書評:松本哉『寺田寅彦は忘れた頃にやって来る』(集英社新書0144D、集英社) 2003年9月10日『化学史研究』第30巻第3号(通巻104号)掲載

 私はこれまで本誌のような学会誌だけでなく一般の商業雑誌にも多くの書評や批評を書いてきた。一冊の本の書評・批評をするだけだが、そのつど相当に悩み苦しむ。何度も読み返し入手し得る関連書物を子細に読み込み、それらの関連書物と対象の本の関係を考えたり、著者の意図を想像したり、そして書評・批評それ自体の意味を熟考したり、であるからだ。いわば一冊の本の書評・批評の営みによって、私自身が本気に思想の閉塞状態から脱却することを心がけてきたからだ。その意味では賛同・批判も含め対象となった本は私の「先生」である。今回もそうだ。何年も前に読んだ『寺田寅彦著作集』全五巻(岩波文庫、1969年版)、その他の関連書物を再読するはめになった。

 寺田寅彦(1878-1935)は物理学者・随筆家であることは本誌の読者には周知のことである。通俗の言い方をすると、寺田寅彦は実験物理学者であるにも関わらず、そのかたわら「余技・趣味」で随筆を書き、学者の本道から離れ、学者の人目を気にせず浮世離れの自由奔放に生き、アインシュタインや石原純らの同時代人が研究対象とした主流の現代物理学ではない「日常の自然観察」ばかり関心を向けてきた変わり者である、と語られる。

 本書の著者もそれと同じ路線だとは言わないまでも、ほぼ同様の寺田寅彦像を背景に寅彦を読み込み、寅彦が住んだ高知、熊本、東京に足を運び、世知がない現代になんとか寅彦を蘇らせようと、寅彦の世界のエッセンスを的確に拾い出し軽快な叙述で紹介している。実に読みやすい。私と同世代の著者はかつて物理学科を出て河出書房新社などで自然科学関係書籍の編集者を経て独立し作家となった。その著者はあとがきで「なによりも一人の現代人としての義務として本書を書かせてもらった。物理学といった狭い範囲にとどまらず、世の中全般を見たり、考えたりする上で忘れてはならぬ人物だと思っているからである。」と述べておられる。ここには、著者は寅彦に魅了されそれを書くことで「思想」を世に問うたと言ってもよい。

 振り返ってみると、寺田寅彦の伝記・評論は本当に「忘れた頃にやってくる」。このようにたびたび、忘れた頃にやってくる科学者・随筆家も珍しいのではないか。それだけいつの時代の科学者も文学者をも魅了する「何か」が寅彦にはある。寅彦は科学論文と随筆をほど同数書いた。私自身に即して考えると、物理学出で公務のとき以外、ほとんど文章を書く毎日だが、奇しくも寅彦は私と同じ57際で亡くなった。当然、気になる最大の人物である。最大とは科学と文学を融合する文章を書くという意味である。

 本書が契機になって寅彦を読んだことは先に述べた。著者は正面切って述べていないけれども次のことを十分に理解されていると思う。寅彦にとっての随筆は専門科学者の余技・趣味でもなかったし、学者の本道から外れてもいない。科学者と文学者の両方に関わらざるを得なかったのだ。初めからそういう「思想」をもった人物であったと言っていい。寅彦は少しばかり早く生まれたにすぎない。

 その実、これは私の私見だが、寅彦の科学者・随筆家としての思想は、そのスタンスは大きくへだたるけれども、弟子の坪井忠治、中谷宇吉郎、孫弟子の竹内均に引き継がれたのはもちろんだが、最近では核化学者の高木仁三郎や天文学者の池内了等々の「思想」にも影響を与えている。竹内は科学技術立国を肯定的に雑誌の発行に全力を投入しているのがもろに寺田から影響を受けた。高木は市民科学者として「科学と文学」を融合する膨大な実践に基づいた文章を書いた。もっとも高木はほとんど寺田には言及していない。むしろ高木は宮澤賢治の追いかけ弟子だあ。池内は天文学の啓蒙活動と現代の科学技術論を批判的に「本気」で論じている。いずれもこれらの科学者の思想を体現する文章は、科学者であるとか文学者であるかを分離する二律背反の思考態度をとらない。

 これが重要なのだ。こうして時代を問わず寺田寅彦が「やって来る」のだが、私がこの書評で言いたいことはこのことである。このこととは、科学者が論文と同様の力を込めて、いやそれ以上に力を込めて随筆なり啓蒙書を書くことの意味をである。話が一般化すると本書の書評を逸脱するので、寺田寅彦が随筆を書くことをどのように意識し自覚していたかを示しておこう。寺田にとっては、随筆は余技でも趣味でもない切実な問題であった。この切実な問題に本気で全力投球したが故に、寺田の随筆に読者は「無自覚」に魅了されるのである。切実な問題とは科学と文学の問題、あるいは科学者が随筆を書くことの意味である。極論すると寅彦にとっての「科学の意味」である。

 寺田の随筆には自然を注意深く観察する思考態度ななければ書けない文章が多数ある。寅彦は夏目漱石と正岡子規から俳句を学び文学上では漱石の弟子である。しかし、科学と文学を一つの総体としてみると、寅彦は漱石より遙かに優れていた。寅彦は漱石に大きな影響を与えた。現実に漱石は小説のなかに寅彦を意識した人物をいくつも登場させている。 また、漱石との交流からは、寅彦は科学と文学、つまり科学と文学の融合を切々と論じる。1933(昭和8)年9月、「世界文学講座」に「科学と文学」という長い論文を書いている。死去する2年前のことである。そこで寅彦は、長年随筆を書いてきた問題意識を明確にしているので、その論点を勉強してみよう。この「科学と文学」はかなり構えた論述になっていて、初めの緒言では子供時代は軍記ものを含め文学小説を乱読したと述べたあと、どんな小品や写生分を書くときには観察と分析が必要で、これは科学研究と同じ異研究思索であると断言する。

 それに続いて「言葉としての文学と科学」、「実験としても文学と科学」、「記録としての文学と科学」、「文学と科学の国境」、「随筆と科学」、「広義の「学」としての文学と科学」「通俗科学と文学」、「ジャーナリズムと科学」、「文章と科学」を縦横に論ずる。寺田寅彦の言いたいことを要約するとこうなる。

・科学は万人が読み得る言葉で書かなければならない。
・一見非写実的、非自然的な文学でも立派な実験である。
・特に探偵小説などは「実験文学」である。
・科学は未知の事象を予報し、文学は未来の人間現象を予報する。
・文学と科学を接近させなければならない。
・文学者は科学者以上に科学者でなければならない。
・科学者が科学者として文学に最も貢献出来るのは随筆である。
・随筆文学は科学と文学が握手する営みである。
・随筆文学は文学世界のなかに確固たる位置を確保すべきだ。

 まあ、こんな内容のことを具体例をあげて詳細に論じているが、寺田寅彦の随筆に書けた執念は科学の言葉「数学」ではない、何人にも理解可能な日本語という言葉で科学を語ったのだと言ってもよい。この科学の言葉を大衆の前にさらけ出すことによって吟味・批判を受けながら科学の内容を練り直して行くという、きわめてシンドイ営みを自分に課したのである。寺田寅彦が科学と文学を融合する文学「随筆」にこだわったわけはここにあると私は思う。この営みは現代でもアカデミズムの世界では邪道である。私は寺田が随筆を書いた思想的背景には、現代の「市民科学の思想」に相通じる意識があったのではいかと思う。

 最後に、先に述べたように、本書の著者が寺田寅彦を追いかけることが「現代人としての義務」だと述べていることもうなずけるような気がする。それは私だけではあるまい。

参考文献
小宮豊隆編『寺田寅彦全集』全五巻 (岩波書店、1969年)
小林惟司『寺田寅彦の生涯』(東京図書、1977年)
その他、雑誌・論文