書評:坂本義和編『核と人間 Ⅰ 核と対決する20世紀』『核と人間 Ⅱ 核を超える世界へ』(岩波書店、1997年7月・8月) 1999年11月『技術と人間』掲載

国際政治における諸科学の役割を展望する

 今年(一九九九年)の夏は異常に蒸し暑い日々であった。一ヶ月間ほど、本書の読込みにかかりきりであった。冷房装置のない蒸し風呂のような自宅の書斎で、乗り過ごしながらの通勤電車の中で、あるときは、集会や会議の空き時間を見つけて喫茶にはいり込み、そのつど本書を片時も身から離すことなく集中して読み続け考えていた。

 そして重い課題を背負ってしまった。本書は、専攻分野が異なる十四名の論者が、政治学者坂本義和氏の「今世紀が核と対決する時代」であり、それを払拭し「核を超える来世紀」をどのように迎えるか、という問題意識のもとに、自らの専攻・関心領域から「核と人間」を論じたものだ。核と人間という共通の問題意識があるにしろ、各論者の切り込み方には大きな開きがあり、そのつど、私は思考の基準と態度をくるくると変えねばならず、しかも、それらの論考から二一世紀に向けた反核運動はなにを学んで行けるかを探す、苦しい作業であった。

 最初に結論を言ってしまうと、その苦しい読み込み作業から浮かび上がってきたのは、私にとっては、ただ一点である。それは、現実に国境を超えた反核運動を展開している市民運動の闘いを具体的に支援して行くことである。私の言う反核運動とは「核兵器と原子力発電所の根絶」、この両方である。二一世紀の反核運動はこの両方でなければならないし、来世紀の文明社会をそのようなものとして闘いとらねばならないのである。

 ここで問われてくるのが、市民の自律と連帯に基づく、市民社会の自律性の問題である。それは、本書の編者坂本氏が「近代としての核時代」(巻頭論考)で、「「市民社会」とは、人間が尊厳と平等な権利とを相互に承認し合うような社会関係がつくる公共空間を指す。これは無時間的な空間ではなく、不断に歴史的に形成され、形成しなおされる過程である。しがたって、これは書斎で学者が下す定義ではなく、歴史的にたたかいとられてきた定義である」と述べているが、私はそれを支持する。坂本氏は、大変に抑制を効かせた平易で説得力のある文章を書くことで知られるが、同氏の一連の論考(『相対化の時代』、岩波新書、一九九七年)と同様、「民際化したトランスナショナルな市民社会」の構想を呼びかけるなど、私はその豊かで柔軟な構想と見識に同調する。

 しかし、その反面、坂本氏の説得力ある見事な市民社会の構想と見識もまた、書斎の中から思考されたものではないか。私の脳裏から離れないのは、アカデミズムの研究者は、生活が保証され研究費もそれ相応にあり、国際会議に参加するとなれば、普通の市民から見ると、法外な「公的資金」を使い、その会議の報告原稿をマスコミに書けば普通の人間とは桁違いの原稿料を獲得する。このような立場とは対極的にいて、手弁当で生活を切りつめ、生活の糧の労働時間と生活費を切りつめ、その上、その中からカンパもしつつ、日々闘っている市民運動を担っている無数の人々のことである。私は後者の人々の市民運動に脱帽しつつ、できるだけの支援と親近感をもってきたが、これらの人々こそが、具体的な「市民社会の自律性の作り手」であることを、ひとときでも忘れてはならない。このような立場から見ると、国際政治学者や経済学者の「見事な論考と見識」には共鳴しつつも、いつもやりきれない虚しさを感じるのである。

 さて、本書の論考を手短に考察しよう。まずⅠ巻である。一九九五年、第二次世界大戦終結五十周年を記念して、米国国立航空宇宙博物館が企画した原爆展は米国国内の熾烈な批判的論争に屈服し無惨に破綻した。その結果、原爆投下加害国、米国内に原爆投下の是非をめぐる歴史認識のズレを顕在化させた。その認識のズレがどこにあるかを日米双方から論じたのが、「ヒロシマの真実を再訪する」(リフトン、ミッチェル)、「ヒロシマ・ナガサキと日本」(田中孝彦)である。とりわけ重要なことは、スミソニアン原爆展論争が頓挫した後の矛先は、田中氏も述べているように、被爆国日本が「アジア太平洋戦争」における日本の加害責任を国家責任として明確化させることに向けられている。この日本の加害責任の実体的調査になんの反応も示せないでいる日本国家の現実を浮き彫りにする。

 第二次世界大戦中の日米の科学者の原爆製造計画を論じたのが「核兵器開発と科学者」(橋本毅彦)と「核戦略の中の日本」(佐々木芳隆)だが、それは比較ならない規模の科学研究であり、国家と戦争と科学者のあり方の現実を浮き彫りにする。科学者と戦争政治の重要な関係の始まりである。最後の二つの論考「原子力発電をめぐる日本の政治・経済・社会」(長谷川公一)と「反核運動-権力・政治・市民」(メアリ・カルドア)は、日欧の反核意識の有り様を比較的に顕在化させる。後者の、自ら反核運動の担い手として闘ったメアリ・カルドアは、西欧における市民の反核運動が、東西の冷戦構造の解体という国際的な政治的問題に直接に連動したことを論証し、国際的市民運動の重要性を論ずる。さて、前者の長谷川氏は、原発依存から脱却し脱原発に向かう世界的な潮流のなかで、何故に日本の原発だけが増え続けるのか、そして、そのことによる日本の政治状況の「反デモクラシィー性」を見事に切り開いて見せる。私は以前から長谷川氏の原発問題の論考(たとえば『脱原子力社会の選択-新エネルギー革命の時代』、新曜社、一九九六年)に注目していたが、今回のそれは前著作にもまして明快で説得力のある論考である。国家権力と巨大企業の支配によって、原発に依存せざるをえない日本的社会構造が作り上げられていることを、たんたんと解き明かしてくれる長谷川氏の論考に胸がすく思いである。なにより学者臭くないところがよい。Ⅰ巻の中でも、一番の具体性のある論考と私は見る。

 つぎに、Ⅱ巻を考察しよう。

 まずはじめの二つの論考「冷戦終焉の意味するもの」(高橋進)と「冷戦構造後の政治経済学」(遠藤誠治)は、ともに国際政治学者による、西欧(ドイツ統一)と旧ソ連の解体と冷戦後の政治経済構造を実証的に考察する。次の論考「核廃絶の条件と展望」(吉田文彦)は、吉田氏の以前の著作『核解体』(岩波新書、一九九五年)と同様の視点から、第一線のジャーナリストらしい現場感覚で、国際政治上に厳然と存在する核兵器体系の政治力学を前提にして、核廃絶の現実的で具体な対策の形相を同時進行的に考察する。特に注目されるのは、核兵器廃棄の反核運動の原点は、地球市民の連帯意識と人道主義にあると指摘し、さらに最近、反核市民運動の注目を集めている「新アジェンダ連合」(非核保有国政府)と「中堅国家イニシアティヴ」(NGO)の連携の動向に期待を寄せている。

 次の四つ目の論考「二一世紀の科学・技術と平和」(池内了)は、宇宙物理学者の池内氏が、大規模宇宙構造の中の、わが地球上の個別の科学技術論を網羅的に論じつつ、二十一世紀の科学・技術・社会の予測と展望を大胆に論じている力作である。国家と科学技術を持論「環境圧」の観点から自己破綻せざるをえない形相を視覚化させ、その上で、科学者・技術者の職業倫理と市民倫理の重要性を説く。池内氏には以前、私も関係する「科学と社会を考える土曜講座」(代表、上田昌文)でも同様の講演をお願いしたことがある。浮世離れする宇宙論なる学問を専攻する池内氏であるが、それだけいっそう、地球上の生けとし生けるものに対する、攻撃的で抑圧的な科学と技術の再考を促す姿は新鮮である。

 最後の「核・レイシズム・植民地」(米山リサ)、「核時代を超えてー未来のない未来」(アシース・ナンディ)、「「ヒロシマの心」と想像力」(大江健三郎)は、これまでの論考とは趣を変え、「核を超える思想と文化」のテーマで、三者独自の関心と視点から豊かに論じる。はじめの米山氏は、昨今、論争の絶えない「スミソニアン原爆展論争」と「従軍慰安婦」問題をめぐる歴史責任と主体論争を比較して論じる。一見なんの脈絡もないと思えるふたつの主体論争を、文化人類学の「差延」という視点から、共通の歴史認識をあぶり出す、その思考と論理の展開はきわめて説得的である。米山氏によると、差延とは「すでに了解済みと思われていることがらのなかのさまざまな違いを浮き彫りにするとともに、最終的に唯一だと信じられている結末をあえて先取りする作業だ」という。この差延の視点から、原爆展論争の多数派意識の勝利者と、昨今の自由主義史観を支持する者の歴史認識には、自国内外の他民族・他人種との共生を拒否する「共犯的関係」があると論証するなど、目の覚めるような見事な論考である。

 次のアシース・ナンディ氏は、一九九八年のインドの核実験に対して抗議行動を展開したインドの政治文化論学者である。世界のなかでも貧しい二つの国、インドとパキスタンは核実験後、既存の核保有諸国から「ならず者、無法者、変節者」という屈辱的な呼ばわりをされた(遠藤論文)。ナンディ氏は「国民の三分の一以上の人々が毎日飢餓に苦しんでいる」のに、核実験とはなにごとかと、自国インド政府の暴挙に抗議行動をとる。また同時に、核兵器を生み出した近代の西欧・キリスト教世界は、核の支配、大量殺人、植民地主義を、無自覚にも、正当化・客観化する近代的知識体系を作り上げたと批判する。現実の国際社会からいかに「ユートピア思想」だと非難されようと、非暴力および地球市民の共生の重要性を説く思考態度は感動的である。

 最後の大江健三郎氏は、年来の主張を繰り返す。ヒロシマの精神に立ち返り、そこからあらゆる想像力を駆使して核廃絶運動を進めること、そのためにも、いかに空想的だと思われようが、日本は「核の傘」からの離脱と日米安保条約の廃止を主張する。最後一言。再度、反核市民運動の現場に支援を期待する。