書評:岡部 進『生活文化と数学』(ヨーコ・インターナショナル、2009年8月31日)

岡部進さんは1959年4月からこれまで50年間、教育現場の最前線で数学教育・社会教育に関わってこられ、数学教育・数学史等々の膨大な著作を刊行されてきた。私はほとんどの著作を読み込んできたが、その文章は実に分かりやすい、少しも難しいことを述べないし文章は実に平易だ。文章だけではない。かたり口もそうだ。だれにたいしても中学生や高校生にでも話すように分かりやすくよどみない。その姿勢はとてもすがすがしい。まるで万年青年のようだ。岡部さんに接した人ならなんびとも異論はあるまい。

私はいつも岡部さんの平易な文章とかたりから励まされ元気をもらっている。そのすがすがしさはどこから来るのだろう。そこには岡部さんの数学教育はあくまでの次世代を普通に生きる子供たちを対象にし、深い愛情をもっているからだと思う。どのような深遠な内容の数学であっても中学生が理解できるように語たることに、全精力を傾けるその姿勢が岡部さんの思想であり哲学でもある。

その深層心理には何があるのだろう。岡部さんは苦難の人生をあゆんだ数学者小倉金之助の全著作を徹底的に研究してきた。それはとても若いときからだった。小倉金之助の学問と思想を研究しつつ、それを内在化・肉体化させ、わがものとされた。そこには小倉金之助が生涯にわたり希求した民衆と大衆のための数学観と学問の精神があると私はみる。「日常性の数学」・「生活者の数学」という教育観・人間観が、それである。その教育観・人間観を読むものはかならず感動するはずである。 最近では、ごく普通に生きる生活者を対象として、広範な社会的で実践的な教育活動を展開されているが、それらの活動を一番に喜んでいるのは、おそらく今はなきすぐれた民間学者の小倉金之助であろうと私は確信する。

今回の本書「生活文化と数学」でもその哲学は一貫してゆるぎない。とくに「文化が生活なり」の哲学を具体的な事例を上げながら披露する。ご子息が住むハワイ・マウイ島に長期滞在しハワイのペトログリフ(顔面彫刻・線画)の調査に乗り出し、そこからハワイの先住民の生活観に思いをはせているが、これらの論述は現場に立たなければ決して論じられない具体的な記述で興味深く面白い。また、なにげない日本各地の遺跡を訪ね、日本人の日常生活の中にも「数量文化」が潜んでいることを表出させている。

この十数年、日本の経済社会の動向は急展開・大変動を呈している。それに呼応するかのように世間には膨大な経済学書があふれ、民衆の生活はそれらにふりまわさている。そのただなかにあって、われわれは何を基準にこの大変動する経済社会を生きていけばいいのだろう。その意味で、本書の後半部の「数値文化の諸現象」(第3章)「変動数値に強くなる智慧つくり」(第4章)は大きな道しるべを与えてくれる。身近な生活上に起こる「数値変動」に関する議論は重要で核心に迫っている。

特に「時系列変動数値」を自覚して生きる、それとも無自覚なまま他力本願で生きるかは、雲泥の格差の「人間ドラマ」を作りからである。冷静沈着な思考を求められるゆえんである。本書はそのためにあるともいえよう。
(湘南科学史懇話会代表:猪野修治)