の宇宙像が発展してゆく。つまりケプラーがその重力概念を産み出した地球観の基礎はギルバートの「磁気哲学」によるものであった。それは次章の話題であるが、こうして見ると、地球が磁石であるがゆえに自己運動するというギルバートの―現代から見ると誤った―物活論的で霊魂的な思い込みこそ、一七世紀における物理学の飛躍的発展のひとつの重要なきっかけであったと言えよう。(『磁力と重力の発見』第2巻、pp.669-72)。

Ⅴ おわりに
 ちびりちびりの読み込みで1年間もかかった。実にしんどい読み込みだった。ギルバートの『磁石論』を厳密に読んでみようと思い立ったのは、「はじめに」でも述べたように、近代科学史の分水嶺といわれるヨハネ・ケプラーの惑星にかんする考察(ケプラーの三つの法則の考察)に決定的な影響を与えた、と科学史書が教えていること、さまざまな科学史家が『磁石論』の要約を述べているものの、原典を読まないとギルバートが悪戦苦闘した思考過程をとても感受でない、と思ったからだ。具体的な中味に入り込むと判読できないような場面にたびたび遭遇したので、完全に解読したとはとてもいえそうもない。それにしても、上記の吉田 忠氏も山本義隆氏も本書『磁石論』を原典(ラテン語)で読みこなし、詳細な論述を展開していることを知ると、科学史研究の難しさがよくわかるというものである。やはり辛抱しながら原典の解読に挑戦してよかったと思っている。(2025年2月22日記)。下記の写真は『磁石論』第二版の扉。