書評:ブレンダ・マドックス著『ダークレディと呼ばれてー二重ラセン発見とロザリンド・フランクリンの真実』(福岡伸一監訳、鹿田昌美訳、化学同人、2005年8月10日)

本書は原著Brenda Maddox, Rosalind Franklin: The Dark Lady of DNA(HarperCollins、2002)の翻訳である。著者ブレンダ・マドックスはイギリス在住の著名な伝記作家で英国学士院の科学と社会に関する委員会の委員で米英仏等々で数々の伝記文学賞を受賞している。20世紀分子生物学上の最大の発見といわれる「DNAの二重らせん構造の発見」(1953)において、本書の主人公であるイギリスの実験科学者ロザリンド・フランクリン(1920-1958)の重要な実験結果「X線回折写真」が決定的な実験的証拠になったにもかかわらず、彼女が夭折したこともあって、ノーベル生理学・医学賞(1962)を得られなかったという問題意識を主軸にして、実験科学者ロザリンドの全生涯を克明に論じたものである。現時点では、ロザリンドの多数の伝記のなかでも、もっともフェアな作品であると評価されているという。

1962年度のノーベル生理学・医学賞の受賞者はジェイムス・ワトソン(1928- )、フランシス・クリック(1916-2004)、モーリス・ウィルキンス(1916-2004)であるが、もしこの時点までロザリンドが生きていたなら、文句なく、受賞者は「ワトソン、クリック、ロザリンド」であったと明言する生物学者もいる。本書を通読するものはそれを実感するはずである。

それだけではない。DNAの二重らせん構造の発見からロザリンドが恣意的に排除されることになる経緯はこれに関わった科学者たちの複雑な人間関係が大きく影響していた。その発端を明らかにしたのは、後にベストセラーになったワトソンの著書『二重らせん』(1968、邦訳1986)である。ワトソンは本書の中でロザリンドを意地の悪い女「ロージー」としてこき下ろしたのである。ワトソンは著書で生き証人の科学者たちにも批判を向けている。当時の若きワトソンはきわめて主観的にかつ赤裸々に科学者の人間関係を描きだしているのが特徴であるが、すでに死去したロザリンドには反論ができない。そこでロザリンドの友人アン・セイヤーが『ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光』(1975、邦訳1979)でロザリンド援護の立場から反論を加えた。しかし。この著作にたいしてもまた、ロザリンド援護に傾きすぎているとの批判を呼んだこともあり、ノーベル賞、科学的業績、女性科学者等々の観点から、これまで話題にこと欠かくことはなかった。さらにはクリックが『熱き探求の日々』(1988、邦訳1989)、ウィルキンズが『二重らせん 第三の男』(2003,邦訳2005)を刊行する。夭折したロザリンド以外はみな長く生き、彼女にのみ科学者同士の確執をも冷静に振り返り論じる機会が与えられないことは歯がゆいが、それだからゆえに、DNAの二重らせん構造発見をめぐる人間模様が憶測に憶測をよびヒートアップしたことも事実であろう。

60代の評者の立場から見ると、上記の出来事は当時みな20~30代の若き科学者たちである。科学史上の読み物としては面白いかもしれないが、当時の若き彼らに科学的研究の営為をめぐる社会的責任倫理を求めるのは酷であろうとも思えてもくるし、科学的発見の先取権の問題は、現代の科学技術の研究現場でもしのぎをけずっていることを思うと、なおさらであり、その歴史は繰り返すのであろう。

しかし、書評は対象本からあまりに逸脱することは好ましくないから、本書の内容の核心と評者が思える部分だけを述べることにする。ロザリンドは37歳で夭折し余りにも短い生涯を終えたわけだが、総じてロザリンドは科学者として思う存分に生きたといってよい。階級社会のイギリスのなかでも、何世代もまえの祖先の時代から上流階級に属する裕福なユダヤ人家族のもとに生まれ、何不自由のない恵まれた少女時代を送り、ケンブリッジ大学に進み、順調な科学者人生を送ったといってもいい秀才であった。由緒ある家族間の交流を重んじ、名実ともに自然(ハイキング、登山)を愛し、外国旅行を愛した。特にパリ留学時代は彼女の人生でもっとも充実していた時期であった。

1951年、ロザリンド(31歳)は、ロンドンのキングス・カレッジのジョン・タンドル教授が率いるチームの研究員として採用されるが、そこでX線によるDNAの結晶解析を研究することになり、「鮮明な繊維構造の回折写真」を獲得する。ところがこの写真が、ロザリンドの承諾を得ないまま、研究同僚のウィキンズ配下の研究者を通じて外部にでて、それがワトソンの目にさらされたことになる。この見事な写真こそが、DNAが二重らせん構造をもつ決定的な決め手であると、ワトソンを確信させたのである。

繰り返すが、ロザリンドの承諾なしにである。その背景にはロザリンドと先輩研究員であるウィルキンズとの口も聞かない最悪の人間関係があった。同じテーマを扱いながら、お互いに切磋琢磨し議論すべき研究者同士が口も聞かないほどの最悪の人間関係のもとでの研究生活であることを知るとなんとも心苦しい。それにはランドルがロザリンドを採用する際、独立した研究員としてか、あるいはウィキンズ配下の研究員として採用するかを明確にしなかったことが、大きな要因であった。つまり、ロザリンドは自らを独立した研究者と認識し、一方のウィキンズは自分の配下の研究員と認識していたことである。この両者の認識のずれは、ロザリンドにもウィルキンズにとっても不幸な事態の始まりであった。この辺の事情は読むものの心を暗澹たる気持ちにさせる。

そのウィキンズは、うしろめたさがあったのであろうが、長い間沈黙を保っていた。しかし、晩年長い沈黙を破り、自分を「窃盗者ウィルキンズ」のように述べているアン・セイヤーの言い分に反論し、自分はその写真を見る権利あったと反論を加えている。それはそうであろう。セイヤーの言い分を多少なりとも認めれば、光栄あるノーベル受賞者から一転して窃盗者・犯罪者として科学の歴史に刻まれることになるからである。ウィキンズにとっても苦しい科学者人生であったに違いない。その実相は当事者でないからなんとも言いがたいが、一連のDNAの二重らせん構造発見史を読む限り、どうしてもウィキンズは分が悪いと評者にも思える。1962年のノーベル賞授賞式でウィルキンズだけがロザリンドに謝辞を述べているが、まことに時期を逸しつつも、せめてもの罪滅ぼしであったとろうと評者はみる。

1958年、長年のX線被曝が原因と見られる卵巣癌および巣状肺炎で37歳の若さでなくなった。手堅い確固たる実験科学者の宿命であるとしても、なんとも科学史上の第一級の証言者を失ったのである。その他、本書には著名な科学者たち(ライナス・ポーリング、ジョン・デズモンド・バーナール、ジャック・メリング等々)の人間模様も記されていて興味深い。最後に、自然をこよなく愛したロザリンドが、ノルウエー山中で愛用の登山靴を履き楽しげに読者を真正面に見つめ続けている写真は、時空間は異なれども、人生の短さと学術の永遠性を訴えている。(猪野修治)