書評:小川真如『日本のコメ問題―5つの転換点と迫りくる最大の危機』(中公新書、2022年6月25日)

1.はじめに―本書を手に取った動機

 評者がもの心がついたときは、東北山形県高畠町の純粋米農家の四男坊主の末子だった。のちに、生家は何百年も続く純粋米農家であることを知ることになった。当時の純粋米農家の仕事は牛・馬の力を借りての田んぼのしろかきや、腰まで地中につかりながらの田植えなど、なんとも厳しい過酷な仕事に見えた。

 農家の末子はとうぜんのごとく追い出され、家業(農業)と全財産(山林・田畑)すべては長兄に継承される。だが、自然を相手にした厳しい家業の生家から逃れられることは、ある種の願望であったのだ。しかし、生家の家業を継がざるをえなかった長兄のことをおもえば、無責任で残酷な心情だったのかも知れない。生家を出たのは18歳(1964年)の時である。

 それ以来数十年にわたるこんにちまで、東京と神奈川に住み、農業とは無縁の人生を送ってきた。だからと言って、人間が生きるための根幹をなす米農家の生家のことは、一時期とも忘れたことはないし、いつも脳裏に張り付き離れたことはない。そして、生家の農業がこんにちまでえんえんと続いてきたことに、長兄家族の仕事に深い敬意の念を禁じ得なかった。農業を含む自然環境問題の多数の書物を読み、いくらかの物知りになったとしても、時々刻々と変化する四季折々の自然環境下で、有機農業に勤しむ長兄家族には頭が上がらない、というのが正直な思いである。深い敬意の念を抱いてきた長兄も十数年前に他界した。

 その深い敬意の念は評者が後期高齢者(78歳)になるつれますます大きくなり、長兄家族が何十年も一貫して営んできた純粋米農家はどんな農業行政下で行われてきたのだろうか、という思いが湧き上がってくるのである。それが本書を手に取った正直な動機であり問題意識である。農業にたいする思い入れが強いのである。

2.著者の紹介

 本書の著者は少年時代から、評者とはまったく違う自覚的動機と問題意識から農業のあれこれを考え観察しているのを知ると驚くばかりである。田んぼと山と民家しかない往復の数キロの通学路の道中は、「何よりも学びの場」(本書、p.285)であった。たとえば、小学生時代にはイネの株間の距離やイネの葉色、雑草の生え方などを観察したり、中学時代に注連縄を作り販売したり、高校時代にはマメ科の薬草のエビスグサでお茶を加工し販売する、などしているのである。それら行為の自覚的動機と問題意識を知ると、著者は少年時代から、相当の早熟な農業的感性の持ち主であることを知る。

 その驚くべき早熟な農業への感性が鋭い著者はそのまま農業への関心を深めてゆき、やがて東京農工大学大学院の修士(農学)をへて早稲田大学大学院博士課程を修了後、博士(人間科学)を取得している。いわば少年時代からすでに筋金入りの気鋭の農業経済学者・人間科学者であったともいえる。

 ところで、ちょっと横道にそれることをお許し願いたい。というのは、著者には、本書と同時期に刊行された重厚な大著がある。『現代日本農業論考―存在と当為、日本の農業経済学の科学性、農業経済学への人間科学の導入、食料自給力指標の罠、飼料用米問題、条件不利地域論の欠陥、そして湿田問題』春秋社、2022年6月、557頁 という書物である。全557頁にもおよぶ大著であり、既発表の種々の論文を収録したもので、長い標題を連ねた農業全体の諸問題の論述を寄せ集めたものである。長たらしい標題に奇異感もあるが、しかし、著者はそれを明確に意識し使用し構成している。大まかなに言えば、農業全体にかかわらず、農業経済や農業経営を考えるさい、標題に挙げた事柄、つまり具体的な農業技術の考察が決定的に重要であり、農業の技術進歩は、後追いで組み立てられる技術とはなにか、という理論や理念よりも先行されるというのである。

 あまりもの専門的に農業技術論を論じた大著であり、評者には手に負えないが、しかし、本誌の編集委員会からの要請でもあるので、全一二章の論考のタイトルだけでも上げるにとどめておきたい。

序 論 現代日本農業における技術論の再興と農業経済学の転回に向けた試み
第一章 技術・経済・農業―現代日本農業における「技術」の位置づけの再設定に向けて
第二章 農業経済学に人間科学を導入する必要性とその方法―「農」の多様化に学問としての対応する方法
第三章 人口減少社会における農業技術―農地が余る転換点の到来と、食料自給力指標の罠
第四章 なぜ飼料用米を取り上げるのかー「飼料用米問題」とは何か
第五章 〈〔研究対象―論文―学者―謝辞〕の入れ子構造〉をめぐる論考―本書の謝辞
第六章 新釈:角田重三郎の飼料用米論―植物育種学者・角田重三郎博士が飼料用米を研究した理由とは何か
第七章 飼料用米をめぐる群像―〈代替性〉と〈土地条件〉、二つのキーワードで読み解く飼料用米論
第八章 現行の飼料用米政策の特徴―飼料用米の「量的拡大論」と「面的拡大論」からみえてくる現行政策の特殊性
第九章 現行の飼料用米政策の問題点と改善策―飼料用米政策が批判されるべき点、そして、新たな政策の提案
第一〇章 条件不利地域論の欠陥と湿田―見落とされてきた条件不利性
第一一章 農業・農村の多面的機能をめぐる政策は誰に利するかー湿田問題の本質
第十二章 総括―各章の大要と要旨、そして農業経済学者が農業技術を論じる意義
初出文献一覧、人名索引、事項索引、英文要旨

3.『日本のコメ問題』の構成と概要

 さて、いよいよ本論である。これまで取り上げ紹介した『現代日本農業論考』は具体的な農業技術を取り込んだ膨大な農業経済学・農業人間論であるのにたいして、本書『日本のコメ問題』は、農業経済学と人間論のなかからほんの一端を抽出し、1960年代以降の米と田んぼにかかわる諸問題を時系列的に論述し展開した農業の現代史である。まず全論述の項目をじっくりながめると、下記のようである。

はしがき

第一章 コメと田んぼに分けるとみえてくるコメ問題の今
 第一節 「身近なコメ」と「疎遠なコメ作り」
 第二節 コメ問題の多くは田んぼの問題
 第三節 コメ問題はコメ産業の発展だけでは解決しない

第二章 コメに満たされた日本人―第一転換点・一九六七年
 第一節 「コメの自給達成」という悲願
 第二節 達成感のないゴール
 第三節 食料の輸入依存を脱せない日本
 第四節 国によるコメ管理
 第五節 コメが余りはじめた理由
 第六節 日本人にとってコメとは何か

第三章 コメ余り問題から田んぼ余り問題へー第二転換点・一九七八年
 第一節 コメ余り問題
 第二節 コメと作らせない政策のはじまり
 第三節 うまいコメ作りの光と影
 第四節 描かれる理想像と挫折
 第五節 農民の批判と加工用米というガス抜き

第四章 コメ問題の国際化―第三の転換点・一九九三年
 第一節 押し寄せる貿易自由化の高波
 第二節 米価下落が運命づけられた日
 第三節 国際ルールがコメと田んぼにもたらしたこと
 第四節 泥縄式で作られた高い理想
 第五節 解消されていくコメの問題
 第六節 コメを作らせない政策の大刷新

第五章 水田フル活用という思想の誕生―第四の転換点・二〇〇八年
 第一節 コメと選挙
 第二節 水田フル活用の思想
 第三節 余った田んぼを使うためのカンフル剤「新規需要米」
 第四節 コメをエサにしはじめた日本人
 第五節 「水田フル活用」の裏の顔

第六章 現代のコメ問題の根底
 第一節 四つの転換点を経た日本人・コメ・田んぼの現在地
 第二節 田んぼとコメのつながりが強い湿田
 第三節 現在の政策の問題点
 第四節 田んぼのコメ離れが意味すること

第七章 農地が余る時代の到来―第五の転換点・二〇五二年
 第一節 新たに出現する領域X
 第二節 転換点Pを歓迎する方法

あとがき

主な参考文献

 なんとなく、米さえあれば餓死することはない、と子どもことから教えられてきた。それはすぐれた栄養価にある。著者によると、「主成分の炭水化物は吸収されやすく、タンパク質やカルシュウム、ミネラル、ビタミンも含み、玄米であればビタミンB1、食物繊維、ナイアシン、葉酸、脂肪なども多い。タンパク質のもととなるアミノ酸はほとんどの種類を含む。一九七〇年ごろの日本人は、タンパク質のうち三分の一から四分の一をコメに頼っていたほどで、魚や肉がなくとも、コメさえあれば餓死にはなりぬくい。必須のアミノ酸もバランスよく含まれ、さらには炊いている間に腸内環境をよくするオリゴ糖も作りだされる」(本書、p.6)という。

 農業出身者の評者も驚くべき栄養価があることを知らされると、幾世紀にもわたり、日本人の生死をわける食物であるがゆえに、米問題は人間の存在にわたる重大な問題でることを前提にして、著者は「コメの生産・流通・消費にまつわる単なる知識ではなく、コメ問題の本質にある田んぼまで掘り下げた知識だ。日本人の歴史に深く刻まれながらも、深く考える機会が減ってしまったコメや田んぼは、いま一度光を当てることで、日本の社会に迫りつつある最大の危機や、また現在、そしてこれからを生きる日本人がその危機にたいしてどのような選択肢をとりうるのか、ということも教えてくれる」(本書、p.35)というのである。

 そのうえで著者は1960年代から2022年現在までのコメ問題の現代史を述べたあと、2052年までの見通しを立てるような議論を展開していくが、その60余年の期間には、4つの歴史的な転換点があったと設定する。その転換点は目次の章立でも明らかなようにつぎのようである。転換点の第1は1967年、第2は1978年、第3は1993年、第4は2008年にあった。そのうえで、次の転換点(第5)は2052年にやってくると設定する。それらの転換点となった内実的概要を、なんとか自分の言葉で要約しまとめようとしたが、素人の言葉では誤解を招き間違いをおかしてもいけないので、各章の末尾にある著者による「総括」から部分的に引用しながら紹介することにする。

 第1(1967年):「日本人は一九六七年にコメの自給を達成した。有史以前から長きにわたってコメを作り続けてきた日本人にとって、幾世代にわたった悲願を達成したという国民的な到達点だ。この到達点は、戦後のコメ制作史の重要な転換点であることはもちろん、縄文時代のコメ作りのはじまりに次ぐ歴史的な転換点である」(本書、p.74)

 第2(1978年):「第二の転換点によって、コメ余り問題は田んぼ余り問題へと置き換わった。かつて軍需物資としての画一的に統一、評価されたコメは、抑圧から解き放たれて多様化し、味だけではなく栄養成分や使い方、見て目が違うコメがうまれていくことになる。・・・今にして思えば、当時ほど国土利用と農業の方法をめぐって、政党や農業経済学者、農家や公務員らが政策提言や米作りの理想像を闘わせた時期はなかったのではなかろうか」(本書、p.118)

 第3(1993年):「農産物の貿易をめぐる国際ルールが妥結すると、日本のコメは非貿易的関心事項にまもられながら部分的に解放された。そして、一九九三年を起点として、国内では食管法が廃止され、コメは国による流通の管理や規制から基本的に解放され、コメはより自由に扱えるようになっていくことになる。その結果、日本人にとって、コメを買ったり、食べたりするだけであれば、コメ問題と呼べるものは根本的な部分が解消されて、残るは個々のルールのブラッシュアップや、社会的な情勢や制約に対応したアップデートといった程度問題となった」(本書、p.160)

 第4(2008年):「二〇〇八年を転換点として、今度は余った田んぼに対する補助金を多くすることによって、コメ作りをコントロールする方法が採用されることになる。この新たな方法は、二度の政権交代を通じて、対立する自民党と民主党との双方によって育まれ、鍛え直されることで、飼料用米への補助金に代表される田んぼ余り対策として強化されていった」(本書、p.206)

 現代(2022年):「日本のコメ問題の本質が、コメのみではなく田んぼの問題にも目をむけなければつかめないことと同じように、田んぼの問題は、畑を含めた農地全体や国土利用にも目を向けなければならない問題なのだ。田んぼ余りの問題は、現在まで引き継がれた大きな未解決問題である。そして、これから本質的な転換点が到来するならば、それはきっと余った田んぼをどうするかという狭い視野での転換点ではなく、農地や国土利用全体をも射程に入れた転換点に違いない」(本書、p.249-250)

 第5(2052年):「人口と農地の関係性を描くと、現在の農地面積は、熱量(カロリー)を生み出すポテンシャルからみて全人口を養うのに必要な面積を下回っている。ところが、将来、これらの大小関係は逆転する。二〇一九年時点の農地がすべて守られていくと、逆転するのは、二〇五一年から二〇五二年にかけてだ」(本書、p.254)

4.おわりに

 以上、本書は、1960年代から2022年までの主要に、米問題と田んぼ余りの問題の現状を考察し、来るべき2052年に予想される現実的実態を明らかにした内容になっている。

 農業経済学者でもなくましてや農業者でもなく農家出身者にすぎない評者は、おそれ多くも、論評することなどは無謀なことであることを十分に承知しつつも、農業を継承して生家の者たちへの敬意と贖罪の念から真剣に読み込むことになった。やはり米問題と田んぼの問題は、農業がいかなる政治政策上の激変に遭遇しても、米さえあれば餓死することはない、と言われることを考えると、食料安全保障問題に直結する重大な死活問題だといえる。

 そのためには、本書のような、農業経済学者・人間科学者の学問的成果を取り入れ、日本の農業全体の安定的な持続可能性を希求しなければならない。そのさい農業経済学者たちの学問的論争は大いに結構だが、実践的な純粋農業者は、そんな学問論争とは無縁の世界で日々の生活を必死に生きている。日本の食料安全保障の根幹を担う農業者が安心して生きられるような「日本農業の理想像」をたえず描き続けることであろう。新進気鋭の著者には大いに期待したい。いささか学術的というよりも農業者にたいする強い思い入れの文章になった。お許し願いたい。(猪野修治)