書評:佐々木 力『学問論―ポストモダニズムに抗して』(東京大学出版会、一九九七年)
1997年4月20日『現代思想史研究会通信』第3号

批判的学問思想の復権を展望する

 のっけから恐縮であるが、「学問論」などと聞くと、ちょっと「どきっと」するともに、すこし恥ずかしくなる。科学論や文学論ならいざしらず「学問論」とはいかなるもであろうか。「どきっと」するような衝撃を受けるのは、私がつねづね学問などを論じる環境にいないことからくるものとも思うが、ただ私個人としては、つねづね一九八0年代より自然科学や科学史にかぎらず諸分野の「書物」をかなり真剣に読んできては、あれこれ考えてはきているが、この営みはなんというのであろう。それはまったく一貫性のないものであるが、その書物を手に取ってそれなりに身をいれて読んできてきたことを考えると、そこには、これを読んでみようという自発的内発的要因がかならずはたらいているものだ。

 そこで、私が今年のはじめからこれまで読んできた書物を時間を追って手帳から拾ってみると、なんのつながりもないようにみえる。でも「学問」的にあるひとつのテーマについての「学」を「問う」というスタンスではない。こころの動きのつれづれのままの気楽な読書と言えば、それまでであるが、そのときどきに読み考えたことを意識のなかにひきずりながらの読書である。人生のなかでもっとも多感な青年時代に「読書」や「学問」する機会、さらには著者のように学問的訓練をする機会にもめぐまれなかったものには、そのときどきの読書による思索は、本書の著者佐々木氏を含む物書きや学者の著作から、こんご、残された人生をいかに生きるべきかという指針を求めたい、というかなり強い意識が働いている。

 さて、本書のタイトル「学問論」は「学問」を「論ずる」ことであるとすれば、学問のそもそもの意味とその営みが本書を読むことで、なにかしらの手がかりを得られるかもしれない。これまで私は同世代の佐々木氏のすべての著作を丹念に読んできているが、そこからどれほどの内実を自分のものとして肉体化しえているかきわめて疑問である。 いま私はニューヨーク在住のジャズ・ピアニスト「KENICHI SHIMAZU」のピアノを聞き流しながら、SHIMAZUのたたく鍵盤の音に乗してキーを打っている。SHIMAZUとは藤沢市鵠沼海岸の画廊「GAZEBO」で、ある画家の個展オープニングで知りあったが、理論物理学の学徒からジャズ・ピアニストに転じたSHIMAZUが無心に演奏するその姿に感動したからである。おそらく物理学者になるはずであった彼が、なにゆえに経済的に不安定な生活をよぎなくされる仕事を選択したのか。創造的な仕事をする能力もないのに、いまだに物理学や自然科学の世界に幻想をもっている私などに比べれば、その世界から転じてジャズの世界に身を入れ、無心に軽快なリズムを奏でるSHIMAZUを見ていると、芸術の世界で偽物の模造品ではない独自の本質的な、ある種の美的世界に没頭している彼の姿は、やはり感動を覚えずにはいられないのである。SHIMAZUがなぜ物理学の世界から音楽の世界に転じることになったのかについては、長い物語を要すると想像する。

 無心に鍵盤を叩きつけるSHIMAZUと同様、『学問論』の表紙を飾る装画「雲―孤高」を描いた北海道在住で商業主義に陥らず、「孤高の美」を追求している画家「山内龍雄」氏もまた、孤高の画家として多くの作品を発表している。ちなみに、『生きているトロツキイ』の表紙にある一九三二年十一月二七日、コペンハーゲンで「ロシア革命の援護」の演説をおこなうトロツキイを写した写真家ロバート・キャパの写真をもとにして、装画を描いたのも山内龍雄氏である。その山内龍雄氏について佐々木氏は彼の個展に寄せた「孤高の美」という文章の末尾で次のように述べる。

山内よ、売れる絵の制作など止めるがよい。商人への同調などは堕落だと思い定めるがよい。自分で得心できる内発的な美の表現のための形と色の組合せだけにこだわり続けるがよい。すぐれた作品を描くためのゆとりのある時間をも持ち続けるがよい。低級な水準の称賛の言葉をひたすら拒否し続けるがよい。生きているうちは、ほんのわずかな人の質の高い同調の言葉だけを信ずるがよい。自分の高い美の基準を信じて、そしてその基準をさらに高める修養を積んで、納得のできる絵だけを、分かる人だけに示すがよい。そうして、「老賢者と少年」や「雲」といった高い基準をさらに超え出る基準の作品を描き続けるがよい。非妥協的に高いところを目指すがよい。孤高の美を生み出し続けるがよい。それが君にはよく似合うのだ。

 この文章の内容は科学史や学問に対する著者自身への戒めの言葉のように聞こえる。絵画の世界の様子はよく知らないけれども、少なくとも芸術家を志した以上、画家各人はこうしたい、このように生きたいと思っているはずである。が、このような生活ができるのは、ほんのごく少数の人間だけである。山内氏の芸術活動のなかに孤高の美を求める佐々木氏は、学問論を論じて「孤高の学問」を切望しているのであるが、それが大衆に支持されるような社会的状況が到来するのはいつのことであろうか。

 さて、本書は五つの論考よりなっている。

第Ⅰ章「批判的思考の衰退―学問論の衰退」
第Ⅱ章「比較学問エートス論」
第Ⅲ章「二十世紀における科学思想の展開」
第Ⅳ章「科学史の興隆」
第Ⅴ章「福澤諭吉の学問思想―丸山真男を超えて」

 最後のⅤ章は本書のための書き下ろしで、その他は『思想』と『岩波講座現代思想』に掲載されたものである。本書の全般を通じての著者の目的は、著者の専門の数学史・科学史・科学哲学の領域を越えて、それらをとりまく学問一般を論じることである。二十世紀における学問的営為の史的な展開と、現代の学問の世界における質的低下の現実的状況を指摘かつ嘆いたのち、それらを批判的に捉え、古典的・正統的な態度で学問的思考を復権させようとする決意表明である。

 その古典的・正統的な学問的態度とは、著者に言わせるとこうなる。「学問には本来、愚直に勤勉におのれの信ずる観点から必要な学問的道具を身につけ、なによりも古典的著作から学ぶ、「ゆっくり急げ(Festinalente)」という格言に従った正統的な道以外の道はありえない。私の学問スタイルは、現代が提起する諸問題に最も先鋭にラディカルに応えようとする目的をもち、それに、批判的で最も正統的な方法で武装して臨むことと特徴づけられよう」。

 古典的で批判的・正統的な方法で武装した著者の論敵は、一九六八年以降からこんにちまでの二十年間に流行した、視聴率獲得競争的な思想形態と規定される「ポストモダニズム」の学問観、「ギルド的専門瑣末主義と商業主義的ディレッタンティズム」と規定される(第Ⅰ章、第Ⅱ章)。このような言明となる著者の学問的態度の源泉は、もちろん、一九六八年代後半、より確定的に言えば、フランスの五月革命を筆頭とする世界的な青年の急進化とともに連鎖的に生じた、一九六八年の国際的な政治情勢の大変動の時期にある。このとき弱冠二十一歳の感受性の多感な数学青年は、数学や学問の世界から意識的に自らを排除した者が多く存在するなかで、数学に「挫折」することなく、数学などの学問の存立基盤総体を総合的に問いなおす科学史(数学史)に転じたのである。

 その質的内容はあくまでも六八年の思想的転換の有り様を継承し発展したものでなければならない。この間、マルクス、トロツキイ、ホルクハイマー、フッサール等々の思想的「洗礼」を受けるとともに、仙台の反戦労働者と理論的に共存する。したがって、六八年問題は、著者にとっては時代を画するときであることが、本書のすべての論考の考察(第Ⅲ章、第Ⅳ章)に色濃く投影されている。

 これは私の持論であるが、現代の科学技術のもつ政治性はもちろんのこと、政治経済の諸動向を射程にいれない教養主義的科学史などに興味はないし、権力の象徴的存在である東京大学とそこに関係する人々が、いかに反人民的行為に加担してきたか、という六八年問題が提起した内実を継承しないかぎり、学問論など色あせてくるだろう。この問題は、いまはかたるべき場もないほどの世相であるが、あえて六八年当時の原点ともいうべきことがらを私が述べるのも、丸山真男を媒介して近代日本の学問の夜明けを作った福澤諭吉を論じた論考(第Ⅴ章)にも、六八年問題が提起した歴史的事件に、著者がたびたび言及しているからである。「とりわけ福澤の『学問のすゝめ』の批判的精神は生きている。われわれは、一九一七年、一九六八年が提起した歴史的課題に挑戦すべきである」と。前者の歴史的課題とは、ロシア革命以後の政治システムの総体の批判的理論の構築であり、後者のそれは、産業資本主義体制の総体の批判的理論の構築である。

 今世紀に起こったこのふたつの歴史的課題の詳細な歴史的分析がなされるべきだし、そうすることが、責任ある学問を創ろうとする者の果たすきべ役割であり、また、その詳細な実証的研究を諸般の現実の市民運動に「こころよく」提供することであると考える。

 最後に、私にとっての「学問」とは、ささやかながら、本書のような確固とした著作群を、「終点なき通勤電車」の中で、福澤諭吉ならぬ「読書渡世の小民」的生活それ自体である。