<山口東京理科大学コロキウム報告・レジュメ> 2007年11月21日(水) 第2ゼミ室(16:10~18:00)

科学技術者の倫理―小倉金之助の学問精神 猪野修治(湘南科学史懇話会・代表)

はじめに
私は現在、湘南科学史懇話会なる研究会を主宰しています。私がこの懇話会(研究会)を立ち上げた動因と背景は、東京理科大学の前進「東京物理学校」の大先輩で数学者・科学史家の小倉金之助(1885~1962)の学問精神にあります。小倉金之助の歴史的な名著『数学者の回想』(1950)の内容を紹介し、小倉の反骨精神と学問精神に満ちた人生の概要を紹介します。1998年5月、小倉の学問観・社会観を継承し、神奈川県湘南地域で市民主体の学問所「湘南科学史懇話会」を独自に立ち上げ、現在まで通算52回の懇話会(研究会)を実施し、広範な活動を展開してきました。それらは科学者技術者の倫理にも通呈すると考えます。

Ⅰ 小倉金之助のプロフィール
小倉金之助(1885-1962)は現在の東京理科大学の前身・東京物理学校に学んだ後(1902-1905)、東京帝国大学理科大学化学科単科(1905)に入学するものの、その翌年、郷里の山形県酒田市の回漕問屋の家業を引き継ぐため退学する。しかし、学問への想いを断ち切れず、数学者の林鶴一(1873-1935)の指導を受け、数学の研究を決心する。再び上京し東京物理学校講師(1910)を務めた後、林の知遇を得て東北帝国大学理科大学助手となった。(1911)

その後の小倉の活躍はめざましく時代を画する学問人生を送った。例えば、私学出身では初の理学博士(1916)、塩見理化学研究所所長(1925-1937)、東京物理学校理事長(1939-1940)、日本科学史学会会長(1948-1960)、東京物理学校同窓会「理窓会」初代会長(1949-1953)、日本数学史学会会長(1962)を歴任している。1962年10月21日死去。77歳の生涯であった。

小倉金之助の数学者としての業績は大きくわけて、数学(微分幾何学)、数学教育、数学史に分類されるが、これらの分類に入れ切れない独自の豊かな文理融合の世界を創りだした。例えば、『数学史の根本問題』(1924)、『統計的研究法』(1925)、『階級社会の数学』(1930)、『数学教育史』(1932)、『数学教育の改造問題』(1934)、『自然科学者の任務』(1936)、『科学的精神と数学教育』(1936)、『日本の数学』『計算図表』(1940)、『数学者の記録』(1948)、『数学者の回想』(1967)、『カジョリ数学史』(改定版編訳、1970)。これらの著作を含め286本の論文を発表している。

Ⅱ.『数学者の回想』(河出書房、1950、65歳)、『回想の半世紀』(『思想』1956/9、12、71歳)
・あくまでの小倉の文章に忠実に再現・要約する(猪野)・「科学者が学問的発展をそのなかになしとげてきた現代史の科学的批判であり、この日本の科学の冷徹な自己批判の書」(平野義太郎1897-1980、法学者)

序論:病気・自伝執筆・お世辞なし・人と科学者としての成長と発展過程・自己批判・科学・社会・歴史(数学・数学教育・数学史)を総合的に考える習性・民間の数学者の生活史・当事、自然科学者の自伝は稀有(明言)。

1.幼年時代(1885-1902)

①小学校時代:酒田(山形県、日本海の港町)の回漕問屋・ 明治前半期、回漕問屋繁盛・複雑な環境・父と死別(1891)・実母は分家(1991、祖父母と折り合い悪)・何度かの養子縁組破綻・祖父母が養育・幼少より病弱・酒田の回漕問屋の相続人・厳格な躾・酒田の大地震・書物なし・和島与之助(担任)の影響・酒田の古本本屋「青山堂」・読書の興味・学問への興味(教師の影響)・『化学新書』(富山書房)『科学実験教科書』・自ら実験に没頭・『新式代数学』・英語塾(夜学)自学自習の習慣を体得・『通俗動物論』『地球と彗星の衝突』・植物の分類(知識欲早熟)・家督問題・祖母の理解・支援 

②中学校時代:祖父(金蔵)が不在中に祖母(志賀)に談判・「中学受験・合格(鶴岡・庄内中学校・現在の鶴岡南高等学校)」(1898年、14歳)・祖父激怒・寄宿舎・ランプ・草鞋(わらじ)・化学実験の禁止・中学程度をはるかに超えていたが学力・学校と教師に絶望・病弱で数ヶ月療養・祖父が退学届・復学・鶴岡の学風・菊池大麓『初等幾何学教科書』・『代数』(訳書)・数学は天才(友人の言)・内村鑑三(1861-1930)『外国語の研究』(東京雑誌社、1899)に感銘→英語欲望・学校不満(学ぶこと無し)・「東洋学芸雑誌」「東京物理学校誌」「英語青年」・日本語の化学に飽き足らず英語の科学書購読(オストワルド)・苦悶・学校批判・「東洋学芸雑誌」(東京大学の機関紙、236/241号掲載)に投稿(17歳)「アルゴンの物質的性質に就いて」「アルゴン外四気体の周期的位置について」(第236号)、「高等化学書に就いて」「シャン水素の構造に就いて」(第241号)・友人が芸者事件で東京へ逃亡・小倉も退学・上京の決断(「自分を教えられる教師はいない」)・再び祖母に談判(祖母は最大の理解・庇護者)・分家の母にだけ伝える・雪の中を40キロ歩く・本郷元町下宿(1902年3月初め、18歳):祖母から費用(旅費・生活費)

2.東京遊学時代(1902-1906) 生活史の大転換の時代

①物理学校時代:本郷元町下宿(1902年3月初め、18歳)・家業の関係で大学には行かず・すぐさま「東京物理学校(旧東京物理学講習所(1881年明治14年設立))・1878/79/80年に東京大学の最初の「仏語物理学科」(フランス語で教えた)の卒業生21名が設立・「理学の普及」・修学3年の夜学校・教授陣は明治の元老たち:寺尾寿(ひさし、1885-1923、東京帝国大学教授、天文台長、物理学校初代校長)・中村精男(きよお、中央気象台長、物理学校二代校長)・三守守(みもりまもる、東京高等工業学校教授)・桑木或雄(あやお、1878-1945、アインシュタインに始めてあった日本人、東京帝国大学物理学科卒、力学・科学史・理論物理学)・愛知敬一(1880-1923、同、理論物理学)・長岡半太郎教授(東京帝国大学教授、物理学)岡田武松(同、中央気象台)・化学から物理学(関心)・卒業が厳格困難(1割)・設備が劣悪(実に汚い暗いく印象最悪)・再び自学自習・ドイツ語(専修学校、午後1時~4時)・原書講読に専念する・物理学校卒業(1905/2,21歳)・私立大成中学校5年に編入(1904/9)卒業(1905/3)・『力学発達史』(マッハ)・『熱力学』(プランク)・処女論文「ヴェルヌーイ兄弟(フランス)の数学的生涯」(「東京物理学校雑誌第157号-158号」)ファン・ラール氏(オランダ)数理理化学教科書便概」発表(『東京物理学校誌』掲載1904/12)・東大教授池田菊苗教授(庄内中学教諭の池田夏苗は弟、味の素の発見家)の目にとまる・池田菊苗の英国留学時代(夏目漱石と同居)・英語を猛勉強(正則英語学校、受験のため)

②東京大学理科大学選科の半年(1905/9-1906/3):いったん帰省・家督相続・戸主(1905/5、21歳)・またもや祖母の決断・東京大学理科大学化学選科・妻すみ子同道(津田英学塾)・官学と私学の学問的環境は「雲泥の差」を実感(東大の設備のすばらしさに驚嘆)・三上義夫(1875-1950、世界的科学史家)と交流・立体化学(桜井錠二)・分析化学(池田菊苗)・物理実験(本多光太郎、真島利行)・再び家問題・池田菊苗教授に相談・東大退学(22歳春)・帰省(学問の志捨て難く)。学問は一生の事業と実感・魯迅(本郷に住む1881-1936)と重なる:大学観・教育観・学校観を根底から揺さ振られる。悪性感冒にかかり退学

3.不安の時期(1906-1911)

①回漕問屋の若主人・数学への出発:学業と学業の両立(林の激励)・すみ子と結婚(6/21、21歳3ヶ月)。家業と学問の両立を決断。十分読書時間有・『宇宙の謎』(ヘッケル)・『通俗講演集』(ヘルムホルツ)・『進化と人生』(丘浅次郎、1868-1944)・「中央公論」・『我輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』・家族制度・家業引継問題・・悩み苦しみ→文学の世界へ→封建制と学問研究への不満・反逆の精神・自然主義文学(国木田独歩・島崎藤村)・やむなく数学(家業と両立可能)・林鶴一(1873-1935)の論文・上京し「運命的」な出会い(1906/11、林34歳)・「林の常識的指摘:数学と家業を両立させよ、数学ならできる→林の指導を受けつつ本気で数学研究をはじめる(1907)・仕事のない冬は東京滞在・『代数学』(ウェーバー)・『函数論』(フォーサイス)・『高次曲線』(サーモン)『微分幾何』(ビヤンキ)・帰省・数学に没頭(ドイツ語版『数学百科科全書』を先生)

・処女英語論文「二つの複点をもつ四次曲線について」を発表(東京数学物理学会、1908/1)・物理学校の数学講師要請(断る、病気)・専門書を丸善に注文(支配人の注目をひく)・(クライン、1849-1925)『高等なる立場みた初等数学を』を読み「クラインの『初等数学』について」(「東京物理学校雑誌第」214号、1909)に送り掲載される→「融合主義」(算術と幾何を融合する)→学問研究の方向性を決める(世界的な数学教育改革運動)・英文「同一の曲率をもち、しかも互いに展開の不可能な二つの局面」(1907/6)・慰めで小説・永井荷風の文学(『見果てぬ夢』『祝杯』『監獄所の裏』『歓楽』『すみだ川』)から激励される・青山堂(酒田の本屋)で大量の本を買う・国木田独歩・島崎藤村・モーパッサン・永井荷風(1879-1957、社会正義にたいする不信・自分本位の人間→妥協を許さない反逆性・社会批判に共鳴)・幾何学精神・繊維の精神・芸術的精神・社会的精神)・回漕問屋主人時代は以後の小倉の軌跡を解く鍵(阿部博行)・どういきるかという心の葛藤が頂点に達する→荷風文学のヒューマニズムに救われる。

②物理学校講師時代(1910/2-1911/3)・微積分学の講義(週4~5回)・根本的な考えかたを教授(数学史を導入・画期的)・三本論文発表(英文、1910)・北原白秋(1885-1942・物理講義の声と琴や三味線の音・大逆事件(幸徳秋水らの天皇暗殺計画事件、12名処刑)・フェリックス・クライン→理論的なものと実践的なもの統一→数学の根本的な意味

4.東北帝国大学(仙台)の時代(1911-1917)

①創設の東北大学時代:新設・林鶴一教授就任(39歳)・藤澤松三郎(31歳)・窪田忠彦(27歳)・小倉助手(27歳)・沢柳柳政太郎(総長)の進歩的思想と自由思想の精神と英断・小川正孝(学長)・女子も入学許可・「仙台を日本のゲッチンゲンに」(洋行帰り)・山下安太郎入学(物理学校卒、48歳、最高齢)・林 鶴一(1873-1935)の個人雑誌「東北数学雑誌」創刊(1911/7)何人にも解放・数学界の官僚封建制との闘争・日本唯一の発表機関・「東北報告大学理科」(大学刊行物)・「ローレンツ変換とその若干の幾何学的説明(1913)・「非ユークリッド幾何学とユークリッド写像」(1911)・「一平上における方向性の幾何学のニ・三の定理」(1913)・「三角形幾何学における等角変形によって不変なる三次曲線」(1913)・永井荷風の文学濫読・与謝野晶子『みだれ髪』・ルソー『懺悔録』・トルストイ『戦争と平和』・メレジュコウスキー『先駆者』

②活動期に入る:祖父死去(71歳、1912/1)・『級数概論』(林と共著,大倉書店1912)・『家』(島崎藤村)・家業廃止(1914)・ルーシェ/コンブルース『初等幾何学』全2巻(翻訳、山海堂1913/16、諸外国の数学教育を紹介と比較研究、若干27-28歳)・サーモン『円錐曲線解析学』(訳書、1914,790頁の大著、山海堂)・イギリスの改革運動指導者ジョン・ぺリー(1850-1920)→数学に実用的・応用的・実験的側面を取り入れる・沢柳政太郎(総長)の進歩性と激励・第一次世界大戦勃発(1914/8)・石原純(1881-1947、物理)と田辺元(1885-1962、哲学)と交流・永井荷風(1879-1959)の悪用者・代数解析と射影幾何学を講義・「ある型の常微分方程式の積分曲線」(1915)・「曲面上のT系」(1916/・「反転の微分幾何学」(1916)・「直線叢の微分幾何学」(1916)・「中心力場の幾何学」(1917)・「保存力場における経路」(1916/8、31歳。博士号受理・私学出身で初)・「東北数学雑誌」(林の個人雑誌)が大学移管・大学官僚的階級批判(本能的嫌悪感)・学位があっても私学出身者ゆえの冷遇・東京で独自の「数学研究所」を構想・思想的転換

5.大阪時代の前期(1917-1927)

①創設当時の塩見研究所:財団法人塩見(政次)理化学研究所(大阪府立大学教授、1917/3)・仙台時代から大阪時代の初期は充実期・グラフの教授を始める(医科学生対象)・『貧乏物語』(河上肇)に引用されている原書・『生計と貧乏』(英語)・『アメリカ人の富と所有』(英語)・実用数学・統計数学の概念の教授・「曲面描写の理論」(1917)・「質点力学の幾何学的研究」(1918)・「空間における点線結合の理論」(同)・「不可逆的力場における経路」(1919)・「シュテッケル曲率の理論、ならびに幾何学、誤差法則および熱伝導への応用」(同)・「補間法の理論」(1920)

②フランス留学(1919/3-1922/1)
フランス留学命令(1919/3/14)・「理論数学と実用数学の交渉」(1919/5東京物理学校同窓会送別会記念講演、同じ山形県出身(米沢市)で同窓の科学史家・岡邦雄も会場にいたことに注目せよ)・フランス滞在(1920/1-1922/1)・オテル・グランゾム(パンテオン、ソルボンヌ学生街、ルソーの立像とロダンの「考える人」の像を見下ろす部屋)・フランス語に没頭・フランス文化の高さを実感・小説を読む(モーパッサン、スタンダール、バルザック、アナトール・フランス、ロマン・ローラン)・エミール・ボレル(数学者)・第6回国際数学者大会(アルザルのストラスブール、1920/9、参加国27カ国、200名)・高木貞治(数学者、日本代表)・小倉(「補間法」)も高木(「代数的整数論における一般的諸定理」)も、文字通り論文を読みあげる・ソルボンヌ/コレージュ・ド・フランスでランジュバンの講義(後にレジスタンスに加わる)・アダマールの講義・アインシュタインの相対性理論に没頭・カルタンの積分不等式・石原純の事件(渡仏中の東北大学の藤原松三郎から聞く)・「真空間における重力の場について」・何百冊の本を購入(私費)・アンペール発見百年記念式(ソルボンヌ、フランス文化の高さ)・日本における科学の大衆化の必要性を実感・第二の思想的転換(猪野)・帰国(1922/1)

③数学教育の研究(数学の大衆化)を目指す。
大恐慌・研究所の未完成・理論物理の研究・国民の科学水準と大衆化に進む・「夏季巡回講習会」(1922-23、物理学校主催、全国を回る)・「図形と図表」(数学は数学者のみが専有すべき財産ではない、民衆のための数学を研究)・「微分幾何学の概念」(アインシュタインの学説の幾何学的解説)・アインシュタイン来日(1922/11/17-12/19)・「数学上におけるアインシュタインの地位」(『改造』1922/12)・各大学(東京・名古屋・京都・大阪・神戸・福岡)で講演(小倉も聴講)・学問・思想・ジャーナリズムに多大な影響・「科学思想の普及に関する二三の感想」(1923/1「思想」、この中ではじめて「科学的精神」という言葉を使う、日本の取り上げ方を痛烈に批判、事実間の一貫した法則を見出すこと)
・講演「数学教育の意義」(1923/7、数学教育における科学的精神の開発→世界で最初の主張)・数学教育と数学の大衆化を考える動機→統計の講義(1923前後、大阪府主催が動因)・関東大震災(1923/9/1)・伊藤野枝と大杉栄が官憲から虐殺・三上義夫「文化史上より見たる日本の数学」に感銘・「万有引力の場における質点の力学」(仏語)「荷電核の場における質点の運動について」(同)
・『数学教育の根本問題』(イデア書院1924/3、玉川大学出版部、1953、大論文、科学的精神の修養・育成・開発→科学教育の根本問題) ・『統計的研究法』(1925/6)・塩見研究所所長(1925/6)・多方面から歓迎される(社会性)・健康悪化で長い病床生活・大阪医科大学教授辞(1925/5)・『数学教育改造の基調』(モナス算術教育、1925/9、研究対象を数学史・数学教育史へ)・病床のため「理論物理学」から「実用数学・数学教育・数学史」・文学・芸術書を濫読(トルストイ/ドストエスキー/ロマン/ルソー)・トルストイ『芸術とは何ぞや』(「科学のための科学」「ブルジュア科学」へ激しい攻撃)に感激

6.大阪時代の後期(1928-1937)

①数学史への転換・数学の階級性 
長い療養生活・ホルスト・フォン・サンデン『実用数学』(共訳、山海堂、1928)・フローリアン・カジョリ(1859-1930、スイス生まれのアメリカの数学者)『初等数学史』(井出弥門と共訳、山海堂、1928/9、半年も全力投入、小倉に学問転換の決定的な影響を与える)→大きな社会的反響と思想転換(数学史・私費)・数学史研究に方向転換・三上義夫から絶大な影響を受ける・三上義夫と林鶴一の日本科学史(和算)論争・河上肇(京都大学)・大森義太郎(東京大学)・佐々弘雄・向坂逸郎(九州大学)教授辞職、1928/4)・「治安維持法」(同5)・日本共産党を大弾圧・特別高等課設置・雑誌「振興科学の旗のもとに」(三木清・羽仁五郎)・プレハーノフ(1858-1918)『階級社会の芸術』(ロシアの哲学者、蔵原訳)に学ぶ・祖母の志賀死去(1929/1)・ロバート・レコード(1510-58)『技術の礎』(イギリスの数学者、イギリスの商業と数学を考察)に感動→山本義隆『16世紀の文化革命』1・2巻、みすず書房。PP.516-520参照。・「算術の社会性-算術書を通じて見たる16世紀の社会経済状態」(『改造』1929/9、数学史に関する処女論文)・「階級社会の算術―その1―文芸復興時代の算術に関する一考察」(12世紀から16世紀までの算術、『思想』1929/8)・「階級社会の算術―その2―植民地時代における南北アメリカの算術」(「思想」1929/12)・「階級社会の数学―フランス数学史に関する一考察」(「思想」1930/3.5.6)→羽仁五郎(歴史学)・田辺元(哲学)・戸坂潤(哲学)・谷川徹三(哲学)・石原純(物理)・三木清らが注目しかれた頻繁に交流。これらの書物は「算術にも社会性がある」とする論は、思想界に大きな社会的・思想的な反響をもたらした。

②数学史の研究・中国における反響
西洋古典文献入手費用大→日本数学史研究へ(すべて私費):古本屋探訪(江戸の和算書・明治の数学書)・広島文理科大学で「数学史」「数学教育史」「現代の数学教育」講義(1931) ・「物理学における創見的活動の循環期」(石原純編集主任「科学」創刊号、1931/4) ・毎日講義準備に追われる・『数学教育史―一つの文化形態に関する歴史的研究』(恩師林鶴一先生に、社会的・経済的・政治的・文化・生産技術・科学技術の諸側面の教科書への影響関係、1932/6)
・大阪大学理学部講師(1932/12)・近藤洋逸(数学)・岩波茂雄(岩波書店店主)・寺田寅彦(物理学)・石原純(物理学)と懇談・「唯物論研究会創立の相談」(岡邦雄・戸坂潤)・「明治十年代の数学と海軍」(唯物論研究会講演、1933・11)・和算(江戸時代の数学)→中国数学史書を入手(中国の数学史家と交流)・「イデオロギーの発生(数学)」(岩波講座)「極東における数学の国際化と産業革命」(「中央公論」1934/1)「中国数学の社会性」(「改造」1934/1)・両著と中国語に翻訳・「数学教育の改造問題」(「中央公論」、反動教育批判)・「計算法およびモノグラフィー」「日本数学の歴史性」。

③ファシズムとの闘争
「数学と民族性」(「中央公論」(ナチス数学批判、1935/10)・ファシズム批判に最大限の努力・「数学と民族性」(「中央公論」、ナチス数学論への徹底的批判、1935/10)・恩人林鶴一死去」(1935/10、62歳)・『数学史研究』(岩波書店、1935/12、代表作のひとつ)・中国人の弟子による小倉の科学的精神の講義(中国)・「数学史の会」(大阪大学の教え子)・言論界に大きなインパクトを与える・「現代自然科学者の任務」(「中央公論」1936/12、反動政策批判)①自然科学者と社会科学者の提携②科学的精神の発揚・大きな反響有り・田邉元「科学政策の矛盾」(『改造』(1936/10)・石原純・科学援護の論文→ファシズム批判として相当の意味があった。

7.暗い谷間(1937-1945:)
①ファシズムへの抵抗、
石原純「社会事情と科学的精神」(『月間ペン』(1937/3、小倉援護、科学的精神の徹底)・塩見理化学研究所辞職(20年在職、1937/3)・『数学史研究』(1936/12)・2/26事件発生(1936)・『科学的精神と数学教育』(1937/7)・社会科学者・労働運動家に多大の影響(山辺健太郎・柏原盛一など)・原典を読むことの必要性を説く・「『小学算術』に対する所感」(『算術教育』1939/2、国定教科書批判)

東京市杉並区馬橋に移住(1937/6、岩波茂雄の世話で)・評論集『科学的精神と数学教育』(1937/7、代表作のひとつ、思想遍歴史)・自由な立場から各地で講演・執筆・「日本数学の特殊性」(「中央公論」1938/1)・「封建数学の滅亡」(「改造」1938/1)・「中国数学の特殊性」(「科学」1937/5)・言論統制下の論文であることに注目・「現代日本の科学のために」(「中央公論」1938/6)・真に実証的で合理的なる不偏不屈の研究を呼びかける・『家計の数学』(岩波新書、1938/11)・数学の大衆化・教育に向かう・各地で講演「専門教育における数学の革新」「数学教育の再建」・財団法人「国民学術協会―学派学閥を超越した民間アカデミー」(小倉は理事、日本文化とはなんぞや)・右翼の攻撃を受ける・特高警察の調べを受ける・大阪大学(春夏二回)や物理学校でも講義(統計法、実用解析、西洋・中国・日本の数学史、参加者には武谷三男、近藤洋逸、平田寛、原光雄・三田村博雄など)・「日本数学の特殊性」(「中央公論」1938/1)・「封建数学の滅亡」(『改造』1938/1)・「シナ数学の特殊性」(『科学』1938/5)・多数の講演で「数学の大衆化運動と数学教育の改造」を提唱・『家計の数学』(岩波新書、7巻,1938/11、科学的精神の開発、数学の大衆化の処女作)・財団法人「物理学校理事」(1939/4)・国民学術教会が設立(中央公論社長島中雄作が創立、小倉は理事、アカデミー・フランセーズに倣う。会員40名限定)・『日本の数学』(放送局5日間連続講演、岩波新書、1940/3)・国民大衆のための著述に没頭→広く読まれた・「科学の大衆化」(「改造」1940/1)・『日本の数学』(岩波新書、1940/3・法政大学文学部で講義十時間(「和算の概念」「中国数学史の展望」「日本数学史」・『計算図表』(岩波全書、1940/10)

②母校のために
「現時局下における科学者の任務」(「中央公論」(1941/4)・小倉はファシストではなかったが、非戦論・敗戦論者ではなかった・日本科学史学会創立(1941/4・22、顧問)・日本科学史学会第一回総会講演「わが国における日本数学史の研究」(1941/9)・東京物理学校理事長(1940/10―1943/11)・私学経営の困難さ・学問的雰囲気を作る(専任教授と研究費の確保)・伝統的精神の賛美より先駆的精神・文化的素養の欠落・社会的意識の希薄性を説く(物理学校創立60周年式典、1941/6/14)・「明治科学上における東京物理学校の位置」(『東京物理学校雑誌』600号、1941/11)→物理学校の同窓会員には理解されず→心労・太平洋戦争勃発(1941/12/8)・過労で入院(慶応病院)・開戦は病床で聞く・物理学校の同窓生が「先駆的精神」に嫌悪感をもつ・人間的コタゴタ・私学経営の困難性(完全に失敗・小倉の言)・物理学校で文化運動を披露する・(石原純(物理)/長谷川如是閑(作家・文明批評家)/脇本楽之助(一流の美術研究家)/奈良正雄(画伯)などを招く(司会は学生が特色)・横浜事件(1942)・言論界・出版会に対する大弾圧(中央公論社・改造社・日本評論社・岩波書店など)・拷問・抹殺・小倉事実上の執筆禁止処分・「教育問題の焦点」(「改造」1942/10)→教員の待遇改善を訴える→官憲(陸軍)のブラックリストに(B段階)

③疎開生活
山形県酒田(郷里)に疎開(1944/8/13)・東京・大阪空襲(1944/11)・ 幼年期に分家した母の子供たち(小倉の兄弟にあたる)の住む「黒森」・終戦(1945/8/15)・病状悪化・長期用療養・実母死去(1945/10,82歳)・小倉阿佐ヶ谷の自宅に戻る(奇跡的に焼け残る)
(『数学者の回想』終)

■戦後(1946-1962):ほとんど病気療養状態・文学書濫読
・民主主義科学者協会(略称民科学)設立総会(日本赤十字本社、200名参加・民主主義科学者協会会長(1946-1950)・一番健康状態悪い時期・日本放送協会会長に推薦されるが病気で固辞・「民主主義と自然科学者」(『東京新聞』1946/1/27,28日)「自然科学者の反省」(『世界』1946/4月)「科学教育の反省教育について」(『新世代』1946/4月)「科学教育の民主化」(『評論』1946/5)・『科学発達史上における民主主義』(『自然』6月)「科学教育の歴史的基礎」(『改造』6月)・岩波茂雄死去(1881/8/27-1946/4/25)・『科学の指標』(中央公論社、1946/10)「科学的研究の進展、科学的精神を浸潤、科学的知識の普及に関する問題」の意義・宮本百合子と対談「科学・宗教・恋愛」(『展望』3月)・衆参両院社会党政権(片山哲首相、8ヶ月で総辞職)・日本学術会議の創設に関与・『明治時代の数学』(理学社1947/9)・宮本百合子の小説『二つの庭』『道標』を絶賛・日本科学史学会会長(1948/4-1960)・・東京物理学校同窓会「理窓会」初代会長(1949―1951)・東京理科大学設立(初代学長・本多光太郎)・永井荷風の文学を読むのが日々の楽しみ・「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」(1949)・『数学者の回想』(河出書房、1950/4)「科学者が学問的発展をそのなかになしとげてきた現代史の科学的批判であり、この日本の科学の冷徹な自己批判の書」(平野義太郎)・三上義夫死去(74歳、1950/12/31)・宮本(中條)百合子(1899-1951)死去(51歳、)・早稲田大学図書館・小倉金之助文庫・病気療養中に文学芸術書を読みかえす・ルソー『懺悔録』『エミール』『荷風の日記』『階級社会の芸術』・「ヴォルテールの恋人―デユ・シャトゥレー・夫人の生涯」(「中央公論」(1952/7)・「われ科学者を恥ず」(『改造』1953/1)「われわれはほとんどすべてが権力の前に屈服したのである。もちろん私のその一人であったのだ」・山本素次郎『内村鑑三の生涯』に深い感銘・本多光太郎死去(83歳、1952/2)・モーパッサン再読(全作品の8割を読む)・「啄木・牧水・白秋」(『改造』1953/10、同時代)・特に啄木を「革命詩人」の天才的敏感を評す・東京理科大学学長選挙で内紛発生(学生は無期同盟休校・平川仲五郎学長に反対する学生を支持する)・教育協議会会長(1951/12)・『回想の半世紀』(『思想』1956、71歳)・日米安保保障条約反対声明(1959)・日本数学史学会会長(1962)・死去(1962/10/21)

参考文献

  1. 『小倉金之助著作集』全8巻(けい草書房、1973-1975)
  2. 岡部進『小倉金之助 その思想』教育研究社、1983年
  3. 阿部博行『小倉金之助 生涯とその時代』法政大学出版局、1992年
  4. 小倉金之助研究会編『小倉金之助と現代』第1第~第5集、1985~1993年
  5. 小倉金之助先生古稀記念出版編集委員会編『科学史と科学教育』第日本図書、1956年
  6. 猪野修治『科学と開く 思想を創る-湘南科学史懇話会への道』柘植書房新社、2003年
  7. 馬場錬成『物理学校―近代史の中の理科学生』中公ラクレ、2006年