書評:増田美香子編『産学連携の祖 浅田常三郎評伝』(毎日新聞社、2008年4月4日)

本書は大学世界と企業世界の学問人材交流の礎を築いた実験物理学者・浅田常三郎(1900-1984)の評伝である。編者の増田美香子は浅田の弟子・増田正美の妻、著者は浅田の弟子たち(板倉哲郎、更田豊治郎、住田健二、北側通治、岡田健)である。これらの弟子たちはいずれも日本の産業界を先導した人々である。

浅田は東京帝国大学理学部物理学科に入学し、日本の物理学の大御所・長岡半太郎を師匠とし、後に大阪帝国大学教授を務めた人物であるが、浅田の生涯にわたる学問研究の基本的立場は物理学を現代社会に実質的具体的に応用・適用することであった。それゆえ当然のことながら、浅田のもとからは日本の産業界に多くの指導的企業家を輩出した。その象徴的人物はなんといっても井深大とともに世界的企業「ソニー」を創設した盛田昭夫である。浅田は1984年3月7日、大阪大学医学部付属病院で83歳と8ケ月の生涯を閉じるが、その一周忌に盛田は次のような追悼文を寄せている。

「私は浅田研究室へ入れていただくために阪学理学部へ入学した。昭和17年4月、当時、最新の設備を誇った、あの中ノ島の理学部の門を希望に胸をふくらませてくぐった喜びは忘れることができない。以来、40年余、浅田先生には筆舌では表わし得ないご指導を賜った。わたしにとっての先生は物理学の先生だけではない。物事をどう考え、人間をどう考えるか、何かすべての思考の道筋を先生から受け継いだような気がしてならない。こんなことを要ったら先生に思い上がりだと叱られるだろうが」(本書210頁)。

たしかに、この盛田の追悼文は単なる美辞麗句ではない本質に迫った臨場感がある。というのも、戦後、焼け跡の東京日本橋に資本金19万円で作った名も無き「東京通信工業」が経営不振に陥り、半ばあきらめ状態で恩師の浅田を訪ねると、薄給の浅田は盛田に10万円もの大金を資金提供しているのである。その後、盛田によれば、ソニーには決定的な危機が三度あったが、そのたびごとに浅田は的確な解決方法を示したという。熾烈な研究開発競争に追いまくられる企業者には切実な難題であったことを思うと、浅田は盛田の「命の恩人」と言っても過言ではない。実験物理学という学問上、産業界と結びつきは強く、浅田研究室の多数の卒業生を企業社会に積極的に送り込み、彼らはそれぞれ日本の産業界の指導的立場を確保することになる。著者たちはそれらの一部の人々であるが、本書にはそれ以外に浅田研究室を出て浅田の指導を受けた多数の企業人の言葉が紹介されている。

このように浅田が純粋な狭い学問世界に満足せず、自らの研究と弟子たちを積極的に当時の産業社会に送り込み本書で「産学連携の祖」と名づけられた背景には、よくよく本書を読んでみると、若い時代の長兄の浅田長平から決定的な影響を受けた結果だと評者は断言したい。長兄の浅田長平は京都帝国大学採冶金学科をへて神戸製鋼所に勤務し社長にまで登りつめ、後に「鉄鋼の巨人」と呼ばれる人物であるが、その長平が欧米の電気製鉄金属工業など視察旅行(1920年)後に出した膨大な報告書(口述筆記420頁)を作成したのは、若干18歳の高校3年生の浅田(常三郎)であったからである。長兄長平の欧米視察旅行の話(報告)は青春多感な浅田の心を大きく揺さぶったことは論を待たないだろう。浅田自身次のように回顧している。「工業に対して私が興味をもったのはその(報告書を筆記した経験の)賜と信じている。大正年間に物理を専攻したものでその応用を志望する者は少なかったが、私が長岡半太郎先生門下で純粋物理を修めながら応用物理へ進んだのは、兄の感化が深かったためと思われる」(本書30頁)を述べているからである。青春の感化は実に恐ろしい。当時の帝国大学理学部物理学科の卒業生はいわば華々しい理論物理学の創成期から発展期にありみなそろって理論物理を専攻する時代的風潮であったからである。こうして浅田は長平の神戸製鋼所はもちろん種々の企業と深い関係を保ち何人もの弟子を送り込んでいる。

東北の出身の評者にはあまりぴんと来ないけれども、一般に、大阪人は気さく権威ぶらい気性の持ち主が多いという。当時の帝国大学の教授は絶大な権威の象徴でもあったが、浅田はまったくその権威を微塵も示さず、それとはまったく反対に平易な言葉を使い、ずばり本質を突く講義と議論を展開したという。職人気質のもの作りに徹する学者によく見られるさわやかさである。その気どらない気性もあいまって、浅田のもとには「悩みを抱えた」多様な企業人が相談に駆けつけるなど、「庶民派物理学者」と呼ばれる様子が本書の行間から読み取れ感得する。

浅田は日本軍の真珠湾攻撃の直後に『国防を守る科学』(1941年12月15日)を刊行している。一般国民の科学水準の高揚、国防のための科学、科学者の国家への協力体制を一貫して主張し、戦時科学動員と連動する。戦前から浅田は有能な「実践的科学者」として自ら海軍の嘱託として内外の科学状況を教授している。そして、1945年8月6日、広島に原爆投下された直後の8日、海軍の要請で、先に広島入りしていた理研の仁科芳雄、京都の荒勝文策などに合流し、新型爆弾がいかなるものかの調査を行っている。腰が低く権威に媚びない真摯な庶民派物理者の心中はどのようなものであっただろうか。しかし、科学史家にとっては戦前の戦時科学動員体制と戦後の科学者の動向は重要な関心事であるが、科学者の社会的な活動の意味を問うような記述は皆無であるのは残念である。この点が評者にはきわめて不満である。

しかし、庶民派物理学者・浅田の社会的政治的関心がどのようなものであったかは、本書からは読み取れないが、とにもかくにも、戦後も一貫して社会に役に立る研究に専念したその気性と精神には大いに学ぶべきであろう。その浅田の人柄に惹かれた弟子たちが集い、自分の研究、発明、技術開発などを語る会「浅田会(初代幹事・盛田昭夫)」(1966年)が発足し、現在でも毎年続いているという。大阪を舞台にした人情と庶民物理学者の足跡を語る老年の弟子たちは、今日もどこかでいっぱいやりながら懇談していることだろう。

ところで、この書評を引き受けて以来、ずっと浅田のことを考えていたが矢先、偶然にも、評者は私的な研究会で、最初に登場させたソニーの盛田昭夫の秘書をやっていたという女性と知り合った。その女性の方によると、盛田はいつもことあるごとに、「浅田先生のことを語っていた」という証言を得た、ことを付け加えておきたい。その盛田も、もういない。(猪野修治)