書評:帯金充利『天上の歌-岡潔の生涯』(新泉社、2003年3月1日)
書評:高瀬正仁『評伝 岡 潔―星の章』(海鳴社、2003年7月30日)
書評:高瀬正仁『評伝 岡 潔―花の章』(海鳴社、2004年4月30日)
2005年3月25日『科学史研究』第44巻(No.233) 掲載

 昨年(2003年)の初めから今年(2004年)の半ばにかけ、先をあらそうかのように、つぎつぎと数学者・岡潔(1901-1977)の評伝が刊行された。刊行されるやいなや、すばやく第2刷が出るほどの歓迎ぶりである。とりわけ高瀬さんの二冊は、540頁以上もある大著がすぐさま完売したというから驚きである。科学史研究者はともかく、一般の読者としてどのような人は本書に魅せられたのかというと、岡潔の多数の随筆群をよく読んだ世代、つまり60歳前半以降の、現役の生活から離れつつあり、多少の時間の余裕ができ、自らの過去を振り返り、人生のなんたるかを考え始めている人たちであろう。

 その例に漏れず、私もこの夏(2004年)、上記の三冊を集中して読み始めた。そして、すべてを読了するのに、まるまる1ヶ月を要してしまった。それだけこの大著を集中して読んだのだが、読み終えてふとあたりを見まわすと、あの猛烈な暑さはどこかへ消えていた。それだけ岡潔の世界にはまっていたのである。思い起こしてみると、私の知るかぎり、まとまった岡潔の評伝の刊行は、帯金さんの著書が初めてであろう。そしてすぐさま、高瀬さんの大著が刊行された。しかし、高瀬さんの著書は、長い取材の時間をへて各種の雑誌に連載していたものをまとめたものであることを思うと、お二人はほぼ同時期に執筆をなさっていたと推察する。ともかく、こうして相次いで本格的な岡潔の評伝が刊行されたことはほんとうに喜ばしいかぎりである。

 さて、これほどまでに中年以降の世代を魅了する岡潔という数学者はどのような人物なのであろうか。大まかなプロフィールを眺めてみよう。1901年大阪生まれ。1922年第三高等学校を経て、1925年京都帝国大学理学部を卒業。同大学理学部講師を務めたあと1929年フランス留学。帰国後、1932年広島文理科大学助教授(40年まで)、1941年北海道大学理学部「研究補助」(1年間)、1949年奈良女子大学教授(64年まで)を歴任。1954年朝日文化賞、1960年文化勲章受賞、1969年京都産業大学教授、1978年老衰で死去、享年76歳(76歳10ヶ月)。

 岡潔は世界的な大数学者である。多変数解析関数論の未解決問題を見事に解決したことで知られる。それらの論文はフランス語で書かれ、論文集『SUR LES FONCTIONS ANALYTIQES DE PLUSIEURS VARIABLES par  KIYOSHI OKA』に収録されている。これらの論文がいかに画期的業績であったのかは、1958(昭和33)年に来日したドイツの著名な数学者ジーゲル(1896-1981)の次のような言葉によくあらわれている。

「K.OKAというのは長い間架空の人物名だろうと思っていた。恐らくフランスの若い数学者がやっているN.BOURBAKI[ニコラ・ブルバキ]と同じ様に、20人-30人の数学者が共同で研究し、それをK.OKAの名前で発表しているものと長い間信じていた。それはK.OKAの論文を読んでいると、とても一人の人間の書いたものとは思えなかったからだ。そんなわけで、K.OKAが実在の人間であることを知ったときの驚きは大変なものだった」。(『花の章』444頁)

 岡潔はたくさんのエッセーを書いた。1963(昭和38)年~1969(昭和44)年の7年間だけをみてみると、『春宵十話』『風蘭』『紫の火花』『春風夏雨』『対話 人間の建設』『月影』『春の草 私の生い立ち』『春の雲』『私の履歴書』『日本のこころ』『心の対話』『一葉舟』『昭和への遺書 敗るるもまたよき国へ』『心といのち わが人生観』『日本民族』『葦牙よ萌えあがれ』『曙』『神々の花園』『岡潔集』などと多数ある。(『天上の歌』221頁)。

 ここに紹介する帯金さんと高瀬さんの著作は、岡潔の上記の数学的業績およびエッセーを丹念に読み込み、大数学者・岡潔の世界をそれぞれの問題関心から述べた評伝である。まず、帯金さんの『天上の歌』は、岡の生涯を時間順に大きな柱を立てて述べている。「情緒の教育」「紅萌ゆる」「紫の火花」「光明主義」「警鐘」「春雨の曲」である。いずれも岡潔の数学者人生のエッセンスを要領よく取り出し再構成しながら、平易な文章で論述していて大変に読みやすい。

 他方、高瀬さんの『星の章』『花の章』は、一応の時間順を踏まえているものの一貫していない。これは著者も意識している。主な項目を挙げてみると、「生地と故郷」「魔法の森」「興八とんとん」「松原隆一との別れ(三高と京大)」「心情の美と数学の変容」「伝説の詩人数学者「岡 潔」」、「トノンの秋と由布院の春」「由布院の夏の日々」「金星の少女との会話(広島事件)」「福良の海と数学の誕生」(以上『星の章』)。「中谷兄弟との遭遇」「帰郷」「お念仏のはじまり」「武尊の麓」「大戦下の札幌」「不定域イデアルの理論と多変数代数函数論への道」「世界の数学者たちの来訪」「文化勲章」「紫の火花の伝説」(以上、『花の章』)である。こちらはほとんど岡潔狂とも思えるかぎりなく詳細・緻密な論述である。

 このように、お二人の著書の項目を眺めてみると、数学者の評伝とは思えないなんとも詩情と情緒が漂う不思議な意味内容がずらりと並んでいることに気づく。まさに岡潔は生来、詩情と数学と人生が渾然一体とした情緒的感性の持ち主であり、そのなかの数学者人生を送った。岡潔が自ら詩情と情緒の感性を具体的に直感・感得するのは、フランス留学途上、シンガポ-ルの波打際の情景を観たときであったという。高瀬さんが膨大な量の岡潔語録のなかでも「屈指の発言」とする文章を紹介しておくと、

「寄せては返す波の音を聞くともなく聞いているうちに、突然、強烈きわまりない懐かしさそのものに襲われた」、「この強い印象こそ、歴史の中核は詩だということを、また、詩というふしぎな言葉の持つ内容の一端を、一番明らかにしてくれるのではないだろうか」、「この中核を含む歴史の深層は、美しい情緒のかずかずをつらねる清らかな時の流れであり、そして私はごく幼いころ、私の父からそれを教えられたように思う」(『星の章』225頁)。

 高瀬さんも指摘するが、詩情と情緒あふれる精神世界の原点はここにあると私も思う。

 それを端的に表現するキーワードをいくつか挙げると、生活のなかの数学ではなくて数学のなかの生活、生命の燃焼としての数学、情操型の発見、計算も論理もない数学、俳句・連句の研究や仏教の念仏そのものが数学の研究、詩情と情緒の世界、等々である。

 また、数学と人生が渾然一体とした岡潔は、奇行の持ち主でもあった。彼は金銭感覚が完全に欠如していたし、何度か脳神経科にも行っている。とくに印象深く感じたのは、数学上の新発見と生活上の異変(奇行)が時期を同じくして起こっていることである。いったんあることを考え始めると何日もねむることなく考えつづけ、その影響とも思える奇行を繰り返している。このようなことは何度読み込んでも私には理解できないが、天才の天才たる所以なのであろうか。いずれにせよ、奇行変人の面も含めて、大数学者・岡潔のエッセーは熱烈に歓迎されたのである。

 しかし、たびたびの奇行変人ぶりで周囲をはらはらさせる「問題数学者」の岡潔は、一人では何もすることができなかったであろうと推察する。そこには岡潔を支える家族と多くの友人(同輩・先輩)がいたのである。とくに妻(みち)の苦労は並大抵ではなかったが、友人たちの存在はきわめて重要で大きかった。まずもってあげなければならないのは、中谷治宇二郎(考古学者)、中谷宇吉郎(物理学者)の兄弟、そして秋月康夫(数学者)である。中谷兄弟は二人とも著名な学者であるが、岡潔はこの二人の学者とフランス留学直後に知りあう。そして会った瞬間から言い知れぬ詩的直感にみちた友情を感じてしまったという。しかも、私には想像しがたい神秘的とも思える深い友情関係は中谷兄弟の死まで続くのである。このあたりの高瀬さんの論述は圧巻で感動するばかりである。岡潔はなんとすばらしい友人をもったことか。

 さらに、三高・京都大学の同級生の数学者・秋月康夫の援助は大きく決定的だった。日本でまったく評価されなかった論文がフランスの高名な数学者アンリ・カルタン(1904- )に読まれ世界的な評価を得たのも、また、朝日賞・文化勲章を受賞するのも、裏方で精力的に動いた秋月康夫の支援があったからだ。岡潔の感性と共鳴し、精一杯の支援を惜しまなかった秋月の支援があってはじめて、天才の能力が開花し日の目をみたのである。

 紙数が尽きた。帯金さん、高瀬さんとも若い学生時代に岡潔に魅せられ、岡潔と同じ数学を専攻された。帯金さんは高校の数学教師として教育現場で活躍され、高瀬さんは岡潔と同じ学問領域「多変数関数論」を専攻され研究者の世界におられる。総じて、帯金さんの著作は、岡潔のこころの世界と数学の世界をあたたかい想いで手際よく表現していて、ほのぼのとした印象をもった。高瀬さんの著作は、岡潔が生きた時代と人生およびそれに関わるすべての事柄(人物・事象)を調べ尽くし、岡潔を執拗に追い求める求道者のように感じた。私はいつの日か機会があればお二人にお会いして、岡潔とご自身のことについてお話をお聞きしたいと思いはじめている。