もくじ
はじめに
Ⅰ『沈黙の春』の発端
Ⅱ『沈降の春』の構成と内容
Ⅲ『沈黙の春』の周辺
Ⅳ『沈黙の春』の序文
Ⅴカーソンの科学と文学
Ⅵ『沈黙の春』と『複合汚染』
まとめ
あとがき
はじめに
21世紀目前です。20世紀末のこんにち、今世紀に起こった科学技術をめぐる科学と社会の大きなできごとをふりかってみますと、科学技術の発展によって人々の生活と社会のあり様は、一時代前には想像もできないほど一変し、物質的にはかぎりない豊かさをもたらしたといえるでしょう。いいかたをかえると、その豊かな社会生活の礎となってきたのは、科学技術を基盤にする物質文明にあったといるでしょう。が、その豊かな生活をつくり出してきた科学技術は、その善の部分をつくりだしてはきたのですが、その反面、多くの悪の部分つまり、負の遺産をもつくりだしてきたことを、一瞬たりとも忘れてはなりません。
その負の遺産にはどんなものがあるかここで考えてみましょう。わたしの非常に身近なところで考えますと、私の生まれ育った東北地方でひとが生きていくうえで、もっとも大切な米つくり農業で生計をたてている農家の人々が、いぜんは貧しくとも農業だけで生計をたてることができたのですが、いまは、そんなことができるのは、日本全国ひろしといえども、ほんの一部の農家にすぎません。農家の人たちが、農業をすてて、地方に進出する自動車企業、電子部品産業に転職するなど、日本の伝統的な農業から離れてゆく現象をなんども見てきました。
もうひとつの重要なことですが、日本人の主要な蛋白源を提供してきた漁業を営む漁村にも、同じようなことが全国的に起こっています。漁村には、20世紀という時代がいかに物質文明を選択する社会をつくりだしてきたかを象徴的にしめしていることがあります。それは、いかに現代の科学技術を駆使しても、自然と共存することができない原子力発電所が、今世紀半ばから多数つくられたということです。これによって、日本の漁村社会は、先祖伝来、えんえんと営まれてきた村社会の共同体様式が崩壊させられるばかりか、漁村社会の人間関係までも、ずたずたに切り裂かれてしまいました。 このような農業と漁業を営む農漁村が、それじたいを営むことで自立出来なくなってきたのは、われわれが生きているこの時代が、自然を攻撃的に支配するという、ある意味では、自然を虐待しつつ、ひたすら、工業物質文明を選択してきたからほかならないでしょう。
この工業物質文明を支えてきた考え方、あるいはもっと一般的ないいかたをすると、それらの思想は、近代の科学技術思想の現実的な現れであると、私は考えています。とうぜん、その結果として登場したのが、ここで取り上げようと思っている農業における近代的麻薬「農薬」の無差別的な散布です。また、農業や漁業をすて工業文明をひたすらささえてきた月給とりの小市民までが、全国の山々の森林を無造作に切り崩し、農薬付けのゴルフ場で意気揚々と遊ぶ姿は、なんとも滑稽なことでしょう。山の手にあるゴルフ場から流れ落ちる農薬が、かつて自らを育ててきた農業と漁村の地域の水を汚染することなど、いっこうに気がつこうとしないのです。つまり、小市民のささやかな「遊び」それじたいが、工業物質文明に汚染された構造のなかに、完全に取り込まれていることに、気がつかないのです。
なにをいおう、こういう私自身、東北の農村社会の専業農家の四男坊主の末っ子に生まれましたが、子どものころは、一刻も早くこの農村社会から抜けだし、大都会に出て、できれば大学に入って数学や物理学をやりたいと考えていました。そして、物理学や数学をやることが、そのときにはまだ、自覚的ではありませんでしたが、豊かな生活を確保できるのではないか、と思っていました。また、そのように、教育されてきました。教師たちは、ことあるごとに、「東京にでれば便利な生活ができるぞ」と、なにも知らない子どもを煽ったのです。教育も哲学もあったものではない、ひどい教師たちでした。
話は一気にこんにちになりますが、この数年、やたらと人間を含む生物の生体系を脅かす「外因性内分泌攪乱物質」(俗称、環境ホルモン)が世界的な話題になっています。そのヒーバーぶりはとどまるところを知りません。私はこの数年、この問題を含め、科学と社会を考える市民運動団体「科学と社会を考える土曜講座」(代表、上田昌文)1にかかわってきております。そこでの「環境ホルモン」の講座に刺激され、この半年ばかり、この問題の本や資料をたくさん蒐集して読んできました。のちに詳しくのべますが、これらの読書と研究にかかわればかかわるほど、生体系を破壊するこの「環境ホルモン」問題のねっこには、近代の工業物質文明とそれを思想的基盤としてささえている近代の科学技術のあり方に問題があることが、だんだんとあきらかになってきました。
それは、私が長年かかわってきた物理学だけでなく自然科学という学問全体のあり方や、日常の生活のあり方までをも見直さざるをえないような、とても大きな問題であることでした。そしてふたたび、少年のころにあこがれた、いわば自然を支配し、自然を人間の都合にあうように改造する学問を考えてきた、その考え方そのものを見直さざるをえなくなってきたのです。こう考えるようになってきたのは、この1年や2年そこらの年月ではありません。もうなん年も科学と社会をめぐる研究会にでて資料を集めたり、研究者の話を聞いたり、全国のさまざまなところで、苦しい市民運動をやっている人たちの現場の話を聞いたり見たりしてのことです。人間の生活の仕方や学問の仕方、広くいうと、生活や学問にたいする価値観とでもいうのでしょうか。それをかえるのは容易なことではありません。まずは、自分の価値観が全国的な市民運動のなかで、どんな位置にあるのか、一般的にいうと、自分の価値観を相対化しなければなりません。このように自然に考えるようになったのです。
私がそのように考えるようになってきたのは、けっして物理学の教科書でもなければ、教育関係の教育書や教育者からではありません。ましてや、高名な学者先生からではありません。それはもっぱら、原子力発電所反対運動を担う農業や漁業を営みひとびととそれを学問的に支える科学者、薬害エイズ問題を手弁当で闘うひとびと、電磁場公害問題にかかわる内外の市民的な研究者、米軍基地反対闘争と核軍縮運動と平和運動にかかわるひとびとなど、科学と社会をめぐる問題にかかわってきた全国の市民運動を担っているひとびとたちと、その運動と理論と実践からです。したがって、かれらが発行するさりげないパンフレットや資料は、私には、このうえない最高の生きた教材・資料となったのです。2
さきにも、のべましたが、「外因性内分泌攪乱物質」問題の書籍が氾濫するなかで、私は環境問題の原典『沈黙の春』の著者で、アメリカの科学者にして文学者レイチェル・カーソンの著作をくわしく真摯に、もういちど読み直さなくてはならないと思ったのです。いわば、このレイチェル・カーソンの著作群の読書と研究は、自然の見方における懺悔(さんげ)と悔恨(かいこん)を経て、そこからあらたな価値観を求めてのことですが、その営みはあっちにいったり、こっちにいったりするかもしれませんが、そのあゆみを正直に示したいと思います。では、はじめましょう。
Ⅰ『沈黙の春』の発端
いまや環境問題の古典で、世界中で読まれ続けている『沈黙の春』3は、どのようなきっかけで書かれたのでしょうか。カーソンははじめから社会派の市民運動家や環境問題の活動家ではありません。ましてや革命家でもありません。そのカーソンが世界的な、いや地球的規模で生命の存続を左右するような著作をものすることになった、もともとの起源は、どんなことなんだったのでしょう。大変に興味のあるところです。それはこういうことです。カーソンにはオルガ・オーエンス・ハギンス夫人という友人がおりました。ハギンス夫妻はマサチューセッツ州のダックスベリーというところに土地を所有し、そこを私設の鳥類保護地域にしておりましたが、その鳥類保護地域に州当局が蚊を撲滅するために、多量の薬物を撒布したことがことのはじまりです。蚊が撲滅されたのはとうぜんですが、多数の鳥も抹殺されてしまいまいした。
これに抗議したオルガ・ハギンスは、1958年1月、「ボストン・ヘラルド」新聞に投書します。 ヘラルド紙編集部への新聞投書には、州当局が無害であるというDDTの大量散布によって、水の中には一匹の魚もいなくなり、鳴鳥やバッタやミツバチや無害な昆虫も、すべていなくなったことをのべたあと、こうのべています。「このような状況は、散布量を2倍にしても改善されません。野生生物や人間に対する急性的ならびに慢性的な影響が、生物学的ならびに物理的に確認されるまで、毒物の空中散布を一切中止ことであります。それを必要としない、あるいはそれを望んでいない場所へ空中散布することは、非人間的であり、非民主的であり、しかも、恐らく違憲でしょう。このように責めさいなまれている地球の上に、救いの手を差しのべられずに立ち尽くしている私たちにとって、それはとうてい耐えられないことです」。4
ハギンス夫人がこの新聞投書の写しとともに、ワシントンで自分たちを援助できる人はいないかという私信を、カーソンに送ったのです。このことについて、カーソンは、『沈黙の春』の序文でこう書いています。
1958年の1月のことだったろうか、オルガ・オーウェンス・ハギンスが手紙を寄こした。彼女が大切にしている小さな自然の世界から、生命という生命が姿を消してしまったと、悲しい言葉を書きつづってきた。まえに長いこと調べかけてそのままにしておいた仕事を、またやりはじめようと、強く思ったのは、その手紙を見たときだった。どうしてもこの本を書かなければならないと思った。5
さらに、ハギンス夫人の手紙を受け取ってから4年半後、『沈黙の春』が出版されたとき、カーソンはハギンス夫人に次のような手紙を書いています。
あなたはお忘れになっているかもしれませんが、すべてのことがらのきっかけとなったものは新聞社に宛てたあなたの投書の写しではなく、あなたが私に宛てた私信にほかなりません。その中であなたは、どのようなことが起こったか伝え、そして、どのように感じておられるかを語りました。それと同時に、ワシントンであなたを援助出来るひとを探すよう私に依頼されました。その「誰か」を探し求めるために、私はこの本を書かねばならなかったのです。6
こうして、カーソンは友人の手紙にあるような生けとし生けるものを絶滅する農薬散布が、ワシントン州だけでなく、アメリカ全土に及んでいることをすぐさま読みとり、山のような資料と、さきにのべたように、その資料の検討・分析、科学者への確認をへて、熟考に熟考をかさねて書きあげたのが、『沈黙の春』です。ここでのカーソンの思考と姿勢は、私の目的であるカーソンの「科学と文学」がいかんなく発揮されることになります。
Ⅱ『沈黙の春』の構成と内容
『沈黙の春』の構成はぜんぶで17章であり、つぎのような表題になっています。1.「明日のための寓話」、2.「負担は耐えねばならぬ」、3.「死の霊薬」、4.「地表の水、地底の海」、5「.土壌の世界」、6.「みどりの地表」、7.「何のための大破壊?」、8.「そして鳥は鳴かず」、9.「死の川」、10.「空からの一斉攻撃」、11.「ボルジア家の夢をこえて」、12.「人間の代価」、13.「狭き窓より」、14.「四人にひとり」、15.「自然は逆襲する」、16.「迫り来る雪崩」、17.「べつの道」です。そして最後に、さきに述べように、日本語訳にはありませんが、586の参考文献(「List of Princepal Sources」)があげられています7。
私は本はこの半年ばかり、なんどもなんども読み返しました。それというのも、この文章を書くことを決めてから、カーソンを読み考えることは、これもさきにのべたように、懺悔(ざんげ)と悔恨(かいこん)のうえにたって、私自身の価値観を見直す絶好の機会と考えたからです。というのも、私はこれまで、いろいろな自然科学のうちでも、数学や物理学などの自然を数量化しうる学問ばかりに目を向けてきており、自然界の生物のもつ多様性や複雑性には、あまり関心を向けてこなかったのです。でも、それを私は認めるのがいやでたまりませんでした。物理学から生物学に方向転換したある友人によくいわれたものです。いや、いまでもそうなのです。「どうも、猪野さんと話をしていると、言葉のはしはしに自然科学の学問の中で、数学や物理学的な思考方法がもっともすぐてたものであるという価値が働いているようだ」というのです。つまり、思考に柔軟性がなくつまらないというのです。公害であるとか、音楽や絵画や詩や文学などの芸術であるとか、話はなんでもよいのですが、自然を数学的・物理学的に説明したり解釈したりはするものの、自然の多様性と複雑性と自然のもつ奥深さと神秘性を「五感で感じる」感性がないというのです。これにはかなりこたえました。その友人が我が家をひょっこり訪ねてきて、カーソンの著作群を読んでいるのを知ると、ひとこと、こういったのです。「それはよいことだ。でももうておくれだ。50をすぎてわな」、と。50歳をすぎたらあらたな感性をよび起こすことは不可能だというのです8。
さて、どうなるでしょうか。
『沈黙の春』の第1章「明日のための寓話」は、寓話であるから、この第1章だけは、教訓と諷刺を含む作り話です。このような書き出しではじまっています。のちの章を読んだ後、この第1章を読みますと、なんとも言いしれぬ不気味で幻想的な、カーソンの子供時代の原風景を思わせる文学的な文章です。情景を思いうかべながら丹念に読んでいきましょう。
アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命そのものはみな、自然と一つだった。町のまわりには、豊かな田畑が基盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原かなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠える声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆けぬけた。
道を歩けば、アメリカシャクナゲ、ガマズミ、ハンノキ、オオダがどこまでも続き、野原が咲きみだれ、四季折々、道行く人の目を楽しませる。冬の景色も、すばらしかった。野生の奬果(しょうか)や、枯れ草が、雪のなかから頭を出している。奬果を求めて、たくさんの鳥が、やってきた。いろんな鳥が、数えきれないほどくるので有名だった。春と秋、渡り鳥が洪水のように、あとからあとからと押し寄せては飛び去るころになると、遠路もいとわず鳥を見に大勢の人がやってくる。釣りにくる人もいた。山から流れる川は冷たく澄んで、ところどころに淵をつくり、マスが卵を生んだ。むかしむかし、はじめて人間がここに分け入って家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てた、そのときから、自然はこうした姿を見せてきたのだ。
ところがあるときどういう呪いをうけたのか、暗い影があたりにしのびよった。いままで見たこともきいたこともないことが起こりだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれが病気になったというはなしでもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとから出てくるのに、とまどうばかりだった。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない。大人だけではない。子供も死んだ。元気よく遊んでいると思った子供が急に気分が悪くなり、二三時間後にもう冷たくなっていた。
自然は沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は、からっぽだった。ああ鳥がいた、思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。(中略)農家では鶏が卵を生んだが、雛は孵らず、豚を飼っても、なにもならなかった。小さい子ばかりうまれ、それも二三日で死んでしまう。(中略)
病める世界-新しい生命の誕生をつげる声ももはやきかれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵におそわれたわけでもない。すべは、人間がみずからまねいた禍(わざわ)いだった。(中略) アメリカでは、春がきても自然は黙りこくっている。そんな町や村がいっぱいある。いったいなぜなのか。そのわけを知りたいと思うものは、先を読まれよ。9
カーソンのいう「沈黙の春」の「沈黙」というのは、このようなことをいうのです。いけとしいけるものが、すべて、ただ黙りこくっている、そんな不気味な世界を寓話にしてえがき、その禍を自然界にもたらしたのは、ほかならぬ人間自身であるというのです。それも科学の力をかりてです。その科学とはいったい何なのでしょうか。これが、私がこれからこのカーソンの『沈黙の春』の文章を読みながら考えて行こうとしていることです。
第2章「負担は耐えねばならぬ」、第3章「死の霊薬」では、地上に生命が誕生して以来、生命と環境が織りなしてきた共存関係が、この20世紀になって、人間が一方的に自然を変えることで共存関係を破壊していること、さらに、合成殺虫剤・除草剤の発見の歴史と毒性を具体的に述べています。それは「有機塩素化合物」とよばれるDDT、マラソン、パラチオン、クローデルン、ディルドリン、アルドリン、エンドリンなどの化学合成化合物です。これらの合成化合物がどのように人体に有害であり、やがては死をまねいていくかを簡潔に述べています。
その大部分は、〈自然と人間の戦い〉で使われている。虫や雑草やネズミ類など-近代人が俗に言う《邪魔もの》をやっつけるために、1945年前後から塩基性の化学薬品が二百あまりもつくりだされ、何百何千の勝手な名前をつけて売りだされている。・・・地表に毒の集中砲火をあびせれば、結局、生命あるものすべての環境が破壊されるこの明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。《殺虫剤〉と人は言うが、《殺生剤》と言ったほうがふさわしい。・・・人間の生殖細胞を人工的に変化させることの可能な時代がやってくると、未来の世界の建設者を自称する人たちは夢見ている。・・・いったいなんのために、こんな危険な目を冒しているのか-この時代の人はみんな気が狂ってしまったのではないか、と未来の歴史家は、現代をふりかえって、いぶかるかもしれない。わずか二、三種類の虫を退治するために、あたり、一面をよごし、ほかならぬ自分自身の破壊をまねくとは、知性のあるもののふるまいであろうか。・・・害虫はたいしたことはない、昆虫防除の必要などない、と言うつもりはない。私がむしろ言いたいのは、コントロールは現実から遊離してはならない、ということ。そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめよ-こう私は言いたいのだ。10
このカーソンの文章は一点のくもりもなく、よく理解できるはずです。そして、この文章の最後の段落は非常にたいせつです。何が何でも農薬や殺虫剤を使うなといっていないのです。これは『沈黙の春』の最後の第9章「べつの道」で、ふたたびのべられるので、こころにとどめておきましょう。 さて、カーソンはこのような合成化学薬品が登場する背景を、第二次世界大戦の落とし子であったとのべ、そもそも人間を殺すために昆虫が実験材料にされたというのです。こうして登場した合成化学薬品の殺虫剤は生命の存在に直接関係するものですが、アメリカではその生産量は増加の一途をたどりることとその発見の歴史的背景とその現代的特性を具体的にのべています。現代のもっとも危険な殺虫剤の代表として、《有機塩素系化合物》のDDTと《有機燐酸系化合物》のマラソンとパラチオンなどをとりあげています。ここは『沈黙の春』の全体を通じても、そしてカーソン生前における当時のケネディ大統領政権下のアメリカの環境政策に大きく決定的な影響力をもった内容ですので、くわしく読んで行きます。
DDT(dichloro=diphenyl=trichloro=ethane)は、1874年にドイツの化学者がはじめて合成したものだが、殺虫効果があるとわかったのは、1939年のことである。たちまち、昆虫伝播疾病の撲滅、また作物の害虫退治に絶大な威力があるともてはやされ、発見者パウル・ミュラー(スイス)は、ノーベル賞をもらった。
いまではDDTの使われていないところはないと言ってよく、だれもが無害な常用薬のつもりでいる。 DDTが人間には無害だという伝説が生まれたのは、使われたのが戦時中のシラミ退治で、兵隊、避難民、捕虜などにふりかけたことも影響している。大勢の人間がDDTに直接ふれたのに、何も害がなかったので、無害だということになってしまったのである。事実、粉末状のDDTならば、ふつうの炭化水素の塩素誘導体と違って、皮膚からなかへ入りにくい。だが、油に溶かしたDDTは、危険なことおびただしい。そしてDDTは油にとかしてふつう使われる。DDTをのみこめば、消化器官にゆっくりと浸透し、また肺に吸収されることもある。一度体内に入ると、脂肪の多い器官-たとえば副腎、睾丸、甲状腺にもっぱら蓄積する(DDTは脂肪に溶解するため)。また、肝臓、腎臓、さらに腸をつつんで保護している大きな腸間膜の脂肪にも、かなりの量が蓄積される。11
つぎにカーソンはDDTがからだのなかに蓄積されていく過程、蓄積される量、毒性の食物連鎖による濃縮の様子を示したのち、同様の手法で炭化水素の塩素誘導体のフローデルン、ヘプタクロール、ディルドリン、アルドリン、さらに有機燐酸エステル系のパラチオン、マラソン(マラチオン)などの毒性を具体的にのべています。そして、この章の最後にこうのべています。「除草剤には、また、《突然変異惹起性》のものもいくつかあって、遺伝子の作用を変更してしまう。放射線がどんな危険な作用を及ぼすか-みんな戦々兢々としている。そのくせ、化学薬品をいたるところにばらまいておきながらへいきなのは、どういうわけだろう。化学薬品もまた、放射線にまさるとも劣らぬ、おそろしい圧力を遺伝子に加えるのに」。12
つぎの第4章「地表の水、地底の海」、第5章「土壌の世界」は表題が示しているように、殺虫剤による水汚染、地下水汚染、土壌の世界の汚染を問題にしています。第3章でのべた殺虫剤の毒性の特性によって、水と土壌の世界をつくる無数の生物が絶滅される過程を詳しくのべています。とりわけ、バクテリア、菌類、藻類はものを腐敗し、植物や動物の死骸をがんらいあったもとの無機物に還元する働きをしますが、これらの微微生物が死滅することになれば、自然界の生物的化学的な物質循環が停止することを示しています。土壌の生物のなかでミミズをとくに取り上げ、ミミズは土壌バクテリアの硝化作用とその消化器系を通る過程で有機物を解体し、また、排泄によって土壌を豊かにすることをのべたあと、カーソンは当時の最先端の研究論文をひもとき、生命の核心というべき化学的な変換と置換が異変する例として、大気中の窒素を植物が固定する硝化作用が攪乱される様子をこうのべています。
除草剤は2・4Dを使うと、しばらくこの硝化作用がみだれる。最近のフロリダ州での実験によれば、リンデン、フプタクロール、BHC(ベンゼン・ヘキサクロリド)が土壌に入ると、わずか二週間もたたないうちに硝化作用が減じ、BHC、DDTは使用後一年間も有害な影響を明らかに及ぼした。また、ほかの実験によれば、BHC、アルドリン、リンデン、フプタクロール、DDDを使用すると、マメ科の植物に必要な根瘤をつくって窒素を固定しているバクテリアが姿を消してしまう。菌類と高等植物の根との間には奇想天外な、たがいに益しあう関係があるが、それも破壊されてしまう。13
それでも殺虫剤が使われるのはなぜなのか、とカーソンは言うのです。
第6章「みどりの地表」では、カーソンの目は地表の植物群に向けられます。
地表(水、土)をおおっている植物は、錯綜した生命の網の目のひとつとして、いかに大切な役目を果たしているかが問題にされます。まずはじめに、ヨモギ類の雑草です。アメリカ西部でこのヨモギ類の雑草を根絶し、広大な牧草地をつくるために、林野庁当局が除草剤の雨を降らせたことに、カーソンは科学的に抗議していきます。アメリカ西部の不毛地にヨモギ類の雑草が生育できるようになったのは、自然そのものが長い年月をかけての実験のけっかなのであり、さらに、このヨモギ類の雑草やヤナギ類も、植物やそれと捕食関係にある動物の食糖になっている。
が、化学薬品がいわば花形で、林野庁はそれらのみな殺し作戦にでました。このみな殺し作戦を支持する科学協会の人たちの考え方は「道ばたの野生の花が殺されるといって騒ぎ立てるのは、動物生体解剖反対論者のたぐい」であり、「かれらのやっていることは、どうも、野良犬の命のほうが人間の子供の命より大切らしい」というものです。14
これにたいして、カーソンは、ある裁判官ダグラスの言葉を引用し、つぎのように反論しています。「だが、牧草業者が草をさがしたり、材木業者が立木をほしいと言う権利と同じように、この年寄りにも、キキョウの花やオニユリを求める権利があるのではないだろうか。自然の美的価値は、銅や金の鉱脈、また、山の森林資源と同じように、私たち人間に与えられている財産といえよう」15。さらに、「秩序ある自然界はすべての動植物がそれぞれかけがえのない役目をはたしている」16とのべ、自然にたいするかぎりない憧憬の姿勢をだんこ、保持する考え方を披露しています。
このように批判したあと、草と土壌がたがいに利益を及ぼす関係にあることを指摘し、オランダ、カリフォルニア州、オーストラリアにおける上手なやり方の実例を紹介していますが、その考え方は、雑草になやまされたら、植物を食べる昆虫の働きを研究することだ。そういう自然界の秩序をみださない科学研究があまりにも軽視されてきたと説いています。
第7章「何のための大破壊?」では、「人間が自然を征服する」という近代科学の思想の批判ともいうべき、人間による自然にたいする無差別的で徹底的な攻撃のありさまをのべています。コガネムシ退治のために大量の殺虫剤(アルドリン)の空中散布によって、小鳥、人間、犬猫のほか、哺乳類におおきな被害が生じたのです。これがイリノイ州、メリーランド州、ミシガン州をはじめとするアメリカの各州で実施されたのです。アメリカ各州当局の自然への無差別的攻撃の実体をのべるカーソンの文章は、さらに人間の刹那的な行為を許してはならない、という強い語調に変わっていき、さらには人間の文明のあり方までに進んでいきます。
自然を征服するのだ、としゃにむに進んできた人間、進んできたあと、ふりかえってみれば、みるも無惨な破壊のあとばかり。自分が住んでいるこの大地をこわしているだけではない。私たちの仲間-いっしょに暮らしているほかの生命にも、破壊の鉾先を向けてきた。過去2、3百年の歴史は、暗黒の数章そのもの。合衆国西部の高原では野獣の殺戮、鳥を撃って市場に売り出す河口や海岸にすむ鳥を根絶に近いまで大虐殺し、オオシラサギをとりまくって羽をはぎとった、など。そしていままた、新しいやり口を考えては、大破壊、大虐殺の新しい章を歴史に書き加えてゆく。あたり一面殺虫剤をばらまいて鳥を殺す、哺乳類を殺す、魚を殺す。そして野生の生命という生命を殺している。
私たち現代の世界観では、スプレー・ガンを手にした人間は絶対なのだ。邪魔することは許されない。昆虫駆除大運動のまきぞえをくうものは、コマドリ、キジ、アライグマ、猫、家畜でも差別なく、雨あられと殺虫剤の毒はふりそそぐ。だれも反対することはまかりならない。17
当時のアメリカで大手をふってまかり通った大量殺戮行為にたいするカーソンのいかりにみちてはいるが冷静な筆の進め方は、これが、殺虫剤でなく放射能を帯びた原爆を投下された広島・長崎を連想することもできるでしょう。その大義名分は、人間が自然を征服し、自然を人間の支配下におくという近代の自然観そのものであるともいえるでしょう。そして、カーソンは「生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるだろうか」18と結んでいます。これはもはや科学や哲学の議論ではありません。カーソンのまったくの内なる自然にたいする奥深い精神からはっせられる、せっぱつまった言葉であるのです。自然とともに生きてきたものだけに語れることがらでしょう。これはここでの「カーソンの科学と文学」という主題にかかわることですが、それは後半でのべることになるでしょう。
第8章は『沈黙の春』というタイトルを象徴している「そして、鳥は鳴かず」です。タイトル全体の内容を象徴しているところです。春という季節はいわば小鳥、植物がながい冬眠から起き出し、鳥の鳴き声がきこえ、草花の芽がゆっくりとうごきだす時期でもあるのですが、前章までの無差別的な殺虫剤の空中散布によって、すべての植物・動物が死滅するか、瀕死の状態にあり、春がきたことを鳥たちの鳴き声によって知ってきた、その生き物と季節のとうらいをつげる長い営みが消えさってしまったということを示しています。この章では、その春をつげる小鳥「コマドリ」をおそった悲劇的な事実とアメリカを象徴する鳥「ワシ」の数の減少していることなどが、中心にのべられていきます。
カーソンはこう書き出しています。「合衆国の春は、コマドリといっしょにやってくる。コマドリのおとずれは、新聞紙面をかざり、家庭の朝ご飯の話題にもなる。春になって渡り鳥の数がふえ、森の木の芽が緑のかすみにひろがるころ、明け方の空気をふるわせてきこえてくるコマドリの初音にみんな耳をすます。でも、いまは、すべてがかわった。春になるとコマドリが帰ってくるというのは、むかしがたりとなろうとしている」。19 コマドリなどの鳥類はニレの木の命運と直接に関係していることが、鳥類研究者によって明らかにされました。その研究によると、殺虫剤に汚染されたニレの木が秋になって落ちてきたニレの葉をミミズが食べる、そのミミズをコマドリなどの小鳥が食べるという食物連鎖によって、コマドリが死滅するというものです。これは、小鳥に及ばず土壌中の生物を食べる二十種類あまりの鳥類が犠牲になったばかりか、ミミズを食用とするアライグマなどの哺乳動物にまで及んでいるという。
この章の後半でカーソンはアメリカ合衆国の象徴である「ワシ」の犠牲のことに多くのページをさいています。この十年間にワシの環境の変化によって、その個体数が急激に減少したのは、殺虫剤によって、生殖能力が破壊されたのだというのです。カーソンはその証拠となる研究をずらずらとあげています。
魚の多い地方では、ワシは主に魚を食べる(アラスカでは、ワシの餌のなかで魚が占める割合は65パーセント、チェサピーク湾岸近辺では約52パーセント)。また、ブローリー氏が長いあいだ観察してきたワシが、主に魚を捕食していたのは、ほとんど疑う余地はない。1945年以降、とくにこの海岸地帯に、燃料油にとかしたDDTを何回も空中から撒布している。海岸の沼地の蚊を退治するためである。だが、あたりは、ワシが餌をあさるところだ。おびただしい魚やカニが死んだ。その組織を調べてみると、濃縮度の高いDDTが検出された(46ppm)。クリア湖のカイツブリが湖の魚を食べ、濃縮した殺虫剤残留物を体内に蓄積したように、ワシのからだの組織にもDDTが蓄積されていったにちがいない。そして、カイツブリ、キジ、ウズラ、コマドリと同じ運命に見舞われ、雌の数は年ごとに減り、ワシもまた、やがて絶滅しないともかぎらない。20
そして、1960年代当時、世界中の鳥の危機がさけばれはじめます。フランス、イギリスでも同じことがおきていたのです。イギリス鳥類学協会、王立鳥類保護協会、狩猟鳥協会などに、多数の鳥が死んでいること知らせる報告が殺到したというのです。
第9章「死の川」は、殺虫剤の空中散布によって、地上の生物ばかりでなく、水中生物が深刻な影響を受けた事実がのべられます。カナダのニューブランズウィック州にミラミッチという川があります。毎年、産卵のために大量のサケがさかのぼってくる川です。これは太古のむかしからくりかえされてきたいとなみなのです。ところが、1954年の6月にミラミッチ川北東支流の森林上空から何機もの飛行機によって油で溶かした大量のDDTが撒布されました。2日もたたぬうちに、おびただしい数のサケなどの魚が死んだのです。さらにサケやマスの餌である水棲昆虫が死にました。これとおなじような事例は、ルイジアナ州、フロリダ州、アラバマ州、テキサス州、コロラド州でもおこりました。すべてDDT、クローデル、トキサヘンなどの農薬が原因でした。まさに川という川は死の川となり「すさまじい光景」だとカーソンはのべています。
そして、カーソンは結論しています。「淡水、海洋漁獲は大切な資源だ。たくさんの人たちの生活、健康にきわめて重要な資源なのだ。私たちみんなの水に、川や湖に化学薬品が入ってきて、禍を及ぼしているのは、もはや疑うまでもない。・・・だが、ことの真相を知って、みながそのような声をあげる日はいつのことか」。21
第10章「空からの一斉爆撃」は、マイマイガとヒアリというアリの一種の駆除のため、空中から化学力をつかった「総力戦」によってこれらの生きものが犠牲になった惨状的被害の様子がのべられます。
ここでちょっと横道にそれますが、おもしろいので紹介させてください。カーソンによると、マイマイガというのは、1870年ころ、ヨーロッパから渡ってきたものだそうです。1869年、フランスの化学者レオポール・トルーヴェロが、アメリカでカイコと交配するのに使っていたさい、その二三匹が逃げだし、それがニューイングランド一面に広がったのだそうです。このマイマイガを絶滅するために農務省が化学的総力戦を展開し、三十万エーカーというとてつもない広大な土地に殺虫剤を撒布したのです。これにたいして、市民の抗議行動がおこりました。一例をあげると、ロングアイランドの市民は有名な鳥類学者ロバート・クシュマン・マーフィという人物を先頭にたて、裁判所に空中撒布の差止め訴訟をおこしたのです。が、裁判所はこれを却下したのです。それいらい、とうぜんのことですが、いきもの皆殺しの現実が露呈しました。牛乳、マメ、ミツバチ、などから高濃度のDDTが検出されたのです。これによって、酪農家、養蜂家は大きな打撃をうけ、死活問題となったのです。
さらに、これも南アフリカから入ってきたヒアリというアリの一種の撲滅運動が開始されました。農務省は膨大な費用を投じて、大規模なヒアリ撲滅の宣伝を開始したのです。大当たりの大もうけで笑いが止まらないのは殺虫剤製造会社であったのは、自明のことです。
カーソンはここで、そもそも「ヒアリが害虫だというのはほんとうだろうか」とだいたんな疑問を投げかけています。農務省の権威ある刊行物にヒアリの名前すらないこと、アラバマ州の農事事務所、総合技術研究所の昆虫学者たちの「植物に及ぼす害はまれである」、「過去5年間植物がヒアリの害をうけた報告は一度もなく」、「家畜への被害もべつ見けられらない」などの証言をもとに、ヒアリが人体に害を及ぼすというのも、かなり尾ひれのついたものであるとのべています。科学的根拠をも明らかにせず、人々の噂をもとにして、大量のディルドリン、ヘプタコール、DDTなどの大量の化学薬品が広大な大地に撒布され、そのけっか、野生生物が犠牲になったとのべています。
第11章「ボルジア家の夢を越えて」です。ボルジア家というのは、イタリア・ルネサンス期に実在した一族だそうですが、その一族のチェーザレ・ボルジアは「毒をもる男」として名をはせたという。それをもじってカーソンは、ふつうの家庭生活での身の回りの化学薬品汚染をのべています。
台所の殺虫剤、床やテーブル磨き用ワックス、殺虫剤粉末を含む自動芝刈り機、食物など、アメリカの家庭生活はもはやは、すべのものが毒を盛るボルジア家ならぬ「毒の時代」になったとカーソンはなげいています。
1950年代からのアメリカは使いすて文化のそものでした。いまでもそのことはかわりはないでしょう。50年代以降のアメリカの映画などのでてくる目のさめるような緑に囲まれた家々の前には、見事に整備されひとつの雑草もない芝生が登場するのをよくみかけます。それがアメリカ文化の一形態を象徴するものでした。しかし、その芝生が人には見えない高濃度の化学薬品によって「保持」されていることの危険性には気がついてはいなかったのです。
わたしの経験でもそうでした。1994年の夏、一ヶ月間ほど、アメリカでももっとも治安が良いとされるテネシイ州のノックヴィルにあるテネシイ大学に科学史研究のために短期留学したときのことです。この地域全体が、プロテスタント系の敬虔な教会町で、日本では考えにくいことかも知れませんが、辺り一面、どこをみても緑の芝生一色です。その芝生には実はカーソンが指摘する化学薬品が日常的に撒布されているという事実です。22
第12章「人間の代価」では、化学薬品づけになった人間はどのようになるかをのべています。いわば、人間内部への影響をのべています。 炭化水素系の塩素誘導体の殺虫剤が肝臓に及ぼす影響をみてみましょう。肝臓は脂肪を消化する胆汁をだし、グリコーゲンの形で糖分を蓄積しつつグレコースをだしながら血液内の糖分を保ち、血液中のコレステロールを押さえています。その肝臓が殺虫剤にやられると肝炎、肝硬変になります。実際、1950年代以降、アメリカではその肝炎、肝硬変が増加の一途をたどったのです。また、カーソンは「複合汚染」に言及しています。複合汚染というと、日本では作家の有吉佐和子の小説『複合汚染』を思い出します。この本は1974年10月14日から朝日新聞に新聞小説として連載され、1975年、同社から『複合汚染』(上、下)として刊行されました23。日本の農薬汚染、合成洗剤汚染の実体をのべたものですが、日本の社会に大きな反響をよびました。有吉がこの小説を書くことになったのは、カーソンの『沈黙の春』の影響があったからです。これについてはあとでくわしくのべることにして、カーソンにもどりましょう。
炭化水素の塩素誘導体と有機燐酸系の殺虫剤の相互作用がもたらす影響、いわゆる複合汚染について、カーソンは医学論文を読みこなし、こうのべています。
人間のからだがそれ以前に炭化水素の塩素誘導体にふれていると、有機燐酸の破壊力が大きくなり、神経を保護している酵素、コリンエステラーゼが冒される。炭化水素の塩素誘導体のために肝臓機能に障害がおき、コリンエスタラーゼのレベルが正常以下に下がり、そこへ有機燐酸が入ってきて、レベルをさらに下げると、簡単に急性中毒症状が起こる。・・・有機燐酸化合物同士も、たがいに作用しあい、毒性が百倍にもふえることもある。24
そのほか、カーソンは医学論文をひもときながら、精神の錯乱、妄想、記憶喪失、躁病などの精神障害をおこすことなどを紹介しています。
第13章「狭き窓より」。「狭き窓」とは生物学者ジョージ・ウォールドのことばだそうです。それによると、「ちょっと離れると、ただ光のもれる裂け目にすぎない。だが、近くに寄れば寄るほど視野がひらけ、ぴたりと目をつければ、ほかならぬこの狭い窓から全世界が看取できる」25というものです。 さて、この章では、最先端の医学研究、すなわち、生命が生命として「ある」ために、もっとも枢要で必要なエネルギ-の生成過程はなにか、つまりエネルギ-を生み出す酸化作用は、個々の細胞のどのような機能によって行われているのかという、きわめて科学的な内容がわかりやすい文章で説明されます。細胞の酸化作用の解明こそは、現代生物学・生化学の最大の成果ですが、これを説明するカーソンのみごとな筆さばきの文章は、一般の科学論文の無味乾燥性を吹きとばす説得力をもっています。しかも本書全体を通じての重要な科学的内容を含んでいます。そこで、長い長いカーソンの文章になりますけれども、ここは、私と読者が生物学の勉強をする時間と考え、要約せず、カーソンの原文をきちんと読んで行きましょう。
エネルギ-生産という基本的な働きは、ある特定の器官ではなく、からだのあらゆる細胞で行われる。生きている細胞は、炎と同じで、燃料を燃やしてエネルギ-を生産し、生命を維持してゆく。といっても、これは比喩で、実際には体温というごく低い熱で細胞が《燃える》。だが、この目立たない小さな火花が何十億と集まって、生命のエネルギ-の火となるのだ。この火花が消えれば、《心臓は脈打たず、重力をふり切り大空めがけてのびてゆく木も成長をやめ、アメ-バは泳ぐこともできず、いかなる感覚も神経をつたわることなく、人間の頭脳に考えがひらめくこともない》(化学者ユ-ジン・ラビノヴィッチ)。 物質をエネルギ-にかえてゆく細胞内の動き-それはいつ果てるともなく生まれかわる自然の輪廻、まわって止まることを知らない水車だ。一粒一粒、一分子一分子ずつ燃料の炭水化物はグルコ-スとなって、この水車にそそぎこむ。燃料分子は、ぐるぐるまわるうちに分裂し、微細な化学変化をつぎつぎと起こしてゆく。それはすべて、順序を追って規則正しく行われ、一つ一つ酵素がコントロ-ルしてゆく。
酵素の受持ちもそれぞれきまっていて、自分に与えられた役目しか果たさない。一段階ごとにエネルギ-が生みだされ、最後に廃棄物(二酸化炭素と水)は拝出され、燃料の変形分子は次の段階へと進んでゆく。輪がひとまわりすると、燃料分子はすべりおち、新しく入ってきた分子と結合して、また新たに循環しはじめる。
細胞が化学工場にも似た機能を果たしているこの事実こそ、生命ある世界の奇跡といっていい。この変化が無限に小さな規模で行われているのも、また不思議だ。細胞そのものも微小で、顕微鏡ではじめて見ることができる(わずかの例外はある)。おまけに、酸化作用そのものはたいていそれよりももっと小さなところで行われている。細胞内のミトコンドリアと呼ばれる微小体のなかだ。ミトコンドリアは、60年以上もまえに発見されていたが、たいした機能ももたないと思われれていた。正体もよくわからなかったのだ。ミトコンドリアの研究が脚光をあびはじめたのは1950年になってからで、ここわずか5年間に1000点を数える文献があらわれた。
ミトコンドリアの神秘は、科学者のおどろくべき叡知と忍耐によってとけた。おどろくなかれ、その粒子はかぎりなく小さく、顕微鏡で300倍にしても見えるかも知れないか、という大きさである。さらにこの粒子を分解する技術が要求される。粒子をとりだし、成分を分解し、その複雑な機能を調べる。電子顕微鏡と生化学者の熟練があったればこそ、これらすべては可能となったのだ。
こうして明らかになったことは-ミトコンドデリアはいろんな酵素がいっぱいつまった微小なつつみで、酸化循環を行うのに必要な酵素もそなえ、これらは壁や隔壁に順序正しくならんでいる。ミトコンドリアは、エルギ-を生みだす仕事をほとんど一手にひきうけている《発電所》に似ている。細胞質で最初の予備的な酸化が行われると、燃料分子はミトコンドリアに吸収され、莫大なエネルギ-量が放出される。
まさにこのように大切な目的があればこそ、ミトコンドリアの内部では、ぐるぐるまわる輪のように休むまもなく酸化作用が行われている。酸化循環の各段階で発生するエネルギーは、生化学者がATP(アデノシン・三燐酸)と呼ぶ形をしている。三つの燐酸基のついた分子だ。ATPがエネルギー供給の直接の源となるわけは、高速度で行き来する電子の結合エネルギーと一緒になって、燐酸基の一つが別の物質に移るためなのである。筋肉細胞収縮のエネルギーは、三つつながっている末端の燐酸基が収縮する筋肉に移行するときに発生する。すると第2の循環が行われる。サイクル内部のサイクルである。ATPの分子から燐酸基の一つが遊離すると、残りの燐酸基二つをもつ分子はADP(アデノシン・二燐酸)となる。だが、循環するうちに、ほか燐酸基が付着し、またエネルギーのあるATPができる。この変化をよく説明するのによく蓄電池の比喩が使われるが、ATPは充電された状態であり、ADPは放電の状態なのだ。
ATPはいたるところに見られるエネルギーの供給源だ。微生物から人間まで、あらゆる有機体に見られる。機械エネルギーを筋肉細胞に電気エネルギーを供給する。精子細胞、受精卵子(カエルになったり、鳥になったり、人間の子になったりする、ものすごい爆発力を裡にひめている)、またホルモンをつくる細胞-これらはみなATPの供給をうけている。ATPのエネルギーの一部はミトコンドリア内で使われるが、大部分は細胞内に送られてほかの活動力の源泉となる。ミトコンドリアがある種の細胞内に見られるのは、需要のあるところへ正確にエネルギーを送る役割を果たすためである。細胞内では収縮繊維のまわりに集まり、神経細胞ではほかの細胞とのつぎ目に見られ、インパルスの移動に必要なエネルギーを供給している。精細胞では、子の運動装置である尾部が頭部とつながる部分にむらがっている。
遊離状態にある燐酸基とADPが結合してATPに可逆的に変化する反応(バッテリーの充電)は、酸化プロセスとむすびついている。酸化プロセスとの関連が強い場合は、共範燐酸化と呼ばれる。この反応がなければ、必要なエネルギーを供給できなくなってします。呼吸が行われても、エネルギーは発生しない。からまわりするエンジンのようなもので、熱を出すだけでは力は出ない。筋肉は収縮もできず、インパルスは神経をパスできない。精子は、目的地に達することもできず、受精卵子は複雑な細胞分裂ができず新しい生命は生まれない。共範反応がなければ、胎児も大人も、生物という生物は危機に見舞われるだろう。やがて組織が死に、そればかりか有機体そのものが死滅してしまいます。
共範反応が起こらない場合とは?
たとえば、放射線。細胞が放射線にさらされて死ぬのは、何かここらに原因があるのではないかと考えられている。そしてまた不幸なことには、酸化とエネルギー発生とを切りはなしてしまう化学薬品が多い。殺虫剤、除草剤などもまたその仲間だ。まえにも書いたが、フェノールは物質代謝に大きな障害をあたえる。体温があがって死ぬことがある。共範反応が起こらず《エンジンが空転する》ためなのだ。ジニトロフェノールやペンタクロロフェノールがその例である(両者とも除草剤としてひろく使われている)。このほか、除草剤で共範反応を破壊するのは、2・4D。炭化水素の塩素誘導体ではDDTに同じ性質があることがわかっている。これから先、研究が進めば、この系統のうちにほかに有害なものが発見されるかもしれない。
だが、ほかの原因で、からだを構成している何十億という細胞の火が一部、あるいは全部消えてしまうこともある。酸化の各段階が特殊な酵素に導かれ押し進められていることは、さっき書いた。この酵素が一つでもいためつけられたり、破壊されたりすると、細胞内の酸化循環が止まってしまう。どの酵素がやられても同じだ。酸化作用は、ぐるぐるまわる輪と考えたらいい。どこでもいい。輪の幅のあいだにかなてこをつっこめば、輪は止まる。それと同じように、循環している酵素を一つ勝手に破壊したり弱めたりすれば、酸化現象はもう二度と見られない。そして、エネルギーは発生せず、共範反応が起こらないのと同じことになる。
みんながよく使っている殺虫剤には、酵素を破壊して酸化作用を止めるものが多い。たとえば、DDT、メトキシクロール、マラソン、フェノチアジン、そのほかジニトロ化合物など。エネルギー生産の過程をずたずたに切断し、必要な酵素を細胞から奪いとってします。26
長い長いカーソンの文章を読んできました。私のこの論文のなかでは特段に長い引用になってしまったのは、それなりの理由があるからです。カーソンが自然にたいするかぎりない憧憬を示し、いくら自然を破壊する殺虫剤や除草剤がだめなのだといっても、それがどのように生体内の細胞の酸化作用を破壊するのかという、学問的で科学的な根拠を示さないことには、説得力をもたないからです。カーソンは満身の力をふりしぼって書いていきます。読者にあってはここのところを何ども何ども読んでほしいと思います。
このようにカーソンは、化学薬品が細胞・染色体・遺伝子にどう影響するかという科学的な論述を展開しています。カーソンは当時の最先端の生物学の専門的研究を踏まえ、医学者や生物学者に問題を提起するとともに、一般の人々に細胞・染色体・遺伝子のなんたるかを力強くのべています。細胞の酸化作用、環境因子の、染色体と過去と未来をつなぐ遺伝子への影響をことこまかに紹介しています。
第14章「四人にひとり」では、化学薬品の発ガン性をのべています。人類のガンとの戦いの歴史と発ガン物質がのべられ、カーソンの科学者としてまた科学史家としての力量が遺憾なく発揮されているところでもあります。 カーソンによると、動物実験から明らかになったことは、発ガンの原因となる除草剤はアミノトリアゾールで甲状腺ガンを引き起こすことです。水に100ppmのアミノトリアゾールを入れて飲ませると、68週後に甲状腺ガンができ、2年後には腫瘍が発生したのです。また、汚染度のひくい餌を与えたネズミにも腫瘍ができたことから、カーソンは「この分量なら大丈夫という線はなかったのだ」27とはっきりのべています。ここは重要な視点です。
また、殺虫剤が溢れ出してからは白血病が着実に増加したといいます。ここは具体的な数字をあげているので、ながくなりますが、正確に引用して読んでみましょう。
新しい殺虫剤が巷に溢れ出してから、白血病の発生率も着実にふえてきた。合衆国国立人工統計局の数字を見ると、造血組織の不治の病気がおどろくほどふえている。1960年には、白血病だけで、12,290人が倒れている。血液やリンパ腺関係の不治の病気で死亡した患者は、総計25,400人、1950年の16,690人にくらべて、ふえかたはいちじるしい。10万人あたりの死亡率に換算すれば、1950年の11.1から1960年は14.1にふえている。それも合衆国だけではない。白血病の犠牲者は年齢にかかわりなく毎年5パーセントずつふえている。どういうわけなのか。どういう新しい因子が私たちのまわりにあって、みんなを死に追いやるのか。私たちが、たえず身をさらしている因子はなにか。
メイヨー病院などの国際的に有名な病院では、造血組織の悪性腫瘍の患者を何百人も受け入れている。メイヨー病院の血液学部門のマルコム・ハーグレイヴズ博士たちが、患者の病歴を調べたところでは、みな例外なく、DDT、クローデルン、ベンゼン、リンデン、石油溜出物などの入った殺虫剤の撒布も含めて有毒な化学薬品にふれていた、という。28
これで白血病と化学薬品の関係がはっきりしました。ハーグレイヴズ博士によると、これらのふえかたが顕著になったのは、「ここ10年間のことだ」29といいます。さらに博士は「血液疾患やリンパ疾病の患者の大部分は、今日の大部分の殺虫剤の成分であるさまざまな炭化水素に接触しているという特徴がある」30とものべています。
カーソンは、もうひとつ重要なことを紹介しています。ドイツのマックス・プランク研究所という世界的に有名な研究所があります。物理学上の理論に量子論という理論があるのですが、その端緒をひらくことになったエネルギー量子を発見したドイツの物理学者マックス・プランク(1858-1947)を記念して作られた研究所です31。今日でも第一線の研究者がつどう最先端の研究所として知られています。その研究所の生化学者オット・ヴァールヴルク教授は正常な細胞がどのようにして悪性の腫瘍になっていくかという過程を説明する理論をつくりました。正常細胞がガン細胞にかわるというのは、どういう過程なのかを説明するヴァールヴルクの理論を、カーソンは次のようにのべています。
放射能や化学的発癌物質を少量ずつくりかえし摂取すると、正常な細胞の呼吸作用が破壊され、エネルギーが奪われる、という。そして、一度こうした状態になると、もうもとへはもどらない。じかに毒死せず何とか生き残った細胞は、エネルギーをとりかえそうと動きはじめるが、莫大なATPを生み出す。あのすばらしい循環作用は行えず、発酵という原始的な不十分な方法にたよるほかない。こうして、発酵によって何とか生きのびようする時が続く。その間も細胞分裂が行われるから、新しく生れる細胞はみな変則的な呼吸をする。一度変則的な呼吸をしはじめた細胞は、一年たっても、十年たっても、もっと長い時がたっても、もう二度と正常な呼吸はしない。だが、さんざんな目にあいながらも、失われたエネルギーをとりかえそうと、生き残った細胞は発酵をますますさかんに行っては、補整しはじめる。ダーウインの言う闘争と同じで、適応力があるものが生き残っていく。そして最後に発酵だけの力で呼吸と同じエネルギーを生み出すようになる。正常な細胞が癌細胞に変わったといわれるのは、このときだ。32
なるほどそういうことかと思います。この理論によると、いろいろなことが説明がつくという。カーソンはいくつかをあげていますが、ここでは、ヴァールヴルクが定めたこの理論の基準にあてはめると、おそるべきことに、たいていの殺虫剤が発癌物質そのものになる、とカーソンがのべていることだけをあげておきます。
さて第15章「自然は逆襲する」は昆虫論です。これまでの章でカーソンは、人間が害虫とみなしてきた昆虫などを化学力によって絶滅させ、人間の都合のよい方向に自然を征服しようとしてきたけっか、人間をふくむ生物の世界にとりかしのつかない犠牲を払わざるをえない事実をつぎつぎと例証してきました。「自然は逆襲する」というのは、自然は人間が考えるほど単純ではなく、はじめから征服や改造などできないこと、そればかりか、昆虫の世界では、人間の化学薬品による攻撃を出し抜く知恵と方法をもっていて、逆におもわぬ二次災害をつくりだしてきたのです。そのひとつはある昆虫を絶滅させると、それに食べられる被食昆虫が爆発的に増大すること、つまり、生物の世界の捕食関係がくずれ、なんの解決にもならないこと、いわゆる昆虫の世界における天敵の存在のアンバランスをまねくことを具体的にのべています。
たとえば、世界中に被害をあたえている葉ダニがふえたのは、DDTがその天敵を殺したためであるように、殺虫剤の撒布によって、昆虫の個体数の均衡がやぶれ、さらにたちの悪い害虫が発生したというのです。イリノイ州のコガネムシ防除によるアワノメイガの幼虫の大発生などがあり、その被害総額はマメコガネムシの被害総額の約8倍にも達したという。これでは何のためのマメコガネムシ防除かわからなくなったのです。
ここでカーソンはなぜこんなことになってしまったのか、その原因の一端は研究者にあるとして、その研究姿勢をきびしく批判しています。カーソンがいうには、もっとも大切な生物学者の研究は、「生物的防除の研究」なのです。自然相互のコントロールをうまくあやつれるだけの優秀な頭脳をもった生物学者たちはいるにはいるものの、かれらは多くは、化学薬品の「すばらしさ」と化学工業の大会社の研究資金に目がくらんでいるというのです。
しかし、カーソンはあきらめてはいません。生物学者のなかにも、数はすくなくとも目の澄んだ人はいるものだといって、つぎの科学者の言葉をあげています。「応用昆虫学者と呼ばれる人々の活動ぶりを見ていると、みんな、殺虫剤スプレー・ホースの先にこそ救いがあると信じ・・・再発生の抵抗、哺乳類の中毒など面倒なことになったら、化学者が新しい丸薬を発明して助けてくれるだろうなどと思っているようだ。こうした考えは、ここでは通じない。・・・害虫防除の根本的な問題に最後の答えをあたえるものは、ただ生物学者なのだ」(イギリスの科学者F・H・ジェイコブ)33、「応用昆虫学者は、みな知るべきである。自分たちは生物を相手にしているのだと。かれらの仕事は、単なる殺虫剤のテストとか、毒性の強い破壊的な化学薬品を終わってはならない」(カナダの科学者A・D・ピケット)。34
ピケットらは自然そのもののなかにこそ、みかたがおり、自然そのもののコントロールを利用し、できるだけ、殺虫剤を使うことをやめる方法を考えだしたという。こうしてカーソンは、大切なことは自然の均衡をきずつけないことだと結論してこの章を締めくくっています。
第16章「迫りくる雪崩」は、昆虫の耐性・抵抗性が論じられます。はやい話、こういうことです。ダーウインの自然淘汰説が教えているように、化学薬品の撒布によって弱者の昆虫は滅んでいくが、これでもかこれでもかと殺虫剤を使えば、それに抵抗する強力な昆虫が発生し生き残る、本格的な「昆虫抵抗時代」を向かえており、すでに、抜きさしならぬ泥沼に落ち込んでいるというのです。ここでまた、カーソンの言葉をきいてみましょう。
昆虫が人間にさからうことなどできるものか-人間がたかをくくってぐずぐずしているうちに、昆虫のほうはおどろくべき速度で、抵抗をくりひろげていった。DDT以前の殺虫剤に耐性を示した昆虫は、約12種ばかりいるが(1945年まで)、有機系の新薬が発見され、容赦なくまきちらされるにつれて、目もくらむような速さで昆虫は抵抗しだし、1960年代には、137種類というおそるべきたくさんの害虫が、化学薬品に挑戦してきた。どこまでふえつづけるのか、だれにも見通せない。すでに1000を越える科学論文が発表された。WHO(世界保健機関)は、世界各国の科学者300人あまりに協力を求め、《抵抗は、病毒媒介昆虫防除計画が今日直面する最大の問題である》という声明を出した。動物個体群を専門に研究しているイギリスのすぐれた学者チャールス・エルトン博士の言葉-《迫り来る雪崩のとどろきがきこえる・・・》。35
抵抗する昆虫の増大によって、公衆衛生分野の病気(マラリア、発疹チフス、ペストなど)の発生も考えられるといいます。カーソンは、このような抵抗・逆襲する昆虫の増大という「悪循環」が世界各地で起こったことをのべています。このなかで、カーソンは韓国や日本のことにもふれています。それによりますと、1950年から51年にかけての冬、韓国では、兵隊にDDTの粉末をかけたら逆にシラミがふえ、東京の浮浪者、板橋の貧民収容所でも同じことがおこったとのべています。
そして最後にカーソンは、オランダの植物保護局局長ブリ-イ博士の忠告的言葉をとりあげています。ブリーイ博士によると、防除方法は化学的防除ではなく生物的防除こそが選択すべき方法であり、殺虫剤の武器に訴えるのは、自然の神秘性と奥深さを知らないためなのであり、そして科学者のうぬぼれの入れる余地はないのだ、とのべています。
最後の第17章「べつの道」です。どうにかこうにか、ようやく最終章までやってきました。べつの道とは現代的なことばに言い換えれば、御用学問にかわるもうひとつの科学、いわゆるオルタナティヴな科学(Alternative Science )36といってよいでしょう。ここまで、わたしの拙い文章につきあっていただいた読者には、カーソンのいう「べつの道」はもう明らかだと思います。合成化学殺虫剤・除草剤の化学的防除ではなく、生物の世界でいとなまれていることそれじたいの生態からまなぶ生物的防除であります。そのためには、生物学の世界の専門家(昆虫学者、病理学者、遺伝学者、生理学者、生化学者、生態学者)が知恵を出し合い、それぞれが「べつの道」をさぐる、あらたな研究を集約することだというのです。
このような生物じたいの生態、具体的には昆虫の生命力を逆手にとって利用する研究として、カーソンが紹介しているのは、「雄を不妊化させる研究」、「昆虫の生成過程そのものから武器をつくりだす研究」、「微生物を殺虫剤にする研究」、「森林衛生学を利用した研究」などにかかわる科学者たちの研究です。これらの研究が現実に昆虫の世界で「効き目」が出るためには、化学薬品の殺虫剤の即効性にくらべれば、膨大な時間を要しますけれども、じっくりまつしかないのです。
そして、本書『沈黙の春』をカーソンはつぎのようにのべて締めくくっています。いまや、われわれにはおなじみになっているカーソンの自然哲学がしつこく展開されています。つまり、地球は人間だけのものでない。さまざまな生命力を無視してはならず、その根源的なものに思いをはせる。自然を征服などと思いあがってはならない。「《自然の征服》-これは人間が得意になって考え出した勝手な文句にすぎない。生物学、哲学のいわゆるネアンデルタール時代にできた言葉だ。自然は、人間の生活に役立つために存在する、などと思い上がっていたのだ。応用昆虫学者のものの考え方ややり方を見ると、まるで科学の石器時代を思わせる。およそ学問とも呼べないような単純な科学の手中に最新の武器があるとは、何とおそろしい災難であろうか。おそろしい武器を考え出してはその鉾先を昆虫に向けていたが、それは、ほかならぬ私たち人間の住む地球そのものに向けられているのだ」。37
Ⅲ『沈黙の春』の周辺
ここまで『沈黙の春』の内容をカーソンの文章に導かれながら、くわしく読んできました。こんどはこの本が世界的なベストセラーとして、世界中の環境運動家だけでなく一般の人々に受け入れられていったのはどうしてか。このようなことを考えて行こうと思います。
レイチェル・カーソン(1907~1964)が環境問題の古典といわれる『沈黙の春』(原題『Silent Spring』)を単行本としてホートンミフラン社という出版社から刊行したのは、1962年、カーソン55歳のときです。カーソンがこの本を書きはじめたのは、その4年ほどまえの1958年、カーソン51歳のときで、それを書き上げるのは、1961年12月、55歳のときです。ですから、書きはじめてから単行本として出版されるまでに4年半の歳月がかかっています。この間、カーソンは細菌性感染症におかされ胸部手術を受けるなどしておりますが、この年(60年、53歳)の終わりころには、自分が不治の病「癌」であることを気づいておりました。そして、『沈黙の春』出版の2年後の1964年4月14日、56歳でこの世を去ることになります。というわけで、『沈黙の春』はカーソンの生前中、最後の作品となるわけですが、病身をおしてのすべての力を振り絞っての執筆活動は執念に満ちたものでした。
『沈黙の春』の原稿を書き上げた翌年(1962年)の6月12日には、早くも週刊誌『ニューヨーカー』に連載がはじまるやいなや、10月にはベストセラーの第1位になるなど、全国的な反響を呼びました。アメリカの大新聞『ニューヨーク・タイムス』は沈黙の反語をもじって、「サイレント・スプリングは、いまや騒々しい夏(noisy summer)になった」(1962年7月22日)とカーソンの顔写真入りで、大きく報じています。とうぜん、はげしい反論・中傷・攻撃が主要に化学産業界からおこりました。それらは、ヒステリックな女性の作品であるとか、『沈黙の春』の記述には事実誤認の内容な含まれている、などの理由で、告訴騒ぎまで起こりました。
しかし、こうなるであろうことは、カーソンが『沈黙の春』を書く当初から、すで予想していたことでした。そうであるために、膨大な量の科学的な論文を蒐集し、用意周到な準備を重ねています。事実、日本語版では省略されていますが、原本には全部で586にもおよぶ注をつけており、内外の専門の論文を狩猟するとともに、そのつど、その道の専門家・科学者にたいして、科学的・事実的根拠の意見を求め確認するなど、カーソンはこれから書き下ろす内容と文章の社会的影響を十分に意識していたのです。カーソンは『沈黙の春』の序文でこう述べています。
仕事にとりかかってから、私を助け、はげましてくれた人は、数かぎりなく、その名をすべてここにかきつらねるわけにはいかない。何年にもわたって、観察、研究した資料を気持ちよく提出して下さった人たち-それは合衆国はじめ外国の政府機関、試験所、大学、研究所につとめている人たち、また、そのほかいろんな仕事をしている人々に及ぶ。貴重な時間を私のためにさき、いろいろと考えをきかせて下さった方すべてに、心から感謝したい。38
これはよくある単なる社交辞令ではありません。カーソンといえども、これからくわしく紹介する『沈黙の春』にもられた内容をひとりの力ではとうていできないことなのです。そこでカーソンは、世界中の植物学、動物学の科学者に手紙を書き、意見を求めています。そして、最後に、こう述べています。
そのほか、たくさんの人々のおかげをどれほどこうむったかを記して、このまえかきを終わりたい。こういう人たちがいることにどれほど勇気づけられたことか。 この世界を毒で意味なくよごすことに先だってきって反対した人たちなのだ。人間だけの世界だけではない。動物も植物もいっしょにすんでいるのだ。その声は大きくなくても、戦いはいたるところで行われ、やがていつかは勝利がかれらのうえにかがやくだろう。そして、私たち人間が、この地上の世界と和解するとき、狂気から覚めた健康な精神を光り出すであろう。39
この文章は、こんにちでいう、世界中で起こっている無数の小さな市民運動をおこなっている人々への連帯声明ともとれるものです。これがいつかは大きな力となり、やがては、政治行政つまり社会システムを変えるだけでなく、地球上のすべての生物の共存をはかるような文明じたいの転換につながるだろうというのです。 カーソンの長年の友人で『沈黙の春』出版に多くの労をとり、長大なカーソン伝『レイチェル・カーソン』40を書いたポール・ブルックスによると、カーソンの文章は、その言葉の使い方においては完全主義者であり、安直にもの書くタイプでなかったし、学問的レヴェルにおいても、最高の専門的水準をくずさずに一般大衆のために筆を進めます。そして、カーソンが、科学技術にかんする文章を書く場合、その言葉の意味を理解できるけれども、その言葉を使うことはないという人たちを対象にしていたといいます。
さらに、カーソンはこうものべていると、ブルックスはいっています。「率直にもうしまして、私は、著者の抜粋を印刷する場合、どちらかといえば、著者の言葉を変えることをはっきりと嫌っております。私の考えは古いかも知れませんが、引用文というものは、あくまでそのままの形で引用されるべきであります」41。だそくながら、じつは私は本論文を書くにあたり、はじめは、カーソンが『沈黙の春』でのべていることを全面的に要約・凝縮して書きつけて行こうとしたのですが、カーソンの引用の仕方についてのブルックスの指摘によって、ご覧のように、カーソンの原文を多用することになったのです。
Ⅳ『沈黙の春』の序文
カーソン生前、最後の本となった『沈黙の春』の序文についていくつかの指摘をしておきたいと思います。日本語版では、序文も引用文献もまったく省略されていますので、本書がアメリカの研究政策上、どのような影響をもったのかということにかんしては、その他のカーソン研究書をひもとかねばならいことになります。そこでレイチェル・カーソン関係の資料を蒐集し、カーソンの意志を語り継ぎ、環境問題や環境教育を進める目的で設立された「レイチェル・カーソン日本協会」42(本部、大阪市)から、カーソン関係の資料をありったけ取り寄せました。
その資料の中のひとつに『沈黙の春』に、現在のアメリカ副大統領アル・ゴアが書いた序文を見いだしました。周知なことですが、アル・ゴアは少年時代、カーソンの『沈黙の春』を読み、生涯の指針をきめるほどまで影響を受け、クリントン政権のなかで、切っての環境派の論客となりました。そし後、アル・ゴア自身、1992年、『地球の掟』という環境問題にかんする著書を刊行し、ベストセラーになっています43。ゴアの環境問題にかんする見識と行動は、アメリカの政治家のなかでは、群を抜いているといわれていります。ゴアは76年に28歳で下院議員になり、84年に上院議員、93年1月20日には、第45代副大統領に指名されました。ゴアが生命や環境に関心を向けるようになったのは、89年、当時6歳であった息子アルバートが自動車事故に遭遇したのがきっかけでした。
さて、そのゴアが『沈黙の春』の1994年版に長文の序文を書いているのです。クリントン政権中枢の現職の副大統領が下記にみるように長文の序文を書き、カーソンの『沈黙の春』はアメリカ合衆国の環境政策の基本思想であるとのべています。さらに、さきにのべたように、この94年版『沈黙の春』の序文は、日本語版にはないので、これをなんとか日本語で読めるようにと考えた、大阪経済大学の稲葉紀久雄氏が直接、ゴアの著作権をもつ人物に掛け合い、ようやく日の目をみたのが、アル・ゴア著『レイチェル・カーソン『沈黙の春』への序文』44です。 これにさきだって、ゴアは「序文への序文」ともいえる「日本の学生諸君へ」という文章を特別寄稿しております。私はこれを一読してみて、うわさに違わず、クリントン政権の政治性を除外すれば、ゴア自身の環境問題への関心と『沈黙の春』の読み方の深さをあらためて知ることになりました。そこで、この序文に多少、触れてみようと考えたのです。というのも、そのことが、カーソンの『沈黙の春』の存在の大きさを裏付けることになるからです。
ゴアの序文はじつに格調の高いものですが、あまりにも、長文なので、焦点を絞ってその要約をのべておきましょう。私は大きく5つことにまとめてみました。
まず第1は、カーソンの思想が政治の力に比べていかに大きいか、また、その主張はアメリカの歴史の流れを変えたといいます。現に、当時のケネディ大統領は、カーソンの『沈黙の春』を支持する世論におされるかたちで記者会見を行い、特別委員会を設置することを表明し、カーソンが本書でのべている事柄の検討を命じました。その特別委員会の報告書は、殺虫剤の潜在性的有害性を確認するとともに現代の環境運動の原点だとも絶賛しています。
第2は、ゴア自身も少年時代、おそらく13・14歳くらいであったろう、個人的に大きな影響を受けていることです、そのころを振りかえり、「カーソンという人物の存在は、私が環境に目覚め、環境問題と取り組むことになった理由のひとつなのです」45、とのべています。
第3は、1970年、カーソンが提起した懸念や意識を継承し調査する「環境保護庁」が設立されたのですが、それ以後、現在でも法律上、規制上、政治上の適切な対応が行われていない、と率直に認めていることです。 第4は、当時のアメリカの現状を具体的にのべている点です。
「DDTとPCBは、アメリカ合衆国では別の理由で禁止されているが、女性ホルモン・エストロゲンに似た殺虫剤は、大量に出回っており、激烈な新しい懸念を引き起こしている。化学的にはこの殺虫剤とエストロゲンは、いとこ関係にある。・・・このような殺虫剤は受精能力の減退、睾丸ガンや乳癌、生殖器の奇形を誘発する。アメリカ合衆国だけで、エストロゲン様殺虫剤使用の波は、過去20年間に最高水準に達し、それに伴い睾丸ガンの発生率はおよそ50パーセント上昇している。今なお因果関係が明らかでないので、はっきりと言えないが、最近世界中で精子の数が50パーセントにまで減少していることとも無縁ではない」46。
すこし、横道にそれます。ここでゴアが指摘している精子数の減少とエストロゲン様物資は、1996年に、これまたアメリカで出版され、世界的な反響をもたらした『奪われし未来』47で問題になっているものであることは自明なことです。いわゆる「外因性内分泌攪乱物質」問題にほかなりません。この問題には言及する余裕はありませんが、第2の『沈黙の春』といわれる『奪われし未来』でも、ゴアは序文48を書いています。この本でのべていることは、カーソンが40年も前に指摘したことがらが、現実のこととして、露呈したことにほかならないのです。つまり、精子数の減少、不妊症、生殖器異常、乳ガン、野生生物の発達と生殖異常などなど。
第5は、ゴアは、カーソンの指摘は『沈黙の春』でのべられている以上の範囲まで影響していると問題をたて、人類と自然環境の相互関係の基本的思想を失った現代文明のありかた自体を問い直すことの原点は、カーソンの『沈黙の春』だと公言してはばからないのです。
Ⅴ カーソンの科学と文学
こうしてカーソン生前、最後の著作『沈黙の春』は戦後、世界中の環境団体の運動やアメリカ国内外の政治の世界における具体的な環境政策に大きな影響を与えました。それは20世紀末になる現在でも、その影響力は絶大であると私は思います。環境問題の古典とされるゆえんはここにあります。しかし、よくよく考えてみると、二つの疑問が生じてきました。第1は、多発するダイオキシン汚染問題、外因性内分泌攪乱物質の顕在化、次から次からと自己矛盾を露呈している原子力問題、酸性雨などなど、20世紀末になっても、ますますその負の遺産をかかえることになっているわけですが、21世紀をになう若い人々が、これらの負の遺産問題を根本的解決する方向に、なんらかの関心を傾けているだろうか、ということです。第2は、上記のような問題を一部の科学者や文学者が彼らの専門領域内で、いくら専門的論文を書いても、一般の人々にはいっこうに読まれない、という事実です。そこで、どうすればよいかが、問題になってきます。
第1のことにかんする私の印象は、一言「ノン」といわざるをえません。おそらく、私が日常接している若い世代は、『沈黙の春』どころか、カーソンの名前すら知らないのが現実なのです。これはずっとまえに、私は私自身の懺悔と悔恨のために本稿を書く、とのべましたが、何らかのかたちで、カーソンの名著を特に若い世代の人々にも、そして大人にも、くわしく紹介する必要を感じたのです。
第2の問題は、専門的な科学者や文学者の苦難の営みが、一般の人々にどうしても通じていかないということです。これは科学者や文学者の科学研究、文学研究の表現それ自体が問題ではないのか、ということがあると私は考えております。専門的研究者の表現の仕方の問題は、その専門家の仲間だけに通用するようなことで、それで終わりとするようなことであれば、それは論外です。そうではなくて、専門的研究を一般の人々に理解できるような言葉を使い、ダイオキシンにしろ、原子力にしろ、外因性内分泌攪乱物質にしろ、酸性雨にしろ、どんな問題でもよいのですが、これらのことの本質がどこにあるのかを明示して行くような文章表現をしていかねばならない、と思うのです49。
これらのことをふまえ、カーソンの文章を丹念に追跡してみると、カーソンの問題意識はそこにあったのだと、あらためて気がつきます。いわばカーソンの文章は、科学とも文学ともつかぬ、それを融合した「総合した文章」といえるでしょう。だからこそ、難解な自然科学的内容を含んだ本書が、世界中で読みつがれている本当の理由であると思います。これまで『沈黙の春』の内容とその周辺を探索してきたので、いまや、カーソンの科学とも文学ともつかぬ、『沈黙の春』いがいの科学と文学を総合した書物をも参考にし、考えにいれながら「総合的」に考察するだんどりです。
カーソンはその生涯で5冊の本を書いています。このことはほとんど知られていません。私は『沈黙の春』にかんする本稿を書くにあたり、カーソンのすべの著作を丹念に読み直しました。さらに、できたての新宿の紀ノ国屋の洋書売り場に行って、カーソン関係の原書をたくさん買い込んできました。それを読み込んでいく途中で、私がこれまで追跡してきたカーソンの『沈黙の春』の文章と文体のそもそもの「発生源」をつかめたように思います。その発生源をのべるのには、どうしても、カーソンの生涯と、そのときどきの時点で書かれたその他の著書(4冊)に、ふれないわけには行きません。それらにふれたあと、ふたたび『沈黙の春』の科学と文学の問題を考察することにします。
カーソンの著作には年代順に次の5冊があります。
"Under the Sea",1941(『潮風の下で』、上遠恵子訳、宝島社、1993年)
"The Sea Around Us",1951 (『われらをめぐる海』、日下実男訳、ハヤカワ文庫、1997年)
"The Edge of Sea",1955(『海辺』、上遠恵子訳、平河出版社、1987年)
"Silent Spring ",1962 (『沈黙の春』、青樹梁一訳、新潮文庫、1974年)
"The Sense of Wonder",1965(『センス・オブ・ワンダー』、上遠恵子訳、佑学社、1991年)
20世紀後半、環境問題が国際政治上の話題になるにつれ、あらためてカーソン研究が盛んになりました。そうした背景から、アメリカのボストンにあるベーコン社から、カーソンが友人のドロシイー・フリーマンと交わした書簡集("Always ,Rachel:The Letters of Rachel Carson and Dorothy Freeman,1952-1964"Edited by Marth Freeman , Bacon Press , Boston ,1995)が刊行されました。これも翻訳がまたれます。
さて、ここでカーソンの略歴をのべながら、上記の著作にふれていこうと思います。カーソンは1907年5月27日、ペンシルバニア州ピッツバーグ近くのスプリングデールで生まれ、ここで、小学校・中学校・高校生活を送ります。この当時からカーソンは、大変な読書家で、わずか10歳のときに、子供向け雑誌として有名なセント・ニコラス・マガジンに「雲の中の戦い」50という文章を投稿し、銀メダルをもらい、これに気をよくしたカーソンは随筆や物語の投稿魔となっていきます。詩や小説を好む少女は当然のように、1924年ピッツバーグのペンシルバニア女子大学(現チャタムカレッッジ)の英文科に入学するのですが、そこの教養課程の生物学に興味をもちはじめ、教養課程を終えると生物学とりわけ動物学に専攻を変えます51。その後、メリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学の大学院に入学し、海洋生物学を専攻し、修士の学位を受けます。修士論文は「ナマズ(Inctalurus punctalus)の胚子および仔魚期における前腎の発達」。
1935年、修士の学位をえた後、父の死やなにやらの経済的事情と、海洋生物学の知識と文筆にすぐれているという理由で、連邦漁業局の広報ラジオ放送番組の台本を執筆することになり、36年には、水生生物学者として正式に採用されます。いわば公務員の研究者になったのです。この間、カーソンが執筆する文章は、科学と文学が融合したエッセーで多くの読者を魅了して行きます。昼は野外調査、夜は執筆の生活に追われますが、それをまとめ、41年11月、『潮風の下で』が刊行されました。カーソンの第1作です。が、時は日本軍の真珠湾攻撃という戦時下にあり、あまり、読まれることはありませんでした(6年間に1600部)52。しかし、52年にこの本が再版されるとすぐにベストセラーになりました。カーソンは公務員を辞し作家へ転身することになります。
『潮風の下で』は、海洋生物学者と作家の両面の味わいをもつ文章で書かれ、カーソンの科学と文学が融合した文体がいかんなく発揮されています。おびただしい数の生物(魚、カニ、鳥、海鳥)の生態が、科学性と詩情性の両面をそなえた文体で描かれています。ちょっと目次をひろってみましょう。
第1部「海辺」(上げ潮、春の飛躍、北極の出会い、夏は終った、海へ吹く風)、第2部「沖への道」(春の回遊、サバの誕生、プランクトンの狩人、港、海路、小春日和の海、網あげ)、第3部「生命の海路」(海への旅、海の越冬地、回帰)となっています。
第2部の「プランクトンの狩人」(第8章にあたる)の書き出しはこうです。 「春になって海は、先を急ぐ魚であふれかえるようだった。バージニア岬の沖で越冬していたタイの仲間のスカップはニューイングランド南部の沿岸の海域へ産卵のために北上していった。小さなニシンの群は海面すぐ下をすいすいいと、そよ風がふきわたっているかのようなさざ波を立てて泳ぎ、メンハーデンの群は太陽の光を受けて青銅色や銀色に輝き、隊をくんで押しあいながら泳いでいた。大海原の群青色のなめらかな水面をくもらせる黒雲のような海鳥たちが獲物をねらって姿を現した。メンハーデンは遅くやってきたニシンの仲間で、生まれ故郷の川へと導く海の小路をたどっていく。そしてこれらの魚たちの銀色の縦糸と交叉して、サバの群は青と緑の横糸となって、生命の織物を織り上げていくのだ」53。
訳文とは思えない、見事な文章です。カーソンの著作の名訳者・上遠恵子氏は、訳者あとがきで、カーソンの言葉を引用・紹介していますので、読んでみましょう。「この物語は、海の生き物が、私に対してそうであったように、読者に対しても生気あふれる実在としてせまるように書きました。海の生物がどんなものなのかをつかむためには、活溌に想像力を働かせ、しかもしばしば人間的なものの見方や基準を捨て去る必要があります。もしもあなたが海鳥か魚であるとすれば、時計やカレンダーで計った時間などは、なんの意味ももたないのですから・・・」54。
第2作『われらをめぐる海』は、51年に刊行されますが、これが大ベストセラーになります。どれくらいのベストセラーかというと、おどろくことなかれ、発売後4ヶ月で10万部売れ、「ニューヨーク・タイム」にリストに、86週間、ほぼ2年間、連続掲載され、さらに、28の言語に翻訳されというから、そのすごさは想像できると思います。おそらく現在では、数千万部売れていることでしょう55。この間、カーソンは連邦漁業局の野生生物関係の図書出版の編集長に就任しています。カーソンの文章はお役人の研究者の書く文章とはまったく異質のものでありました。だからこそ、多くの読者を確保したのです。 これはカーソン54歳のときの作品です。私と同じ年です。ちょっと目次をひろってみます。第1部「母なる海」(海の起源、表面の姿、移りゆく年、太陽のない海、隠れた国々、永い雪降り、島の誕生、古代の海の姿)、第2部「休みなき海」(風と水、風、太陽、自転する地球、動く潮汐)、第3部「人のまわりの海」(地球の温度調整、塩海の幸、めぐる海)となっています。
どのページをめくってもよいでしょう。さきの『潮風の下で』と同じような科学性と文学性とが色濃く意識されたカーソンどくとくの文体です。上記のハヤカワ文庫版・日下実男訳から、すこしひろってみましょう。第2章「表面のすがた」の書き出し部分です。「あらゆる海のなかで、その表面の水のなかほど、とほうもなく生命の豊かなところは、どこにもない。船の甲板から見ろしていると、ちらちら光るクラゲの円盤が、見渡すかぎりの海面を点々とおおい、その釣鐘のようなからだを脈打たせているのを、何時間も何時間も見ることがある。またある朝早く、船が赤レンガ色に染まった海のなかを通っているのに、気づくこともあるだろう。その海には、何十億、何千億という顕微鏡的な微生物がいて、それらはみんなオレンジ色の色素粒をもっているのだ」56。
第3作『海辺』は、55年に刊行され、これまたベストセラーになります。さて、目次を見ると、序章「海辺の世界」、第1章「海辺の生きものたち」第2章「岩礁海岸」、第3章「浜辺」、第4章「サンゴ礁海岸」、終章「永遠なる海」、最後の付録として「海辺の生物の分類」からなっています。
『われらをめぐる海』で作家として独立し自活できるようになったカーソンは、少女時代からあこがれていた海辺のある、メイン州ブ-スベイズに別荘を購入します。この作品はその別荘で書かれたものです。また、この『海辺』には、親友の画家ボブ・ハインズによって、カーソンの文章にそう膨大なみごとなさし絵が随所におめられています。画家のボブはこのさし絵を想像で描いたのではなりません。ボブはカーソンの公務員時代の同僚で実際にカーソンと一緒に海洋生物の調査に出かけています。したがって、カーソンもいっていますが、文章とさし絵が相互作用し、みごとな作品となりました57。
この『海辺』には、カーソンがこの作品を書く動機にかかわる、おもしろい重要なエピソードがあるので紹介しておきましょう。カーソンの伝記を書いた友人のポール・ブルックスによると、ホウトン・ミフリン社の編集者ロザリン・ウイルソンが自宅近くの浜辺に生物学的素養が乏しい有名な文学者たちを招きます。その有名な文学者たちが、前夜の嵐で浜辺に打ち上げられたカブトカニを見て、このカニを慈悲深く海に戻してやったのです。実はこの慈悲深い行為は、カブトガニの「正常な配偶行動」を妨害したのです。これを見た編集者ロザリンがこのような愚をくりかえさないために、素人向けの海辺の生物にかんする入門書を編集主幹に進言し、それがカーソンにまわってきたというのです58。少し、横道にそれてしまいました。もとにもどりましょう。
この『海辺』は、それいぜんの著作よりも、いっそうの科学性と詩情性が満ちあふれた作品となっています。そのいったんを、序章「海辺の世界」の書き出しのみごとな筆さばきから、味わってみましょう。
「海辺は不思議に満ちた美しいところである。地球の長い歴史を通じて、海辺は、絶えず変化している不安定な地域であった。波は陸地にはげしくあたって砕け、潮は大地の上まで押し寄せては引いていく。海岸線の形は、一日として同じであることはなかった。潮がその永遠のリズムを刻みながら満ちそして引いていくだけでなく、海面そのものが決して一定したものではない。氷河の成長と退行、ふえつづける堆積物の重さによる深い大洋の底の変化、また大陸沿岸の地殻の変動に応じて海面は上下するのだ。きょうは海がひとひたと陸地に押し寄せてくるかと思えば、明日はその逆になる。海と陸の接点はつねにとらえがたく、はっきりとした境界線を引くことはできない」59。
もう一カ所読んでみましょう。
第2章「岩礁海岸」の書き出し部分です。「岩礁海岸では潮が満ちてくると、海面はせり上がり、陸地からヤマモモやビャクシンが枝を伸ばしているところまでいっぱいに這い上がってくる。一見したところ、海辺の水の中や海底に、あるいは水面に、生物は何もいないように思える。あちこちにセグロカモメの小さな群れがたたずんでいるだけなのだ。かれらは、満潮のときには、張り出した岩の上でじっと動かず、波と水しぶきの上で羽を休め、黄色いくちばしを羽の下にしまいこんで、潮が満ちてくるまで、何時間もまどろんでいる。そして、潮が引くたびに姿を現わす岩にすみついているさまざまな生きものが、潮が満ちて視界から去ってしまっても、カモメには次に何が起こるかわかっていて、水はまた、時間通りに引き細長い潮間帯への入り口をこしらえてくれること知っている」60。
第4作目は、『沈黙の春』であることはいうまでもありません。これはまえにくわしく読んできました。
第5作目の『The Sense of Wonder』は1965年、ハーバー・アンド・ロー社から刊行されました。カーソン死後、1年後のことです。日本語版は上遠恵子訳で文字通り『センス・オブ・ワンダー』として、1991年に刊行されました。日本語版は小さな本になっていますが、原本は編集者たちによって、カーソンが愛してやまなかった海辺の動植物、森林、草花とそれらに生息する虫たちの写真が、ふんだんに使われた自然賛歌の詩といってよいでしょう。
この自然賛歌をうたう『センス・オブ・ワンダー』でカーソンがいいたいことは、神秘的な不思議な自然の世界を理解するうえで大切なことは、論理的思考ではなくからだ全体の触覚を働かせた感覚であるといっているのです。からだ全体の感覚を総動員し感覚的に自然を理解することの大切さを教えるために、カーソンは、みずからが幼いとき母親からそうしてもらったように、養子に向かえた姪の遺児のロジャーをメイン州の海辺の別荘につれてゆき、海辺や森を探索したり、夜空に輝く星に照らされた海辺と森とそこに生息する生きものを観察させました。そのことの体験をもとにして書いたものです。
この本がカーソンの死語に刊行されたことをふまえて読むと、海洋生物学者であり作家であるカーソンの著作活動や生き方の本質が、どこにあったのかを象徴しているかのような詩情ふれる世界を表現していることがわかります。これまた、名訳者・上遠恵子氏の文章でカーソンの遺言となった詩をきいてみましょう。
「ある秋の嵐の夜、わたしは1歳8ヶ月ばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。海辺には、大きなな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、真っ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。幼いロジャーにとっては、それが大洋の神の感情のほとばしりにふれる最初の機会でしたが、わたしはといえば、生涯の大半を愛する海とともにすごしてきていました。にもかかわらず、広陵とした海がうなり声をあげている荒々しい夜、わたしたちは、背中がぞくぞくするような興奮をともにあじわったのです」61。
もう一カ所だけきいてみましょう。
「まだ、ほんの幼いころから子供を荒々しい自然のなかにつれだし、楽しませるということは、おそらく、ありきたりな遊ばせかたではないでしょう。けれどもわたしは、ようやく4歳になったばかりのロジャーとともに、彼が小さな赤ちゃんのときからはじめた冒険-自然への探求-にあいかわらずでかけています。そしてこの冒険はロジャーによい影響をあたえたでしょう。 わたしたちは、嵐の日も、夜も昼も探検にでかけていきます。それは、なにかを教えるためでにではなく、いっしょに楽しむためです」62。もういいでしょう。
カーソンのこの言葉、とくに後半の「なにかを教えるためにではなく、いっしょに楽しむためにです」という言葉をきくと、これまでカーソンのすべての作品を読んできたものには、カーソンのこころのなかにある自然にたいする想いがいたいほどよくわかるでしょう。
Ⅵ『沈黙の春』と『複合汚染』
さて、これまでカーソンの『沈黙の春』を中心的な軸に、そのたの作品にも目を通しながら「カーソンの科学と文学」を考えてきました。ここでは、まえに予告しておきました日本の作家・有吉佐和子の『複合汚染』43にふれながら、『沈黙の春』と日本とのかかわりを考察し行こうと思います。
有吉の『複合汚染』はカーソンの『沈黙の春』から決定的な影響を受けています65。そして、この作品によって日本人と日本の社会は、目からが落ちるような気分をあじわったことはまちがいありません。有吉はカーソンとことなり、自然科学者ではありませんし、ましてや自然科学の社会の問題を中心的なテーマとしている作家でもありません。有吉は1956年、25歳のときに雑誌「新思潮」に発表した『地唄』によって文壇デビューしました。それいらい、『連無・乱舞』、『華岡青州の妻』、『不信のとき』などの作品がありますが、いわば若い頃から親しんできた演劇界を中心に追いかけ、人間のたどる奇なる運命を描いてきた作家といっていいでしょう。その有吉は、1984年8月30日、急性心不全で東京杉並の自宅で死去します。53歳でした。まさに夭折です。文学には門外漢であった私ですが、あの気性の激しい有吉の語りくちを忘れることができません。
そして、急性心不全で死去したことをきいたとき、私はすぐに「自殺だ」と思いました。あの有吉はそう簡単に死ぬような人物ではないと思っていたからです。文壇とマスコミは自殺と認めていませんが、私はいまでもその可能性が高いと思っています。いまその論拠をのべる場面でありませんが、それは私の「直感」だといっておくにとどめましょう。こんかい『複合汚染』を読み直してみて、その感をいっそうつよくしました
1974年10月から75年6月まで、8ヶ月間にわたり、新聞の連載小説として発表された『複合汚染』は、連載されるいなや、日本社会に大きな反響をよびました。そして、その反響の大きさのゆえに連載の終了をまたず、その前半が75年4月に刊行され、後半は連載終了するとすぐの75年7月1日に刊行されています。1972年に『恍惚の人』を新潮社から刊行した有吉は、しだいに社会にたいする鋭い批判と批評を行ってゆきますけれども、その頂点的作品が『複合汚染』であることはいうまでもありません66。この作品は1974年、参議院選挙に出馬した市川房枝と紀平悌子の応援という体験の日々と同時並行して書かれました。このときから作家有吉は書斎を飛び出し、日本全国の農業従事者の体験、科学者へのインタヴィーの取材をもとにして、日本の環境汚染問題とりわけ、食品添加物、化学肥料、合成洗剤の挙動とそれらの毒物性を告発する仕事をやったのです。この作品によって、日本の厚生省、農林省、通産省といった役人の環境行政のいいかげんさが徹底的に批判されています。その視点はかぎりなく農業、漁業にかかわるひとびとの立場によせて、日本で起こっている「人殺しための毒物」を垂れ流している政治行政とその手先である官庁の役人の「犯罪性」をきびしく告発したのです67。
さらに科学者への批判もわすれてはいませんでした。科学者はどうしてふつうの身近な問題を素人にわかりやすくのべることをしないだろうと、不満を爆発させています。こんなことをのべていますので読んでみましょう。
「学者の話は例外なく前説がながいので、毎度ながらうんざりさせられる。消費者運動や主婦グループに講演を頼まれて出かけると、話の途中で眠る女が多いのでがっかりすると公害学者が私にこぼしたことがあるが、居眠りするのは女の意識が低いのではなく、学者の話が面白くないからに違いない。私もこれまでに、専門家と話をしていて、どのくらいあくびを噛み殺したか分からない」63。
これは、ふつうのひとびとに直接関係している公害を研究する科学者といえども、科学者の研究一般がいかに現実性をもつ言葉を持たないかを物語っています。このときから、化学肥料と農薬を使用する近代農業を見直し、これまで変人扱いされてきた自然農業や有機農業にかかわるひとびとの存在を世に知らしめ、またかれらをどれほどはげましたことか、その大きさは計り知れないほどであったのです。個人的な話になりますが、有吉は私が生まれた山形県の高畠町で有機農業を営む農家にもたびたび訪れて取材しています。それいらい、その反響は大きく、わが故郷高畠町の生家の甥は、農業にかぎりない生き甲斐をかんじて日々の仕事にあたるようになりました64。
ところで、「カーソンのおける科学と文学」の観点から『複合汚染』を考察してみますと、カーソンは科学者であり文学者の立場から『沈黙の春』を書いたわけですが、有吉の立場は、徹底して科学者に無縁の素人・生活者の視点から、現代の日本で起こっている環境問題をひとつひとつ調べ考えて、作家のペンをこれらの生活者の生きる知恵とするために役立てようとするものです。 したがって、その文体はカーソンの文体とはことなり作家有吉の手法が一貫して用いられています。それは現場で農業にかかわるひとびとの体験にもとづいた会話をそのまま引用することで具体的にのべられており、臨場感あふれる作品となっています。それが多くの読者を獲得したことにほかなりません。こう考えると、というより同じ問題を扱うカーソンと有吉の文章を読んでみると、カーソンの文章は詩的世界の表出であり、有吉のそれは体験者の語りの世界の表出であるといえるでしょう。
有吉がみずからのべていることですが、この作品を書くためにほぼ10年間、資料をこつこつ集めて読み込んでいました。その著作物は300冊をくだらないといっています。これを考えると、有吉はカーソンの『沈黙の春』が1962年に刊行されるやいなや、人間の生き死にかかわる「毒物」による人殺し行政の問題に集中していることがわかると思います。こうしてカーソンの『沈降の春』がその日本版ともいえる『複合汚染』を産みおとし、日本の社会に環境問題の重大さを知らしめたのでした。
くわしくは『複合汚染』をこころから真剣に読んでほしいと思いますが、ここで有吉がなんども指摘していることをあげておきましょう。「知らないことは恐ろしいことだ」というきわめて重要な言葉です。ぜひとも、若いひとびとには、なにが大切なことなのか、有吉のいう、知らないこと知るために、なんどもなんども読んでほしいと思うばかりです。
まとめ
もうそろそろ、まとめをしなくてはなりません。ふりかえってみると、現代の科学技術社会の負の遺産の問題は、その負の遺産は人間自身がつくりだした科学なり文化なり学問なりが、人間と自然が対立するような考え方と思想を内在するようなものではなかったのか、換言すれば、人間が自然を自由自在に操作し征服できるという幻想があったのではないか、という問題意識から出発しました。この人間が自然を征服するという考え方は、科学史や哲学史などの近代学問思想の上では、デカルトやベーコン、さらにはニュートンなどのいわゆる機械論的・力学的世界像の反映であったともいえるようです。本稿ではこの問題を論じる場面ではありませんけれども、ひとこといっておきたいと思います。
「はじめに」でものべたように、現代社会のさまざまな負の遺産がどのような考え方で発生してきたのか、そしてそれらにどのように対処していけばよいのかということは、これからの私たちにかせられたことでもあるでしょう。その手かがりをもとめるために、私はカーソンの『沈黙の春』を丹念に読みこなすとともに、『沈黙の春』という一冊の著作が、人間の世界とその他のすべての生物の世界を内在している地球の一部として、人間がどのように生き考え行動すればよいのかを考えようとしてきたのでした。
さらに『沈黙の春』はカーソンがある日突然のひらめきで書いた作品ではないことはわかっていただけたと想います。これは、海洋生物学者のもの書きとして生涯を終えたカーソンの、自然にたいする考え方の全体像が具現化されたかたちでいきいきと表現されている、と考えたからこそ、すべての作品にふれてみたのです。いいかえると、カーソンの自然や人間にたいする考え方の全体像を考察することで、あらたに『沈黙の春』のもつ自然観や社会観があきらかになるのではないかということです。
このようなもくろみのうえにたって、あらためて『沈黙の春』の科学と文学のことをかんがえていきましょう。敬虔なプロテスタントのカーソンは、1964年4月14日、メリーランド州シルバー・スプリングで56歳の生涯を閉じました。癌でした。
死期を意識していたカーソンは、みずからの弔いの場で、『海辺』の一節が朗読されることを希望していたといいます。それだけこの『海辺』という作品は、5年近くの歳月をかけて、みずからありったけの精神をこめて書かれたものです。しかし、それは実現しませんでした。1週間後の日曜日、64年4月19日ワシントン大聖堂(ユニタリアン派教会)で行われた葬儀では、死の2.3ヶ月前、カーソンが友人のドロシイー・フリーマンに宛てた手紙が、これも友人のダンカン・ハウレット博士によって読まれました。その一部分を再現しておきましょう。ただし、この文章は、カーソンが葬儀で読まれるなどと、まったく予想もしていなかった私的な手紙であることを注意しておきたいと思います。
「私のまわりには、いま、海の声が聞こえている。夜の潮がみちてきている。私の書斎の窓の下では、海水が渦を巻きながら岩に向かって突き進んでくる。霧が外海から湾のなかに侵入してきた。それは水面を覆い、陸地の緑を覆い、やがて針葉樹の林のなかに忍び込み、ついにトドマツやヤマモモの間に柔らかく拡がって行く。卸しにくい水と、冷たく濡れた霧の息づかいは、人間の容易に入りこめない世界である。霧笛のひびきは、海の力に脅威を感じる人間の不平を訴える呻き声に似て、夜の静けさを破る」65。
これは手紙全体のほんのさわりの部分で、読み上げられたものは、この6倍もの分量になっています。この手紙を読み上げたハウレット博士によると、カーソンの心中は、友人ドロシー・フリーマンに書いているときには、この地上における残された時間がまもなく終わりをつげるであろうことをすでに意識していたという。いわば、親友ドロシー・フリーマンへの「遺言」となっています。この遺言にしろ、『潮風の下で』、『われらをめぐる海』、『海辺』にしろ、そして、死後に刊行された『センス・オブ・ワンダー』にしろ、カーソンの文体は、海洋生物をはじめとする生きものとそれをつつみこむ自然を描写するさい、ほとんど人間が登場しないという特徴をもっています。それはひとつのサンゴ礁であったり、アサガオガイであったり、巻貝であったり、あるいは波の音であったり、海を照らしだす変転する太陽の光のことであったりと、カーソンの作品の主題は、あくまでもどこまでも自然を自然として成りたたせている生物の総体それじたいです。これがどの作品にも共通している文体といえるでしょう。あたかもカーソン自身がひとつの巻き貝にのりうつり、その巻き貝とともに大海を漂うカーソンが、海洋生物学者の科学性をふまえながらも、なおかつ太陽と月と地球の天文学上の神秘的で不思議な自然的支配のなかで右往左往しているかのような描写ばかりです。このような、かぎりないあくなき自然賛歌があればこそ、科学の力でかけがいのない生きものたちを無差別に葬り去ることなどはもってのほか、けっして許されなかったのでしょう。
じつは、これが私が『沈黙の春』の内容と分析のところでのべたように、なぜあのようにも、人びとの支持を勝ちとり受け入れられかたりつがれたのか、という疑問にたいする答えであったのです。私とほぼ同世代の哲学者で倫理学者の太田哲夫氏は最近の著書『レイチェル・カーソン』のなかで、私とどうようの「感じ方」をしています。太田氏はこうのべています。
「『海辺』におけるこのような美しい描写は枚挙にいとまがないが、同様のことは『潮風の下』『われらをめぐる海』についてもある程度あてはまる。自然の美を賛美する感情が深けれ深いほど、自然への愛着がこまやかであればあるほど、自然の緻密な観察の時間を至福の時間と思えば思うほど、そうした感情は、自然が破壊された場合の反発といかりを強烈にする条件であろう。『沈黙の春』において、自然の破壊者へのカーソンの批判がしばしば激烈になったのは、そのためだといえよう」66。 まったく同感です。
さて、こうはいっても、なにもカーソンは声高らかに叫ぶ活動家でも革命家でもなかったことはまえにものべましたが、『沈黙の春』を人びとが目から鱗が落ちるような思いで読んだのは、海洋生物学の深い科学的知識と、その対象となる生きものたちにかぎりなく接近し、その生きものたちにみずからをのりうつして自然をみる、というきわめて内面的・精神的な心の営み、とが相互に作用しあっているありさまを『沈黙の春』から読みとったからにほかならないと思います。
ともかく、こうして「カーソンの科学と文学」がいくえにも交錯する『沈黙の春』は、現代の科学技術社会の動向が人間と自然と環境と政治、そして現代文明社会のあり方を変えるような気運をつくりだすまでの作用を働かせたことをふまえると、あらためて真摯に読み直すべき書物であることをのべて終わることにします。
あとがき
この拙い文章を書くきっかけになったのは、この数年かかわっている「科学と社会を考える土曜講座」の「環境ホルモン」の発表者・上田昌文氏と藪玲子氏の研究発表をきいたことにあります。また、この長い文章の素描のだんかいで、戸田盛康氏(生物学の研究者)に目を通していただき、多くの指摘をいただきました。これらの方々に感謝を申し上げます。
さいごに、このエッセーとも論文ともつかぬ文章を、勤務校における1998年度の高校卒業生とくに物理選択者19名の人たちにささげたいと思います。罪滅ぼしのつもりでできるだけわかりやすく書いたつもりですが、どうでしょうか。あとはこの拙い文章を読んでくれる人たちの応答をじっくりまつしかないのだろう。
注)