書評:西條敏美『理科教育と科学史』(大学教育出版、2005年10月31日)

著者は現役の物理教師であり『徳島科学史雑誌』(1982年12月創刊)の生みの親である。当初3名の会員で船出した徳島科学史研究グループは着実な活動を行ってきたことはつとに知られ現在の会員は70余名に達しているという。『徳島科学史雑誌』(年1回刊行で現在23号既刊)は得意な貴重な雑誌である。徳島ばかりか全国の研究者・教育者の世界から高い評価を得ていることは周知の事実である。評者は初期の一部の雑誌を入手し拝見したことがあるが、アカデミズムの公的刊行物とは趣を異にする実に「人間くさい雑誌」であることに共感を持っていたけれどもその多くは読んでいるわけではない。

しかし、徳島に西條さんという高校の物理教師が新米教師のときから「科学史を活用した理科教育」に多大な関心を抱き身近な同志を募り精力的な理科教育運動を展開していることだけが知っていた。また、物理学・科学史・文化・思想等々にも射程においた数々の著作も刊行されていることを知っている。(『物理定数とはなにか』『物理学史断章』『虹-その文化と科学』『西国科学散歩(上・下)』『東科学散歩』)

こうして著者は現場教師の立場から「科学史を活用した理科教育・科学教育」の研究と授業実践に深く関わり数々の貴重な授業実践の実績を積み重ねてこられた。本書はそれらの多数の研究と授業実践の内容の中から選別し各種の雑誌(『徳島県高等学校理科学会誌』『日本物理教育学会誌』『理科の教育』『理科資料』『日本理科教育学研究紀要』『科学史研究』『徳島科学史雑誌』等々)に発表した論文を収録したものである。

昨今注目を集めている「理科教育と科学史」の指導に暗中模索する混沌とした教育現場で悪戦苦闘する著者の実践活動とともに理科教育ばかりか非常に重要な日々の数々の生徒指導に関わらざるを得ないひとりの現場教師が、これだけの研究と授業実践をやり研究会・学会等々で口頭発表し文章化されたものだと驚嘆する。というのも、評者は長いこと著者と同じ教育現場の物理教師(1971-2005)でありその大変さが手に取るように理解できるからである。振り返ると評者の現場教師の日々は往復4時間の通勤時間のこともあったが、何がしかの授業実践の工夫をやりつつも日々のノルマ(物理授業・生徒指導・学年担当・係分掌・組合等々)をこなすだけで精一杯であったからである。問題は日常の現場教師がどこに精神を集中させて生きてきたかの問題であろう。現場教師を引退した現在の評者は過ぎ去った自らの行いを反省する気持ちをもって熟読することになってしまった。その熟読後の結果として言えることは、現代日本の理科教育がどのような理念と方向に進もうとも著者が悪戦苦闘して行った研究と授業実践の内実は後の世代の礎となることは間違いないことである。

古来、教育は理科教育に限らず一般に得体の知れない難題の営みである。千差万別の理念と手法が試みなれてきたがこれにはいずれも正答はない。しかも世代間にもおよび長大な時間がかかりしかも結果が見えにくい。それを十分に認識し限られた時間のなかで著者はあくまでも「理科教育のための科学史の導入・活用」の理念と実践的方法を示そうと努力されている。著者は本書のなかでなんども注意を呼びかけ喚起している。「科学史の研究と教育」ではない。あくまでも「理科教育のための科学史」なのである。この視点・観点に注目すべきである。この営みこそが授業実践者の著者が長年の課題とする教育的研究であったのである。

その内実を具体的に取り上げ考察しよう。

まず科学史を教材化し理科教育に導入することの功罪を検討する(序論)。そのうえで、例えばクーロン法則、ケプラーの惑星運動、虹の理論、ジュールの実験等々を教材化するための用意周到な考察を経た後(第2部)、原論文に基づく復元・再現実験を行いながらの授業実践報告(第3部)は目を見張るものがある。これらのうちのどのひとつでも教材化するまでには十分な教育的熟慮と相当の時間を要したはずである。また、科学史を導入・活用した授業実践に対する高校生の意識調査も詳細をきわめる。また、高校「理科1」教科書および入手しうる内外のすべての高校物理教科書に現れる科学史的事項を調べ上げ詳細な計量的比較調査をやってのけている。そればかりではない。著者の調査はさらに進み過去30年間の大学入試問題の全問題を調べ上げ数量・軽量化している。まさに著者の調査それ自体が科学的研究の姿勢のそのものである(第4部)。最後にあくまでも理科教育に科学史を導入する観点から高校教育課程と理科教育理念の変遷とその社会的背景をきわめて実証的に論じている(第5部)。

これ以上の各論を述べる紙数はないが、ひとつひとつの論文はそのときそのときの授業実践の結果として報告されたものであることを知ると著者の苦労がわかるというものである。ともかく総じて言えば、あくまでも著者は理科教育現場おける授業実践者の立場を堅持し、いかに「科学史を導入・活用した理科教育」が可能であるかを、心血を注ぎ手探りで追い求め、具体的な教育理念と方法を提示したのである。評者の体験から言っても科学史を理科教育に導入することは実はほんとうに難しいことである。現場教師と生徒から何をやっているか分からなくなるという声が聞こえるほど、多くの混乱と失敗を繰り返した事例をいくらでも挙げることができる。そのことを踏まえると本書における授業実践報告と詳細な調査は著者の深い教育者思想の具現化であるといっていいだろう。豊富な参考文献もきちんと整理されていて有用である。科学史と理科教育に関心のある若い教員諸氏に是非とも読んでほしい。