書評:野田正影『させられる教育 ―思考途絶する教師たち― 』(岩波書店、2002年) 2003年6月7日『社会理論研究』第4号 掲載

 大きな衝撃が走った。全国の公立中学高校の教育現場に蔓延する全体主義の現実はすさましい。

 野田氏の本書を読むと、全体主義が蔓延する教育現場の出来事に日々格闘している教師対する厚い連帯感を表明したくなってくる。全体主義がはびこる教育現場で自分らしい個性溢れる教育実践を担う教師たちが、「ほされ」、「神経症」にさせられ、「指導不足の教員」にさせられ、「異常」にさせられ、最後には処分される現実を具体的に描いたものだ。

 さらに、かずかずの「させられる」教育現場をシステムとして恣意的に作り出す文部官僚支配の愚劣と欺瞞に満ちた構造に対して反撃ののろしを上げたい衝動に駆られる。

 精神科医師の野田正彰氏は精神医学の立場から、これまで数々のすぐれた作品を発表しているが、私はいずれの作品にも厚い共感をもって読んできた。私と同世代の野田氏の視点は精神医学の世界を飛び越え広範な社会的現実を抉り出し、数々の優れた作品を刊行している。

 本書でも野田氏は同様の視点から教育現場を直撃する。

 全体主義の教育現場の内実を解明し批判の矢を緩めない。そればかりか、「させられる」教育を強いる自民党政治家と結託した県教育委員会・教育長のあきれた「犯罪的監視」の実態を具体的・徹底的に批判する。とりわけ実名を出しての教育長批判は痛烈である。ここでは教育長とその配下にある校長の思考と行動は戦前の憲兵そのものである。彼らも全体主義の犠牲者なのかも知れない。しかし、かれらは憲兵の道を歩くことを選択したのだ。それ以外にない。そういう生き方を選択したのである。そこには教育のこころも教師に対する連帯感もない。むしろ反対である。処分材料を探し回る。これが彼らの仕事であり教育なのだ。ひたすら監獄の中で教師を従順に飼育することに最大の努力をする。

 私の立場から見ると、文部官僚とその手先の憲兵たちは野田氏の本書を読み、どんな対応をするのであろうか。教育現場はもはや監獄化した飼育小屋の形相させ呈している。その実態を現場から告発することは、現場の教員には至難であることは私自身よく理解している。だからこそ、精神医学の立場の視点から悩める教師が監獄化・全体化されている教育現場の実態を自由な観点から告発すること必要なのである。野田氏はそれを十分に意識して本書を書いた。

 野田氏に言いたい。よく書いてくれた。感謝する。野田氏の本書が、教師をころざし子供たちの成長の過程のひとこまひとこまにかかわることを、自分の生きがいとする現場教師に、彼らの言い出せぬ胸の内を見事なまでに描いてくれた。迫害され思考途絶を強いられている現場教師に、どれほどの愛を注ぎつつ勇気と決断を志を与えたことか。

 多様な子供たちのすばらしい感性を磨きそれを十全に育むには、教育実践者の柔軟な思考力と的確な判断力が要求される。しかし、野田氏の描いた教育現場はそうではない。考えてはならないのである。まさに「思考を途絶」させられる教師たちの現実である。全国の公立中学高校の現場教師に熱い連帯の精神を送りたい。真摯な教育実践と全体主義批判は不可分である。

 最後に特筆すべきことがある。野田氏は仲間内の心理学者・精神科医師批判も展開する。これまで詳しく述べたように、追いつめられた教師は何らかの理由で「病気であると認定」される。とどのつまりは、「疲れ苦しむ教師の治療に当たったこともない心理学者」に診断することを強要される。いわゆる「受診命令」である。この心理学者や精神科医師の診断が現場教師の存在を決定的に左右することは明白である。野田氏は明確に次のように述べている。すこし長い引用になることをお許し願いたい。

 先の東京都委の、騙して精神科の診断を受けされる手法といい、他の「受診命令」といい、教育行政にたずさわる人々には人権の意識も近代の法に対する理解も欠けている。都道府県に設けられている指導力不足に関する委員会には、教育大学の教員、精神科医や保健所の医師が委員に加わっている。教育学者は教育学や教育行政学という学問が何のためにあるのか自覚反省できず、本来同僚であるはずの教師たちを抑圧するための権威付けとして、学問の名を騙っているにすぎない。委員となっている精神科医は比較的若い医師たちだが、自分の専門が何に利用されているかまったく気が付いていない。医師としての倫理の欠如にぞっとする。(本書183頁)

 心理学者・精神科医の野田氏に、ここまで徹底して仲間内の心理学者・精神科医批判をさせる現実とはなんなのだろう。改めて教育とは何か。学問とは何かを、厳しく問うことだと確信する。本書が日々の教育現場で悪戦苦闘する無数の教師たちの目にふれることを切に希望して本書の紹介を終わることにする。