書評:西尾成子著『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原 純』(岩波書店、2011年9月28日)本文288頁、索引・文献・注60頁

西尾成子著『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原 純』

日本の物理学史家による待望の本格的な石原純(1881-1947)の評伝が登場した。石原と同時代に活躍した数学者・数学史家の小倉金之助(1885-1962)や物理学者・随筆家の寺田寅彦(1878-1935)の著作集や評伝は多数あるのに、日本最初の理論物理学者で歌人でもあり先駆的な科学ジャーナリストでもあった石原にかんするまとまった著作と評伝が少ないことがふしぎでならなかった。

いっぽうで近年、日本思想史家の和田耕作氏の一連の渾身の労作『石原純―科学と短歌の人生』(ナテック、2003 )、『石原純歌論集』(同、2004)、『石原純全歌集』(同、2005)、『石原純随筆集』(同、エスコム出版、2011)が刊行された。ここにきて物理学者と歌人のふたつの側面をもつ石原にかんする著作と評伝がはばひろく開示されることになり、科学と文学の両面からの石原純研究が、いっきに小倉や寺田と同じレヴェルの研究対象にちかづいたといえる。

著者はいぜん、20世紀初頭の物理学の革命の一翼を担ったデンマークの理論物理学者ニールス・ボーアの評伝(『現代物理学の父ニールス・ボーア』中公新書、1993)を刊行しているが、こんどはボーアと同時代に生き専門を同じくするボーアにまさるとも劣らない石原の物理学研究とその周辺の一次資料を、ながい期間苦心しながら入手し読み込み熟考をかさね学説史と社会史を織り交ぜながら多面的に石原の生涯をくっきりえがきだしている。

本書によると、石原は日本で最初の相対論の論文(1909)と最初の量子論の論文(1911)を発表し、ヨーロッパ留学中(1912-1914)にも世界レヴェルの多数の相対論の論文を発表するなど、とうじの最先端の理論物理学者であった。アララギ派の歌人原阿佐緒との恋愛事件(1921)を批判されいさぎよく東北帝国大学を辞任(1923)するものの、オリジナルな相対論と量子論の論文および主として『思想』などに掲載された物理学の紹介記事などを収録した斬新な労作『物理学の基礎的諸問題』第一輯(1923)、第一輯(1926)を刊行する。岩波書店社主の岩波茂雄のもとで『岩波講座 物理学及び化学』初版(1929-31)と『科学』創刊(1931)と『岩波 理化学辞典』初版(1935)などのすべての編纂主任を務めるなど、日本の学問の啓蒙に大きな役割をはたしてきた岩波書店の出版史からみても石原は多大な功労者であった。

また、石原は子ども向けの科学の解説から科学論、科学教育論、社会批評、恋愛論まで、はばひろい真摯な言論活動を展開した。朝永振一郎や湯川秀樹や坂田昌一などの物理学者はみな、少年・青年時代に石原の物理学の解説書と啓蒙書を読み大きな影響を受けた。それほどの確実な学問的見識をそなえた科学解説者でもあった。この科学解説が現代に具体的によみがえっている場面を紹介する。三世代もまえの石原の子ども向け科学本をたまたま読み感動した石原の孫娘の森裕美子氏が、子ども科学館(逗子)を創設し、現在子どもの科学教育の活動にあたっていることである。

特筆すべきことは、満州事変(1931)から敗戦(1945)までの軍国主義体制下での国家総動員法および戦時科学振興政策の厳しい言論統制のもとでも、石原は不合理な日本精神を唱えるファシズムを批判し、合理性のある「科学的精神」の重要性を一貫して説き続けた。石原は「本物の科学ジャーナリストだ」と著者が言い切るゆえんである。

石原の最期は悲惨なものだった。1945年12月 中ごろ『科学』編集の仕事のかえり交通事故で重傷を負いほぼ1年後に死去する(1947年1月19日)。石原の科学的精神の先は天皇制批判にも通じるという見方から、進駐軍または別組織の他殺説さえもあるという。最後に、余人にはかりしれない人生をかけた恋愛事件で大学を去らざるをえい時代状況にあったけれども、それによって、日本の第一級の科学ジャーナリストを産むことになったことは皮肉である。本書もまた第一級の重厚な石原伝である。(猪野修治:湘南科学史懇話会代表)