書評:西尾成子著『科学ジャーナリズムの先駆者 評伝 石原 純』(岩波書店、2011年9月28日)本文288頁、索引・文献・注60頁

待望の書物がでた。日本の物理学史家による本格的な日本最初の理論物理学者の石原純の評伝である。本書は、岩波書店の雑誌『科学』に2005年11月から2010年11月まで31回5年にわたり連載したものを整理し単行本にしたものである。著者の石原純研究は1975年~76年にはじまるが、著者はつぎのように述べている。「石原純の物理学研究に注目したのは、いまから三十五年ほど前のことである。アインシュタイン生誕一00年を数年後にひかえて、アインシュタインの一九0五年論文が日本でどのように受け入れられたかを調べていた。そのとき石原純の研究を知って目を見張ったのである。石原は一九0九年という早い時期に、日本で最初の相対論の論文を発表し、さらに一九一一年に日本で最初の量子論の論文も書いているのだ」(はじめに)。

著者は9年ほど前の1993年、現代物理学の創始者のニールス・ボーアの日本初の評伝『現代物理学の父ニールス・ボーア』(中公新書、1993)を刊行しているが、今度はそのニールス・ボーアと専門を同じくする同時代人で日本の理論物理学者の石原純伝を刊行したのであるが、評者の読後の結論を先に言えば、本書は第一次資料が満載で第一級の重厚な書物となっている。

本書の構成は下記のようである。

はじめに-いまなぜ石原か
第1部 物理学者への道
第2部 日本初の理論物理学者誕生
第3部 ヨーロッパ留学から東北帝国大学教授辞任まで
第4部 科学ジャーナリストとして
第5部 戦時科学振興政策批判から敗戦直後の急逝まで
おわりに
文献と注
参考文献
石原純略年譜
索引

まず第1部の「物理学者への道」では、生誕から大学院までがのべられる。石原純(1881-1947)は三河西端藩士(現在の愛知県碧南市)を出自とする父・石原量(1849-1904)と東京本郷生まれの母・千勢(1861-87)の長男として生まれ、弟に謙、妹に露がいた。両親ともプロテスタントの洗礼を受け父は教会の長老であった。石原純は少年時代から晩年までじつに几帳面に日記や身辺の記録を残していて、本書でも随所に引用と分析がくりかえされ、その写真も掲載されている。

東京本郷小学校をへて私立郁文館中学、第一高等学校(理科)、東京帝国大学理科大学理論物理学科、同大学院までのいわば少年・青年時代の動向がことこまかくのべられている。石原が物理学を専攻するようになったのは数学の純粋性を好んだ必然的な運命であったと自ら述べているけれども、青年時代から物理学の学生の本分を忘れるほどの歌詠みに励む歌人でもあり、短歌会の機関誌『馬酔木』や『アララギ』にも多数の短歌を出している。

この時代は親しい友人と散歩とテニスに興じるどこにでもいる学生であったが、父の量が死去したころから家族を養う義務が生じた長男の石原の生活は困難をきわめ、土地の売却で借財の返却にあてるがそれでも足りず、友人や親戚縁者から多大な援助も受けていた。それらの援助にたいして石原は感謝のあまり「男泣きもするほどの困窮」であったという。石原の学業生活は恩師の長岡半太郎と一対一で物理学の論文を読む以外は私立の早稲田や数種の専門学校で講師を務める多忙な日々であった。

石原が大学院に進んだ1902年前後は物理学の激動期で量子論や相対論が登場する時期でもあり、青年石原はその激動する物理学の渦中でアインシュタインの論文に注目し熟読と熟考をかさね、やがて、日本で最初の相対論の論文「運動媒体の光学」(1909)と量子論の論文「光量子論への寄与」(1911)を発表する。これは特筆すべきことで、石原がすでに第一級の理論物理学者であることの証であり、「石原の研究は世界的水準に達していた」と著者はいう。

第2部の「日本初の理論物理学者誕生」では、大学院を退学し陸軍砲工学校の教授時代をへて長岡半太郎の命により東北帝国大学理科大学の助教授に赴任し、ドイツに留学するまでの動向がのべられる。3年間(1908-1911)ほどの陸軍砲工学校時代には10編の論文を発表しているが注目すべき論文はふたつある。ひとつは「金属中の電子運動の理論について」であり、ふたつは「振動電気力に対する電気伝導度の電子論からの導出」である。 これらの論文は早くもボーアの論文とともに西欧の学者に高く評価されたという。

石原は東北帝国大学理科大学の助教授に就任する(1911年5月)も、東京生まれ東京育ちの石原にとって東北は何ともさみしい田舎町であったという。物理学科には本多光太郎、日下部四郎太、愛知敬一、数学科には林鶴一、藤原松三郎、窪田忠彦、さらに林鶴一の助手の小倉金之助がいた。ここで石原は『東北帝国大学理科報告』(欧文)や『東北数学雑誌』に多数の論文を発表するのであるが、前者に長大な論文「光量子論への寄与」、後者に論文「相対性理論における空間時間変換について」を発表している。これらの諸論文の中身と物理学の事情を解説する記述は詳細をきわめ圧巻である。

ここで桑木彧雄にふれておきたい。石原の相対論研究は桑木の影響が大きい。それというのも、そもそも日本に相対論の概説を初めて紹介したのは桑木であり、日本における相対論研究にかんする石原の相談の相手は桑木であった。桑木はベルリン大学のプランクのもとに留学(1907-1909)し、プランクの周りに集う当時のそうそうたる物理学者の議論をじかに聞き、相対論の何たるかを深く考える機会を持っていたからである。その桑木が帰国すると彼がじかに見聞したヨーロッパの物理学の現状を日本の物理学界に紹介することで、石原も桑木から大きな影響を受けることになるが、このあたりの著者の論述は実に面白い。

第3部の「ヨーロッパ留学から東北帝国大学教授辞任まで」では、文字どおり、ヨーロッパ留学(1912-1914)のありさまを詳細に論じ、すでに世界的な物理学者である石原がアララギ派の歌人の原阿佐緒と恋愛事件を起こし東北帝国大学辞任(1923)を余儀なくされるまでの様子がのべられる。

石原の留学先は主要にドイツのミュンヘンのゾンマーフェル、ベルリンのプランク、ジュネーブのアインシュタインであり、その後、ロンドン、パリなどを見聞し帰国するが、この間、これらの著名な物理学者のもとにおける研究状況および当時ヨーロッパに留学していた日本人たちとの交流が詳細に描かれている。なれない外国でドイツ語の習得に困難をきわめたのであるが、それでも石原は留学中9編もの論文を書いているというから驚きである。それと言うのも、著者は留学の時点での石原を次のようにのべているからである。「石原は当時の留学生の多くとはちがって、留学前にすでに相対論、金属電子論、量子論といった先端的な研究を行い、それぞれ世界的水準の業績をあげていた。彼は留学先で、同様のテーマの研究をすすめ、帰国後もその延長線上に研究を発展させて一九一五年には量子論の一般化という歴史に残る研究と、彼の相対論研究の頂点ともいえる特殊相対論の一般化、重力の理論を発表した」(153頁)、さらに「相対論と並ぶ現代物理学の理論的基礎、量子力学が形成されたのは一九二五~二六年のことである」(162頁)。これらの文章から、石原はすでに世界的水準の物理学理論を展開していたかがわかる。

その世界的物理学者が帝国大学辞任を余儀なくさせられる事件を、石原自身が引き起こすのであるから人生とは不思議なものであるが、石原にとっては「人生をかけた本気の恋愛」であった。よく知られた恋愛事件であるが、石原は若いときから物理学とおなじく優れた歌人でもあったことが大きな要因であり運命でもあった。同好の美人でアララギ派の歌人の原阿佐緒に石原は惚れ込んでしまうのであるが、詳しくは本書にゆずることにしよう。

第4部の「科学ジャーナリストとして」では、上記の恋愛事件の結果、東北帝国大学を2年ほど休職したのち辞任(1923)し、それ以来、世界的物理学者の石原はアインシュタインの相対論の優れた科学解説者としてのりだし、日本における最初の第一級の科学ジャーナリストが誕生する様子がのべられる。

これには岩波茂雄(岩波書店社長)と山本実彦(改造社社長)の全面的な支援があってのことであるが、しかし、のちには石原は岩波書店の自然科学書の出版と刊行に多大な貢献をすることになる。『アインシュタインと相対性理論』(改造社、1921)、『相対性原理』(岩波書店、1921)、『エーテルと相対性原理の話』(岩波書店、1921)、『アインシュタイン教授講演録』(改造社、1923)などをつぎつぎと刊行しているからである。

よく知られているように、山本実彦はアインシュタインを日本に招聘する快挙を果たし、日本各地の大学で講演活動を実施するが、石原はほとんどその通訳・解説者として同行して各地で熱烈な歓迎を受けるとともに、石原の物理学の解説書も飛ぶように売れたという。これによって石原は文筆で生きていく意思をかため、本格的な現代物理学の普及活動にのり出すのであるが、その執筆活動は現代物理学の解説や紹介のみならず科学教育論、科学論、科学批判、恋愛論にまで及んでいる。とりわけ注目されるのは世界初の全四巻からなる『アインシュタイン全集』(1922-24)および『物理学の基礎的諸問題』(岩波書店、第一輯1923、第二輯1926)である。前者はアインシュタイン来日とあいまって売れ行きが好調でアインシュタインの講演会場は「立錐の余地もないほど盛況だった」という。後者は各種の雑誌(『思想』『理学界』『アララギ』『改造』等々)に載った文章、主要には『思想』に載ったものを収録したものである。のちにノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹や朝永振一郎などは石原の『物理学の基礎的諸問題』を読み大きな影響を受けたという。

もう一つ特筆すべきことは『岩波講座 物理学及び化学』全24巻の刊行(1929-31)と雑誌『科学』の創刊(1931)、『理化学辞典』(1935)の刊行である。石原はこれらの講座・辞典・雑誌の責任ある編纂主任を務めたが、この仕事に心血を注いだ様子が多くの証言で明らかにされている。

さらに相対論は時間と空間の概念を根底的に転換し哲学的認識論の問題にも及ぶことになり、石原は桑木彧雄、田辺元、小倉金之助などと議論を交わしているが、とりわけ石原と桑木のあいだで交わされた相対論と哲学的認識論にかんする書簡は印象的である。

第5部の「戦時科学振興政策批判から敗戦直後の急逝まで」では、日本軍国主義体制の全体主義とファシズムの政治状況で、多くの自然科学者が勝利のための科学を論じるなかで、石原は最後まで純粋科学と基礎科学の重要性を主張し続けたことなどがのべられる。 特に小倉と田辺と石原の3人はそれぞれに三者三様に影響を受けかつ与えながら、ファシズムの圧力をはねつける道は「科学的精神」を普及させることだと主張し、かれらの著作は多くの知識層に読まれたというが、そもそも科学的精神なる言葉は小倉がフランスの数学者の言葉からヒントをえて使った言葉であり、石原は『科学』や短歌関係の雑誌などでことあるごとに科学的精神の重要性を訴えている。石原はいわゆる政治的な左翼ではないが、ファシズムに抗する一貫した批判的な言論活動の根幹に、この科学的精神を置いたのだと評者は見る。

また、石原は科学教育においても科学的精神の重要性を主張する多数の文章を書いたが、著者はそれらを具体的に再現し今日でも傾聴に値すると力説しているのが貴重である。ここですこし横道にそれるが、ひとつだけ石原の科学教育にかかわる現代における子どもの教育活動の現場を紹介しておきたい。神奈川県逗子市に「世界で一番ちいさな科学館」という「理科ハウス」がある。この科学館の館長は石原の三男の糺(ただす)の長女の森裕美子氏である。森氏自身が祖父の子ども向けの科学の本に魅せられ私財を投じて科学館を設立し、逗子市の地元の子どもたちに受け入れられていて、石原も墓場の陰で孫娘の活躍にさぞかし喜んでいることだろう。その遺族の森氏が所蔵する多数の資料は「石原純資料」として本書でもふんだんに利用されている。

石原の最期は悲惨であった。1945年12月中旬『科学』編集の仕事を終えての帰宅途中、米軍の車(ジープ)と思われる車にひかれ意識不明の重傷を負い身元不明のまま留置場に放置されのちに慶応病院に運ばれた。まる一年以上すぎた1947年1月19日死去するのであるが、石原にも当時の言論界にも無念きわまりないものだった。この石原の交通事故はたんなる事故ではなくて別組織による他殺説もあるが真偽のほどはわからないが、石原の科学的精神を基調とする一貫した言論活動の行く先は天皇制批判につながる、と言った人もいるという。なお、本書は第15回桑原武夫学芸賞(2012年度)を受賞した。ともに喜びたい。